重く、苦しい、どこか絶望を覚えるような始まりの和音……
時は刻々と過ぎるのに、遠くの光の中に楽しむ人が見えるのに、
希望を持って手を伸ばせば自分は真っ逆さまに崩れ落ちていくような感覚。
――ベートーヴェン『ピアノソナタ第8番《悲愴》 第1楽章』
言わずと知れた天才音楽家であり、楽聖とも呼ばれるベートーヴェン。
当時の音楽の集大成であり、音楽の歴史の転換点ともなった偉大な人物で一口に語るのは難しすぎる。
そんな彼が名声を得ていく中で作曲したひとつ、それが『《悲愴》』だ。
見れば順風満帆に違いない中で出した曲だが、ここで思い出してもらいたい。
ベートーヴェンは音楽家としての死――難聴を患っていた事を。
行き場の無い感情を示すかのような旋律――天才的な音楽家としての役割を成すために――
ひたすらに打ち込む事で嘆きを忘れ――しかし、到達の間際で絶望が押し寄せ――
希望と挫折に右往左往をし、孤独と絶望に打ちひしがれ、ついぞ走り出して身を投げるような――
天才が抱えた、まさに"悲愴"が第1楽章でありありと表現されている。
「なんかお兄ちゃん、今日はすごい捗ってる?」
「んー、解釈が浮かんできたっていうのかな……?」
楽譜にも鉛筆でメモを残す。
「どうせなら明るい曲を課題曲にしてほしかったなー。気が滅入っちゃうよ!」
「まぁまぁ、これがベートーヴェンの良さだから仕方ないってー」
「第2楽章弾いてー! 第2楽章ー!」
「忙しいから今度な。ある程度仕上げないと時間が不安なんだよ」
「むー」
言うなら、俺も第2楽章が好き。
でも、第1楽章があってこその第2楽章だとも思っている。そこからの第3楽章も色んな感情が頭を巡って……
やっぱりベートーヴェンって最高なんだよなぁ。
――
「幸せってなんだろうなぁーって思っちゃって……」
「ふふ、難しいこと考えてたんだね」
波多野さんとの勉強中、俺が集中していない様子だったから聞かれて、そう答える。
「人それぞれってあるかもしれないけど、それでいいのかな? ってやっぱり思っちゃう事があるんだよね」
「あぁ……本人たちが良くても周りから見るとおかしいってあるもんね」
「波多野さんはどう思う? 幸せって」
「うーん」
逆に俺の幸せってなんだろうなぁ。
今、大変なことがたくさんあるけども、だからって不幸ではないと思う。むしろ幸せを感じることの方が多い……?
「私もちゃんとはわかんないなぁ……あ、でもね」
波多野さんはゆっくりと、言葉を選びながら話す――
「ゲームの話……になるんだけどもね。最初は……すごい面白いゲームを遊んだの。それの続編とかも遊んで……全部遊んだけど、もっと遊びたくなって……有名なのは大体遊んで、それでも足りなくて他のを遊んで……
その中で、良い悪いがちょっとわかってきた気がして……私も作れそうって思って……でも、すごい大変でね、実際やってみたら……簡単なゲームを作ったけども、見てもらえなくて……あ、見てもらえなくて当然なんだけどね。初めてだから……
それで、改めて今まで遊んだゲームを見て、遊ぶだけじゃわからなかった事が見えてきてね、すごいなって思ったの。こんなゲームを私はやっぱり作れなさそうって思ったりもしたけど……よかったって、私のゲームにそう言ってくれる評価が初めて来てね、すごく嬉しかった。
ゲームを遊んでる時だけの私、遊んでる時は楽しかったけどもクリアしたら足りなくなってた。
今の私は、ゲームを作るのに夢中で、楽しくて仕方ない。大変なことはあるし、難しい事もある。けど、それも表現の糧になってて――」
「あ、あれ……? もしかして私、幸せなのかなぁ……?」
ハッと我に返る波多野さん。
「俺も、もしかして……やっぱり割と幸せなのかも……」
「まだ私達、高校1年生なのにね……将来、大変なのわかってるんだけども……」
「やりたいことだけやってればいいわけじゃないもんね……!」
「うん、そうだね……大人になっても続けられるようにしたいなぁ」
やりたい事……それがあるとやっぱり違うんだろうなぁ。
――
「俺は綺麗な年上のお姉さんに毎日お尻を叩かれたいなー」
「うーん、俺バカだけど馬園に聞いたのは本当にバカだったなー」
「『こらっ!ダメでしょ!もう、仕方ないんだから!ペシン!』って感じがいいなぁー」
「そこまでは聞いてないから続けなくていいよ」
「仕事から帰ってヘトヘトな俺に、帰るの遅いって怒るんだけどそれは寂しさからで俺が疲れてるってわかっててでもどうしても素直になれなくて夜になると疲れてる俺の隣で――」
「陸上部はやりたい事じゃないの?」
馬園ワールドが終わらないから別の質問をしてみる。朝っぱらの教室で元気だなぁー。
「えー? まぁ楽しんでるけどもやりたい事とは違くない?」
「そうなの?」
「いやぁだって稼げるわけじゃないしー。なんか走るのが好きなだけだしなー」
「夢とか目標とかは無いの?」
「うーん、別に無いかなー。強いて言うなら年上のお姉さんと――」
「そうなんだ叶うといいね」
「えーん、最後まで聞けってばー!!」
――
「マイナスくん食べちゃうのがやりたい事だよ♥」
「そ、そうじゃなくてー!」
昼休みに学食へ来て、速水先輩に聞いてみた。なんかそういう事じゃないですよー!
