────黒い床の上で、目を覚ます。
視界の地平には一杯のコップがある。青緑色に濁った液体が入ったそれは、本日分の「食料」だ。これを飲まなければ、“彼”は外出さえ許されない。
「クソが……」
起き上がって分かるのはこの部屋の景色だ。
埃を被ったベッド、四方には学術本と小説が乱雑に敷き詰められた本棚、とっくの昔に機能を失った天井の照明、唯一現役といえるクローゼット。
寝台を使わず床で寝るのは、この頃の少年の習性だった。そこに安寧というイメージがないのだ。床で寝る方がずっと落ち着く。
「……はあぁ……」
一つ大きく息を吸い込んで覚悟を決め、コップを掴み取って喉に流し込む。
──瞬間。
「ゲホッ! げほっ、げほ、カハッ……ギイィィッ」
全身を熱が焼く。巨大な針が通り抜けるような痺れを一通り味わって、彼の目は覚める。
頭痛と、不快感と、チリチリと体の内側に走る痺れに苛まれながら。
「……──ッ」
手からコップが転がる。歯を食いしばりながら立ち上がる。大した相殺にはならないが、水が飲みたかった。
「──ヴァイス。薬は飲んだのかい?」
廊下に出ると、一人の男が声をかけてきた。
小太りで眼鏡をかけた地味な男だ。手にはペンとクリップボードを持っており、今日の「記録係」だとわかる。
ヴァイス、というのはこの家における少年の呼び名だった。綴りによっては悪徳や白を意味する音だ。彼本来の名前を知らないことはないだろうが、実験体として扱う以上、区別をつけるだけの意味さえあればいいのだろう。
「……まずかった」
「それで人間としての思考能力は残っているのか……薬を改良して一か月なのに。活動時間も以前とそう変わってないなぁ。中学生になっても平均点で収まってるのは面白くないけど……まぁ、妥当かな」
聞かずに少年は踵を返す。
と、後ろから肩を掴まれた途端、首筋になにかを叩きつけられた。針の痛みだ。
急に足から力が抜け、膝から崩れ落ちた彼はその場にうな垂れる。
「うっ……が……」
「いいかい? 妥当品といえど、君は貴重なサンプルなんだ。そりゃあ界域でのデータが欲しい時は送り込んだりするけどさ、犬死にはこっちも困るんだよ。死なないように僕らの役に立ってくれていればいいんだ。君の価値はきちんと研究の礎にするからね」
「離……せ……」
「薬が効いているだけだよ。おとなしく今日の実験を受けてくれ。なに、山場は二、三度くらいだ! 明日……いや明後日の朝には解放してあげるからさ」
後ろの襟首を掴まれ、そのまま少年は引きずられていく。
──狭窄していく視界の中。廊下にふと、人影が見えた。
『頑張れよ?』
少年に似た影法師は、ニヤリと笑っていた。
◆
視界には天井が映っていた。
見覚えのある、白い天井だ。
「────レ、」
「お目覚めかい、刈間くん?」
「ッ!?」
突然名前を呼ばれて首を右に動かす。そこには椅子に腰かけた学園長──神河アサギの姿があった。珍しくその手にはラノベではなく、薄型の携帯端末が握られている。
「俺は……」
上体を起こすと、自分が患者衣をまとっていることに気付く。やはりここは病院だったらしい──となると、今は界域で気絶した直後か。
「時系列的には、君がここに運び込まれて二日後という状況だよ」
……そんなに日数が経過しているのか。
呼吸しても痛みが走ることはもうない。撃たれたはずの傷も、いつかのように跡形もなかった。
「……レティはどこだ。俺たちが行った界域は」
「咲真ヶ原の界域はもう閉じたよ。現世回帰した。攻略完了、お見事だ。君はね、界域の入口付近に倒れていたんだよ。いや寝かされていたというのが正しいのかな──とにかく、それを見つけてくれた芒原くんにはお礼を言っとくといいよ」
「芒原が……?」
「担任教師だからね、彼は。界域のすぐ外で、ずーっと君たちを待っててくれたんだよ? で、ちょっと飲み物を買いに行ってた間に、気絶した君がいたと」
言いながら、学園長は携帯を忙しく操作している。なんかのゲームでもやってんのかというくらいの熱中っぷりだ。
「俺だけか? レスティアートは」
「大丈夫。どこにいるかは全力で捕捉し続けているよ。彼女が今、何をしているのかも、ね」
「何を……?」
何を。
ここにいないレティは、どこで何をしている?
