序の壱 清秋のため息
秋晴れの日光が、夢幻美術館の中庭に降りそそいでいる。
正午までいくばくかという時間帯だ。ヴォルカン地区の職人たちは日中の唯一の楽しみである昼餉を楽しみにしながら、午前の仕事を仕上げるべく精を出している頃だろう。
「はーぁ……」
「もうダメ……。絶対、館長に嫌われちゃった……」
長い髪が秋風に揺れている。だというのに、涼しげと言うよりはじっとりと重い空気を身にまとっている。目には常に涙で潤んでいる。それがゴッホだ。肩を下げ、猫背になった体格は実際よりもずっと小さく見える。
「そんなことないです! さっきはラファエロさんとお話ししてたから……」
その隣には彼女の絵から生まれた
「ふたりで、何か重要そうな話をしてたよね。そんなときに空気を読まずにノックしちゃって、私なんかのために十秒以上わずらわせちゃって……」
「今は忙しいから後にしてくれって言われただけじゃないですか!」
「二度と私とは話したくないって意味かも……」
「館長さんはゴッホさんのことをそんなに邪険にしません!」
ゴッホは生来の気質が
「また落ち込んでるの?」
と、ふたりに声をかけるものがあった。黒い和装に身を包んだ女。浮世絵から現れたイマージュ、さつきである。
「うん……次に描く絵のことで、館長に相談しようと思ったんだけど……」
「いまは、ラファエロ様が面会中ですね」
と、ネイトと同じくらい小柄な少女が言った。名はスキッピオ、普段は画家のラファエロの護衛を務めているが、そのラファエロが館長と二人で話すため、こうして中庭で彼女を待っている。そこにいたさつきと共に、秋の花を眺めていたのだ。
「うん……当たり前だよね。ラファエロは自他共に認める天才で、アテネスでいちばんの売れっ子画家だし……」
ちらりと画廊の方へ目を向ける。ラファエロの絵が展示されているスペースはほとんど一日中、満員だ。
「それに引き換え、私は……」
別の方に目を向ける。ゴッホの展示室にいる人の数はまばらだ。
「そんなふうに言わないで。ラファエロより人気が無いからって、誰にも見られてないなんてことはないわ」
と、さつき。
「でも、私の絵があんなに人気になることなんて、もうないような気がして……」
子どものように目に涙を浮かべるゴッホ。ますますネイトは慌ててしまう。
「そんなことはないですよ。きっと、ゴッホさんの絵が人々の目を集める日が来ます!」
「そうよ。今はラファエロほど有名じゃないけど、だからこそ爆発的に人気が出るかも」
「……どういうこと?」
「有名な人が新しい作品を作っても、今までの印象があって、新作だけに注目するのは難しいでしょう? その点、無名の芸術家の作品が話題になった時にはとても新鮮に見えるの。知られていないからこそ、一発逆転の機会があるかもしれないってこと」
「そんなこと、私の作品に起きるかな……」
さつきの説得もむなしく、ゴッホはさらにどんよりと落ち込んでいく。
「スキッピオさんも、何か言ってあげてください!」
「……んぅ?」
かくん、とスキッピオの頭が大きく揺れた。小春日和の陽気に誘われてうとうとしていたようだ。
「ううっ、そうだよね。私の話なんて聞いていたくないよね」
どんなことでもネガティブに受け止めることができるのがゴッホの特技である。
「実績も実売も実力もない画家なんかが美術館にいる意味、あるのかな……」
ゴッホのどんよりが一段重くなったとき……
「他はともかく、ゴッホさんにはまちがいなく実力があります」
スキッピオは、必要以上に顔をきりっとさせていた。眠気をごまかしているのかもしれない。
「ほんとうに?」
「はい。あれほどの剣の腕を持っているではないですか」
「……剣術の話?」
画業について話していたつもりだったゴッホは不意を打たれたように目を丸くした。しかし、藝術が力を持つこの世界では、表現力と戦闘力には深い関係がある。
「もちろんです。ラファエロ様も剣を使いますが、ゴッホさんはあの独特の曲刀を使われるでしょう。私たち騎士の剣術とは違った技です」
「たしかに、刀は使うけど」
驚いたせいか、ゴッホのどんよりオーラはかなり薄れていた。これ幸いと、さつきが話の方向を変える。
「刀といえば、聞いた? 『首斬り役人』の話」
「くびきり? なんですか、それは?」
聞き返すネイトに顔の高さを合わせ、さつきは声を低くした。
「東からの街道で、何人もの人が襲われているらしいの。決まって夜に現れて、被害者は無惨にもうつ伏せで首を落とされているって……」
「それって……」
「死の芸術家のしわざ、ですね」
芸術が生み出す力を悪しきことに使うものたちがいる。負の感情をもとに他者を害する彼らは、死の芸術家と呼ばれていた。死の芸術家から人々を守るのが、美術館の役目でもある。
「セキエンさんがその話を聞いて、『まるで首斬り役人だ』って。だから、そう呼んでいるの。被害がだんだんアテネスに近づいていて、今ごろは首斬り役人がアテネスの街に入り込んでるんじゃないかって」
「それは……さすがに、放っておけないね」
ゴッホは目元を拭った。再び開いた
「私たちも夜の
「もちろんです!」
「ええ」
三人は互いに目を合わせ、うなずきあった。
スキッピオは
序の弐 破片
囲まれている。
夜の闇から滲み出したような不気味な姿をした怪物が、人気のない広場を埋め尽くさんばかりにひしめいている。
怪物は、『死の芸術』と呼ばれている。アーティストの歪んだ妄念が生み出した作品が、自ら動き出し、人々に害を為す存在だ。
芸術はときに人知を超える奇跡を起こす。その負の側面が、死の芸術だ。
では、正しい側面はいずこにあるのか?
