とある秋の日曜日の昼頃。
その日は無論、学校はお休み。
空を見上げてみれば雲一つない快晴。
休日の日に天気が快晴というのは、普段こそ思うことは無いがとても恵まれているものではないかと私はぼんやりと思う。
暑くもなく、寒くもなく、今日は丁度いい日向ぼっこ日和。
程よく太陽の日差しに暖められたポカポカ陽気は、私の身体の上にもう一枚、良質な衣服を
忘れた頃に、私にしっかりと語り掛けてくれる涼しげな秋風が、長閑な自然の匂いを届けてくれる。
そんな中を、私とカルラは庭にはえている大きめの木の下に居座り、過ごす。
まるで絵に描いたような理想の休日。
そんな恵まれた環境の中、カルラは私の傍で伏せてウトウト。
「……あふっ」
彼女が本当に気持ちよさそうに眠っているものだから、ついつい私は欠伸をしそうになって、それをかみ殺す。
周りに人の気配こそないが、外だからこそ、誰が見ているのか分からない外という場所で女の子が口を大きく開いて欠伸をするものではないだろう。
しかし、この穏やかな天気の中でお昼寝に興じる事が出来るならばどれ程よいものであろうか?
きっと想像するまでも無い。
それはそれは、とても良いものであろう。
ならば早くこの作業を終わらせるに限ると、私は今行っている作業の手を早める。
「よし、終わりだ」
程なくして、カチンという綺麗な金属音と共に、行っていた作業――猟銃の整備は終わりを告げた。
お爺様によく貸していただいているこの猟銃。
しかし私が借りて使用させていただいている以上、整備は私自身が行わねばなるまいと、こうして月に二、三度、整備を行っている訳だ。
「よいしょ」
そうして整備を終えた猟銃を、私は徐に立ち上がってしっかりと構えてみる。
狙うのは、偶々見つけた三百メートル先の木にとまっている一羽の小鳥。
「すぅ――」
お爺様に習った通りに息を静かに吸って、銃がブレないように呼吸を止めて、しっかりと猟銃を抱える。
吹きつける北風を私はおおよそで読んで、銃口を修正する。
そして、
――カチンッ
引き金を引いても、勿論だが弾は出ない。
無論弾を込めていなかったので撃てるわけがなかったのだが――ただの気分である。
狙われた小鳥は私の殺気に気づいたのか、既に何処かに飛び去ってしまった。
飛び立った鳥の軌跡を見届けて暫くし、そうしてやっと私は銃をゆっくりと下ろした。
銃の取り回しは、私が将来に向けて備える事のできる、数少ない私の今出来る事。
お爺様には騙す形になってしまい申し訳なく思うが、私がお爺様の狩りに無理を言ってついていく理由は、実はその一点に尽きる。
そうでなければ動物の命を好き好んで殺す事など誰が進んでやるものか。
そういう意味では、私の射撃の腕というものは、多くの血の犠牲の上に成り立っていると言っても過言ではないのだろう。
私の都合で動物を殺す。
私にとってそれは銃の狙撃精度を養うために、来るべきネウロイの襲撃に備えて必要な事であったとはいえ、本当に私は身勝手な人間である。
「クゥウン……」
「ん、カルラ?」
寝ていた筈のカルラが、私の傍によって私の太ももに顔を軽く摺り寄せてくる。
一体何だろうと思い、身を屈めてカルラの頭を撫でると、カルラは一度だけ私の顔をぺろりと舐めてくれた。
「慰めて、くれているのか?」
「……」
カルラはやはり頭を私に寄せるだけで、何も答えない、答える筈もない。
それでも彼女が私を何となく、本当に何となくだが、慰めてくれている事は理解できた。
「お~い、ヴィルヘルミナよ」
家の窓より、お爺様が私を呼ぶ。
丁度こちらも銃の整備が終わっていたので家に入って銃を金庫にしまい、お爺様の許に向かう。
「どうしましたかお爺様?」
「なに、マリーから買い出しのお使いじゃよ。ほれ、お金とメモじゃ」
「……あれ? 母さんはどちらに?」
「マリーなら、さっきレオナルドと共に婆さんの容体を診る為に病院に行ったぞ?」
