この国では最近、新しい法律ができた。
魔法少女を攻撃してはならない。
魔法少女に性欲を向けてはならない。
市民は魔法少女の要求を受け入れなくてはならない。
これらは全て魔法少女から人間を守る法である。
しかし、最早法律は人を縛る力を持ち合わせていなかった。
「おめでとうございます! そちらの金髪のあなた、栄養に選ばれたので共に来てください」
どこかの民家。
淫魔に脅かされるこの国では、生涯平凡に暮らせる人間は殆どいない。大半は淫魔の被害を直接、或いは間接的に受けるものだ。
魔法少女はそんな淫魔から市民を守る正義のヒーローとして活動している存在。
基本的に政府が関わる機関に所属しており、実質的に国家存続の鍵として機能している。
そのような立場にあるのだから、彼女達の要求は大体叶えられる。
「え、栄養……? オレが……?」
たとえ市民の人権を無視する要求であっても。
「光栄なことですよ。喜ぶ方も多いくらいで」
「ふざけないで!」
隣にいた、栄養として選ばれた男性の妹が声を荒げる。
そして目の前の存在が魔法少女であると認識しながらも首元を掴んだ。
「あんたは二年前、私の彼氏をそう言って連れて行ったよね? その憎い顔を忘れた日は無かったわ」
「大体の栄養は数週間で返しているというのに……ああ、先に手を付けられたのが嫌だったとか? でも仕方ないですよね。魅力が無かったのですから」
「こいつっ! あのあと彼は衰弱して死んだのよ! あんたに生命力を奪われ続けたから──ッ!」
魔法少女とは言え、背丈はまだかなり幼く見える。
こんな子供なら……そう考えた瞬間、怒っていた少女の全身に鋭い切り傷ができ、鮮血が流れた。特に顔の傷は痛々しい。
隣で見ていた兄は絶句して何も言えないでいる。
「いっ──いやああああ!! 痛い痛い痛いっ!」
「おや、偶々風が吹いたみたいです。それではお兄さんはこちらに来ていただけますか?」
こういった出来事は特に珍しくもない。
淫魔の支配を逃れた市民達は、魔法少女によって支配されていた。
*◆*
「──とまあ、こんな感じの世の中になってんの。今」
暗い部屋。映し出された映像は、全て魔法少女達による横暴を示している。
ボクにはそんなのどうでもいい。それよりずっと気になることがあるから。
「だから全員殺してきて! 我が最高傑作……
「は?」
"先生"はいつも意味不明だけど、今日は一段と飛んでいる。
そもそもボクは普通の人間。淫魔も
「戯言はどうでもいいんです。それよりこの身体について説明してくれませんか?」
「それはまぁ魂を抜き出して色々と……あっ元の肉体は時間を止めて保存してるから安心ね」
「違いますよ! なんでボクが女の子の身体になってるんですか!!」
腰辺りまで伸びている、若干橙のかかった金髪は太陽のように力強く。
燃えるような紅い瞳に細く華奢な腕と足。
未成熟ながらも女子だとわかる胸や体つき。
こんなハイレベルな女の子が鏡に映っているのだから驚いた。
やっぱりボクが中身なのが肉体にちょっとだけ悪いかなと思う。でもボクだって被害者だし許される筈。
「簡潔に言うとその姿で"機関"に入るの。で、その力を持って淫魔と魔法少女を根絶させる。簡単じゃん」
「本当にそう思ってます? 思えるなら馬鹿で、思ってないなら相当の馬鹿ですけど」
「……本音はさ、全部どうだっていいよ。望奈君がどっちに味方してもね。私の最高傑作が最強だって証明したいだけ」
今の社会を守りたいか? と問われれば絶対に違う。けれど淫魔に飼われる未来よりは今の方がマシ……だと思う。
ボクは先生という権力ある人に拾われたから快適な生活を送れたけど、一般市民の人達は不満が溜まる一方。
それを魔法少女の力で強引に抑え込んでるのが今の世の中だ。
「でもボクは何をしたいとも思わない。今すぐ自殺……は流石に嫌ですよ? でも欲望がありません」
先生は何かを手に持ち、ボクに向かって投げる。
