レスティアートは記憶喪失中であった。
今の彼女の持つ最後の記憶は、戦地──界域で十年を過ごしていたこと。
そして近い内に、界域主に相当する敵と戦う……という半端なところで途切れていた。
レスティアートは皇族であった。元、がつくが。
現在、その体躯は十二歳程度の成長過程を表していた。本来の彼女は十六歳であり、体がこうして退化しているのは、精霊としての主要エネルギー……霊力を大きく消耗しているからだと推測できた。
そして現在、レスティアートは洗面所の鏡の前に立っていた。
時永市で“ダガシヤ”という老舗に寄り、この三千年後の現世で生み出された嗜好品を存分に堪能し、それから刈間斬世と共に、境黎市で現在住居としているというマンションに帰宅した。
家の中は、彼女からすればごく質素なものだった。
テーブル、キッチン、ソファに薄型テレビ、現代で生活する上で必要なものだけが置かれたようなリビングで、自分たち二人の仲を分かりやすく示すような──例えば写真のようなものは一枚もなかった。
しかし、
それには湯浴みの仕方や、料理に使う機器の使い方、洗濯のやり方からゴミ出しのことについてまで詳しく記載されていた。
筆跡は、刈間斬世のものだという。──本人に書いた記憶はないらしいが、そうだと証言していた。
もしや二人で生活する上で使っていたメモなのか、それとも今の自分たちのために残されたものなのかは、分からない。
……後者であった場合、多くの疑問が出るので考えにくいが……
ともあれ現在。
レスティアートは湯浴みをするべく、風呂場と隣り合う洗面所に立っていた。
そして服を脱いだところで、ある事実に気付いた。
とても重大な事実に。
(おっぱいがおっきくなってる……)
彼女の両手が触れているのは己の胸部。薄い。膨らみはあるが薄い膨らみだ。
だが、確実に──記憶にあった状態よりかは、確実に成長の兆しを見せている。
全体的な
微細な変化である。その道の専門家か、或いは自分自身でないと気付かないほどの変化。
鏡に映る彼女に表情はなかった。
無にして真顔。体の急変化という重大事実を前に、レスティアートは冷静さを保っていた。そも霊力不足で年齢が逆行しているので、体の一部の変化など気にするに値しない。本来であれば。
(ホルモン……遺伝子……性的接触の影響……?)
彼女の思考には、原因たりうるだろう単語群が流れていく。
ベース。完全体たる十六歳の自分の身に起きた変化。
ならば
となれば、やはり結論の文言は一つしかないのだ。
「……ふむ……」
一つ頷き、彼女はタオルを持って浴場へ向かう。
その間にも、思索は続く。
(この数か月間の私に、そういった成長を促すことがあった……? 一体なぜ? 霊力の補給法は、契約者から分け与えられる以外に、回復剤があるはず……まさか、前者の方法を好んで選択していたとでも……? この私が……?)
元皇女レスティアート、己が淑女であることを疑わない。
風呂場の扉を閉め、メモにあった手順を思い出しつつシャワーを浴びる。便利な時代になったものですね、と感心しながら。
(……いや、そんなハズは……そもそも彼だって、そういったことを好む人物には見えませんでしたし……というか、)
絶無。
あの青年の赤い眼には光がなかった。異性との触れ合いなんぞ眼中にない。我、刃であるべし。それを体現したような無機質性がある。冷たいだけの人物ではないと思うが……、
しかし同時に、特に自分を恐れてもいないようだった。
行き過ぎて子供扱いなのはいただけないが、過剰な恐れも敬いも侮りもなく、一人の人として見てくれる視線には心地よさがあった。彼の傍は、過ごしやすい。
(……仮に、元の私と彼が恋人関係であったのが事実として。……私、どうやって攻略したんでしょう……?)
