暖かく優しい風が肌を掠め、春の訪れを伝えるのは4月。
その風の流れに逆らって、ゆっくりとした足取りで、草原を歩みゆく者達の存在を告げる音は八つ。
私と、エーリカと、それから白狼。
皆沈黙を守ったまま私の後に続き、歩き続けて彼是、私の感覚が正しければ三十分位か。
それ程歩き、見えてきた目的地は森。
そこまで来て、私は漸く歩みを止める。
後ろに続く彼女たちも、それに合わせて足を止めた。
「此処までだ」
振り返りながら、私は彼女達に告げる。
「ミーナ、やっぱり……」
「何だ?」
「……ううん、何でもない」
エーリカは何か言いたげに口を開いて、しかし閉じて。
頭の後ろに手を組みながら私を見て、それから白狼を見て。
そして彼女は我関せずと目を瞑る。
そんな彼女の態度に私は心当たりがあるだけに、言葉に出来ない謝罪の言葉を内心で呟く。
「さてもう一度言うが、此処までだ」
身を屈め、視線を合わせ、別れを告げる相手は白狼。
私たちの前に見えるあの森の中で、エーリカと共に出会い、助けたあの時の子どもの白狼だ。
母さんの治癒魔法のお蔭で無事に一命をとりとめ、そして体力が回復するまで看病する事一か月余り。
白狼はその一か月余りの間に、その足で大地を悠々と駆け回る事が出来るまでに回復した。
健康状態にも問題はなく、体力も十分。
ならばもう白狼をうちに留めておく故はなく、そしてそれこそが私たちがこの場に来た理由だ。
「行くといい、自分の世界へ」
自然の中で生きてきた白狼の世界と、私たちの生きる世界は全く違う。
此方の世界に留める時間が長くなると、白狼はきっと野生の勘を失って、元の世界に戻れなくなってしまうだろう。
私はそれを恐れた。
しかしエーリカはこの白狼に、共に看病をしている内に愛着でも湧いたのだろう。
あろうことか、白狼を私のもとで飼う事を私に勧めたのだ。
そこら辺の意見の違いでエーリカとはひと悶着――口論があった訳だが、結局私の方が精神年齢、人生経験は積んでいる訳で、口先もその分私の方が上手である事は自明であって……
今思い返せば、最終的には納得してくれたとは言え、理論武装をしてエーリカを責めたてた事は、少し、いや物凄く大人げない事をしてしまったと反省している。
しかし後悔はしていない。
ここで白狼を自然に返す事、それが一番良い選択であると私は信じているからである。
ただ――
「どうした、行かないのか?」
「……」
白狼はしかし、そんな私の思いを裏切るように、動かない。
私の目をジッと見て、何かを言いたげにして、動かない。
一体どうしたのだろうか?
動かない理由が分からない私は首を傾げ、留まる白狼に今一度元の世界に帰るようにと促す。
……だが動かない。
何故?
何故白狼は動かない?
「ミーナ、あのさ」
「……何だ」
「あ~、やっぱいいや」
「?」
先程まで暗い顔をして沈黙を保っていたエーリカは、今度は私を見てニヤニヤ。
如何やらエーリカは白狼の動かない理由を理解しているようだが、私にとってはますます訳が分からない。
……そうして悩む私をエーリカは笑いながら、私が不機嫌だと指摘する。
私が不機嫌?
「馬鹿を言え、私は間違いなく平常心だ」と、エーリカの指摘に私は口を尖らせ言い返す。
「ワン!!」
「あ……」
不意に一声。
急に私に向かって吠えた白狼は、先程まで動かなかったのが嘘のように、クルリと背を向け森の方に駆け出した。
私はその背中を呆然と見送る事しか出来ず、そして白狼の姿はあっという間に森の中へ。
……『女心と秋の空』とはよく言うが、女になった今でも、女心と言うものは、まったくもって分からないものだ。
それはエーリカ然り、そしてあの白狼然りだ。
――胸の内がモヤモヤする
たぶん、それはきっと女なのに女心が分からない事に対するモヤモヤだろう。
――胸の内がチクチクする
……はて?
モヤモヤだけなら分かるが、それは一体何故だろうな?
