4月中旬。検疫を挟んで馬運車に詰め込まれ、牧場へ帰ってくる。
トバは久しぶりに故郷へ帰ることができた。
牧場から離れたのは一ヶ月程度であるが、濃密な時間を過ごしたためか
一ヶ月以上離れていたような感覚がしたようだ。
トバが帰ってくると、調教師兼厩務員が抱きついて迎える。
米国では奉先と専属調教師が厩務員の代わりとして世話をしていたようだ。
本来であれば同じ厩務員が世話をしなければ、馬は孤独を感じて調子を崩してしまう。
それをしなかったのは、トバが非常に賢く周囲の人全員を等しく認識しているから。またいつもの厩務員は他のポニーやサラ系、購入したサラブレッドの牝系を世話しなければならない。
だからここに居残って、獣医師・専属騎手・調教師に後は任せたのだ。
更に蹄鉄師が居ないが、それはアメリカ厩舎のほうでやってくれると
言われているので用意しなかった。
名工のおやっさんは、現状ヤブの状態で蹄鉄師をやっている。
米国へ連れていけるわけがなかった。
そもそも4月前後から乳牛の出産ラッシュなので、持ち場から離れることができなかったのもある。
この牧場は家族経営ではあるが、他に誰も居ないというわけではない。
周辺住民の皆さんが、相互に支えてきたところでもある。
特に大量の飼料は、地元の農家の方々に用意してもらっているといっても過言ではない。
また飼料を作るための肥料も、馬糞や牛糞等から作っている堆肥を用いている。
絶対になくせない循環だ。
「トバ坊、アメリカの重賞勝ったって」
「ふーん、よかったな」
「だね」
「いやいやいや、重賞勝つって相当だよ!?」
「ミスターシービーの種付料を考えたら、まだまだよ。
もっと重賞を勝ってもらわんとなぁ」
「ところで、取材来てるけど」
「牧場にいれるなよ?」
「わかった。締め出しとく」
三鷹の伯父が訪れて、トバが重賞を勝利したことを伝えたが
本人はすかした態度を取る。そもそも競馬をし始めたのは、牧場主が勝手にやったこと。競馬なんて上位1%しか黒字にならないものに、一千万も払えるかと伯父が言った事がある。
乳牛を営んでいる牧場から出ていったと言われる伯父。
家族だから邪険に扱うことはないが、牧場主……父親の事を否定する伯父を
厩務員は無表情で情報を伝える。
「ふん」
酒が入っていない伯父は、冷たかった。
それはそれとして。
「帰ってきたぞー」
「一時帰宅だ!」
【我が家!】
「いやー、懐かしいな! 向こうと違って、めっちゃ寒うい」
トバは一目散に厩舎へ走っていく。
彼らが帰ってきた時刻は、牧場として忙しい時。
トバは走っておいついた奉先が誘導して、身体を洗う場所へ赴く。
検疫施設でも身体を洗ったが、こちらでも再度洗うのだ。
終わったら栄養士が考えた飼い葉を与える。
面倒くさいドラッグの選別をしなくてよくなり、感動のあまり涙を流しながら
平らげる。
「うぃ~よぉやったなあ! 伯父さん超嬉しい!」
「臭い! 酒臭い!」
「今度はなんの酒だ!?」
「チューハイってのはいいな、のみやすい!」
「昼から飲みやがって!」
「初めてアメ公に勝ったんだぞ!? 飲まずにいられるか!」
「ほんと、酒が入ると性格変わるよな」
なんだかんだ伯父も、牧場主が責任を持ち育てているトバが可愛くて仕方がないのだ。本当はシラフでもかわいがってあげたいが、もともと頑固なところもあり
融通が利かないと思わせている。
なにせ田舎特有のどんぶり勘定が目立つ。
変な出費をして、それを褒めるというのはちゃんちゃらおかしいのだ。
それに伯父は奉先や裕二が小さい頃厳しくしていた。
牧場主は兄弟の中で一番動物に好かれていて、牧場の動物に愛情を注いでいた傍ら
伯父は基本的な教育を施していた。
彼は男達を、伯父の奥さんが牧場主の奥さんとともに女達の面倒を見たのだ。
つまり、今更軟弱な姿を見られたくないという、哀れな昭和男の様相を晒している。しかし厳しいだけだとトバに逃げられてしまう。
せっかく自分の弟が心血注いだものを壊すのはしたくない。
それはそれとして可愛がりたい。
色々考えた結果、お酒に逃げることになった。
彼は酒を理由にトバを可愛がり、でろでろな様子を酒のせいで通すようになってしまった。
