Interview with The Bull 作:h995
やっぱり、自分で搾ったミルクの味は格別よね。それでこの牧場の誇るミルクのご感想は? ……どうやら貴女の口に合ったみたいでよかったわ。これで喉も潤った事だし、そろそろインタビューを再開しましょうか。私の現役生活もこの時点で既に折り返し地点を過ぎているから、おそらく貴女が一番訊きたかった事もそろそろ私の口から出てくると思うわ。
トラヴァーズステークスで世代最強を証明した私が一月ほどの休養を挟んで挑んだのは、シニアとの混合戦となるGⅠのウッドワードステークスだったわ。尤も、この時期になると一線級のクラシックウマ娘の主戦場はシニアとの混合戦になるんだけどね。しかも、このウッドワードステークスは伝統のあるシニア重賞の一つで毎年実力のあるウマ娘が集まってくるのよ。当然、この年も錚々たるメンバーが集まってきたわ。
同期からはケンタッキーダービーを制したゴーフォージン、先輩達からはメトロポリタンハンデキャップで一緒に走ったコロニアルアッフェアー先輩にティナーズウェイ先輩、デヴィルヒズデュー先輩の他にこの年とその前の年でドンハンデキャップを連覇したピストルズアンドロージズ先輩に前の年のホイットニーハンデキャップを制したブランズウィック先輩、そして前の年にパシフィッククラシックステークスとこのレースを制して最優秀シニアクラウンウマ娘を獲ったバートランド先輩。
……今こうして並べてみると分かるけど、全員がGⅠ級のウマ娘であるこのレースの勝者が現役のアメリカ最強ウマ娘だと言われたら当時は誰もが納得したんじゃないかしら?
それくらいに錚々たるメンバーの中に私の名前も当然あったんだけど、この時の一番人気として名前が挙がったのは私だった。どうやら観客からは現役最強は私であるという認識がこの時点で既に出来上がっていたみたいね。
ただメトロポリタンの時と違って同期であるゴーフォージンはおろか一度戦った事のある先輩達、更には初対戦である先輩達ですら明らかに挑戦者としての視線を私にぶつけてきたの。それだけの偉業を既にやり遂げていた事を、私はこの時に初めて実感したわ。だから、ここで私が新しい境地に至った事を示す事にしたのよ。
まずこのレースの事について話す前に前提条件として知っておくべき事として、私とバートランド先輩は完全に逃げウマ娘でゴーフォージンも絶対に先頭でないといけない程ではないのだけれどやっぱり逃げた方が強いという事。同じレースに三人も逃げウマ娘がいれば、当然ながらスタート直後から熾烈な先頭争いが繰り広げられる。誰もがそう思ったでしょうね。
きっと、皆驚いたと思うわ。私のすぐ後ろで三番手についたゴーフォージンなんて、先頭に立てなかった時の私の体たらくをケンタッキーダービーで直接見ているだけにその驚きは一際大きかったのではないかしら?
こうしてバートランド先輩を先頭にそれほど速くないペースでレースは進んでいき、第三コーナーに入った辺りで私は本来のペースに戻してから外に持ち出してバートランド先輩を抜きにかかったわ。そして最終コーナーに入った辺りで私が先頭に躍り出たのだけど、私が抜いたというよりはバートランド先輩が限界を迎えて後退していったと言った方が正しいかもしれないわね。しかも、この時にはバートランド先輩に釣られるように私の後ろにいたゴーフォージンまで後退していたんだけど、先頭をひた走る私にそれを知る由はなかったし、後でレース映像を確認してちょっと驚いたわ。
その代わり、どうやら私を含めた逃げウマ娘三人の先頭争いでハイペースになると踏んで後方で待機していたらしいデヴィルヒズデュー先輩とコロニアルアッフェアー先輩が同じ最終コーナーで仕掛けて必死に追い上げてきたの。でも、時既に遅し。
私は無理に先頭には立たずに番手を追走した事でスタミナを温存できた上に最終コーナーに入ってから先頭に立ってそのまま最終直線に入っていったわ。今まで私の話を聞いてきた貴女なら、この後はどうなるのかもう分かるわね?