星明りの下でゴッホはわずかに微笑んでいた。
恐るべき死の芸術と対面したとき。戦いに身をささげているときだけは、自分が正しい側にいるという実感を、わずかにでも得られるからだった。
泣き腫らしたような愁いに満ちた目元は、いま気迫をたたえていた。ドレスとも甲冑ともつかないものを身にまとい、刀を提げている。
「どこかに死の芸術家がいるんでしょうか?」
ネイトが辺りを見回す。死の芸術家は被造物だ。どこかにそれを生み出したものがいるはずだ。
「みんな刀を構えている。……首斬り役人の手下でしょうね」
さつきは冷静に敵を見据えていた。ねじくれた怪物たちは、体のどこかに刃を供えていた。
「ここで見つけられてよかった。ネイト、さつき。援護して……!」
ゴッホが長い髪を夜風にたなびかせ、腰の刀を抜いた。
銀色の刀身が閃く。死の芸術までは、四歩ぶんは距離が離れている。にもかかわらず、剣風が刃となり、敵のうち一体を両断した。
怪物たちが驚愕のうなりをあげた。そこにネイトが突っ込んでいく。
「えいっ!」
ひるんだところへ、ネイトが鎖につながれた
小柄な少女からはかけ離れた怪力によって、何体もの死の芸術が砕かれ、押しのけられる。
四方のうち一方が空き、ゴッホは仲間たちを背にして刀をまっすぐに構えた。
「いちにのさんで行くわよ」
ふたりに守られるように立つ女が言った。和装に黒髪。その手に持つ木組みの装具から伸びる糸は、どこにもつながっていない。だが見よ、その糸は上空へと伸び、ぴんと
「いち!」
ネイトの星球が光を放ち、敵の目をくらませる。
「にの……」
ゴッホの剣風を恐れる死の芸術は、自然と退いていた。四方に散っていたはずが、ひとところに集められている。
「さん!」
さつきと呼ばれた女が操る糸がからりと音を立てた。瞬きをする間に、巨大な
「やりましたか!?」
ネイトが喜色の声を上げたのもつかの間。砕かれた怪物たちは折り重なりながら、ばきばきと音を立てて形を変えていく。
ねじれ、ひしゃげ、赤錆の破片が飛びちった。死の芸術を構成していた刃が折り重なり、ひとつの姿が生まれようとしていた。
「食いあって成長している……!」
さつきが悲鳴のように叫んだ。
脱皮しようとするかのように体をくねらせる死の芸術の前に、ゴッホは進み出た。
「この子たちも生みだされたからには、生きたいはず……」
その目には涙が浮かんでいた。憂いと哀れみを双眼に湛え、それでも藝術家は刀を振り上げた。
「でも、街の人たちを守らなきゃ」
大上段から振り下ろされる刀が、巨体を袈裟斬りにする。死の芸術は星空に向けて断末魔の叫びをあげ、粉々に砕けた。無数の破片は塵となり、夜風に吹かれて消えていく。
「ごめんね……」
刀を納めるゴッホに、ネイトがハンカチを差し出した。頷いて受け取り、長いまつげを濡らす涙をぬぐう。
これが少女たちの日常だった。藝術魔法の使い手として死の芸術から市民を守ることは気高い義務だが、ゴッホの胸中には葛藤もあった。
死の芸術とて、誰かが作り出した作品に違いない。それを倒すことは、作品を否定することだ。恐怖や怨嗟、この世では晴らすことができない怨念を表現した作品たち……。その断片が、ゴッホの中にとてある。いつ自分が、死の芸術の創り手になるかわからない。もしそうなれば、彼女と同じ藝術家たち……ラファエロやセキエンは、躊躇なくその作品を破壊するだろう。
彼女たちのように、正しさを確信できたらいいのに。
いまゴッホが死の芸術に手を染めていないのは、単に幸運だったからに過ぎないのではないか――
戦っている間は忘れられるその不安が、戦いの後にはいつも沸き上がるのだった。
「行きましょう。美術館に戻って、報告しないと」
「うん……わかってる」
さつきに応えて、ゴッホはハンカチを懐に収めた。彼女たちの拠点、夢幻美術館に戻れば、不安もいくらかは和らぐだろう。
ゴッホが振り返ったとき……
「――!」
異様な感覚があった。まるで階段の段数を間違えた時のように、とつぜん足下を踏み外して体勢が崩れる。たたらを踏んでから姿勢を正すと、そこにネイトやさつきの姿はなかった。
今までいた場所ではない。見慣れぬ路地裏だ。
「いま、何が……」
「一種の結界術だ。ふたりだけになりたくてな」
路地の出口を塞ぐように男が立っていた。ひょろ長い体つきは、まるで精巧な
その腰には剥き出しの刀が提げられていた。鞘はない。どうやって支えているのかは分からないが、先程倒した死の芸術たちと同じように赤い錆の色をしている。だが、より色は深く、
「首斬り役人……!」
男をにらみつけるゴッホの頬を冷たい汗が伝った。