一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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088 鋭利の言葉

「落ち着いた?」

 

陽香が黙ってしばらくすると、角野さんが言った。頷く陽香。

 

「……陽香さんは、そもそも言語化を難しく捉えすぎていると思う」

 

「……角野さんに、わかるの?」

 

「言葉で考えることと、言葉を扱うことはまた別だから。私は一応、翻訳もやっているし」

 

ああそうか、翻訳だと自分がまず感じないような感情とか心の動きとかを少なくとも言葉にはしなくちゃいけないのか。前にそこまで得意じゃないとは言っていたけど、触ることはあるだろうから。

 

「……でも、あたしなんかよりもずっと、そういうのやってきたわけでしょ?」

 

「慣れているのはある。でも、私は陽香さんとまるっきり違う存在というわけじゃないから、少しは参考になるんじゃないかな」

 

「……言ってみて」

 

陽香は不満というか、あまり期待していない感じだ。

 

「たぶんコアにあるのは……そうだね、有り体に言うなら『好きだからこっちを向いて』ってあたりかな」

 

「……そんなんじゃ、ない」

 

陽香が言うが、たぶん当たっているな。というか、その軸を通すと少しはすっきりするな。完全に納得できるわけではないけど。

 

傷をつけて、こっちに注意を向けてほしかった。自分のことを考えるようにしたかった。よくある小学生のいじめの原因の一つみたいなやつ。でも、それが幼稚なものだとは思えない。いい歳をした人だってそういう原理で行動することは珍しくないんじゃないかって想像ぐらいはできる。

 

でも、陽香にとってそれがきちんと機能してしまったのもわかる。だって僕は陽香に縛られることになった。そうでなくとももし僕の反応がもう少しちゃんとしていて、怯えじゃなくて拒絶というか一旦の停止がちゃんとできていれば、その後話し合いに持っていかれて、そして負けたと思うんですよね。

 

だから、陽香はかなり考えていたように思う。僕が心に傷を負ったのは後ろから脅かされてびっくりして車道に転んで跳ねられたみたいなやつで、本来なら陽香の手のひらの上で転がされていたんじゃないかって。

 

「でも、少なくとも大きく外れてはいないと思う。それが不完全で、全てを説明できないものだっていうのは私にもわかる」

 

「……じゃあ、角野さんは認めろっていうの?あたしに嘘つきになれって?」

 

「そうじゃない。けど、何かを認めることはそれ以外の全部を否定することにはならないから」

 

「……そうかも、しれないけどさ」

 

見たところ陽香が少し劣勢。いいぞ打ちのめせ。なんかこの応援は違う気がするな。

 

「……あたしは桂介が好きで、だからひどいことして、それでもまだ、桂介のことが、好きでさ。そんなの、いけないから」

 

いけない、ね。本当にそうだと思う。でも陽香の思ういけないっていうのは、あくまで陽香が基準のものだ。自分の中で許せないってだけ。もしあの時に僕と合意が取れていれば、きっと押し倒したことは許されたとかになるのだろう。そのあたりは、少しだけ腹が立つ。

 

「……陽香さんは、言葉にしなくてもちゃんと考えている。それは私にもわかる」

 

「……でも、言葉にしないと伝わらないんでしょう?」

 

「言葉にしたって伝わらないことがあるし、そっちのほうが多い。同じ言葉から言葉への翻訳だっていろいろなものが失われて、もともとなかったものが入るのに」

 

翻訳の話か。高校の英語でやるような翻訳ならかなり直接的に訳せるし、訳文は基準に沿って採点できるぐらいには同じようなものになる。でも、角野さんがやっているのはもっと難しいものだ。

 

中国の古典。口調から滲む性格。言い回しの調整。全体の雰囲気の統一。こういったものを、角野さんはこなせる。よく考えると普通の高校生にしてはかなりのオーバースペックじゃないか?Wikiの編集長をやっている僕が言うのもあれだけど。

 

「……じゃあ、どんな辛くてもやんなくちゃいけないの?」

 

「無限に速く走れなくたって、ランニングをする意味がなくなるわけじゃないよね」

 

「そうだけどさ……」

 

陽香はたぶん、何を言われているか理解はしたけど納得はできないし飲み込みたくないという段階にあるのだろう。それが一番つらいのはわかる。僕だって時折そういうことになって、角野さんと色々話した。たぶん相当負荷をかけただろうなと思う。

 

「陽香さんがどこまで納得できるかの問題は、陽香さんが自分で解決するしかない。頼まれたら私は協力する。桂介くんは知らないけど」

 

「……多少は、するよ」

 

角野さんに視線を向けられて僕は言った。なんでそんな事しなきゃいけないんだと思う部分もあるが、でもそれをすべきだと思う自分もいる。矛盾しているけど、そういうもんだと飲み込めるようになってきている。

 

だから、多少だ。全部を赦したり、全部を否定したりはしない。どうせ僕は陽香にまだ怯えているし、陽香からの感情を嬉しく思っている。だからもし、もう一度ああいうことをされたら、少なくとも前よりはうまくできると思う。

 

「……桂介ってさ、なんで嘘つけるの?」

 

「嘘?」

 

今までに僕はいろいろな嘘をついてきた。角野さんには一線を越えないように言葉を選んできたつもりだし、陽香には隠したいことがいっぱいある。僕自身だって、僕のことをわからないし、その上で言ったことはきっと嘘だ。

 

「……好きだってことをさ、隠して、忘れようとしてってことができるって前に言ってたよね」

 

「うん」

 

「なんで、そんな辛いことできるの?」

 

「言うほど辛くないとは思うけど……特に陽香と比べたら」

 

陽香ほど、僕は真剣に誰かを好きにはならない。今まで一番好きになったと思う角野さん相手にだって、僕は特に手を出せなかった。今までの信頼を崩したくないっていう臆病かもしれないけど、それだけの衝動がなかったと言ってもいい。

 

「……桂介にとってさ、好きってその程度なの?」

 

「うん」

 

ここのあたりに、まだ誤解というか陽香が理解したくないところはありそうだよな。言葉にされないと飲み込めないようなところが。

 

ああ、だからかと納得するところがある。自分で言葉にするのと同じぐらい、陽香にとっては誰かの言葉を聞くのは辛いことかもしれない。それは逃げられないし、明確になってしまうから。察するようなやり取りよりも、もっと鋭くなるから。

 

「……桂介はさ、たぶんあたしが好きって思うぐらい、誰かを好きにはなれないよね」

 

「たぶん」

 

「じゃあさ、あたしは……勝手に苦しむしか、ないんだ」

 

何も言えないけど、それが肯定になるってことぐらいはわかった。それでもここで頷けるほど、僕は陽香を傷つけるつもりにはなれなかった。

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