素直にできないのは辛いが、大人として甘い顔は見せられない。
どんなに考えても、酒から逃げられなかったようだ。
「やべーよとーちゃん!」
「なんだー?」
「遅刻する!」
「だから早く帰れと、言ったろうが!」
「えーでも、トバに会いたかったしー」
「明日でもいいだろうよ」
「明日運動会なんだよー」
「運搬車で送って行ってやんよ」
「やったー! にーちゃん大好きー!」
「すまんが裕二。明日の配達は、その時間に走らん」
「なんで!?」
「再舗装すんだとよ」
「そんな朝っぱらからすんなよ!?」
トバは基本的に厩舎に入れられているが、他の動物の管理室に近寄らないことを前提にあるエリアだけ自由に開放している。
これも黒板による情報伝達ができるようになったことが一因だろう。
今では調教師兼厩務員がいなくても、冬以外は温ま池に来れるようになっている。
温ま池の水温は低いところで25度、高いところで45度だ。
山肌から滲み出た熱湯が、牧場主のお父さんが作った人工のため池に集まるようになっている。
また淀まないように近くの小川に流れている。
透明度は高く馬体が沈み込み犬かきができる程度。
人や動物の湯治にも使われる。
また温泉ではなく地下水が温められただけなので、中性である場合が多い。
地震が発生するたびにpHが変化するので、リトマス試験紙が事務所に常備されている。
「あら、トバじゃない」
【?】
「覚えてな~い? 由美よ」
【!】
「よかった~、覚えてくれてたのね~」
人のための足湯がある場所から声がかけられる。
トバが誰だろうと思い近づくと、長女の由美である事が判明。
いつの間に帰ってきてたのと頭を擦り付けにいく。
由美は都会から少し離れた郊外で、牧場産の牛乳を使ったピザ屋を営んでいる。
すでに婚姻しており、一児の母である。
今は育児疲れで休憩しており、産婆と乳母を経験したことがある牧場主の母に一時お願いしている。
「やはりやばい」
「軽トラはちょっとなあ。ガソリンがないから道がなあ」
【?】
「「あ」」
「お、ちょうどいい。ここに村正が作っていた馬車(仮)がある。
運んでいってやってくれ」
【!?】
「村正じーちゃーん!」
「なんだあ、奉先」
「今からガキども全員学校へぶち込みにいく。馬車、アスファルトだ」
「速度は」
「60」
「良いだろう、5分待ちな」
湯治から帰ってきたトバは、騒ぐガキを馬車と呼ぶのもおこがましいなにかに乗せて運ぶことに驚きを隠せない。
馬車? リヤカー? 故障した三輪車をそのまま改造し、運搬車として使ったことがあるため耐久性や運動性は申し分ない。ただ、見た目だけが悪いのだ。
トバが放心している最中、ちゃっちゃと作業が進んでいく。
蹄鉄を換装しハミを噛ませ、子どもたちと奉先が乗り込む。
「トバ。駆け足禁止な」
【!?】
「右前足と左後ろ足を同時に出し、左前足と右後ろ足を同時に出すんだ」
【???】
「坂道だから速度出されると、トランポリンのように吹っ飛んじまう」
【!】
トバが意識をもとに戻したときには、全ての準備が整ってしまっていた。
意識を戻したのは、奉先の掛け声だ。その一声で、混乱が頭の中を支配したが、
やることは早歩きとわかりすぐにその場で練習をする。
少なくとも山を下るし曲がり角もあるので、走ることはしないという事は理解できている。
手綱を引かれたトバは、きゃっきゃと騒ぐ子どもたちの事も考えゆっくりと歩き始める。牽引される馬車も軽々と動きだすことから、トバの競走馬としての力が強いことがわかるというもの。
引き馬でもいけるな、と牧場主は感心し仕事へ戻っていった。
牧場から学校まで結構な距離がある。
本来なら親が送るのだが、限界まで遊んでくったくたになった子どもたちが
次の日学校だと忘れ寝たがため、自分の家へ帰れなかった。
そこで必要な荷物と念の為持たされていた制服に着替え、
送迎しているという顛末だ。
本来ならアスファルトの上を走っちゃいけないのだが、走って足にダメージを
与えなければいけるんじゃねという精神で送り迎えをしている。