掴んだそれはチョーカーらしき首につけるアクセサリー。とてつもないパワーを放っているように感じるのは気のせいではないと思う。
「それを首に付けて魔力を込めると変身できるよ。欲望だってきっと見つけられるから!」
だから……と先生が何か言おうとした瞬間、空間が割れた。
戸惑うボクを置いて先生は光へと消えていく。
「あーもう、やっぱ時間切れじゃん。じゃあまた近いうちに会おうねー」
「はぁ……こういうパターンか」
ここに来た時からボクは不思議に思っていた。妙に質素で必要最低限の家具すら置かれていないこの部屋は明らかに何かある。
先生はミニマリストじゃない。よって普段使わない部屋か、或いはもう不要になったのか、それとも……。
今にして思うと全部だったのかな。
ボクは当初、これから壊れるのを想定したからだと思っていて。
「とりあえずキミを殺せばいいの? 隠れてる淫魔さん」
「あらら見つかっちゃった。でも女は栄養価低いのよねー」
胸部と腹部、更に脚部を見せつける卑猥な姿の女が影を食い破るように現れる。
知識では知っていた。人の性欲を啜る怪物……その姿は人間の少女に酷似しており、非常に美しい顔立ちをしていると。
そのような姿で誘惑されるものだから、世の中の男は瞬く間に貪られてしまった。加えて性別すら超える何かがあるのか、強力なものは女すらも魅了されてしまうという。
ボクも最初は鼻で笑っていた。頭で理解しているのに性欲を優先するのか──そんな思考を心のどこかに隠していた。
「……!」
でも今なら理解できる。
見ているだけで心を奪われるような──精神が深く堕ちる何かが、目の前の存在にはある。古代の人はこの感覚を"魅力"と名づけたのかもしれない。
「ふふ……色々とカワイイ反応ね。あなたのようなスケべで弱いメスは好きよ」
「……あっ」
接近されても抗えない。この淫魔から目を離せない。
「安心して? あたしは偏食家じゃない。たっぷりとそのカラダ、いじめてあげるわ」
頬を触られ、淫魔のキスが迫る。
違う────違う。こんなのが、こんなものがボクじゃないんだ。淫魔に魅了されるような奴は呼吸もできない生存困難者。
ボクは欲望を持たない存在として生まれた。
頭を強く動かし、淫魔の顔面に頭突きがクリティカルヒット。
いくら力の差があろうと油断していた所への一撃は、ボクが逃走するには充分な程怯ませた。
「ぶっ!? こ、このっ」
「あー……危なかった。そんな上から目線じゃ誰も懐いてくれないよ?」
何か言いかけた淫魔を無視して全力逃走。
幸いにもボクは相当素早いタイプの人間だ。このまま街中へと逃げれば追って来れないだろう。
それにしても、ボクにあんな感情があるなんて。
この体になったのが原因なのかな。……いや、ボクの魂が欲望を持たないんだ。淫魔に何かしらの超能力があると考えるのが妥当。
でも恐らく無敵じゃない。完全に完璧な能力であればボクは既に……。
様々な思考を巡らせつつ、ボクは街中へと駆け込んでいく。握りしめたアイテムのことをあえて考えないようにしながら。
先生から貰ったこのチョーカー。何か嫌な予感がして使わなかった。
これを使えばボクがボクでなくなるような気がして。
*◆*
淫魔と魔法少女の最前線である都市、輝喪戸市。
この街の中心部に存在する"中央電波塔スサノオ"は魔法少女達の拠点として、または淫魔が狙う最大のホットスポットとして機能していた。
あの電波塔に淫魔が欲する何かがある……そんな噂が一般市民にも広まる程度には。
故に世界屈指の危険地域として知られており、政府も重点的に守りを固めている。
ここに住む魔法少女はこの国で最も優秀な少女達。
しかし……いや、だからこそと言うべきか。住民と魔法少女は決して埋まらない溝があった。
「ふー、これからどうしようかな」
人通りの多い繁華街へと逃げ込んだボクは久しぶりに街中を歩いていた。
知っての通りこの街の魔法少女はとても優秀。あの淫魔もそれを理解しているから全力で魔力を放出できないし、ここまで追って来ることもない。
