そして、数年後。
事件は起きた。
「ちょっと、買い出し行ってくる」
立て掛けてあるカーキ色のレインコートを羽織り、父は言った。
「え、でも」
「行っとかなきゃなんないだろ。こんくらいの雨なら平気だろ」
店の中にいても分かる雨音。大粒の雨はコンクリの道路を激しく打ち付け、強風が家鳴りを起こしている。久方ぶりの豪雨だ。雨は昼前くらいから突然降り始めて、お客さんも帰る時は辟易した表情を見せていた。天気予報では一日中晴れ、晴れなくとも曇天程度だと言っていたのだが、あてにならない。
「せめて車で」
「あれはこの前修理に出したからな、だめだめ。んじゃ、そんじゃ」
そして豪雨の中、父は店を後にした。
一気に、店内は静けさを取り戻す。
私以外誰ひとりとしていない店内。聴こえてくる環境音は雨とテレビからの音声くらい。テレビでやっているのは去年放送されたトーク番組の再放送で、人気のMCがアイドルを茶化して笑いを取っていた。拍手笑いの後付け音声が店内に響いていた。
その笑い声がなんだか耳について、テレビを消した。
音は雨だけになった。
「お、お邪魔します!!」
すると乱暴に扉が開かれ、お客さんが一人、店の中へ押入ってきた。
「い、いらっしゃい……」
それは愛姫だった。
衣服を雨で濡らし、髪はひどく乱れさせ、ぜえぜえと息を切らして、ただ事ではないといった様子を見せていた。私は急いで駆け寄る。
「ど、どうしたんだ」
「あ、あのね! えっと…こ、これ…これ」
愛姫は自らの身体を指さし、何かをアピールする。まるで舌足らずな子供が自分の言わんとすることをジェスチャーで示すような、要領を得ない回答だった。
「服?」
「ち、ちが、もっと下」
「下…スカート…」
「そう! そ、それをあべこべに」
「あべこべ…? カースト…ストーカ……ストーカー…」
私はハッとして、愛姫を見る。
「
右手を天高く突き上げ、愛姫は無邪気に声を上げた。けれど、その声はわずかに震えていて、よく見ると、指先も小刻みにビクビクと痙攣させていた。これは寒さによる震えではない。
不安が明滅する顔を、私は真っ直ぐと見つめ
「…とにかく座って。珈琲でも淹れる」
と、彼女をカウンター席へ促した。
「はい、いつもの」
「ありがと」
淹れたばかりの珈琲を愛姫の前に優しく置いた。
「ふー…あったかい…。ここの珈琲はやっぱり落ち着くなあ…」
渡したタオルを頭にかぶり、愛姫はカップで暖を取っていた。ホッと息をついているようだった。さっきより震えは収まったようで、こっちもホッとする。
「そういや久しぶりだな、こうして会うのも」
私は彼女の隣に座った。
「そうだねー。3ヶ月ぶりくらいかなあ」
「いや、半年以上だ。高校卒業してからになるから」
「あ、ああ、そうだったね。もうそんなに経ってるかー」
「早いもんだ。すぐに年もとるだろうな…」
「確かに。なんだか最上のおじさんに似てきたもんね、アキトシ君も」
「げ。それは悲報だな」
「ちょっとそれひどくない?」
「そうかな…そうかも」
「あはは…」
他愛のない世間話を交わしていく。そんな内に、彼女の語気から
「………今日ね」
そして、独りごつようにポツリと話し始めた。真剣な表情を持って、私は耳を傾ける。
「今日、雑誌の取材があったんだ。軽い取材だったし、この後は何の予定もなかったから、たまたま早く終わったの。それで帰ろうと思った矢先、なんだか後ろから付けられてる気配がしてね…それも、事務所からずっと。ストーカーだと思って、怖くなって、走って、撒いて、急いでここに入ってきたの」
うつむき様に語り続ける姿を見て、本当に怖い思いをしたのだと改めて感じた。そして同時に、怒りも覚えた。有名人だからといって、何でもして言い訳などない。これも有名税の一種なのだとしたら、徴収が過剰すぎる。許せない。
「でも、でもね。あたし、嬉しかった」
愛姫は顔を上げた。
「え……マゾ?」