だから奉先はトバに22年前の繋駕速歩競走(けいがそくほきょうそう)のやり方を教えたのだ。
こうして町中へ降りていくと信号や一時停止の看板といった規則を守り、
子どもたちを無事に送り届けることができた。
しかし子どもたちの住まう町と学校は、笠松方面ではなく大井方面なので
わりかし都会だ。
道中車や電車・道行く人にガン見されていたが、別に牧場では普通のことなので
何も思わなかったりする。
なお、競馬系の新聞に、『町中を行くトーシバ号、奉先騎手とともに子どもを通学させる』という見出しが乗ったりして少し話題になった。
「うーん」
「どうしたの正一獣医師」
「な、なんかまずいことでもあったんすか!?」
「ああいや、別になんでもない。豊君に雄一君、今村正から新型蹄鉄について
ちょっち情報交換してたんだの」
「どういうこと?」
「アスファルト用に、衝撃を和らげる蹄鉄作らない?って」
「無理っすよ」
「無理でしょ」
「だよな~」
今まで怪我らしい怪我をしていないトバも、なにかあってからじゃまずい。
そこでこれからもずっと公道を利用する側として、動物たちの脚を守るものとしてどうすべきか考えるが、やはり歩様をどうにかするしかないという結論に至った。
本来なら行かせるなという話だが、そもそも自家用車なんてアスファルトの上しか走れない欠陥インフラをアテにすることはできない。
道があったとしても整備店やガソリンスタンドすら存在しない。
レッカーサービスもまだまだ未熟である。
そもそも彼らを歩かせるのは、買い出しの為なので深いことはあまり考えない。
ダイキやトバも、一種の訓練となっているしちょっとした放牧なので、
ストレス解消にはちょうどよかったりする。
「来週は米国で、ケンタッキーダービーだ」
「なあ馨。専属調教師として、どういう作戦で行くんだ?」
「作戦なんてモンない! ただ逃げて距離を稼ぐ。これしかできん」
「競馬に発展性がないな!?」
「トップスピードを稼げないんだ。しかし、体力はある。ラビットになって、
後続を焦らせれば勝ち星を拾える」
「いやいやいや、レース全体の流れが遅かったら意味がないだろう?」
「このまま逃げ切ると思わせれば良いのさ。今のトバに足りないのは速度じゃない。最大速まで達する加速だ」
レースの作戦は大体馬の調子がわかっている調教師や鞍上、
チーム戦を行いたい馬主が決めることが多い。
八百長が問題になったこともあるので、作戦決定は総意というところもあるだろう。
しかし馬も生物。その日によって調子が変化するし、客の大きな声や馬運車によって体調を崩す馬もいる。
だからレースの勝敗は馬を導く鞍上に全てがかかっていると言って良い。
当たるも八卦当たらぬも八卦の精神で挑んだほうが、案外緊張はないかもしれない。
そんなこんなで再び米国に降り立つ、獣医師・調教師の二人。
二人はケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズに赴き、
責任者といろいろやり取りし先にこちらへ来ている専属騎手と顔を合わせる。
「奉先、どうだ?」
「馨調教師に正一獣医師、今回はやばいのが多い」
「あの天才騎士くらいか?」
「ああ。量産型タッケーばかりだ」
「まじか」
「恒例のクリス・マッキャロンとゲイリー・スティーヴンス。
あと新進気鋭の新人、マイケル・アール・スミス。アメリカ板タッケーだ。
他にも、ラフィット・ピンケイ・ジュニア、ケント・ジェイソン・デソーモー、
ランディ・ロメロと粒ぞろいだ」
「ほぼ全員BCジョッキーじゃないか、なんてこった」
二人は奉先くんから伝えられる情報に青ざめるが、藁をもしゃもしゃしながら連れてこられたトバを見て心を落ち着かせることができた。
これから調練を行うのだそうだ。
また新進気鋭の新人であるマイクやゲイリー・スティーヴンス、クリス・マッキャロンと共に、次のレースに向けて調練を行なう事を約束している。
奉先くんはその好青年っぷりを発揮して、周囲の優秀な人達と親睦を深めあったのだった。
なお奉先くんはまだまだ英語の発展途上。
通訳係の人が違う馬にのって、奉先くんのちゃんとした意思疎通を手伝っている。