「じゃあそろそろ君の方であった話を聞かせてくれるかな、刈間くん。そっちの話を統合すれば、よりはっきりと今の状況も判明するだろうし」
「……」
情報共有は急務だ。俺としても、レティの行方を知りたい。
それから俺は学園長に、界域であった出来事を説明した。初めから大まかな流れをかいつまんで、出くわした聖女や
「──なるほどね。『聖召機関』に『マリア年代紀』か。道理でこの大事変ってわけだ。いやはや、女神様の逆鱗はおっかないなぁ。けどその命知らずたちのお陰で、私たち現世側は、彼女に対して適切な対応の仕方というものを学べたわけだ。これは大きい成果だぞぉ」
「大事変……? おい、何が起きてんのかそろそろ教えろよ」
「そうだね……彼女の契約者たる君は知っておくべきだし、知っておかなくてはならないね」
真剣な口調だが、なおも携帯を操作し続けながら学園長は言った。
「刈間くんが発見されて後──というか直後。あちこちの界域が『消え』始めた」
率直に伝えられたその情報は。
一発で、それがレスティアートに大きく関わるものだと理解した。
「き……消えたって」
「消えた──この場合はつまり、『次々と界域が現世回帰し始めた』という意味だ。無差別な破壊ではないことは言っておくよ。まったく……本当にとんでもない大精霊だね、彼女は」
「……どのくらいの数の界域が?」
「1200」
せん──にひゃく。
千と二百。せんにひゃく?? 一、二、〇〇で──千二百?
「…………千二百って……」
「だがこの数も正確ってわけじゃない。現世に還った界域は加速度的に増え続けている。これはあくまでも観測局が観測できた限りの数だ」
「それ……全部レティがやってんのか。一人で」
「だろうね。そうとしか考えられないさ。けど、別に目につく界域全てを攻略しているわけではないようだよ。──おっと」
そこで初めて、学園長の携帯を操作する指が止まった。
「……あぁなるほど。やっぱりそういうことか」
「なんだよ」
「おおよその見当はついていたけど──証拠が出てきた。回帰された元界域には、例外なく教団の支部があったようだ」
「きょ……」
教団──マリア年代紀。
じゃあ、ってことはあいつ、一人であの組織を潰してるってことか!?
◆
天地を揺らす轟音。歓喜と恐怖の入り混じった叫び声が、その界域で起きていた事の全てだった。
廃教会から飛び出してきた者たちは四十数人ほど。その誰もが同じような暗い色のローブを着て、出てきた施設へと振り返り、立ち止まって待ち構える。
「……ハハ」
一人の男が、掠れた笑い声を零す。
男には、教団に属する敬虔な教徒だという自覚があった。故にこの非常事態に対しても、天から与えられた新たな試練、もとい、自分たちへようやく送られてきた恩恵なのだと信じていた。
「〈
──教会の入口が派手に吹き飛ばされ、直後、粉塵の中から黒い弾丸の雨が放たれてくる。
咄嗟に伏せた男は、周囲にいた他の者たちがその弾丸に撃たれて消滅するのを見た。
「おお……神よ」
これが新世紀。自分たちが追い求めていた、新たな神の御業。
旧きものは一掃されるというのなら、なるほど、自分たちのような者らも消されるのが世の定め。そう悟ると同時に、今の粛清を避けてしまった行為を恥じるが、しかし男は一目見たかった。
──神の姿を。
「おお、神よ! ようやく我らの前に現れてくださったのですね──」
狂喜のあまり叫んだ男は、そこで意識を奪われた。弾丸を受けたその姿は、虚空へ弾けたように完全消滅していく。
コツ、とそこへ足音がやってくる。
流れる白い髪。漆黒の軍服とドレスを合わせたような戦装束をまとう彼女の齢は十六歳ほど。右手にはその装備に相応しい、白亜の拳銃が握られていた。
その銃身が撃ちだす弾丸は、「破壊」の概念が込められた魔弾。触れれば魔獣であろうと人間だろうと末端から即消滅する、究極の処刑兵器だった。
──殺。
殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、ス、許サナイ 殺 殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺 決シテ 必ズ 許サレナイ 壊壊壊壊壊壊 彼を 傷ツケタ 誰が 私 全て 奴ら 壊す壊ス壊ス
彼女の脳裏に再生されるのは
岩の天蓋を突き破って舞い降りた彼女が見たのは、いつかのように、血だまりの中で倒れ伏していた恋人の姿だった。
“──ディア? ディ、ディア……あ、ああ、ああぁあ、なんで、なんで!? どうしてそんな怪我……!!”