お爺様から差し出されたお金と買い出しのメモを預かる。
メモに載っている食材から察するに、今日は恐らくハンバーグなのだろう。
しかし、母さんがお爺様に言伝を頼んで私にお使いを頼むとは母さんの性格を踏まえると、少しそれは考えられない。
母さんはどちらかと言うと直接事を伝えることを好んでいるので私に直接頼むか、書置きで要件を伝えるかのどちらかと思っていたのだが。
「お爺様。まさか私にお使いを押し付けて……」
「あいたたた、持病の腰がいたいのぅ~……チラッ」
おい、お爺様や。
大の大人が自分の孫に仕事を押し付けるとは何事か。
私は呆れ、ため息を一つ吐いて、それでも結局お爺様の頼みを引き受けてしまう私は少し……いや大分甘いのかもしれない。
仮病を使って仕事を押し付けようとするお爺様。
その姿からは巷に囁かれている英雄としての、軍人としての彼の姿を少しも、ちっとも、まったくもって連想する事は出来ず、私の目の前にいるのはただ私の祖父としての彼だった。
「はいはい、行きますよ。行けばいいのでしょう、お爺様?」
「おお、流石はわしの孫じゃ。余ったお金は好きな物に使っていいから気を付けて行ってくるんじゃぞ」
「ん、了解です。いくよカルラ」
「ワン」
カルラの元気な返事を伴い、私たちはそうして町に足を向けた。
「おや?」
「あっ」
「……」
町に向かう途中の道端で偶然、偶々、バッタリと、私が遭遇したのはこの間ぶつかって迷惑を掛けてしまったドモゼー姉妹だった。
そんな彼女たちの私を見た時に顔に出た反応は両極端と言ってもいい。
シャルロットはパァと花が開いたかのような笑顔を。
もう片方の彼女は露骨に嫌そうな顔を、それぞれ私に向けた。
「御機嫌ようです、ヴィルヘルミナさん。奇遇ですね」
「ああ、そうだなシャルロット……其方の方は?」
「あ、はい。私の双子の姉のジャンヌと言います」
「……別に僕の名前覚えなくていいからな。と言うか僕の名前を僕の許し無く絶対呼ぶなよ、カールスラント人」
「あわわ!? 駄目だよお姉ちゃん、上級生のヴィルヘルミナさんに失礼だよ。ご、ごめんなさいヴィルヘルミナさん」
「いやシャルロット、此方は別に気にしていないから大丈夫だ。確かに許しも無く人の名を呼ぶのは失礼かもしれないな」
「……ふん、分かっているじゃないか」
ジャンヌと名乗った彼女はカールスラント人を公然と嫌うクチか。
こういうタイプは出来るだけ刺激しないようにしないといけないのは長年の人生経験で心得ている。
私がどう思われようと別に問題は無いが、この町に少なからず影響力があるだろう貴族様と、下手に波を立てて家族に迷惑が掛かるのはいただけない。
出来れば関わりたくない、厄介な人物。
それがジャンヌに対して抱いた私の第一印象だった。
「こちらは名乗っておく。ヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファーだ。よしなに、な」
「そ、自己紹介ご苦労様。一応は受け取っておくよ」
「……」
「……」
「えっと、えっと……そうだ、ヴィルヘルミナさんはどうしてこちらに?」
剣呑な雰囲気に耐え切れなかったのか、シャルロットが慌てて話題を変える。
私も別にジャンヌと争うつもりはないので、彼女の話題に乗って質問に答える事にする。
「なに、ただの夕飯の買い出しだ」
ほら、と手に抱えている籠を彼女に見えるように見せる。
「あ、じゃあ私たちと一緒ですね」
「一緒?」
「はい、私たちも夕食の買い出しなのです」
彼女も私がやってみせたように籠を掲げて見せてくれたが、私の疑問はそちらでは無く「貴族の子女が何故そのような事をする必要があるのか?」といった疑問である。
しかし私も貴族の暮らしというものをよく知っている訳では無いのでこれについては私のただの偏見なのかもしれないし、もしかしたらやんごとなき理由があってやっている事なのかもしれないのでそこら辺は深く聞かない方が無難なのだろう。