兎も角、白狼は立ち去り、私たちはそれを見届けるという当初の予定通りに事は済んだ訳であり、ならば後は家に帰るだけ。
そう思い、踵を返す私に――
「待って」
エーリカは裾を掴んで呼び止めた。
「どうして?」と、私は彼女に問うてみる。
しかし私の問いに彼女は「ちょっと待って」と、同じ言葉を繰り返すだけ。
待つ? 何を?
もしかして、あの白狼を?
あの白狼が戻ってくると、エーリカはそれを待つと言うのか。
――胸の内がモヤモヤする
どうしてエーリカは、白狼が戻ってくると言い切れる?
――胸の内がチクチクする
どうしてエーリカは、白狼が戻ってくると信じられる?
「あぁ~もうっ!! ミーナの鈍感!! ミーナの朴念仁!!」
「なっ!? エーリカ、やめ……痛ッ!?」
疑問だらけの私を、エーリカは叩き、怒り、怒鳴り――
「あの子の態度を見てれば分かる筈なのに、どうしてそうやってあの子をちゃんと向き合わないのさ!!」
肩を掴まれ、揺さぶられ、訴えかけられて。
そうしてエーリカは必死に私を動かす。
身体を、そして心を。
私は……
「それが、どうした」
「ミーナ……」
「私だってあの白狼の態度に気づいていなかった訳では無いさ。しかしエーリカ、それが思い違いだったとしたらどうする? 私たちの都合のいいように解釈をしていたとして、あの白狼の自由を奪う事になってしまったらどうする?」
動物と人間の意思疎通は基本出来ないから。
私にあの白狼の思いなど、分かりはしないから。
限られた事から判断する事は、ただの憶測、希望的観測だ。
もし自分の都合の良いように解釈して、白狼の望む自由を奪うことになってしまったら。
そう思うと……怖いのだ、私は。
そんな私の思いを聞いたエーリカは、私の肩から手を離し、呆れたようにため息を一つ。
「難しい事を言っているけど……結局のところ臆病なんだね、ミーナは」
「……ああ、その通りだ」
意思疎通が出来る人間の思いさえ、私には分からない。
それは私が幾ら歳を重ねても、前世を含めてもそれだけは――いや、前世の事があるからこそ、言葉にしない相手の思いを完全に推し量る事だけは、きっと私には一生出来ない。
「……?」
ふと私の肩に、再びエーリカの手が添えられる。
先程の、訴えかける為の乱暴な手ではなく、そっと、割れ物を扱うかのような優しい手。
後ろ向きな事を考えていたせいか、いつの間にか下がっていた視線を上げてみると、エーリカは優しげに私に微笑んでいた。
人の邪な気持ちを知らないかのような純真無垢なエーリカの微笑み。
それは疑心暗鬼に黒く染まった私の心を、まるでお日様みたいのように、暴き、晴らし、そして眩しく照らしてくれる。
「ミーナ、あの子が行ってしまってから不機嫌……ううん、不機嫌って言うより寂しそうに見えるよ」
「そうなの、か?」
寂しそう。
エーリカはそう言うが、私にはそんな自覚はな……いや、どっちだろうな。
私は今、寂しいのだろうか?