あの堅物を正面から篭絡するのは骨が折れそうだ。自分に恋をするイメージもわかない。
洗髪剤を髪に馴染ませ、泡立たせる。水に濡れて髪は重い。長さも余計にある上、力加減を間違えると抜けた数本が指にからまる。面倒ですねー……という吐息がもれる。
「むーん……」
ざーっと泡を湯で洗い流し、次はリンスをつけていく。少しサラサラ度が上がった気がした。原理は分からないが、おおむね全体に行き渡ったところで再び髪を洗う。次は体の洗浄だ。
(そもそも、どうやって記憶を取り戻せば……私と彼の契約が密接であるのは確かですが、そこまでして……『私』は彼を助けたいと思ったんですか?)
疑問の答えは返ってこない。
それは、忘れてしまった「レスティアート」にしか分からない。
(あ、いえ……彼とは私の命で繋がっている以上、記憶を取り戻す手掛かりもそこに……? もしかしたら、少し衝撃を与えれば彼の方は思い出せるかもしれませんね……でも──)
髪の水分を絞って後ろに流し、手で泡立てたボディソープを全身に塗りたくっていく。初めて行う動作のはずなのに、やけに体には「慣れ」がある。
記憶には確か、手続き記憶というものがある。要は体が覚えている記憶だ。やはり、自分がここ数か月間を現代で過ごしていたのは間違いないようだ。
(彼の深層にアクセスするには、もっと近づかないと……それに私自身も記憶を呼び起こさなければいけませんし、となると一番効率的な接触方法は……──)
ピタリと、腕を洗っていたレスティアートの動きはそこで止まる。
合理的思考が行きついた結論に、思わず体ごと立ち止まらざるをえなかった。
(セッ……っていやいやいやいや!! それはあまりにも! あまりにも極論すぎるでしょう!? わ、わ、私と彼が……か、仮にそれを超えた関係だったとしても、あまりにも──!!)
身体の芯から顔まで熱が上がってくる。
どうしたことだろうか。淑女然とした思索を続けていたのに反し、合理性は結局そこへ行きついてしまった。もしかしたら自分の本性は、案外俗物的──
「~~!!」
シャワー蛇口のつまみを強くひねって、温水の激流で全身の泡を洗い流す。
少し冷静になるために。深く、息を吐き出していく。
「いえ……まぁ、別に全然気になってなんかいませんし。私が理性を保てばよいだけの話ですし……なんだったら、あちら側からアプローチがあるやもしれませんしね、ええ。その時は冷静に対応してあげましょう。閨の作法は分かっていますし……って違う! リードする側を想定しない!」
この後、レスティアート王女は冷水で疑似的な滝行に及んだ。
煩悩滅却である。
◆
正気じゃねぇな、と斬世は思っていた。
未来の自分が羨ましいような、別にそうでもないような、絶妙な嫌悪感だ。
この「現在」という未来を生きている、もう一人の自分。
それは恐らく、今の己とは相容れない存在だな、という確信だけはあった。
「…………なんで部屋に女子物の衣装がこんなに……裁縫入門? まさかあの幼女の服を作ってんのか……? 気持ち悪……」
彼は自室、と思しき部屋を漁っていた。
クローゼットを開けてあったのは、作りかけの衣装や、山と積まれたスケッチブック。開けてみれば、あのレスティアートをモデルとしたスケッチ絵や、服のアイデアラフなどがびっしり書き込まれていた。怖い。
(……? こっち、顔が描いてねぇな。こっちも。それになんか身長も高い……どういう状態のあいつだこれ?)
