………寒い
寒イ
痛い
苦シい
悲しい
サビ死イ
あなた
ヴィッラ
ヴィるヘルミナ
………どコ?
愛しい、娘
私のむすメ
寂びしイ思いをさせて
ダイ、じョウブ
こんどは、ちゃんト
抱きしめテ、アゲル、だかラ
………いで
おイデ
違う
来ないデ
イイエ、こっちニオイデ
駄目、こっちに来ないで
寒いの、オネガイ
イタイノ、お願い
ヴィッラ
あなた
お願い
タスケテ
◆◆◆
西暦1939年11月16日 タルヌ県 ドモゼー伯領 軍立病院
ドモゼー領より出立の前日、夜の帳が落ちかけた夕暮れの時。
ルネ・フォンクはひとり、半壊した軍立病院へと足を運んでいた。
入り口にはロープ。
それは崩落の恐れがある軍立病院への立ち入りを禁じる為に張られた規制線。
規制線、なのだが「よいしょ」と。
ルネは年相応にロープをのっそりと越えて、構わず院内へと進む。
進んだ彼は、迷わず四階へ。
彼の妻が病魔に侵されて以来、見慣れた白磁の廊下は落ちる赫灼たる夕日の明光が窓から差し込み、朱くあかく彩る。
「突然駆けだしたと聞いて、心配したぞ。ヴィルヘルミナや」
夕日は廊下、その道半ばにいる少女をも平等に照らす。
傍には白狼。
それから、白布の掛けられたモノがふたつ。
地に寝かされたモノに、縋るように寄りかかる少女と合わせれば、モノは合わせてみっつ。
無音無言の少女とモノの周りを、蠅がぶぅんとせわしなく羽音をたてて廻る。
とまったそのうちのひとつが前脚を擦って、白布の下にあるモノを犯す機会を今か今かと覗っていた。
ルネにはそれが酷く不愉快であった。
彼の呼びかけに返事のない少女に近づくほどに腐臭が臭う。
その腐臭の原因が、白布の下にあるモノ。
彼の娘夫婦、少女の両親の骸であることは明らかであった。
しかし少女が気にする様子はなかった。
ルネは彼女の名を呼ぶ。
ヴィルヘルミナと、名をまた呼ぶ。
だが返事は返らず。
ルネが傍まで近づいても、また少女は、まだ無反応であった。
だから暫く少女が縋る骸の様に、彼も口を噤んで沈黙を守る。
「何処にもいないのです」
やっと少女が口を開く。
顔を上げ、ルネの姿を認める彼女の眼。
それは骸の様に、虚ろ。
「父さんも、母さんも、ここにいる筈なのに、今更私に何も言ってくれない」
「………ヴィルヘルミナ」
骸は生者に言葉を語り掛けない。
しかし今は、縋る少女に何も語りかけてあげない娘夫婦を、ルネは心の底から責めた。
何故今、この子の傍に居てやらないのかと。
何故、この子を一人残して死んだのか、と。
ルネは、責める。
何故なら今の彼女を慰める事が出来るのは、きっと娘夫婦らだけ。
「死人は、何も語らんよ」
「………」
その娘夫婦は死んでしまった。
そしてルネに彼女を慰める事は出来ない。
何も知らなかった時ならば、彼女に寄り添う選択肢があったかもしれない。
だが、ルネは告白された。
彼女の正体を告白されて、知ってしまった。
だから、彼は彼女に寄り添えない。
それは敬遠している訳ではない。
彼女が告白してくれた、前世の記憶。
まるで咎人が神に懺悔するように。
演説中に受けた礫の治療の際に突然に、しかしおそるおそる話してくれた、彼女の抱えていた問題は、俄かに信じられない事ではあった。
それでも彼がこれを全くの虚言や世迷言だと思わないのは彼女のこれまでの行動や言動を思い返せばむしろしっくりとくるものであって。
そしてなによりも彼に、孫娘に対する確かな情愛があるからだろう。
それでも彼女に慰める事叶わないのは、彼女が、ルネに対して負い目を抱いている事をルネが察したからだ。
それは前世の記憶を語らず騙していた負い目。
それは勝手に軍籍を騙って、戦っていた負い目。
それはルネの妻と娘夫婦を救えなかった負い目。
思いつくかぎりでもこれだけある。
でもきっと、彼女の抱える負い目はそれ以上。
だからこそ、ボロボロの身体である彼女が梯団の保護下に入ってもなお進んで戦う意思を見せるのだ。