「先生は殺せって言ってたけど」
手に持ったチョーカーを見る。
もし、ボクが魔法少女に変身すれば──さっきの淫魔を余裕で殺せるのかもしれない。きっと魔法少女だって。
でも殺したいのかは別だ。先生は恐らくボクを誰かと戦わせたいだけなのだろう。
都合よく強者がいるから魔法少女を殺せと言った。都合よく殺しても社会的に咎められないから淫魔を殺せと言った。
先生の言葉に意味はない。少なくとも、さっきのはそう思う。
「おーい! そこのお嬢さん!」
「……? ボクのことですか?」
「そうだよ。周りは誰もいないだろう?」
突然男の人に声をかけられた。言われてみれば確かに人通りが少ない……というより通行人が誰もいない。
今が朝だからこんなものかと思っていたけど、もしかしたら避難指示でも出ているのかな。
「この先に行くのはおすすめしないぞ。音が消えてるからな」
返事を返そうとして、思わず固まる。
「ど、どういうことですか?」
「フヨウって魔法少女が寝てるんだよ。あいつが安眠のため、魔法で周囲の音を消しやがった。……ムカつくだろうが我慢するしかないさ」
いまいち現実味がない話だけど、この人が嘘をついているようには見えない。一先ず信用することに決めた。
「つーかその反応、君別の街から来たの? 色々と教えてあげるからホテルでも行かない?」
……信用しない方が良かったかな。
そして今のボクの肉体はとてつもなく美しい女の子だが、残念ながら中身は女の子じゃない。
個人的な感情では美味しい思いをさせてあげたい。でも真実を知ればこの人は一生後悔する。だから無理。
「あー……ボクはやめた方が」
「じゃあ私にしませんか?」
不意の乱入。その人の気配は感じられず、静寂が一瞬場を包む。
まるで最初からそこにいたかのような。
大気中に空気が存在するのと同じくらい、不自然な程の自然さを持った女の子。
今まで話していた男の人はこの子を知っているみたいだ。
「ひっ、ま、魔法少女ヴァリゼ……」
ヴァリゼ。その名前には聞き覚えがある。
さっき先生に見せられた映像に出てきた魔法少女だ。
「是非私とホテルに行きましょうよ! 今の時間帯だとー、あいつの寝床をホテルにするのも面白そうですね!」
ボクを無視して近づいてくるヴァリゼから守るように前へ出る。
「栄養がどうとか言ってた子? こんな子供が」
「何ですか? 邪魔するのはおすすめしませんけど」
鋭い殺気。先生から言われた通りこの子を殺せるかどうか──うん、確実に不可能。
変身しなければ何もできない。でもこのチョーカーには何か嫌な予感がする。
そうしてボクが悩んでいると、意外にもヴァリゼの方が殺気を引っ込めた。
「もー! 引いてあげますよ。おやつ程度のつもりだったのに、割に合いません!」
「おやつ……?」
「今時未登録なんて希少ですよ希少。面倒な方が来ると思うので頑張ってくださいねー」
ヴァリゼは霧散した。比喩じゃない。本当に液体が蒸発するように、或いは靄が晴れるように。
何やら意味深な言葉を残していったけど……これはボクが変身アイテムを持っていることに気づいたのか。
「大丈夫ですか?」
「あっ、ああ。助かったよ。さっきの魔法少女……ヴァリゼはこの街でも一番危険なヤツだ。噂だと男を食い荒らしては生命力を吸収しているとか」
先生もそんなことを言ってたっけ。
魔法少女はすぐ自分の力を私利私欲に使う。たとえ優しい人であっても、一般市民に迷惑をかけても気にしない性格へ変貌してしまうと。
「命あっての欲望だ、今日は帰るとするよ。お嬢さんも気をつけてな」
「ん、どうも」
*◆*
淫魔と魔法少女。
その両方に遭遇したボクからすれば、両方とも同じに見えた。ただ欲望に従って動いているだけ。最も愚かで最も楽しい生き方。
違うのは先天的なバケモノか、後天的なバケモノか。
むしろ人間であった時期がある分魔法少女の方が悪質で醜い存在に思えるかもしれない。
現在は中心部から少し離れた公園のベンチで休んでいる。