白狼を看病している時、私は早く白狼に元気になってもらいたいと、それだけを思って、ただただ一生懸命だった。
しかし白狼が己の脚で立てるようになって、覚束ない足取りで私に付いてこようとする姿を、私は微笑ましく思っていた。
白狼の怪我が回復に向かい、駆け回る姿を見て、私は間違いなく嬉しかった。
思い返せば思い返すほど、確かに私の中にある、白狼との時間、思い出。
白狼と短い時間とは言え共に過ごしてきた時間の中で、あの白狼に対して少なからず、情が私の中に生まれていたのかもしれない。
それは何らおかしい事では無い。
ならば今、私のこの胸に感じているモヤモヤやチクチクは……
「ミーナはさ、私とケンカした時に私があの子に愛着が湧いたから飼いたいと願っているんだって言ったけど、私よりもあの子を大事にしていたミーナは、本当は私よりもあの子と一緒にいたかったんじゃないの?」
「ぁ……」
否定は、しない。
悔しいが、エーリカの指摘に私は図星だ。
「そんなミーナだから、ミーナだからこそ、あの子はミーナが好きなんだって……私はそう信じたいな」
「……どうして?」
「だって――その方が素敵じゃない?」
そう言って、エーリカはニッコリと笑ってゆっくりと、腕を持ち上げ指を指す。
森の方向に向かって指を指す。
その指の軌跡を、私は追いかけるように視線でなぞってみると、遠くに見える、白い点。
どんどん、どんどん、大きくなっていく白い点が、エーリカが指し示す方向に確かにあった。
「エーリカ」
「何?」
「私は今、どんな顔をしている?」
「やっぱり……ミーナってば、ものすごく嬉しそう」
「そうか」
私は、嬉しそうなのか。
ならば、私の感じている今この感情は――喜びだ
『女心と秋の空』
なんやかんや、他者の気持ちなど分からない、分からないとぐちぐち言って、結局その言葉は私に返るのかと思うと、なんともまあ……頭の痛い話だ。
白狼は、エーリカの言った通り私たちの許に戻ってきた。
それは間違いなく嬉しい事だ。
しかし戻ってきた白狼を前にして、私は果たして何と声を掛けたらいいのか。
そんな些細な事が、情けないが分からなくなる。
「戻ってきてくれてありがとう」か?――違う
「私の許に来い」か?――違う
そうして、悩み、沈黙する事数秒。
白狼はふと、その口にくわえていた何かを地に置いて、自身の鼻先でそっと私に転がす。
そういえば……何故白狼は森に向かったのか?
目の前に答えが既に明らかである筈の疑問を不思議な事に、思う。
「リンゴだ……」
私が膝を曲げて拾い上げた物は、白狼があの森から持ち帰った物はとても美味しそうに、真っ赤に熟れた、一つのリンゴ。
「これを私に、くれるのか?」
「ワン!!」
今の一声は……うん、きっと肯定と取っていいのだろう。
「お前は……」
――私と共に居たいのか?
そこまで言いかけた私の足元に、白狼は私の次の言葉を理解しているかのように歩み寄り、座って、尻尾を大きく振って私を真っ直ぐ見上げる。
それもまた肯定なのか……
「そうか……分かったよ」
「ミーナ、それじゃあ……」
「いや、エーリカ。私はこの子を
「ミーナ!!」
エーリカの責める声に私は首を横に振る。
違う、そうじゃないのだと。
ならば何なのか?
そんなエーリカの疑問はもっともだが、それはすぐに分かる事だ。
そう言って私は身を屈め、白狼を真っ直ぐに見据える。
白狼も私を真っ直ぐに見たまま、動かない。
「私は、お前を束縛しない。お前は、己の意思で私と共にいるだけ」
「……」
「私はお前と対等の立場でありたい。だから私はお前を
――それがお前と私のこれからの関係
「お前は己の意思で生きろ。私にも、何者にも縛られず、どこまでも自由にだ……だから私はお前にこの名を付ける。気に入ってくれると嬉しいのだが、期待はするなよ」
「ワン!!」
「私からお前に送るのは、『自由な者』を表す名前。そう、お前の名は――
「――カルラ」
四階まで登った私を、静かに待っていたのはカルラだった。
廊下の真ん中で、綺麗だった白い毛並みを煤と血で汚しながらも、ポツンと
此処にいると危ない事は彼女も分かっていた筈なのに、逃げもしないで……
「……………父さんと……母さんは?」
私の問いかけに、カルラは何も言わずに廊下の奥へと進み始める……かと思えば、彼女は一度止まって私を一瞥し、再び進み始める。
ついてこいと、言っているのか。
彼女の――両親たちが居るであろう407号室に向かう足取りはゆっくりだ。
見たところ、左前足を如何やら怪我をしている。
ひょっこ、ひょっこと、左脚を庇いながらも進む様は、その身を汚す血も相まって、とても痛ましい。
カルラが一人で、あの場にいたという事は、つまり……そういうことなのだろう。
カルラがゆっくり進んでいるのは、怪我のせいもあるだろうが、そう言ったことも関係しているのだろう。
私はカルラの後ろを歩き出す――ゆっくりと
私はカルラの後ろを追いかける――覚悟しながら
私が両親と、どんな形の対面になったとしても取り乱さないように、心の整理をしながら。