「速水先輩!! 下処理は私に!! ナベちゃんに任せてくださいね!!」
速水先輩の一言に歓声が上がる中、渡辺先輩は平常運転……怖い。
「どこから食べちゃおうっかな♥ 耳かなぁ♥」
「耳は『ミミクリ』って言って希少部位なんですよ!! 速水先輩目の付け所がさすがですね!!!」
俺、渡辺先輩にお肉にされちゃう……
「その、好きなこととかで、歌とかバンドとか、そういう事ッスよー!」
「えー♥ わかんなーい♥」
「バンドはやりたい事じゃないんスか……?」
「歌はなんていうか、呼吸だよね♥」
速水先輩のその言葉に歓声が上がる。
「つまり、速水先輩の歌を聞く事は耳に息を吹きかけられてるって事ですね!! 私、感動しました!! ありがとうございます!!」
渡辺先輩が何を喋ってるのかわかんないよー。
「あ♥ そうだ♥ 今日、マイナスくん時間ある?」
「学校終わった後ッスか? 今日は真っすぐ家に帰る予定で……」
「えーこの間まで応援団の練習で残ってたでしょー♥」
「うぅ……わかりました。ちょっと聞いてみますね」
応援団の為には残れて、速水先輩の為に残れないってなると機嫌悪くしちゃうもんねきっと。
「私、速水先輩のプライベートは守るので安心してくださいね!!」
渡辺先輩は強すぎるよ。
――
「行くなら焼肉にしようぜー!」
「やーきにく! やーきにく!」
「そんな金出してもらえねえってー」
「パスタでいいんじゃない?」
学食から戻ると打ち上げについて、皆がワイワイ話していた。
何となく聞いている感じだとヤキニク派が多いみたいだけど、お金の問題で難しいって言ってる人も多いみたい。
「通りすがりの石油王が焼肉代出してくれないかなー」
石油王はわからないけど、俺が出せる範囲なのかな……? でも、それはなんか良くないのはわかってる……
「行ける人だけで行けばいいんじゃね? 金が無いのはどうしようもないし」
できたらクラスの皆で行きたい……けども、事情を考えると難しい人もいるよねぇ。
「バイトしたら出せる金額だし、バイトしたら?」
「えー、登録とか面接とか面倒じゃん」
へぇ……バイト始めるのって大変だったんだ。
……あれ、鷹田? どういう事?
――
「そりゃ代わりにやったからに決まってんだろー」
「そうだったんだ……でもやって良いことなの?」
「大丈夫大丈夫、別に誰も困らねえし」
「あ、怪しい……」
放課後直後、鷹田に聞いてみるけどもなんか怪しいなぁ……
「……それならだけど、20人くらいでも大丈夫?」
「はぁ? それは流石にバレるからダメに決まってんだろ」
「やっぱりなんか悪いことしてるよねー!?」
「面倒な手続きを省略してるだけだっつーの」
「それがバレたら大変になるって事?」
「バレないから平気平気」
「ちょっと待ってよー!!」
逃げるように去ろうとする鷹田。どういう事か聞きたいし、そうじゃなくて別の事も聞きたいのに!俺は鷹田を置いながら食い下がる。
「あ♥ ターくんもいる♥」
「うーっす、速水先輩」
「あ! 速水先輩! 待ってくれてたんですか!?」
「楽しみだったんだもん♥ あ、そうだ♥ ターくんも時間あったら一緒に行こう♥」
「俺もすか。何する感じすか?」
「サプライズにしたいんだけども、ターくん忙しいもんね♥ 顔見せるくらいだけでもどう?」
「そうっすね。それくらいなら行けると思うっす」
「わーい♥ 行こう行こう♥」
速水先輩が鷹田を誘うのがちょっと意外だけど、鷹田も来てくれるってなるとなんだか安心するなー!
■取り上げた楽曲の動画
●ピアノソナタ第8番《悲愴》第1楽章 ベートーヴェン
https://www.youtube.com/watch?v=2O46qFR8cjQ
●ピアノソナタ第8番《悲愴》第2楽章 ベートーヴェン
https://www.youtube.com/watch?v=PoY0KehVxB8
第2楽章は何かと有名で聞いた事があるかもしれません。
よかったら聞いてみてください。
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