今後の身の振り方を考えないと。先生から機関に入るよう言われているけど────。
人じゃない気配がする。
思考を中断し警戒態勢へ。あの時の淫魔がしつこく追いかけてきたのか。もし淫魔なら一般人のフリをして魔法少女に守ってもらうのが賢明。
しかし、その心配は杞憂に終わった。
「あ、あのっ。それを渡してもらえないでしょうか!」
一人の少女がボクの方へ駆け寄って来た。
黒髪を白と青のリボンで結んだポニーテールに、同じく白と青が基調の大人しめの服装と、かなり普通の女の子に見える。
でもボクには人でないとわかる。放つ気質が人のそれとは明確に違うから。
「……?」
「えっと、私は対淫魔用魔法少女運営機関に所属している
そう言えばそんな長い名前だったか。普段はみんな機関としか言わないから正式名称にされると逆に迷う。
「あなたがお持ちのそれはラストチョーカーと言って、非常に危険なものです。そんなもの、持ってても良いことなんて何も……だから渡してくれませんか?」
「持ってる人に言われても渡す気にはなれないかな」
ボクの言葉を聞いて、目に見えるくらい狼狽えたのはちょっと面白かった。
この子は真面目そう。心理も演技も最低レベル……故にヴァリゼよりは信用できる。
「っ、それは」
「魔法少女なんでしょ? わかりますよ。ま、ボクは一度も使用していないので安心してください」
こういう時は弱気になってはいけない。先生からも口酸っぱく言われた記憶がある。
あくまでもこちらが強く、有利な立場だと相手を威嚇するのが基本。相手の言葉に驚いたり、ホッとしたり……感情を乱されるのは弱者の側。
情報が多いのは向こうだけど、主導権を握っているのはボクの筈だ。
「良かった……です。まだ変身してないんですね」
「変身すれば何か問題が?」
少しだけ場は静寂に包まれる。
どうやら言っていいのかどうか迷っているらしい。燐道悠胡……この子は"使える"。
「何かあるなら教えてくれません? ボクだって嫌な目に会いたくない。無視できないデメリットがあるのなら大人しく手放そうと思います」
一押し。相手に可能性を与え、持っている札を消費させるテクニック。
コミュニケーションが戦争なら情報は武器。それを軽々しく話してしまうのは愚かな選択だと言える。しかし、情報を与えれば従順になると考えれば悪くない選択だ。
重い口を悠胡は開く。
「魔法少女の能力は淫魔由来の能力。変身を続けるのなら、やがて淫魔化してしまいます」
……ああ。この嫌な雰囲気ってそういうことだったんだ。
思ってたのとは違うかな。
「思ってたよりもずっと普通ですね。別にいいんじゃないです?」
「……理由を聞いても?」
「人の心さえ失わなければ、その人はいつまでも人間だと思うので。それに──」
続きは出なかった。
悠胡が一気に笑顔になり、ボクの手を握ってぶんぶんと振る。形式ばった雰囲気も総崩れ。
「うん、うん! 私もそう思う! あなた良い人ー!」
何がそんなに嬉しいのかわからない。自分で言って何だけど、どちらかと言えば陳腐な綺麗事の類なのに。
悠胡は人間に特別な拘りがあるのかな。
「あっ……ごめんなさい。仕事柄、どうしても嫌われやすいのでつい。嫌になっちゃいますよ。必死に市民を守っても、同質の力を持つ怪物として扱われたりとか」
「そんなに嫌ならキミも辞めたら?」
「あはは。そう言われたら反論できないですね。でも、私は私のような人を少しでも減らせたらなって。だから戦ってるんです」
「意外。魔法少女ってもっと、欲望のままに生きてるんだと思ってました」
むしろそういう人の方が多いから市民からの評判が悪いのは知っていた。
でも、少しだけ認識を改めよう。
魔法少女にはいい人もいる。
ボクが話そうとした瞬間、不意に悠胡の顔が一気に強張った。
「……! 近くに淫魔が現れたみたいです。ラストチョーカーの回収は後で行うので、できるだけ人気の多い場所へ逃げてください!」
そう言い残し走り去っていく。……ボクが素直に避難すると思ったのだろうか?
