一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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081 心拍の増加

風は寒いというほどではない。むしろ熱気が周囲にはある。

 

忌まわしきマラソン大会当日である。練習なんかは特にしていない。今日は早く帰れるのでラッキーと思うかもしれないが、実際は疲れるので帰ってすぐベッドで寝ることになるのであまり関係ない。

 

クラスごとに少し時間をずらして走る。持ち出された大きなデジタル時計の時間を覚えておいて、出発時点の時刻から引くというものだ。たしかにそうでもしないと全校生徒が走るのだから大変なことになるよな。多少時間が分散する朝の登校だって大変なことになるわけだし。

 

それと走るのは高校の近くを流れる川沿いにあるサイクリングロードです。信号とかもなく、走りやすい地形をしている。残念ながら台風は来てくれなかった。来てくれたら危ないから中止になるのに。

 

いや、どうだったかな。雨天の場合は体育館でやったりとかするのだろうか。読んでいないからわからない。

 

「雨だったらこのマラソン大会どうなってたんだろうね」

 

待機のために体育座りをしている角野さんに声をかける。この座り方ってどう考えても腰が痛いしなんか世間では止めるべきとか言われているらしいですね。僕は時事情報に詳しくないので何も知らないんですが。

 

「さぁ」

 

「角野さんも知らない?」

 

「私の記憶の範囲では特に指示があった記憶はない」

 

「そっか」

 

台風とかも普通にある季節なので考慮されていないことはないと思いたい。さもないと、この学校が生徒の安全とかを何も管理していないことになってしまう。具体的に誰がその責任取るのかとか責任取るべき人と決定権のある人と方針を決める人が全員別なんじゃないかとか、そういう大人の問題はわからない。僕たちは生徒でしかないので。

 

「陽香さん、ウォーミングアップがしっかりしているね」

 

「まだそれなりに時間があるでしょ……」

 

「安全は大切だから」

 

「それはそうかも」

 

陽香は多いときには一日に十キロメートルとかを走る。これは医者に言われた上限だ。そしてそれでもまだ気力は余っているのでステラ・コルセアを画面をじっと睨んでプレイする。

 

「……陽香ってさ、いいよね」

 

「何がいいのか省略しているなら、こちらで勝手に補うけど」

 

「はい……」

 

なんていうか、うまく言語化できなかった。具体的になんだと言われても困る。

 

「……私もそう。陽香さんのことは、いいなと思うよ」

 

「なるほど」

 

角野さんはあえて省略したのだろう。そうして話を合わせようとしてくれている。変な気分だけどさ。角野さんにとってはマラソン大会で陽香が僕の速度に合わせるときみたいなもどかしさというか面倒くささがあるのかもしれない。

 

「桂介くんはさ、陽香さんのどのあたりがいいと思うか、いくつか言える?」

 

「ええと……」

 

なんとか言葉にしようとするが、あまり良くないところが湧いてくる。人の意見を聞けとか、表面的な笑顔で取り繕おうとするなとか、たとえわかっていたとしても落ち着いて耳を傾けてくれとか、そういうやつ。

 

いや、それが陽香のいいところだっていうのもわかりますよ。自分の意志がしっかりとしていて、誰とでも仲良く付き合うことができて、言葉でわからないことも共有できるって。

 

でもそれは僕にとっては当たり前になってしまっているのだ。

 

「……例えばさ、自分の部屋って落ち着くよね」

 

「慣れ親しんでいるからね」

 

「そういうのに近い」

 

「なるほど……」

 

「角野さんは?」

 

僕が聞くと、角野さんは少し考え込んだ。

 

「そうだね、コミュニケーションが私のやり方と違うところ」

 

「違うのがいいの?」

 

角野さんは頷く。

 

「私一人だけでは、どうしてもできないことは多いから。桂介くんがどう思うかは一旦置いておくとしても、私ができた支援は陽香さんあってのものもあるよ」

 

「別にそう言われる事自体は嫌じゃないよ」

 

角野さんみたいな配慮を陽香はあまりしないんだろうな。もっと直感的に、思ったことをストレートに言う。一旦考えるということは、たぶんかなり意識しないとできるようにはならないはずだ。

 

ただ、角野さんはそれをあらゆるコミュニケーションでしなくちゃいけないからとても疲れるのだろうし、陽香から見てワンテンポ遅れるとかあるんじゃないだろうか。僕は頭の回転が遅いので特に区別がつかないけれども。

 

「それはよかった」

 

角野さんがそう言ったタイミングで、周囲がざわつき出した。僕たちのクラスの前のクラスが走り出したのだ。というわけでゆるゆると移動。

 

長袖は全体の三分の一ぐらい。陽香は寒くないのかというぐらいの格好だった。

 

「陽香、走り終わったら冷えたりしない?」

 

声を深呼吸をしている陽香にかけると、小さく首を振られた。

 

「友達にジャージ預けてるから大丈夫」

 

「なるほど」

 

ならいいだろう。走るのに慣れている人は、それでいい。僕は僕で自分のやるべきことをやっていく。

 

深呼吸。思ったより近くで聞くと耳に来る。火薬の匂いが冷たい空気と混じって鼻に入る。一瞬送れて、周りの人たちが地面を蹴り出す。

 

陽香はすぐに先頭を駆けるようになった。角野さんは今ちょっと見えない。今のところペース自体は後ろの方の集団として維持できているはずだ。大丈夫だろうか。

 

腕を振る。まっすぐに足を下ろすようにする。角野さんが少しだけアドバイスをくれた。別に格段に速くなる魔法ではないけど、気休め程度にはなるし、実際に少しだけ気が楽になってある程度の場所をキープできている。もちろん陽香はもう見えない。

 

心臓がうるさくなってくる。でも、陽香のことを思い出して以前なっていたようなものとは違う。今回はちゃんと呼吸も自分で制御できている。少しだけ、身体が軽くなる。エンジンが掛かったような感じ。陽香は最初からこうなるように調整しているのだろう、となんとなく理解した。

 

少しずつ、自分のいる集団が前後に伸びていく。角野さんの背中が見える。周囲に見えるのはもはや顔なじみになった同じクラスの運動が苦手な人達。別に勝ちたいってわけじゃないし、この人たちと同じように思われたくないとかそういう悪い感情は捨てておこう。

 

まっすぐ前を見る。白い雲の切れ間からは薄く青空が見える。息は苦しいし、身体が辛いけど、それでも動けはする。血液がきちんと全身を巡って、酸素が届いているのを感じる。

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