最終直線に入ってから更に加速した私は追いすがる先輩二人を更に引き離していき、終わってみれば二着のデヴィルヒズデュー先輩に五バ身差を付けての圧勝だったの。余りの圧勝劇に実況の人は私がゴールする前から「ホーリーブル、並み居る強豪達を物ともせず! この圧勝劇こそ王者の証!」なんて絶叫交じりで言っちゃったらしいわ。
ただ、これだけ強豪達が集結したウッドワードを圧勝した事で名実ともに現役のアメリカ最強ウマ娘が私である事が確定したのは間違いないと自分でも思うの。
こうなってくると、前の年には諸々の事情で断念したブリーダーズカップへの挑戦が視野に入ってくるし、どうせなら最高峰となるクラシックに出走しようって普通ならなるんだけど、ここでトラヴァーズに勝った後で抱いた懸念がけして無視できないくらいに大きなものになってきたわ。
「何故そんな事を?」という顔をしているわね。確かに熾烈な争いの末にクラシックレースの次に価値も権威も高い10ハロンのトラヴァーズに勝ちはしたわ。ただ競り合った相手がコンサーンである事が問題だったのよ。
もしこの時に競り合ったのがクラシック二冠でそのうちの一つが12ハロンのベルモントであるタバスコキャットであれば、私もトレーナーも距離不安なんて抱かなかった筈よ。でも、現実はそうならなかった。こう言うとコンサーンには申し訳ないんだけど、トラヴァーズでは色々な不利が重なったとはいえ実はこのレースが初めての10ハロンだったコンサーンにクビ差まで追いつめられた。これだけでも十分不安要素になり得るのに、同じく10ハロンのケンタッキーダービーに至っては、ただでさえ苦手な不良バ場で更に出遅れを取り戻す為に余計にスタミナを使ったとはいえ第三コーナーから最終コーナーの間で力尽きてしまったのよ。
これらの事実がある以上、中距離を得意とするシニアの強豪達を相手に今の私が10ハロンのレースを勝つのは極めて難しい。これが当時の私達の最終判断だったわ。
だから、その年のブリーダーズカップクラシックには早々に出走しない事を決めているし、同じ10ハロンである事からブリーダーズカップクラシックの前哨戦としての一面があるGⅠのジョッキークラブゴールドカップにも出走しなかったのよ。だからと言って、そういつまでも10ハロンのレースから逃げ続ける訳にもいかないわ。
私もトレーナーもそう考えていたわ。幸いと言ってもいいかしら、この二年前の日本にスプリンターとしての素質を見込まれながらも坂道を使ったハードトレーニングで距離適性を伸ばしていき、遂には日本のクラシックトリプルクラウンの内、皐月賞と日本ダービーを制してみせたウマ娘がいる事を耳にしていたの。前例があるのなら、私達もそれに倣えばいい。
その為に、この年はウッドワードステークスを最終レースにして年内は距離適性を伸ばす為のトレーニングに費やす事にしたのよ。幸いな事に、次の年における最初の目標とするべき10ハロンのレースとして、昔であれば三月の初めに開催されるサンタアニタハンデキャップだったのだけど、当時は既にサンタアニタ以上に相応しいレースがあったのだから。
世界一のダートウマ娘を決める為にアラブ首長国連邦のメイダンレース場で三月末に開催されるダート2000mのGⅠレース、ドバイワールドカップ。
ここで私が本当に10ハロンでも戦えるのかを確かめた後、勝利した実績のあるメトロポリタンとウッドワードを経て地元となるベルモントパークレース場で開催されるブリーダーズカップクラシックに挑み、このレースを以てトゥインクルシリーズを引退する。これが私達が当時考えていた次の年の出走スケジュールよ。
……以上が、貴女の一番訊きたかったであろう「何故、現役最強となったにも関わらずブリーダーズカップクラシックに参戦しなかったのか?」の答えよ。
高額の追加登録料を支払うのを嫌ったから。あるいはこの年の開催地が惨敗したケンタッキーダービーと同じチャーチルダウンズレース場で縁起が悪いから。
そういう答えを想像していたのかもしれないけれど、残念ながらどちらも私にとっては理由になり得ないのよ。この頃には既に実家が抱えていた借金の返済は終わっていて、老朽化した施設を更新する為の資金も十分に確保できていたわ。だから、自分で稼いだ賞金を個人的な理由で使っても別に問題はなかった。それに今までのインタビューで分かったと思うのだけど、私はこう見えて負けん気がかなり強いの。だから、距離不安さえなかったら、私は同じレース場で勝つ事でケンタッキーダービーの雪辱を本当の意味で果たす為にむしろ率先して参戦していたと思うわ。
ただ今にして思えば、年内を距離延長のトレーニングだけに費やしたのは正直かなり勿体ない事をしたと思うの。
もちろん、ブリーダーズカップクラシックの事ではないわ。あの時のブリーダーズカップクラシックを制したのは私が一番苦戦したコンサーンで、二着はタバスコキャットだった。でも、それで私が出走していたら勝っていたかと訊かれると、正直分からないと私は答えるわよ。あのブリーダーズカップクラシックの勝利はトラヴァーズの時点で10ハロンであれば私と対等に戦える程にコンサーンが成長していたという何よりの証だし、それだったらどうなっていたかは実際にやってみないと分からないわよね?