魔法少女と淫魔の戦闘を生で見る数少ない機会だ。
本来ならこんな軽い気持ちで行くべきじゃないかもしれない。でも、これでいい。先生の命令もあるから。
*◆*
逃げ惑う市民の悲鳴と怒号の中、ボクは目的の気配を感じ取った。
人間じゃない気配は大体わかる。もしこれを見分けられないのなら、人間の気配を区別するなんて到底不可能だから。
「こんな人通りの多い所で……何が目的なんですか」
「釣り、とでも言うべきかしら? ゴミも釣れちゃったのは不本意だけど、本命も一緒だから結果的には成功ね」
淫魔の魅了は基本的に一人、もしくは少人数を対象に行われるらしい。
確か人数が増えるに連れ魅了の効果が薄くなっていき、五人以上になるとうまく魅了できないんだとか。
故に人が集まる場所に出現するのは稀。淫魔からすれば餌に逃げられやすいのに加えて、魔法少女の到着が早いから。
なのにこんな場所に出現したのは何故か。
ボクの見立てでは恐らく大きな騒ぎを起こしたいからで──あ、よく見るとさっきボクを魅了しようとした淫魔じゃん。
「そこにいるんでしょう? 今出てくるならもう一度だけ優しくしてあげてもいいのよ」
「……? 誰に言って……え!? な、なんでついて来ちゃったんですか!」
「
自分の首をトントンと叩き、変身を促す。
変身方法をボクは知らない。故にここで見ておきたかった。どうせ悠胡はボクが襲われれば助けるしかないんだから。
「っ、わかりました。それで諦めてくれるのなら! ……
悠胡は自前の変身アイテム……ラストチョーカーを首に装着し、人差し指で触れる。瞬間、雫が垂れた水面の如く空間が歪み壊れ螺旋となり──白が悠胡を包み込んでいく。
やがて回転が収まると、悠胡を包む白が爆ぜた。
光を裂いて現れたのは白き魔法少女。
「そう言えば正式には名乗ってませんでしたね? 私は魔法少女テオラ。今だけは覚えておいてください」
その言葉の後、テオラは無から刀を取り出し切り掛かる──いや、振り抜いた。遅れて飛び散る鮮血。
あの淫魔はたぶんまだ気づいていない。その顔が驚愕へ変わる頃には、既に首は地面へと落下していた。
声にならない吐息を遺し跡形もなくドロドロに溶けていく淫魔。
とても子供には見せられないような光景を引き起こした張本人は未だ警戒を緩めない。
「え、早い。もう終わり──」
「まだですっ!」
刹那、背後に嫌な気配を感じ勘に従って前方へ転がった。普段なら絶対に服が汚れるのでやらないけど、理性より本能で動いて正解だったと思う。
さっきまでボクが立っていた場所には消滅した肉体を再構築している淫魔が存在した。
「強いのね、この街の魔法少女は。油断した所為であたしの命は残り二つ……でも、おかげで強くなれたわ!」
言い終わる前にテオラの刀が淫魔へと迫るも、今度は手で掴み受け止められていた……のだと思う。ボクはテオラが動いた後淫魔が刀を掴むまでの時間を認識できていない。
テオラは淫魔を蹴って後方へ跳び宙返り、斬撃を弾幕のように飛ばし攻撃を試みる。無数に放たれたそれを前に淫魔は思わず魔法障壁でガードした。
巻き起こる粉塵。
「もしこれ以上人間に手を出さず、大人しく帰るのなら命までは奪いません」
位置を細かく変えながら斬撃を連射するテオラと壁越しに魔力球で反撃を狙う淫魔では、力の差は歴然だった。
淫魔の攻撃はただの一度もテオラに届かない。
「だから帰れって? バカには理解できないの、この衝動が! 美味しい人間を食べることがあたしの幸福──生きる欲望よ!」
「欲望……そんなものに囚われているから……ッ!」
魔法障壁は壊れる。力のギアを上げたテオラの前に、淫魔はただの一つも抵抗できなかった。
首が落ちるのもこれで二度目。しかしその顔は笑っている。
「ふ……あたしは命があるだけ存在できる……この意味、わかる?」
「何をしようともう一度斬る。それだけですよ」
生首となり地を転がっても尚、話し続ける淫魔は更に両断された。あの馬鹿で優しそうなテオラが切り裂く光景は流石のボクでも少しだけ怖い。
なんか、夢がないな。魔法少女の戦いって。
背後から迫る魔力球をテオラはノールックで弾く。