「――ですのでヴィルヘルミナさん、ご一緒にどうですか?」
「……は?」
「ですから、私たちと一緒にお買い物、行きませんか?」
シャルロットはニッコリと笑い、そう言って私を誘ってくれる。
それ自体は、誘ってくれること自体は確かに、確かに嬉しいのだが……しかしシャルロット、貴女の隣でこちらを物凄く睨んでいる彼女、ジャンヌの気持ちを出来れば察してほしかった。
ジャンヌにしてみれば、姉妹で楽しくお出かけしていたところに私というお邪魔虫がシャルロットに誘われたとは言え、ずかずかとそのまま付いてくるというのは気分が良い物である筈が無いだろう。
故に此処はシャルロットには悪いとは思うが、断った方が互いの為だ。
「済まないシャルロット。私は……」
「どうしてもダメ、ですか?」
「うっ」
身長差からか、彼女から意図せず向けられた上目遣い。
……頼むからそんな涙目で私を見上げるのは止めてほしい。
そしてそういう事は隣で奥歯をギシギシ言わせている貴女の姉にしてあげなさい。
ジャンヌの視線がさっきよりも増して私の肌にひしひしと刺さってとっても、とっても痛いのだ。
「貴様、シャルの、誘いを、断るのか!!」
しかしジャンヌは明らかに無理して、すごく無理して、それこそ絞り出すような声で、そんな事を私に言ってくる。
貴女の為に、折角空気を読んで断ろうとしたのに「ついてこい」とは、全く以って理不尽だ。
「それでは、シャルロットと貴女のお言葉に甘えましょう」
「本当ですか!! よかったぁ、断られなくて」
「……くっ」
だからジャンヌさんや。
そんなに私が嫌ならハッキリ断ってくれないか?
流石に面と向かって人に嫌われるのは誰だって気分がよろしくないものなのだぞと、私は内心でそんな愚痴を吐きながら、せっかくの休みの日だというのにこれ以上のストレスを溜めこまないように私はジャンヌの視線から早く逃れたい一心で、シャルロットに町に向かうように急かした。
ガリア南部に位置する私たちが今現在暮らしているこの町は、かつては交易などの商取引、橋の通行料等で栄えていたらしいのだが、近年輸送手段が飛躍的に発展した事によってこの町はそこまでの重要性は無くなった為に一世紀ほど前から町は緩やかに衰退の一途をたどっているという話を以前に聞いたことがある。
そんなこの町の建物は殆どが百年以上前から変わらず建っているものが多く、確かに壁や屋根は町の歴史を語り掛けてくるような、過ぎ去った年月を物語っているかのような落ち着いた色をし、道路や橋は所々が石造り。
それらは単に、悪く言ってしまえば都市の開発が進んでいないだけともとれるのだが、しかし建築物の古めかしさ、落ち着いた色をした町並み、雰囲気を、一年以上暮らしてきた中で私はそれなりに気に入っていた。
そんな町の中心に位置する商店街は、言われるほどの衰退を感じさせない程の賑わいを見せている。
休日故か、人の数もそれなりに多く、店も頻繁に店主と客が笑顔でやり取りをしているところを見るに、商売に困っている事もなさそうで何よりである。
私たちが今日の買い出しで求めていた食品は大体が同じであったので、あまり別れる事無く共に行動する事が出来た。
しかし私はジャンヌの視界に自身が入らないように前をドモゼー姉妹に歩かせ、私はカルラと共に少し後ろを歩き、時折話しかけられたら答えるだけでこちらからは極力話しかけないように努める。
こっちだって好き好んで地雷原に行って踏み抜いてストレスを重ねる趣味は無いし、ジャンヌだって目障りな私が関わってこなくて幸いだろうと考えた訳だ。
「……」
しかし私のそんな配慮を裏切るかのように、ジャンヌは途中から私をチラッチラッと振り返って私に何かを言いたげにしている。
嫌っているなら何故こっちを見るんだ、彼女は?