──知る由もない。
完全体の彼女の美貌を絵として書き留められる画力が不足していることに嘆いた本人が、ラフの状態でそれを放置していることなど。
(実家にいた頃より狂ってねぇか。俺はどうなっちまったんだよ……)
スケッチブックを仕舞い、クローゼットを閉じて封印しておく。
こんなことならエロ本とかが出てきた方がまだマシだった。なぜこんな恐怖体験をしなきゃならんのか。
「──ん?」
その時、ズボンポケットに入れていた携帯が振動した。誰かからの連絡かと画面を操作する。
──なお、アルバムなどのファイルデータにはパスワードが設定してあったので開けなかった。あのカスな天才に協力を仰げば開錠も容易だろうが、この部屋の惨状を見て、いくら未来の自分のものといえど、個人情報を奴に売り渡すのはためらわれる。今後の人権が危ない。
「──……なんだこれ」
画面に映ったのは、メールだった。
簡素なメッセージが、そこには一文。
『キッチンにある中央の引き出しを開けろ』
指示、だった。
……それは、この携帯から送られたメール。すなわち、過去の斬世自身から送信された指示書だ。
「……ッ、」
薄気味悪さを覚えながらも、足はキッチンに向かう。
中央の引き出し。アレだ、と当たりをつけて近寄った。
指をかけ、一気に引き出す。
開く。
「……あ?」
そこに入っていたのは一枚のメモ紙。
リビングのテーブルにあったものと同じだ。だがそこに書かれていたのは、こんな一文だった。
〈よおクソガキ、お前の隣にいるのは世界一の美少女だ。絶対に手ェ出すんじゃねぇぞ〉
「……なんだこれ」
己の筆跡。自分にしか読めないような雑な文字。
美少女……というのは、あのレスティアートという幼女精霊のことだろう。あんな子供に、わざわざ「手を出すな」という注意喚起。意図がよく分からない。
──だが。
「いや……まるで俺たちがこうなると分かっていたような……」
引っかかったのはその部分だ。
テーブルにあったメモ書き。そして先のメールと、この引き出しのメモ。
どちらも過去の斬世──記憶喪失前の斬世からもたらされたものだ。そこから読み取れる事実は、「自分たちが記憶喪失になるのを知っていた」こと。
──その理由、原因を今の彼は知り得ない。
記憶は白紙で、あのいたいけな精霊を異性として見るような視点もない。恋人というより、保護者のような感覚が近いだろう。
「とことん自分を信用してないのか、俺は……言われなくても出さねぇよ……」
この釘の刺しようには呆れる他ない。
はあ、と無駄に警戒したことを後悔した時だった。
『す、すみません!』
「!?」
突如として頭に響き渡る幼女の声。
反射的に周囲を確認する斬世だが、そこに白い影はない。
「お、お前、どこから──」
『あ、念話という精霊士の特有能力です! ではなくてですね、あの、ちょっと……き、着替えを出すのを忘れたので、置いてってくださいませんか!!』
「──、────」
女子の着替えを用意する。
いくら今の彼でも、そのハードルの高さを知らないほど思春期やってなかった。
「…………俺はリビングから出ないから自分で取ってこい。廊下濡らしていいから」
『あっ、あわっ、そうですか! お気遣いありがとうございます……!』
幼女の声はそこまでだった。恐るべき声であった。
はあぁ、とその場にへたり込みそうになるのを堪えつつも、そこで斬世は脱力する。
「……どうやって住んでたんだよ、俺は……!」
ともあれ危機は凌いだ。
後で廊下に雑巾がけするだけで回避できるイベントだ、何のことはな、
「──あのっ! なんか私の部屋の方に下着、ないんですけど!! そちらのお部屋、探してもいいですかッ!?」
ガタンッ! という音がした。
急にリビングの扉が開いたのだ。その音で咄嗟に斬世の目はそちらを向いた。
いたのは幼女だった。髪を濡らして、体は表をタオル一枚で隠しただけの格好だ。肝心なところは隠せているが、そういう問題じゃなかった。
というか隠せていない箇所は丸見えだった。
やけに細い太ももとか腹の側面とか鎖骨とか腕とか脇とか、肌色すぎる情報量で目撃者の脳は一瞬フリーズする。
「かッ……は、入ってくんな馬鹿ッッ!! 探してやるからあっち行ってろバカ!!」
「ばっ!? な、なんですか! 緊急事態なんですよこっちは!」
「現在進行形のお前だッ!! 隠してるつもりかギリギリだぞ!!」
「そそそそっちが変に意識してるだけでしょう!? 私のカラダに興味おありですかえっちですね!?」
「もうそれでいいから引っ込んでろぉ──!!」
叫びながら斬世は思う。
今まで受けてきたどんな実験よりも災難だ、と。