「無駄です。例え何をしようと──っ!?」
「ふーん。ならこの子がどうなってもいいんだ?」
なるほどね。ボクに逃げられたから探してたんだ、人質を。
復活した淫魔が優しく抱いているのは小さな男の子。もしあいつが力を込めれば……想像したくないけど、トマトを潰すより簡単に原型を無くしてしまう。
あの子供は何も理解できていないようで、本物の魔法少女だとばかりにテオラへ興味を向けていた。
その様子に苛立った淫魔が爪でそっと頬を擦ると血が流れ始め、一瞬にして恐怖を駆り立てられる。
「うわあああああ! たすけ、たすけて!」
「してよ変身解除。ほら早くしよ?」
「……」
テオラは無言のまま変身を解除。それを見た淫魔は満足そうに微笑んだ。
小さな男の子が解放される。代わりに淫魔はゆっくりと前進し、テオラの耳元で何かを呟き。無防備な顔へ強烈なパンチを叩き込んだ。
「あうっ……」
「あと一個! こんな所であたしの命はあと一個! この、家畜の分際でッ!」
倒れ伏すテオラは何度も踏みつけられ、苦悶の表情を浮かべていた。確かにあのヒールで踏まれたら痛そう。変身後ならまだしも生身だし。
対する淫魔はテオラを嬲るのに集中して周囲の状況に気づいていないらしい。
今のうちにボクは子供を確保しておく。
「立てる? さっさと離れようよ」
「あの、魔法少女のお姉ちゃんが! お、俺のせいで」
「市民を守る仕事だからね。でもボク達にできることは何もない。ほら早く逃げて」
ボクは魔法少女と淫魔の戦闘を見たかったのに、人質なんてつまらない真似はやめてほしかったな。
とは言え、決着はついた。ボロボロで血を流しているテオラと元気そうな淫魔。
不服だけど淫魔の勝利だ。
もしボクがテオラの立場なら絶対に人質を見捨てるのに。魔法少女の命は一般市民の命より重いのだから。
それでいて、市民は魔法少女を良く思っていない。この子供だって数日経てば殆ど忘れていくだろう。
──カン、と淫魔の後頭部に石ころがぶつけられた。馬乗りになってテオラを攻撃していたのを邪魔された淫魔が鬱陶しそうにこっちを見る。
隣には震えながらも石を投げる子供が。
「お、おおおまえなんか……こ、怖くないんだ……!」
「ダメだよ……逃げて……」
「あーあーあーあー! 男の子だからって殺されないとでも思っちゃった!?」
ぐったりとしたテオラから標的がこちらに変わった。
「……! なんで石投げたの?」
「だってあのお姉ちゃんは俺をまもってくれたから……だからつぎは俺が! お、俺が、俺が──」
でも、ボクは逃げない。
男の子の頭を優しく撫でる。
「大丈夫。何をすべきか、何をしたいか……ボクの欲望が。ようやく生まれた気がする」
この世界はまともじゃない。
淫魔が、魔法少女が、特別な
そんな世界にテオラやこの子のような、自己より他を守ろうとしてしまう重度の馬鹿がいる。
テオラは見殺しにすればそんなにボロボロにならずに済んだのに。この子だって大人しく逃げれば安全なのに。
「ありがとう。君のおかげだと思う。テオラもありがとう」
「まさか……ダメです! 代償がっ!」
たぶんテオラはあのヴァリゼより早く死ぬ。
この子もきっと同年代の子より早く死ぬ。
だったらボクは──そんな未来を殺したい。お人好しな馬鹿共が生きられる世界を創りたい。
「こう、だったっけ」
「ダメぇぇぇ!!」
「
あの時のテオラを真似てラストチョーカーをつけ、全く同じように言葉を発する。
空間が歪んだ。ボクの周りだけが不規則に回転し霧に包まれ、何かが変わる感覚だけが残る。
「あ……」
視界が晴れる頃には魔法少女へと変貌していた。
狼狽える淫魔へ一つ、問いかけてみよう。
「さっき言ってたね。人を食べるのが生きる欲望だって。止められないの?」
「当たり前よ。欲望こそが淫魔を生かす!」
わかってた。それで死ぬのなら本望かな。
「ならボクはその欲望、解き堕とす……までだ」
欲しい、と念じたら二本のナイフが両手に出現。片方で空間を裂きながら淫魔の方へ走っていく。
何故かわかる、今のボクの力が。空間程度なら簡単に引き裂けるくらいには強い。時間程度ボクには追いつけない──!