そしてジャンヌが私をチラッチラッと見てくるせいで、シャルロットもジャンヌと上手く会話を続ける事が出来ず、変な沈黙が先ほどから続いていた。
そんな中、唐突にシャルロットが振り返って私たちに告げる。
「お姉ちゃん、ヴィルヘルミナさん。私、少し用事が出来ましたのでここで待っていてくださいね?」
「は?」
「え?」
そんな事を私たちに言い残したシャルロットは、私が理由を聞くどころか止める暇さえ私に与えず、何処かに駆けていってしまう。
そしてそのまま彼女の後ろ姿は、そのまま人ごみという名の森の中へ、あっという間に姿を晦ましてしまった。
ただ見送ることしか出来ず、そして彼女に取り残されてしまった私たちは、顔を見合わせて唖然とするしかない。
またも沈黙。
気まずい関係の二人が取り残されればこうなってしまうのは当然なのかも知れない。
仕方なく、手持無沙汰だった私たちはどちらからともなく近くのベンチに腰掛け、大人しく彼女の帰りを待つことにした。
「ごめん」
暫くの沈黙を経て、ジャンヌは私にそう言った。
「何がだ?」と、謝られる理由が分からなかった私はそうジャンヌに聞き返すと、彼女は「シャルの事」と短く答えた。
「シャルがお前をつき合わせてるのに、勝手に何処かに行ってしまって」
「ああ……いや、私は別に気にしていない」
「そうか」
まさか彼女が妹の為とはいえ嫌っている相手に謝ってくるとは思っていなかっただけに、内心、私はかなり驚いていた。
貴族の教養故か、はたまた彼女自身の性格故か。
未だ幼い彼女が私に対し、感情に左右されずに謝る事が出来た事には驚いたのと同時に、私は彼女に深く感心する。
兎も角、私の彼女に対する評価は上方修正された事には変わりなかった。
「この際だから言っておく、カールスラント人」
「なんだ」
「僕は、お前が嫌いだ」
何を今更言っているんだこいつは――とは、流石に正直には言える訳がなかった。
「知っているよ」とただ短く、私は彼女に返す。
するとジャンヌは予想外にも驚いた顔を私に向けた。
……まさか、気づいていなかったのか?
「それだけ態度に出ていれば、誰だって分かると思うぞ」
「そ、そんなにあからさまに見える?」
「
「……ごめん」
「気にするな。私の事が嫌いなのだろう? ならば当然の態度だろう」
「そんな嫌われている相手を慰めるお前は一体何なんだよ……」
「さあ?」
一息入れて、周りに視線を移す。
無論視界に映るのは、相も変わらず活気に満ち溢れた、賑やかな町、人の往来、うつろい。
空から暖かな日差し、オレンジ色に照らされた、黄い色をした穏やかな世界、ただそれだけが広がっていた。
――平和だ。
私は純粋に、そう思う。
「ところで……」
「ん?」
「お前はなんでシャルに近づく?」
「はて、『近づく』とは、どういう意味だ?」
「どうせお前だってシャルの身分に惹かれて近づいたんだろ。言っておくけどそんなことしても無駄だからな。私たちはお金も権力も無い、今は名ばかりの貴族だからな」
ジャンヌの言葉に、私は大人げないとは思うが、少しイラっとしてしまう。
私がそういった輩と一緒にされるのは、互いに面識がなく、彼女が私の事を知らないとはいえ、かなり心外である。
しかし同時に、そういう質問をしてくるという事は そういう事が過去にあったという事なのだろう。
そう考えると私は彼女に怒っていいのか、配慮すればいいのか分からなくなってしまう。
「心配しなくとも君たち姉妹に私は近づくつもりは元から無かったし、今日は偶々出会っただけだ。シャルロットはどう思っているのかは分からないが、此方からは君に睨まれている限り、今後も近づくつもりはない」
「どうだか……口先だけならいくらでもそんな事は言えるよ」
「確かに、そうだな」
「でも「おやおや、そこにいるのはジャンヌかい?」……!?」
何かを言いかけたジャンヌの言葉を遮るように後ろから声が掛けられる。
振り返ると、車道に寄せられた一台の車よりガリア陸軍の軍服を着た程よく伸びた髭を蓄えているのが特徴的な中年の男が顔を出していた。
「ああ、やはりジャンヌだったか、会いたかったよ。丁度家に寄ろうかと思っていたところだったんだ……ああ君、ちょっとここで下ろしてくれないか?」
「はっ」
部下らしき者にドアを開かせ、車から降り、男は私たちの傍に寄る。
男の肩に輝く階級章は准将を示し、着ている軍服には数多くの勲章が彼の輝かしい栄光を自己主張しているようで、私は男にあまりいい印象を持てなかった。
それでも立たないと拙いかと思い、ひとまず立ち上がる事にするが、ジャンヌは俯いて動かない。
「どうしたんだいジャンヌ、折角久々に会えたんだ。私に君の顔を見せておくれ?」
「……はい、叔父様」
男に言われ、俯いたままだが漸く立ち上がるジャンヌ。
心なしか、顔が青ざめ、少しだが震えているように見える。
「大丈夫かいジャンヌ、何処か具合でも悪いのかい?」
そう言って男は心配そうにジャンヌの肩に手を置き、ギュっと……ギュッと?
