それは途方もない仕事であった。
1946年1月、敗戦直後であり復興は愚か、暗黒の日々を食つなぐことが精一杯であった当時、牛久という村では、類に見ないとても奇妙な抗争が繰り広げられていた。焼け跡と継接だらけの線路だけが残った駅、バラックとトタンだけが佇む住宅地は、この地獄の幕開けと云えよう。人々は焼け跡に車を引き、或いは童を連れて行く当てもなく唯彷徨う姿を見る度、私はやるせなさと己の無力さに悲哀していた。
1920年、牛久村に生まれた私は、幼い頃から親戚を筆頭とした人々に聡明だと云われていた。中学校を首席で卒業した私は、ある職業を憧憬していた。海軍である。清き軍服に明晰な頭脳を持った彼ら将校は我々青少年の憧れの的であったと云える。猛勉強の末士官学校へと進み、海軍将校への道を辿っていった。「茨の道」と云う言葉が似合う極めて険しい道程は、娑婆の精神を叩き直し、軍人としての志を育てた。正に煉獄と云えよう。だが、志半ばにして我が軍は終焉を迎えてしまった。大日本帝国の降伏である。私は実戦経験を積まずに海軍を退職せざるを得なくなり、公職追放によって生活は困窮を極めているのである。
私は軍服を身に纏い、道を歩いていた。何か特別たる目的が在る訳でもなかったが、行動せずには居られなかったのである。ただ無心に焼け跡に足を踏み入れる。政治家の遊説をする様な、或いは大臣の視察をする様な感覚を感じる。私には如何する事も出来無いのだ。足を進めると右に俯く小娘と不敵な笑みを浮かべる男二人の姿が見受けられた。軍服姿の私に警戒する様に此方を睨み付けている。小汚い男達は足早に私の前から立ち去った。私はそのことを深くは考えなかった。否、考えられなかったのである。
不毛な細道を進むと、すっかり見飽きた窮屈な小屋が視界に入った。私は扉を開け、中に入るとともに、その脱力した四肢を畳へと放り出した。屋根から西日がこちらの様子を窺う様に顔を覗かせている。腕を枕にし、ただ只管に天井を見つめた。年輪ばかりの板材が私の視界に移る。まるで私の心の渦を見ている様な感覚に陥った。忘れるなど、不可能であった。脳裏にその悲しげな顔が浮かぶ。その後を考えるだけで、気分が悪くなる。忘れよう、忘れよう。そう自分に呼びかけ、ようやく私は食事に辿り着けた。
怒号で目を覚ました。明かりもいよいよ少なくなり、今日一日への感謝と明日への淡い期待を背負い床に着くものも多いであろうこの時間であったが、私は別段不思議には感じなかった。息を潜めるように、布団の中から耳を傾けた。私にはまだかの小娘が気がかりであった。何としてでも無事でいてほしかった。