肉の感覚、血の感覚と共に淫魔の横をすり抜ける。
双剣スタイルから繰り出された無数の斬撃が淫魔を切り裂いた筈だ。スピードは先程のテオラを余裕で上回っていて、淫魔は本日三度目の死を迎える他ない。
「ああ、弱いんだね」
「なっ……なんなのよこの街は……!」
全ての命は刈り取られた。あの淫魔はもう終わりだろう。
淫魔を殺した感覚はきっと人間を殺した感覚と同じ。自分のために未来ある生命を奪ったんだから。
「っああ! 嫌よこんなとこで! 帰るって言ったのに! あたしは戻るって言ったのに!」
嫌だ嫌だと叫びながら溶けていく淫魔を見て、ボクはふとそう思った。
*◆*
「この税金泥棒が! うちの息子に怪我させて、何が正義の味方? 最低」
「ちがうよママ! このお姉ちゃんはね、捕まった俺を──」
先程の子供を家まで送り届けたテオラを待っていたのは、母親による辛辣な言葉。
最早子供の声は届かない。ボクはナイフを持って驚かせようと企んだけどテオラに阻止された。
「本当に申し訳ございませんでした」
「なんで謝ってるの?」
ボクからすればこの子供はテオラに命を救われた訳だし、謝る必要は全くないと思うけど……逆にあの母親もまともな思考ならテオラを責めるのはおかしい。
きっとただ魔法少女が嫌いなだけ。偶然にも責め立てる機会があったからこうやって悪口を言いたいだけ。
あんな親から勇気ある子が産まれた事実に怯えながら、ボクは待っていた。
最終的にはボクが強引に会話を終わらせテオラを連れていったが。
「……ああいう人ってどれくらいいるの?」
「五人に三人、くらいかな。私は大丈夫です。慣れてるので」
夕空に風が吹く。テオラのはにかんだ笑顔がどうもボクの心に残った。
辛く当たってくる人達を守るなんて正気とは思えない。
「でも心配なのはあなたですよ! 勝てたから良かったとは言え、あんな状況で変身するなんて」
「確かにテオラは強かったね」
「……いえ、この街の魔法少女の中では二番目に成績悪いんですよね、私」
テオラの成績が悪い……うん、理解できる。
他の利己的な、いや賢い魔法少女だったら人質作戦なんて無視するに決まってると思うし。テオラの性格はきっとこれからも損をし続けるのだろう。
「まあそんなのは関係ありません。あんなにダメって言ったのに……淫魔化してしまうかもしれないんですよ?」
「ボクは淫魔に堕ちないよ。肉体的にも、精神的にも」
淫魔と魔法少女は生物学的に女。ボクは肉体が移されたとは言え男。
堕ちる筈がない。だから迷いなく戦える。
「その言葉、信じさせてくださいね? それじゃあ登録行きましょうか」
「登録?」
「機関に登録してないと淫魔と同じ扱いになっちゃうので。そのラストチョーカーの出所も含めて、じっくり話を聞かせてもらいます」
ボクは淫魔にはならない。男だから。
そう信じてボクはこの日、魔法少女に成った。