ルネにヴィルヘルミナを非難するつもりはさらさらない。
けれど負い目を感じている彼女に、何を言ったところでこの子の助けにならないのだろう。
「………ご心配をおかけしました」
やがてヴィルヘルミナはゆっくりと立ちあがった。
表情はさきほどまでの悲嘆は無く。
あるのは柔らかな、笑み。
張り付けた仮面。
「ヴィルヘルミナ。わしは―――」
「大丈夫ですよおじいさま」
大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ。
繰り返し唱える彼女はあまりに不自然で、不気味。
無理をしていることは、ひと目で分かった。
「おじいさま、いいえルネ大佐」
そんな彼女は敬礼し、「さようなら」。
そう告げて、未だ癒えぬ傷を庇うようにひょっこひょっこと歩き出す。
そのままルネの傍を通って去ろうとする。
足早に、逃げる様に。
暗くなってゆく廊下の先へ先へと、ルネに背を向けて去るヴィルヘルミナ。
そうして彼女は、ルネから離れるつもりなのだろう。
自暴自棄になって勝手に死ぬつもりなのかもしれない。
確証はなかったが、彼の勘が警鐘を鳴らす。
そしてそうするだけの動機が、彼女にはある。
「
だからこそ、ルネは彼女を呼び止めた。
呼び止めても止まらないヴィルヘルミナを、彼は肩を掴んででも止めた。
軍人を騙ろうとする彼女を、孫娘としての名で呼んで止めた。
しかし止めたはいいものの。
はて何を言えば。
ええい何を投げかければ。
いよいよ何を語ればよいか分からずに、一瞬の沈黙。
しかし孫娘まで失うかもしれないこの一瞬の沈黙の中で巡った
「これを」
そうして惟い、出した答えは、しかし納得のいかない、もどかしさを覚えるものであった。
彼の思いを、まっすぐな言葉にできないもどかしさだ。
だがどんな言葉も、今の彼女にかけるには全て陳腐なモノに成り下がるだろう。
そう思ってしまう彼は不器用な人間であった。
「これは?」
彼がヴィルヘルミナに差し出したのは、手のひらサイズの茶封筒。
「この中には南方で儂が戦った、新種のネウロイに関する情報が入っている。これを、お前に預ける」
「………は?」
張り付けようとしていた仮面が崩れ、ヴィルヘルミナは目を見開く。
彼女は差し出された茶封筒。
そしてルネを交互に見て、しかしやはり首を大きく横に振る。
「私には、できません」
「頼む」
「おじいさま。しかし、私は」
「頼むヴィッラ。それを大切に持っていておくれ。無事にパリにつくまで、お前が持っていておくれ」
拒絶される前に、ルネは彼女に押し付ける。
無事に生きて、そしてそれを自分にその手で返して欲しい。
そんな一方的な約束も、一緒に。
「………命令ならば、受けとりましょう」
「命令じゃない。お願いだ、ヴィッラ」
その約束は、彼女をこの世に繋ぎとめる楔。
せめて軍人としての関係であろうと繕って受け取ろうとしたヴィルヘルミナを否定して、彼は家族として楔を押し付ける。
ヴィルヘルミナは。
俯き、しばし無言、その後に。
ようやく押し付けられた茶封筒と言う名の楔に、ゆっくりと手を伸ばす。
「おじいさまは」
「なんじゃ」
「私をまだ孫として呼んでくれるのですね」
「………当たり前じゃろ」
手を伸ばしながら向けられる蚊の鳴くような問いかけ。
それにルネは当然だと答えれば、ガッと突如握られる腕。
茶封筒へと伸ばしたと思っていたヴィルヘルミナの手は、彼の腕を捕らえていた。
突然の事に驚くルネであったが、震える身体と声と、力を入れてもなおか弱い力。
「勝手に死んだら」
そして夕日の最後の輝きに照らされた、ヴィルヘルミナの泣きそうになりながらもキッと見上げた顔を見て、また驚く。
「私は貴方を許さないっ!!」
悲鳴のような叫び。
その後に掴んでいた腕を離し、茶封筒を奪って今度こそ去るヴィルヘルミナを、ルネは茫然として見送った。
