喧騒が遠くに聞こえる。膜が張ったように周りの音がぼやけ、どくどくと血潮が流れる音が体の中から主張していた。視線を落とす。決闘台の上で、一人の男が倒れ伏していた。
あつい。
何かが垂れる感覚に、手を額にやる。ぬるり。赤く染まった手のひらに、自分の心が遠く方で危険信号を出していることがわかった。視線を回す。色とりどりの頭が詰まった教室は、気まずささえ感じる静寂に包まれていた。先生の歪んだ顔が生徒の合間から見える。
──あれは、
どこかで冷静な自分がそう嗤った。
1991年 アフリカ大陸 ウガンダ。
少年少女たちが魔法の技を磨く、神秘の学舎──ワガドゥーは、文明が栄えるその前から月の山脈に佇んでいた。周りには阻害魔法が掛けられ、学舎の存在は人々から隠されていた。そのため見つかる心配はなく、誰もが安心して過ごせる、ウガンダの魔法族最後の楽園。しかしながら、小さな入り口がただ一つであるため、やや不便な思いをすることもある。校舎は、山そのもの。自然の洞窟を利用し、長い年月をかけて改築が繰り返され、現在のワガドゥーが誕生した。そして、建築物の白い石が、黒い山肌に映え、まるで神話に登場するオリュンポス神殿のような神聖な雰囲気を放っている。
魔法の技術を磨く少年少女たちは、杖よりも手の動きを重視するという独自の教えに従っていた。授業は大抵が実践的なもので、魔法を使う際には手の周辺に浮かび上がる魔法陣が美しく、世界的に有名だ。しかし、この魔法陣を浮かび上がらせずに魔法を使うには高度な技術が必要である。そのため、低学年は魔法陣が浮かび上がる様になっており、一般的なワガドゥーの呪文がそちらにあたると誤解されることが多い。高学年で学ぶ呪文を使うために杖が必要とされるが、まだ私にはその必要はない。ワガドゥーの授業は、まるで自然と調和するかのように実践的であり、それでいて画期的だ。
少女の名前はナディア・ロベルト。長い栗色のポニーテールが揺れる。青い瞳は澄み切った湖のように澄んでいる。彼女はワガドゥーに通っているカナダ人だ。ワガドゥーは世界最大の魔法学校である。そこは様々な国から優秀な生徒を集めている。五百年ほど前までは、アフリカ大陸からしか生徒を受け入れていなかった。しかし、それでは生徒のいい刺激にならないのではと考えた第十五代目校長、ヨハン・アミンは現在のように様々な国から生徒を受け入れる形にしたという言い伝えがある。
◆◇◆◇
決闘や切磋琢磨して勝ち取った勝利は、魔法を操る者にとって何よりの喜びである。その瞬間には、自分自身の魔法力を信じ、相手の弱点をつく戦術を練り上げ、そして自分の想像力を最大限に発揮することが必要である。
勝利の瞬間には、心の底からの満足感が生まれる。決闘や切磋琢磨を重ねることで、自分自身の魔法力に対する自信もつき、自己成長にもつながる。そして、相手との熱い戦いを通じて、絆を深めることもできる。
しかし、勝ち取った勝利には責任も伴う。敵を傷つけた場合、その責任を取る必要があるし、勝ったことで相手を見下すことは許されない。勝利は、自分の魔法力を高め、相手との絆を深めることができる貴重な機会であり、常に謙虚な心を持ち続けることが大切だ。
ワガドゥーでは、実践形式の授業が多いため決闘という生徒同士の戦いも多々見られる。
魔法とは魔法使いのイマジネーション力によって、その威力・規模・精度が左右される。相手がどのようになるかを具体的に想像すればするほど、そして鍛錬を積めば積むほど、その呪文は完成度を増していく。
ひとえに空と言っても全く同じ空はない。魔法も同じだ。人により、魔法の形は異なる。
ナディアは深呼吸して体全体に力を込め、地に足をつけ、怒涛の勢いで手から魔法陣を繰り広げた。古来より自然のエネルギーを変換させてその力を魔法として使われてきた。身体全体にエネルギーを集め、草木や風、大地の力を感じ取りながら、魔法陣を形成していく。自然のエッセンスと一体化することで、より強力な魔力を引き出すことができるのだ。
