一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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008 不詳の困惑

ぼんやりとした頭で、いつも以上にわけのわからない授業を聞く。

 

理由はわかっている。

 

昨日の夜、ちょっとだけやったら寝ようと思っていたWikiの編集で気になったところがあって実際にプレイするかと何回かやっていたら久しぶりにハイスコアが出せそうだったので挑んで、うまく行かなかったのでもう一回、あともう一回とやって、そうしていたら遅くなっていたけど最初の目標を思い出して、それだけやって寝ようと思って……。

 

大きなあくびをする。あの時のことを思い出さないようになっている、のかな。たまにそれが来て、叫びたくなるような気持ちをこらえて、どうにか他のことを考えようとして、とかはなるけど、なんていうか、少しだけ、慣れた。

 

そういうものだ、とわかっていても怖いものは怖いし、辛いものは辛いが、少しだけ、マシにはなる。今だって、やっと陽香の背中を見ることができるようになった。

 

クラスの右前の方、扉に近い場所でタッチペンを動かしてノートを取っている、後ろで髪を短く結んだ幼馴染。丁寧にノートを取るし、成績も悪くない。参考までに、隣で堂々とスマホを見ている角野さんは比較的高いレベルで成績がまとまっている。僕ですか?ちょっと良くない感じですね。赤点はない。理科は得意だと思っているけど。

 

授業に追いつける気がしないので、教科書をゆっくり読むことにする。あとで映像授業を見て補完するなり、角野さんに頼むなりすればいいのだろう。一瞬だけ陽香の名前が浮かぶ。

 

ノートを見せてもらったことが前にあった。綺麗にまとめられていた。陽香は感情を重視するし気になることがあったら真っ直ぐ進むけど、決して頭が悪いわけじゃない。というか成績なら僕より総合的には上だ。

 

あの時の記憶と一緒に押し潰していた陽香への劣等感で潰れそうになる。そうだよ、なんで陽香が僕なんか。友達だっていっぱいいるし、中学時代には彼氏だっていたわけでしょう。今だって僕なんかと比べれば選択肢はいっぱいあるはずなのに、どうして僕を。

 

きちんと話したいと考えるが、そうすると身体が嫌な感じに緊張してしまう。深呼吸をして、頭の中で別のことを考えるように意識して、そうやって、やっと普通に戻れる。そうしているとまた授業が進んでいて、全然追いつける気配がしない。

 

黒板だけは写しておこう、とタブレットモードにしたノートパソコンに文字を書いていく。あまり綺麗ではないけど、手書きでないとノートとは認めないということらしい。よくわからない。角野さんはそんなの無視してノートを取らない派らしいが、授業中に何を読んでいるんだか。

 

少なくともステラ・コルセアのWikiはゲーム関連ということで学校のWi-Fiからは繋げないし、繋ぐつもりもない。文字を少し書いて、やる気が無くなって、それでも消されそうだから頑張って続きを書く。

 

授業がいつもより長くて辛い。体力が切れているのにどこかむず痒いような心の苛立ちがあって、それがなんなのかもよくわからないで、ただ疲れていく。それでも、少しだけ楽になっているんです。たぶん角野さんのおかげ。

 

チャイムが鳴った。今日の授業が終わった。帰って、寝よう。ちょっと昨日頑張ったから、今日はゆっくりしてもいいはずだ。

 

陽香が立って、こちらに歩いてくる。思わず目を逸らそうとして、でも窓の方を見るのも変だなとなって机に顔を伏せるような形になってしまう。

 

「……角野、さん」

 

目で見ていない分、陽香の声がやけに響く。心臓の音が次第に速くなっていくのが聞こえる。

 

「なに、私に用事?」

 

「……うん。少し、話せないかな」

 

角野さんの声はいつもみたいに落ち着いている。なんでそいつと、と思ってしまった後でそういえば角野さんは中立というか、どちらの味方でもある、みたいな話をしていたな、と思い出す。でも、持ってしまった感情は簡単に消えるものではない。

 

「いいよ、今日の放課後は空いているから、場所と時間は好きに選んで。部活がおわった後のほうがいい?」

 

「今日と来週は、休むことにした」

 

「そう。二人だけで話したいなら……」

 

「あたしの家は、ダメ?」

 

陽香の質問に、角野さんは少し考えているようだった。

 

「陽香さんの家族は?」

 

「お父さんとお母さんは夜まで帰ってこない。だから、家にはあたしだけ」

 

「……私の家では?弟がいるけど、今日は確か塾のはず。遅くならないうちに陽香さんも帰ったほうがいいだろうし、そこまで長居しないなら問題ない」

 

「……角野さんが、それでもよければ」

 

陽香の声は、角野さんぐらいに落ち着いているように感じられた。いつもはもっと元気なのに。でもそれは、やる気がないとか行動力に欠けているとか、そういうものではなかった。

 

なんとなく、力を溜めているような感じがした。

 

「うん、大丈夫だよ」

 

胸が痛かった。なんでこういう気分になっているのか、説明できる気がしなかった。やりたいことの流れはわかる。角野さんは陽香に聞きたいことが多いだろうし、そうすれば僕といろいろやりやすくなるのだろう。わかっている。

 

でも、自分の中の何かが奪われるような、頼ろうとしたものが消えてしまうような、高いところから落ちて内臓が浮き上がるときのような、この心もとなさは何なのだろう。理屈じゃうまく説明できない。角野さんなら、うまく言葉にできるのかもしれないけど。

 

去っていく陽香の足音とともに、担任の先生が帰りのホームルームをするために教室に入ってきた。やっと、顔を上げることができる。

 

大きく息を吸って、吐く。過呼吸になりかけているかもしれない。前に角野さんに言われたことを思い出す。ゆっくり、ゆっくり。落ち着いて、胸を膨らませて、しっかり酸素を取り込んで、吐き出しすぎないようにする。

 

先生の話が夏休み明けの学園祭の準備とかになる。そうか、去年も今ぐらいから準備していたな。あれ、って待て。今日は金曜日、か。色々なことに考えを奪われていて、今日が何曜日かも気がつけないでいた。

 

休日だ。昼まで寝てもいいし、だらだらしてもいい。ステラ・コルセアをしっかり遊んでもいい。でもその裏で陽香のことは角野さんに任せることになるんだな、と考えてしまってあまり開放的な気分にはなれなかった。

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