「違うよ! そうじゃなくてね。あたし、一心不乱に走ってて、不安で、雨の中、びしょびしょになって、でも店の明かりがふと見えた時、あ、もう心配ないや…って思った。もう大丈夫だって。心が解ける気持ちだったの」
話している内に、身体から緊張がとれていったのか、和らかな笑顔を向けた。
「いつもこの珈琲に安心させられた、やっぱり、ここに来ると…」
立ち上る珈琲の湯気を目で追いながら、愛姫はしみじみと言った。
「あたし、最近は全然来れてなかったから」
「全国ツアーだっけ」
「そ。もう大変だったよー。激務すぎた」
「みたいだな。この前読んだネット記事で、大変だって言ってたもんな」
「あー、あれね。読んでくれたんだ。コング・ヌーさんとの対談の」
コング・ヌーは今を輝く、4人組ロックバンドのことだ。若者はみな聴いたことがあり、紅白にも出たことがある。とても有名なミュージシャンだ。
「色々とためになるお話聞かせて貰ったなー」
「そうか、良かった…な」
「曲の作り方とかパフォーマンスとか、他にはね──」
そうして、愛姫は嬉々として聞かせてくれた。ミュージシャンとの対談。バラエティでの有名タレントとの出来事。コンサートでの演奏。彼女の口から出てくるのは、一介の喫茶店店主には縁もゆかりも無いものばかりだった。私は彼女の横で大人しく聞いていたが、つい、ぽろりと呟いた。
「ホント……遠い世界に行っちまったなぁ」
あ。
やらかした。
「…え」
そんなつもりはなかったのに、つい、口を滑らしてしまった。以前彼女を怒らせたことがある、前科一犯の一言。
私は何か言い訳を考えようとしたが、時すでに遅しだった。口走った後、彼女の表情は瞬く間に変わっていた。驚きと怒りを含有させた、そんな表情だった。
「…………………やっぱり」
すっと席を立ち上がると、愛姫は早々に店から出ていった。
私もすぐ席から離れ、狼狽えつつ、急いで彼女の後を追いかけた。
店の扉を開けると、案の定、外は豪雨真っただ中。前すら見えなくて、彼女がどこに行ったのかわからない。キョロキョロとあたりを見回す。すると、降りしきる雨の中、人影が一つ、なんとか彼女の姿を捉えられた。私はその方向に駆け出す。傘もささず。一目散に。
『……遠くなったなあ』
中学一年の秋。放課後。私は愛姫にそう言ったことがあった。
『え?』
彼女は幼い頃から、可愛がられていた。友達。親。先生。子供から大人まで、彼女を嫌いと言う人は一人もいなかったと思う。それが当たり前だった。当たり前が故、私も気にしていなかった。あいつはよく褒められるなあ、その程度の認識しかなかった。
でも、年を経るにつれ、それが当然ではないと知った。いつも周りに人を集め、注目の的で、人気者。それは誰にでも与えられる特性ではなかった。その稀有な才能は、中学で特に顕著になった。
そのことを知ると、私はなんだか彼女との距離が遠くなった気がした。
だから、つい口に出してしまった。放課後、世間話をするように軽い気持ちで。
すると、彼女はムッとした顔を見せて
『遠くないもん!』
と声を荒げて、私を置いてさっさと帰ってしまった。彼女の怒った姿なんて初めて見たもので、私はぽかんと口を空けることしかできなかった。
そして以降、私はそれを言うことも、思うこともしなくなった。筈だったのに。
「待てって!」
なんとか追いつくことができ、愛姫の手を掴んで動きを止めた。手は雨で濡れて、滑りが効いていた。
「もう帰るの!」
「は、話を聞けって! さっきの言葉に他意はないんだ!」
「タイってなに!? 急になんで国の話を!」
「そ、そうじゃなくて! 遠いところにいったとか、言ったろ…!」
「あたし、遠くになんて行ってないもん! 近くにいるもん!」
「それは言葉の綾で!」
「アヤって誰よ!」
「人の名前じゃない! だ、だからさぁ!」
他人の言っていることを聞かず、お互い自分の言い分をぶつけるだけ。どこかズレてるけれども、これでは話にならない。