一つ、指を鳴らす。
相手の魔法陣から放たれた植物の蔦が破裂音に呼応して現れた炎で相殺される。少しずつ相手に近づく。相手は植物を使った魔法を駆使し私の足を止めようとするが、相性が悪い。私の魔法陣から放たれる炎に飲み込まれ跡形もなく消えていく。残るのは僅かな煤だけであった。
驚愕したように目を見開く顔が、やけに明瞭に見えた。
魔法に焦りは禁物だ。一度もつれた思考の糸は、再び手繰り寄せることは困難。乱れた戦闘のテンポも、相性の悪い魔法への対処も、もう遅い。
「はぁっ!」
勝負は一瞬。一気に間合いにつめ、ゼロ距離で衝撃波を放つ。顎めがけて放たれたそれは彼を場外まで吹き飛ばすには容易な威力であった。
足元にはにはキラキラしたものが散乱していた。防御魔法の展開が遅れ、顎にモロ入ったため当分起きることはないだろう。詠唱は基礎を身につけるにあたり大事なことだが、詠唱ひとつで命取りになる場面がある。そのため、何かと争いの多いワガドゥーでは無詠唱で魔法を教えることが多いのだ。
戦いが終わっても、その熱が簡単に冷めることはない。ナディアの瞳孔は細くなり、時折口からこぼれる息はどこか苦しげな様子だ。その瞳の奥には何か熱い熱意を感じる。
「本当にナディは強いな」
熱い日差しに汗を拭っていると頭にタオルが被さる。そこでようやくナディアは自分を取り戻す。彼女はタオルを投げ渡された方向を向く。そこには笑顔の眩しい青年が立っていた。彼の名前はジョン。正式にはジョナソン・ルニック。鮮やかに映える短めの黒い髪を持ち、顔にはそばかすがちらほらと見える。目は赤色で背格好は周りに比べると少し小さめだが、気はすごくいい。例えるなら、ゴールデンレトリーバーのような、ひまわりのようなそんな男である。出身国はアメリカでよく「揚げたてのフライドポテトが食べたい!」と叫んでいる私の友人だ。
彼の後ろにあるスコアボードには丸が5個続いていた。
「……わたしなんて、まだまだよ」
「まさかぁ!こんなに勝ってんだぞ!」
タオルで汗を拭いながら、ナディアは凛とした声でジョンにそう言う。ここでは負けなしだが上には上がいる。だからこそ油断は大敵だ。調子に乗ると足元を救われると教えてくれたのは地元で負けなしの母だった。
「どんな状況であっても、油断はしてはいけない」
至言だ。ナディアはその言葉を聞いて以来、心に留めて決闘に挑んでいる。母は過去に油断をして、とある相手に負けたらしい。それ以来、たとえ勝てる相手でも気を緩めずに相手をしているそうだ。それだけではない。この心構えは全てに通じるものがある。勉強においても、戦いの場においても油断して勝てる勝負に負けたという話は何度か聞いたことがある。肩にかけていたタオルをジョンに投げる。
「さぁ、次よ!」
ナディアに起こったこの感情はまだ治まりそうにない。
日が真上に到達したころ、お昼休みの鐘がなった。生徒の動きが鈍り、鐘の音に耳を澄ませる。先生の授業終了の声とともに、腹をすかせた生徒たちの声が学校全体にこだましていく。
「昼飯の時間だぞ!大食堂に食べに行こうぜ」
ジョンも例外ではなく、授業が終わった瞬間に私の元に走ってきた。
「ごめんなさい、先生から呼び出されているの。だから先に食堂で食べていて」
ジョンは、そうか、と残念がる素振りもなく私と別れた。彼の頭は食堂のことで一杯なのだろう。昼前は常にそうだ。
実はこの授業が始まる前にダイン先生から呼び出されていたのだ。変身術の教授を務めるダイン・フンベルトはエジプト出身の魔法使いだ。柄物が好きらしく、いつもカラフルなベストを身に纏っている。褐色の肌は日に焼けたものではなく、生来のものであろう。目元にはクレオパトラの時代から脈々と受け継がれてきた魔術儀式的な化粧が施されている。呼び出された時、先生は普段閉じている目を開けて真剣そうな面持ちをしていたのが記憶に新しい。