私が勿体ないと思ったのはその三週間後に開かれたGⅠのNYRAマイルハンデキャップ*1の方よ。……何故? そう言いたい顔をしているわね。でもそれについては少し待ってほしいの。話を続ければ、貴女も納得してくれると思うから。
こうして年内は適性距離を延ばす為のハードトレーニングに明け暮れた私は、年が明けてからすぐに動き始めたわ。
一月下旬に生まれ故郷のフロリダで開催されたリステッドのハンデキャップ戦ではトップハンデを課せられたから、無理に先頭には出ずに番手追走から最終直線の入り口で抜け出して、そのまま二着とは二馬身半差をつけての楽勝だった。
ここで勢いをつけてから次に選んだのは、やはり故郷のフロリダで開催されるドンハンデキャップ。実はこの頃にはドバイから招待状が届いていて、ドバイワールドカップの前哨戦としては正に打ってつけだったの。
このレースにはメトロポリタン以来となるヴァージニアラピッズ先輩が参戦していたのだけれど、それ以上に気になったのはやっぱりあの先輩だったわね。
ターフのレースでなかなか芽が出ない内に大怪我をしてしまい、八か月に及ぶ休養期間の後も勝ち切れずにダートに転向。そうしたら圧勝に次ぐ圧勝でこの時既に三連勝。しかも、その中にはデヴィルヒズデュー先輩をハンデ付きとはいえ七バ身差で圧倒したGⅠのNYRAマイルハンデキャップも含まれているんだもの。「運命の分岐点は本当にあった」と、この逸話を聞くたびに思ってしまうわね。
でも、この時にデヴィルヒズデュー先輩に課せられていたハンデと私が直接対戦時にデヴィルヒズデュー先輩に付けた着差を比較した結果、実力としてはトップハンデを課せられてもなお私の方が上だと判断されて私が一番人気、その先輩が二番人気だったわ。これ以上勿体ぶっても仕方ないから、そろそろ先輩の名前を挙げましょうか。
今となっては誰もが認めるアメリカ史上でも屈指の名ウマ娘であり、その圧倒的な強さで何処かの口の悪い人からは「魔王」と呼ばれている人よ。
そして、このドンハンデキャップは私がシガー先輩と直接対決する事のできた唯一のレースになったの。少し前に私が前の年のNYRAマイルハンデキャップに出走しなかった事に対して勿体ない事をしたと言ったのも、これで納得できたでしょう? それでは、レース本番の時の事を語りましょうか。
ゲートが開くと、私は好スタートを決めてそのまま先頭に立ったわ。でも、最初のコーナーで内枠の優位を利用して私の前に躍り出た人がいたの。道中は好位で追走してから第三コーナー以降で抜け出してそのまま後続を突き放すスタイルが有名ではあるけれど、実は逃げもかなり得意であるシガー先輩よ。シガー先輩が引退した後でこの時の事について尋ねたのだけど、このまま私を先頭にすると得意な先行スタイルでも勝ち目がないから自分から逃げを仕掛けたと、シガー先輩は言っていたわ。私は私でこのままシガー先輩に逃げられると課せられたハンデが重く伸し掛かって追い付けずに勝てなくなると直感的に思ったの。だから、すぐさま並びかけていったわ。
そうして先頭争いを向こう正面まで続けながら後続を四バ身くらい引き離した事で、レースはシガー先輩とのマッチレースの様相を呈してきた時だったわね。
その後に続く激痛で私は自分が故障した事を嫌でも悟ったわ。このまま走り続けても、シガー先輩を始めとする皆の迷惑にしかならない。だから、私は痛みを必死に堪えながらコースの外側へと外れていったの。
大勢の観客のいるスタンドから多くの悲鳴が聞こえてきたわ。一番近くにいたシガー先輩にも私の左足の壊れる音が聞こえてしまったんでしょうね、走るペースが大きく狂ってしまったみたいで最終コーナーに入る頃には追いつかれていたわ。でも、シガー先輩は最終直線に入ってから後続を一気に突き放して、終わってみれば五バ身半差の圧勝だったの。
……ただ、この圧勝劇ですら後に年を越して十六連勝まで続くシガー先輩の伝説の序章に過ぎなかったわ。そして、途中で故障して競争を中止してしまった私はシガー先輩の伝説の一幕を彩る脇役の一人という訳ね。
