さて、忌々しい時期がやってきた。ただ、今日の気温が高くないのは本当にありがたい。
マラソン大会の楽しい練習である。いや、全然楽しくはないのだが。先生たちも基本的に何も指導することがないので楽そうだ。
僕と陽香と角野さんは同じクラスなので、一緒に走ることになる。別のクラスの出席番号が同じ人がカウントをしてくれる。わかりやすいように自分の出席番号がついた蛍光色のゼッケンを来て、丁寧に足をストレッチさせる。
「……桂介、硬くない?」
「知ってる」
陽香がべたーって音がするぐらいに伸ばしている横で、僕は角野さんよりも明らかに硬い身体をしている。角野さんだって柔軟性が高いほうじゃないと思うけど。
「桂介くんって細いのに、筋の柔軟性があまりないんだ」
そう言う角野さんの目にも憐れみが入っている気がする。うるさい。これだから嫌なんだよ走るのは。どうせ下から五位以内になるんだ。
とはいえ、走ること自体がそこまで嫌いかというとまた違うんだよな。疲れるのは嫌いだけど、それはそれとして走り終わった後は晴れ晴れとした気持ちになるのは否定しない。でもそれって苦しみというマイナスがあるから普段のゼロをプラスと勘違いしているだけではという気がする。そしてプラスに比べてマイナスはすぐ忘れてしまう。
結果としてどうなるかといえば、自分から運動できないくせに動くと少しだけ楽しい、それでいて他人からあれこれ言われるのが嫌で意図的に周囲の目を無視するような自己中心的になって自分を守るしかない人間が出来上がります。
「陽香さん、なにかアドバイスはある?」
運動靴の紐を整えながら、角野さんは言う。
「……あたしができるようなやつ、なんかびゃーってやって疲れる前にしゅーって落ち着けつつ、そろそろ終わりになったらがーってやる感じだよ」
身振り手振り交えて親切に説明してくれた陽香に角野さんは小さくペコリと頭を下げて少しだけ困ったように僕を見た。いやどうしろって言うんだ。
「あと、他の人のペースに合わせないほうがいいかな。あたしは今日、ちゃんと記録を狙うから」
そう言う陽香は、半袖姿だった。僕は長袖長ズボン。転んだ時に痛くないように。スライディングすると溶ける合成繊維にそこまで期待をしているわけではないけど。
「じゃあ、私は桂介くんを追い抜かすことを目標にしよう」
「目標にもならないと思うよ」
正直言って、動くのは楽しくても速く走れないし何度も走っても成長を感じないからこういうのは嫌いなのだ。
というわけで並んで、走り始める。後ろを見ることのできる機会がないからわからないけれども、前にいる人達の人数を大雑把に数えると僕の後ろにどれぐらいの人がいるかはわからない。そして僕が一周してしばらくすると、陽香が猛スピードとも言えるぐらいの速さで先頭集団らしい人たちと一緒に前を走り抜けていった。
前の人達と同じぐらいのペースで頑張ろう、と暫定的な目標を置いて足を動かしていく。考えることがなくて暇だが、考えることができるほど酸素があるわけでもない。吸って吐いて、おぼつかない足取りで地面を蹴る。
苦しい。すぐにペースを落としたくなる。落としたところで何も悪いことはないし、かかる恥はどうせ今更大差ない。ちなみに出席番号が同じだけの人については特に会話もしたことない男子です。勉強できそうな雰囲気。妬ましい。せいぜい足の遅い僕のせいでカウントのために無駄に時間をかけるがいい。
とか思っていたらなんか同級生と話してやがるぞあいつ。いや別にちゃんと数えてくれているからいいんだけどさ。示してくれた手はカウントダウンだとはわかる。ええと今日は三キロ走るんだよな。全部で何周だっけ。
走りながら頑張って計算していく。一キロはええと五周だから、三倍して十五周?今は八周目が終わったところだ。いつの間にか半分は終わっていた。
角野さんには少し前に追い抜かれた。何回追い抜かれたかはわからない。陽香はちょくちょく見る気がする。というか走る時に僕の脇を通るようにしていないだろうか。なんだろう、煽りか?
身体が暖かくなってきた。前の方の追いかけていたはずの集団には半周は差をつけられていて、足をこれ以上早く動かせる気がしない。喉は乾燥しつつある空気が何度も通ったせいで痛みが走ってきている。
何かが悪いのかもしれない。もっといい走り方があるのかもしれない。でも、それを誰かが教えてくれるわけじゃなかった。陽香は参考にならないし、角野さんでさえわからないんだ。
だから勝手に走るしかない。他人と比べるのを諦めたって、走らなくちゃいけないことは変わらないのだ。だからひとまず、前へ前へと足を進めるしかない。相方が伸ばしてくれた指は片手だけになっていた。よかった、あと一キロメートル。
ちなみに陽香はささっと終わっていて、ゆっくりと下半身を伸ばすようなストレッチをしている。ちゃんと気を抜かないというか、そもそもただのランニングとして捉えていないというか。
徐々に人が抜けていく。一周するたびに、前の方にいる人が減っていく。嫌だ。どうしようもないのだから諦めるしかないけど。
そういうわけで、なんとか走り切る。ゴールラインに立っていた先生が時間を読み上げてくれた。これなら別に相方がいる必要がなかったのでは。
「お疲れ様」
「計測ありがとう、まあ時間言ってもらったけど」
「そういうこともあるよ」
そんな当たり障りのない会話をする。僕が走り終わってそう時間が経たないうちに、次のクラスが走り出す準備が出きていた。というわけで僕も膝を曲げて校庭の端、タイル張りっぽいところに座って走っていく人を見ていく。ちゃんとカウントダウンも忘れませんよ。
「お疲れ様」
隣に角野さんが座った気配がした。僕の目は相方を見ているから動かせない。あ、走り始めた。
「数えるのに集中するからあまり話せないけど」
「別にいいよ」
「走るのは疲れるね」
「楽しくないわけじゃないけどね」
「……そうなんだ」
驚いたように言う角野さん。まあ意外だろうな。僕がそもそも走るのが楽しいんだって理解できるようになったのは、陽香が楽しそうに走ることができているっていう事実からだし。