元の綺麗な服を思い浮かべ、清めの魔法をかけながら私は廊下を早足で目的地に向かっていた。約束の時間まであと3分。この学校には制服がないため、生徒の学年を一目で特定することは難しい。だから、スカートを下ろせなどの些細なことで怒られることもあまりない。学外に出る時には式典服のように皆同じものを着なければならないが、そんな特別なことが起きない限り、服は自分で決めていい。制服はないのだが、生徒たちは学年別に異なる魔法生物の牙を与えられている。各自で好きなように加工し、身につけることがワガドゥーの数少ない規則の1つである。生徒同士で無駄な争いを避ける一因として、個人的には大いに役立っている。
約束の変身術の教室に到着する頃には、服も綺麗に乾き切っていた。
ナディアは、息を整えて、髪の毛や身支度を確認して、扉を3回ノックする。
「入ってくれ」
中から先生の声が聞こえる。「失礼します」という言葉と共に私は中に入った。変身術の教室はいたって普通の教室だ。一枚板の机が三列並べてあり、椅子がそれぞれ置いてある。あとは黒板があるだけの特に珍しいものなどない普通の教室だ。先生の私物である謎の天秤やアヌビスの置物、そしていい香りのするお香が置いてあることはとても気になる。
教室に入ると、奥の準備室の方に通され紅茶を振る舞われた。空中でポットとカップが踊り、紅茶が宙を泳ぐ。紅茶は魚や海豚などさまざまな形に変化する。魚の形をした紅茶は一通り泳ぐとポットの方に戻っていった。そんな一発芸のように淹れられた紅茶はなぜか風味が増して美味しかった。
「どうだった? 生徒たちには評判が良いのだけど」
「……斬新でいいと思います」
うんうん、そうだよね。かなりの力作なんだ、と先生は自分で自分を称賛している。この先生は正直に言って何を考えているかわからない時がある。単純に生徒を喜ばせるためなのか、それとも何か意図があるのか。ナディアは警戒を解かずに目の前に座る男を見る。
本当に、わからない先生だな。
ナディアは紅茶を啜る。その紅茶は美味しかった。
「さて、緊張はほぐれたかな」
「早速だが本題に入ろう」
少し温くなった紅茶が入ったカップをソーサに置いて一息。
「ナディア・ロベルト君。留学に興味はないか」
「留学……ですか?」
「あぁ」
困惑する彼女の前に差し出されたのは、イギリスにあるとされるホグワーツ魔法魔術学校の留学に関する案内書類と親の了諾書だった。
案内書に手を取り、ぱらりと開く。留学は一年。希望すれば延長も可能。そして一年のスケジュールが見開きに描かれていた。ペラペラとページをめくっていると先生は授業のことを説明してくれた。
「ホグワーツは、必修科目に変身術、呪文学、魔法薬学、闇の魔術に対する防衛術、天文学、魔法史、薬草学に魔法薬学のほかに、選択科目の魔法生物学、占い学、マグル学に古代ルーン文字学の七個の必修科目と五個の選択科目の十二個の授業で構成されている。まぁ、ほかにも飛行訓練や姿現わし練習コース、錬金術もあるがね」
「変身術、錬金術、そして天文学は我が校の学びに及ばないと思うが、他の授業は何か学びがあると思うよ」
先生はわかりやすいように、中に絵や文字を描いて説明してくれた。ワガドゥーでは、変身術、錬金術、天文学の分野の評価がいいと有名な学校だ。この三科目は我が校の足元にも及ばないだろう。だが、自分の苦手な魔法薬学や薬草学では何か学びがあるかもしれない。ダインは、ナディアに問いかける。
「君は以前専門的に学びたいことがあると言っていたね」
「はい」
「我が校の留学は教師による推薦制なのだが、君は申し分ない成績を持っている。留学で得られるものは多いだろう。もし君が行きたいというなら私から推薦状を書いておこう」