このレースで故障してしまった原因については、私自身もはっきり分かっているわ。あのシガー先輩相手にトップハンデを課せられた状態で競り合ってしまったからよ。はっきり言ってしまうと、シガー先輩はトップハンデを課せられた状態で勝てる様な相手ではないわ。それどころか、完全に対等な条件になって初めて勝負ができる人だったわね。それだけに、ただでさえ対等な条件であっても限界ギリギリの状態で走る事になりそうな所にトップハンデという過剰な負荷がかかってしまえば、レース中に故障が発生するのも無理はないと思うの。結局の所、私もトレーナーもシガー先輩の実力を完全に見誤っていたのよ。
この後のことについては触りだけに留めておくわね。私は正直あまり詳しくは話したくないんだし、貴女だって詳しく聞きたいという訳でもないでしょうから。
レースが終わってからそのまま病院に直行して精密検査を受けた結果、左脚の靭帯損傷が判明して今度はそのまま手術室に直行。靭帯の再建手術は無事に終わって日常生活には支障がない程度で収まった代わりに競走能力は完全に喪失、トゥインクルシリーズどころかレースそのものからの完全引退がその場で決定したわ。競走ウマ娘「ホーリーブル」の物語はこれにて終幕という訳ね。
そして、ここからはただのウマ娘「ホーリーブル」の物語になるわ。この時点で既に高等部の最高学年だった私はそのまま卒業までニューヨーク州のトレセン学園に在籍、現役中もコツコツと勉強していた甲斐もあって卒業後は故郷のフロリダにある州立大学の農学部に進学したわ。そして主に牧場経営に関係のある講座の単位を取り続けて留年する事なく無事に卒業、その後は本格的に実家の手伝いを始めて現在に至ると言ったところね。
ただ勘違いしてほしくないのは、ケガのせいで競走ウマ娘として終わってしまったけれど、それで私の人生そのものが終わってしまった訳ではないという事よ。
確かに競走ウマ娘として駆け抜けた日々はこれからの長い人生の中でも一際輝いた、けして色褪せる事のない大切なものだと思うわ。それだけにかつて輝いた日々の思い出に囚われて身を持ち崩してしまう子が結構多いんだけど、そうした子達に私は伝えたいの。
それはあくまで長い人生の中でもほんの一部でしかなくて、それを踏み台にして走り終えた後の日々を生きていくのが競走ウマ娘としての正しい在り方なのだと。
……競走ウマ娘としてそれなりに成功したから言える綺麗事だ。そんな辛辣な事を言う人も多いけれど、それでも私は言い続けるわ。それこそ、私の人生が続いていく限りはね。
これで私の話は本当に終わりになるのだけど、最後に少しだけ時間を遡って私のクラシック期におけるエクリプス賞について触れる事にしましょうか。
この年のエクリプス賞について、まず最優秀クラシッククラウンウマ娘には私が選ばれたわ。確かにクラシックトリプルクラウンからは途中で離脱したんだけど、ケンタッキーダービーウマ娘のゴーフォージンに二冠ウマ娘のタバスコキャット、そしてクラシック期でありながらブリーダーズカップクラシックを制したコンサーンとは直接対決で勝っていたから受賞の対象になったってところかしら。
そして、年度代表ウマ娘に選ばれたのは、これまた私だったわ。それだけメトロポリタンとウッドワードの圧勝とそれによって名実ともに当時における現役のアメリカ最強ウマ娘としての地位を確立したという印象が強かったのね。
しかも、この年の私のレーティングは130ポンドを付けられたのだけど、これはクラシック期ではあのスペクタキュラービットさん以来だと聞いているわ。それだけの高評価には流石の私も少し照れ臭かったわね。
因みに、クラシックトリプルクラウンで勝てなかったクラシック期のウマ娘が年度代表ウマ娘を受賞したのは、エクリプス賞が創立されて以降は私が初めてだったそうよ。
……ごめんなさい。ジュニア期の時の事を語っていた時には自画自賛になるから恥ずかしいみたいな事を言っておきながら、エクリプス賞に関しては口が滑って余計な事まで言っちゃったわね。当時の事を話している内に、皆に認められて嬉しかった気持ちがつい溢れ出てしまったみたい。輝いた日々の思い出に囚われているのは、私だって一緒だという事ね。だからこそ、囚われたままにならない様に注意しないといけないって改めて実感したわ。
ただ、こうして貴女からのインタビューを通して長い時間をかけて改めて自分の事を振り返っていった事で思った事なんだけど。