「……っ」
男の指がジャンヌの肩に食い込んでいるのを私は見た。
そんな中、俯くジャンヌは明らかに苦悶の表情を浮かべ、痛そうにしながらも必死に声を出さないように我慢しているようで、対して男は人の良さそうな笑顔をジャンヌに向け続けている。
……何だ、何なのだ、これは?
「ふふ、ジャンヌ、私は長旅で疲れてしまったよ。帰ったらたっぷりと私を労ってくれるね?」
「は……はい」
ジャンヌと男の関係は明らかに異常だ。
男の笑顔はまるで加虐に悦を覚えるサディストのそれにしか私には見えない。
カルラも男の異常性に気づいたのか、男を睨み、唸る。
(カルラ、刺激しては駄目だ)
男がカルラに気づかないうちに彼女を落ち着かせ、下がらせる。
カルラの気持ちは嬉しいが、この男が本当にサディストならば、彼を不用意に刺激してしまうと後に被害が及ぶのはジャンヌだ。
だからと言って、この状況をこれ以上見過ごす事も私には出来る訳がない。
私は一歩、彼らに近づいて咳払い。
「おや、君は?」
「お初にお目に掛かります准将閣下。私はジャンヌ嬢の学友をしておりますヴィルヘルミナ・フォンク・ルドルファーと申します」
「へぇ、ジャンヌのお友達かい? ごめんよ、私とした事が気づかなかったよ」
「いえいえ、如何やら准将閣下は久方ぶりにジャンヌ嬢とお会いになられたご様子。お二人は仲も良さそうですし、再会の嬉しさのあまり、私が見えなくなるのも当然かと」
「ハハ、そう言ってくれると助かるよ」
男はジャンヌの肩から手を放し、此方を向いてくれた。
ひとまずジャンヌがこの場でこれ以上虐待を受ける心配はないだろう。
後は早く彼がこの場から離れてくれるのを祈るばかりだ。
「紹介がまだだったね、私の名はカジミール・ドモゼーだ」
「なんと、名将と名高きカジミール准将閣下であらせられましたか。ご武功はかねがね、両親より聞き及んでおります」
「ハハハ、きみぃ、世辞が中々上手いねぇ」
私の世辞に上機嫌になるカジミール。
因みに武功云々は嘘だ。
しかし彼の付けている勲章の種類から、彼がどんな活躍をしたのかを読み取る事は簡単であったので、褒めやすかったのは確かだった。
「ところで、君の名の
「……カジミール閣下の仰られている方がどのフォンク氏を指しているかは存じませんが、おそらく閣下のご想像通りかと」
「そうかそうか……いやいや、幼いながらもしっかりとした受け答え、とても感心するよ。是非とも君みたいな立派な人にこそジャンヌと今後とも仲良くしてもらいたいものだ」
「ありがとうございます」
私と二、三、言葉を交わしたカジミールは、腕時計をチラッと見て「そろそろ行かなければ」と私たちに告げる。
「この後、人と会う約束をしていてね。一方的に立ち去る形になってしまい申し訳なく思うよ。また会う機会があればゆっくりと、君とは語り合いたいものだ」
「ええ、私もまた会える日を楽しみにしております」
「それではね……っと、そういえば、去る前に一つ聞いてもいいかね?」
「何でしょう?」
やっと立ち去ってくれるのかと、ホッとしていた私の不意を突くかのように、カジミールはグイッと一気に近づいて、私の耳元でささやく。
「ジャンヌから私の事で、何かおかしな事を聞いているかい?」
「……ッ」
それはジャンヌが私に告げ口をしていないかの確認、ただの言葉。
しかし私はその言葉を耳の傍で受け、言葉を伝える振動を受け、まるでそこから彼に私の身体を穢されていく、そんな錯覚を覚える。
それは不快で、ただ不快で、兎に角不快で。