これでも、私今年の留学担当なのでという発言はさておき、確かに魅力的な誘いだ。ホグワーツに行けば、確実に学びはあるだろう。だがまだこっちでやりたいこともないわけではい。
辺りを静寂が支配する。ナディアは一言も喋らず、顎に手を当てて、眉間に軽く皺を寄せる。
頭の中でいろんなことを議論していると先生はそれを察知したのか「まぁ、前向きに検討してくれ」という言葉で一旦お開きになった。
この日、ナディアは全くと言っていいほど話が入ってこなかった。お昼ご飯は結局食べれず、友人たちにも心配されたがどこ吹く風である。後日、ジョンから「昨日のお前、中身のない人形みたいだったぞ」と言われたのは記憶に新しい。
夜、就寝前。机の上にある小さな灯りが部屋を照らす。ナディアはベットの上にいた。
先生が言った話を思い出し、うっ、とうめき声を上がる。先生の紅茶は美味しかったのだが、それでもあの胡散臭さを消し去ることはできなかった。留学の話はモワモワと彼女の頭を悩ませる。
ベットに寝そべり、机に視線をやる。机の上には先生からもらったパンフレットが開かれた状態で置かれている。
◆◇◆◇
「留学対象者は明日、荷物と箒を持って玄関ホールに集合だからな。」
そう言われたのは留学に向けてホグワーツに出発する前日のこと。留学にはあの後先生の説得もあり行くことに了承した。
しかし、留学まで後二週間弱しかないと知らされた時は流石に先生のことを疑った。
「もし、断られたらどうするおつもりだったのですか」
「その時は君に泣きついてでも行くって言ってもらおうと考えていたよ!」
あっはっはと笑い飛ばす。そして明らかに目を逸らす男が一人。こめかみを抑え、ため息しか出ない。
留学には本人と親の同意書が必要だ。それはどの生徒にも適用されること。同意書を渡すと、日程は後日知らせると言い残しシュッと颯爽と去っていた。
取り残されたナディアは、渡された紙を眺める。
流石に遅すぎないか。心の中でそう思った。あと二週間の時点で普通留学に推薦するかよ、と心の中で強く思った。しかも、この留学は親の同意書がなければ絶対に行くことはできない。
そう、絶対に。
自分の同意書はさておき、親の同意書を後二週間でどのようにしてカナダまで届けようか。期間も期間のため、親に事情を説明すべく、ペンを取る。しかし、問題は距離だ。アフリカ大陸にあるワガドゥーとカナダ。手紙なら煙突ネットワークという手もあるが、この学校には限られた場所にしか暖炉がない。煙突ネットワークを使ったとしても、2週間と言う短い期間では往復することはもちろんのこと、期間内に届くかも怪しい。
だが,あの手は……。ナディアにとってそれは最終兵器のようなもので使わなくてもいいなら使いたくない。悩みに悩んでついに決意を固める。背に腹は変えられない。部屋を後にとある場所に向かった。
明るい光が天井から差し込み、木々の間から漏れる陽光が、地面を温かく照らしている。そこには、茂みや草木が生い茂り、小さな鳥たちが忙しく飛び交っている。その中に、ひときわ大きく、美しい木がある。その木は、幹が太く、根がしっかりと地面に張り付いている。枝には、たくさんの葉が茂っている。その中に、小さな隙間があり、そこから外に出ることができる。そこは、木々の中でも特に明るく、風が爽やかに通り抜ける。
ここは学校に常駐している遠方向けの郵便物を専門とするエリート部隊、「
「カナダの……」
B・Uの受付に住んでいる住所を伝え、両親に宛てた手紙と同意書の入った封筒を机に置く。
「二週間以内に往復でお願いします」
「ありがとうございます。では合計が十五ガリオンになります」
お金を一枚板のカウンターの上に置くと、受付の人はお金と共に奥に引っ込んだ。そして一匹の鳥を連れて戻ってきた。