どうしても何もない。
致命的に間に合わず、自分が遅れたからこその現状だ。──と、冷静な思考が告げてくる。
駆け寄った彼女はすぐさま彼の容態を確認した。
全身の霊力が淀んでいた。毒だ。彼に循環している破壊の霊力は、ただの毒素など打ち消すはずだが、これは普通の毒ではない──邪精霊による毒。循環している霊力をそのまま毒に変換する悪辣さを含んだ、呪いじみた侵蝕の毒である。
そのまま息絶えればまだ楽だったものを、今の彼の体には多少の回復力が備わっている。それによって生きている限り、再生の繰り返しによる激痛が苛んでいることだろう。
“ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい! 私がいたのに、私、け、契約せいれい、なのに、私、あなたを、守ることすら……!! ああ、ああああああああああああ!!”
彼女の流し込んだ霊力が、彼に回った毒素を上塗りするように
けれど、蓄積したダメージが重すぎた。彼の意識は戻らない。
“なんで……なんでディアがこんな目に遭わなきゃならないんですか……!?”
生きている──
“もうさんざん傷ついてるのに、ずっと耐えてきた人なのに! どうしてまだこんな酷いことができるんですか、ありえない……ッ!!”
生きている。生きている。彼が死ぬことはない。
取り乱す言葉とは裏腹に、思考は大丈夫だと言い聞かせるように繰り返す。
それは或いは、彼女の最後の防衛本能。冷静になれという、自身への警告だった。
だってなぜなら。
そのまま激情に囚われ、突き進んでしまえば──────
「……は。キリセに、なり替わる?」
ただ眠っている恋人を腕に。
彼の記憶を読み、彼の受けた仕打ちを知った彼女は、
「はは、はは、あはははは……そんな、そんな事のために? そんな思い上がりで? 何を言ってるんですかわからない。気持ち悪い……私の恋人を傷つけるに飽き足らず、人生を、存在を奪おうっていうんですか……? 私を愛しているから? 私のことが好きだから……??」
嫌悪と困惑。原因も現状も、全ては自分自身に帰結する。
それを知った彼女は。
知ってしまった彼女は。
「────ああ」
その感情を、抱くしかなくなった。
「滅びたければ、そう言えばよかったのに」
底無しの怒りと殺意が目を覚ます。
十年間、世界のために使い潰されてなお生まれなかった彼女のそれは、ただ一人の恋人に与えた理不尽に対する報復機構として起動した。
「初めての恋なのです」
かくして現在。
「私の初めての恋人で、初めて手に入れた
感情を乗せぬ、無情の声色。それは、どこまでも純粋に研ぎ澄まされた殺意で出来ている。
白き処刑人は、歩みを止めない。
「貴方たちの犯した罪は、私のディアに手を出したこと。ええ──八つ当たりだと罵って頂いて構いませんよ。英雄のなすべき所業でもないと。一方的な虐殺行為でしかないと。けど、それがなんだって言うんです? 泣き寝入りしろとでも言うんですか? 冗談じゃありませんよ」
ここで何もせず、ただ恋人の目覚めを待つことなど、できない。
報復できる力がある。恋人一人を守ることすらできなかった力なら、それ以外で振るう他にどんな使い道があるというのか。
これは殲滅だ。
愚かな人間たちが踏み込んでしまった禁忌、それに対する応報である。
「……嫌われるかもしれませんね。約束も破ってしまって」
それでも、想わずにはいられない。
立ち止まって瞑目した彼女が想うのは、ただ一人の恋人。
約束──どんな無茶にも必ず付き合わせると言った、約束。二人で行うという優しい誓い。
しかし彼は、きっとこのようなことを良しとしないだろう。人間の尺度において、これはあまりにも過剰な報復行為に過ぎる。
「ああ……でも、それもいいかもしれません。嫌がるあの人を縛り付けるなんて、ふふ。想像しただけで滾りますね? キリセはどうも、私が向ける想いを甘くみている節がありますし」
彼を傷つけた行為の代償、世界を無限に滅ぼしてもなお足りぬと知れ。
汚名、悪評を被る程度でこの愛を貫けるのなら、喜んでこの身を闇に浸そう。
「さぁ、次に滅ぼされたい方はどちらですか?」
──街中から叫喚しながら巨大な異形の影が顕現する。この空間の界域主だ。それと相対した破壊者は、口元に優美な笑みを浮かべた。
なに、そう時間はかからない。
何千年と続いてきた一つの宗教、一つの大組織を終わらせることなど──彼女にとって、平和を掴むための些事でしかないのだから。