今すぐにでも家に帰って、耳の穴から身体の内外問わず全てを清め、この不快な何かを取り除きたい思いに、衝動に駆られる。
「何の事でしょうか?」
年相応に、まるで無垢な少女の様に、私はキョトンと、何も知らないふりをする。
我ながら迫真の演技だったと思う。
カジミールは私を探るように私を不躾な視線で以て私を見る事数秒。
彼は私が嘘をついていないと判断したのか、ニッコリと笑い、私たちに別れを告げて今度こそ去って行った。
「ふぅ……」
まるで呼吸を久方ぶりに行ったような、そんな心地を覚える。
いつの間にか強く握っていた拳をゆっくりと開くと、じっとりと嫌な汗をかいている事に気づいて、それをハンカチで強く擦る様にして拭き取った。
「とんだ災難だったな、ジャ……おい、大丈夫か?」
カジミールが去ったというのに、未だにジャンヌは俯き、震えたままで動かない。
彼女に嫌われているとはいえ、流石に心配になってきた私は彼女の肩に手を添えようとして、
――パンッ
「私に、触れるなあああああ!!」
手を叩かれ、睨まれ、そして大きな声―――拒絶
あまりの事に私は驚き、一歩、二歩と、後ろによろめいてしまう。
そして開けた視界で以て、私は気づく。
周囲の活気がまるで時間が止まったかのように固まり、そして数多の視線が私たちに集まっている事を。
「あ……」
その事に彼女もまた気づき、更に彼女の震えが大きくなっていくのが分かる。
震えを止めようと、抑えようと、彼女は身体をギュッと締め付けるように己の両腕で自身の身体を抱くが、それでも彼女の身体の震えは止まる事はなかった。
「わ、わた……ぼく、ぼくは、僕は……うっ」
「おい!!」
周囲の視線に耐え切れず、明らかにパニックに陥っていたジャンヌは、込み上げる吐き気を抑える為に口元を押さえる。
そんな彼女を見かね、駆け寄り、そして支える私を、彼女は今度は拒絶をしなかった。
いや、する余裕がなかったと言った方が正しいのだろう。
その後、彼女を近くの店のトイレに連れていった私は、彼女を出来るだけ一人にさせる為に、自身は店の外に待機していた。
その間、私はただ空をぼんやりと見上げ、そしてトイレに連れていく途中で彼女が言った言葉を反芻する。
「『シャルには言わないで』……か」
とんだ休日になってしまったなと、目の前で起こっていた出来事を、私は何処か他人事のように捉えていた。
……正直に言うと、事実、彼女の抱えているであろう問題は私にはどうしようもない、関わろうとも思えない他人事でしかなかった。
彼女と私の関係は赤の他人から毛が生えた程度の関係でしかなく、しかも彼女から私は一方的に嫌われている。
そんな相手に手を差し伸べられるほど、私はお人よしでも聖人君子でもない。
故に私は気の毒に思いこそすれ、この問題に関して深く関わっていくつもりはなかった。
「世の中儘ならないものだな」
平和な世の中でも、問題を抱える人間は常にいるものである。
自身の周りだけが世界とは限らない。
常に世界のどこかで人の数だけ、その人にとっての世界が存在するのだ。
私にとって平和なこの世界は、彼女にとっては平和でなかった。
ただそれだけの話である。
見上げた空は何処までも青く、過ぎゆく人々は、最早先ほど起こった事など忘れたかのように、人々は、それぞれの平和を謳歌しているようだ。
そんな中、何処からか焼き菓子の香ばしい匂いが私の鼻を擽る。
――平和だ
その言葉を何度も何度も繰り返し、自分の世界を守って、結局他者の世界の事など知らないフリする私はきっと、とっても、どうしようもない程、臆病な人間だったのだろう。