感情的になった彼女をこれまで見た事がなかった彼が、はじめて彼女に垣間見たモノは『執着』であったから。
前世についての真実を告白される以前から、見た目以上に精神が成熟していると思っていた彼女から垣間見た執着は。
いや、前世の記憶を持っている彼女だから、執着心は一層強いのだろうと思い直す。
だからこそ、本来その執着心が向けられるべき二人をルネはまた、責める。
「何故死んでしまったのだ、お前たち」
あの子に今必要なのは、お前たちの愛情だろうにと。
ルネは責める。
答えはない。
骸は当然答えない。
暗闇が迫る。
夜の帳が落ちる。
そうして光は、平然と自分勝手に去っていった。
◇◇◇
西暦1939年12月17日 ジュラ県
猛烈な吹雪に見舞われながらも、道なき道を進む兵士たち。
列を為して歩く兵士たちの中心で、一台の戦車がのろのろと走る。
ルノーB1重戦車。
フィリップ・ルクレール・ド・オートクローク中尉が搭乗するソレは、まるで割れモノを気遣うように雪道を漸進していた。
「………ちっ」
ルノーB1に備え付けられた貴重なモールス無線機の再三送られてくる通信に、フィリップは舌打つ。
送信相手は先日合流したデ・ヤンス大尉。
内容は面会の要請なのだが、ヤンス大尉の目的が合流した部隊の主導権の掌握である事を察したルクレールは返答を渋っていた。
面会を求められているのがルクレールならば、受け入れるのだが………。
「うぐっ………」
段差に乗り上げたのか。
不意に車体が大きく揺れて、呻き声。
「大丈夫かルドルファー中尉?」
狭い車内の一角に、無理矢理設けたベッドに横たわる呻き声の主は手をプラプラと挙げて気にするなと言いたげであった。
しかしながらルクレールは、それを真に受ける事はない。
ヤンス大尉が面会を求めているのはルクレールではなく、ヴィルヘルミナの方であった。
だからこそ、彼は要請を渋っていた。
彼女が既に限界であることを理解している、それ故に。
ドモゼー領出立の時点で魔力補助なしでの歩行さえ支障をきたしていた彼女は、最初こそ貴重な軍属ウィッチ故に温存されていたものの、ネウロイの大群に単機で渡り合う事が叶う戦闘力が仇となって、結局無理な出撃を余儀なくされてしまった。
更に撤退する軍団が雪中戦の経験が乏しかったことが、軍団が戦力としての彼女に依存することの拍車をかけ、軍団から脱落している現在では猶更であった。
度重なった無理な出撃によって負傷を繰り返し、また魔力も枯渇寸前。
既に自力で起き上がることすら、困難。
まともな治療が望めない環境で、
「無線はデ・ヤンス大尉からか?」
苦しそうにしながらも、無線を気にするヴィルヘルミナに首肯して答えると、彼女は呆れたように大げさに溜息を吐いた。
「いい加減、しつこいな」
「いっそ大尉には次の戦闘で不運な流れ弾に当たってもらおうか?」
「お前も大概物騒だな………っ」
流れ弾の件に彼女はくつくつと笑うが、身体に響いたのか、苦悶の表情を一瞬浮かべてやめる。
「………確か此処から1.5キロ北東進んだところに小さな集落があったはずだ」
「まさかルドルファー中尉、デ・ヤンス大尉と会うのか?」
「このまま指揮統一を行わない訳にはいくまい」
会わなきゃならないだろうなと憂鬱そうにする彼女に、ルクレールは同情と、代わってやれない申し訳なさを覚えながら、無線を繋ぐ。
「連絡は、しておく。集落到着までは休んでいてくれ」
「ああそうするよ………さて」
瞳を落とすその前に、ヴィルヘルミナは彼女の傍に座る、ツインテールのウィッチに頼む。
「済まないがまた治癒魔法を頼む、
「は、はい」
何十回目かもはや忘れる程に包まれてきた仄かな光のやさしさに身を任せ、ヴィルヘルミナは意識を真っ暗闇へと再び落とす。
パリの空は、未だ遠い。
一か月以内の投稿とかいつぶりなんだろう?(調べてみたら約一年ぶりのようです。なんてこったい)