「落ち着け!!」
私の声に、愛姫は肩をビクリと震わせる。そして、俯き、黙り混んでしまった。
「…ごめん、大声出して」
「ううん」
「もう落ち着いた?」
「ううん」
彼女は不服そうな様子で首をふった。
「まだ怒ってるか」
「うん。怒ってる。アキトシ君はなんで、あたしと距離を取りたがるの…?」
「距離なんか取ってるつもりは…」
「つもりはなくても、取ってるんだよ。ずっと、昔から。だから…一度もライブすら観に来てくれないんだもんね!」
「いや、そ、それは………」
反論しようとしたが、うまく出てこなかった。言葉に詰まってしまう。
「ほらね」
今度は私が俯き、黙りこくった。反論が見つからなかった。見つかる筈が無かった。
「…かもしれない」
雨が打ち付けるアスファルトを、空漠とした思いで、ただ眺めていると、自然と言葉になっていた。
「かもしれない…ではない。認めるよ。私は、イツキとは相容れないんだよ」
「…そうなんだ」
愛姫は唇をキュッと結んだ。雨粒が顔に滴り落ち、涙ぐんでいるように見えた。私は心苦しくなり、目をそらした。
「な…っなんで…そんなに、あたしのことが嫌いなの?」
「嫌いとは…そうじゃなくて、イツキと私は違うんだよ」
「ち、違う?」
「イツキはいつも人気者で、いつもアイドルだった。周りを楽しませて、笑顔にさせて、幸せにする。普通の人には持ち得ない、そんなギフテッドを持っていた。そりゃあ遠いだろ。違うだろ。私とイツキでは距離があって当然だ。太陽と月、紅茶と珈琲……水と油みたいな、上手く言えてないけど、そんな交わらないものなんだ。でも、悪い意味じゃない。それだけは分かってくれないか?」
優しく諭すように、私は言った。
「いや、分かんないけど」
「えぇ…」
しかし彼女からは普通に、真顔で返された。
「ま、そうだね。あたしは昔から可愛かったし、すぐ周りに人も集まってくるしね、これがカリスマっていうのかな、ふふん」
「それ感じ悪いぞ…」
「はっ! だから、アキトシ君はあたしから遠ざかってんでしょ。さっき言ってたじゃん。まだ腑に落ちてないよ、あたしは、アキトシ君自身の気持ちに」
「わ、私自身…?」
私は目を見開き、私を指差した。愛姫はこくりと頷く。
「距離感の理由は分かったよ。けど、アキトシ君はどう思ってるの?」
「だから…アイドルと一般人なんだから」
「一般論じゃなくて、個人的な話だよ! あたしは距離感を感じても、どれだけ遠い存在だとしても、いつもあの頃と変わらず店で喋ってたいよ? 傍にいたいよ?」
そう言い、愛姫は私の手を握った。彼女の手は思いの外温かくて、身体が雨に晒されていることすら忘れてしまいそうだった。
「というか、何が交わらないだっ! 月は太陽がいないと輝けないし、水と油がないとマヨネーズも作れないんだよ! そもそも、珈琲も紅茶もあたしはどっちも好きだから!!」
「何の話だよ…」
「あたしはこう思ってるってことだよ!」
私自身の思い。私自身が愛姫との関係をどう思っているのか。
そんなこと考えたことなかった。
「…私は」
「なにしてんだ、お前ら?」
すると見覚えのある人物が、雨の中、目の前に現れた。それは父、最上義守の姿だった。父はレインコートに身を包み、片手に段ボールを抱えていた。どうやら買い出しの帰りのようだ。
「あ、最上のおじさん」
「おいおい二人とも、なんでこんなところで」
「えーっと…それはですねぇ…クシュン!」
父が目を丸くしていると、私の横で愛姫が盛大にくしゃみを出した。顔は鼻水でまみれ、アイドルとは思えない姿を見せてしまっていた。
「あらら! とりあえずお前ら店に入れって、珈琲でも淹れてやらあ」
父に誘導されるがまま、私と愛姫は店にまた入っていった。
まだ雨はとめどなく降っていた。ザーザーと音がしていた。
だから、聞こえなかった。考えすら及ばなかったんだ。
シャッターの音なんて。