「彼が今回運送を担当するシロハラアマツバメのユンです。ここで一番の速さと持久力を持っています」
B・Uは名前にフクロウというものがついているだけで、ハヤブサからスズメなどさまざまな鳥が所属している。この営業を始める時、フクロウのみだったことからこの名前がついたと前説明してもらった。
鳥の足についている認識不可能拡大魔法をかけられた袋に手紙を入れると、鳥を上に放り投げた。鳥は上へ上へと飛んでいき、小さな隙間から外へと旅立った。
手紙と同意書はこのような方法で送り、返事も無事に届いている。お父様からの手紙には同意書の他に手紙が一通添えられていた。部屋に帰ってからお父様からの手紙に目を通した。私が手紙で伝えたかったことは全て伝わっているようで安堵の息をこぼす。それなら問題はない。留学に備えるだけだ。ナディアは手紙をきれいに折り畳んだ。
留学の日はすぐに来た。
朝、薄暗く辺りには誰もいない。トランクを持ち、向かうは昨日告げられた集合場所。昼などの人がいる時間に出発するとかえって邪魔になるため、留学の際は早朝に出発することがこの学校の決まりだった。
「おーい!こっちだー!」
玄関ホール付近につくと遠くの方から声がする。集合場所が間違っていなかったことに安堵するがその姿を見て絶句した。
「早くこいよー!」
なぜあの男がここにいるの。私が留学中はワガドゥーにいるはずではないのか。ナディアは自身の見ているものが現実だとは信じられなかったが、目の前の相手に声をかける。
「なんで、あなたがここにいるのよ
ジョン」
いるはずのない友人のジョンは笑顔で答えた。
「おはよう、ナディ!俺もホグワーツに行くぜ!」
ジョンは朝食の残りであろうパンを齧りながら首を傾げた。全くもって初耳である。驚いている表情が出ていたのか、ジョンは言い放った。
「実は俺クディッチの強化選手に選ばれたんだ!まぁ、俺はお前と違ってクディッチの技術向上のために行くからな」
かなり驚愕はしたが、知りあいがいるとそれだけで心強い気はする。
「諸君、おはよう!時間きっかりに集まってくれてありがとう。まずは自己紹介を、私の名前はダイン・フンベルト!みんな知っているとは思うが変身術の教師をしている。そして、今回の留学担当でもある」
この前会った時のダイン先生と全然違う。しっかりしていて、頼りになりそうな先生。まさか、時と場所によって人格が変わるのか。
「さて、今からホグワーツに向かうのだが、その前に」
ダイン先生は普段あまり使わない長身の杖を取り出した。杖には、細やかな装飾が施されており、杖の先は蛇の形をしており、今にも動き出しそうだった。
「ただ行くのでは君たちのためにはならないだろう?」
そう言った先生はとても悪い顔をしていた。
「お前たちももう一年や二年の様に幼稚ではないはずだ!そこで、君たちには自分の足で向かってもらおうか!我が校は自由が売りだからな。これは自分自身の鍛錬だと思え」
その言葉でみんなの不満が爆発する。「このクソ野郎!ロンドンまでどんだけ離れてると思ってるんだ!」とか、「冗談はその態度だけにしとけ!」とか、杖を使い先生に向かって攻撃をしたり、しまいには持っていた朝食を先生に向かって投げ捨てる者までもいた。だが、先生はただ笑って、全ての攻撃を避けていた。悪口を言った先輩は見えない何かに殴られていたのを、ナディアは見逃さなかった。
腐ってもこの学校で長年教鞭を振るっているだけのことはあった。ダイン先生は表情を変えずに話を続けた。
「ここでは基本的に何をしてもいい。だが、必要のない呪文の乱用はなしだ。箒は使ってもいい。でも、アルムサイダーには見つかるなよ。目的地は漏れ鍋というロンドンのパブだ。今から気休めだが地図を渡す。これを頼りに向かってこい。日時は五日後。とにかくこの日時までにこの場所に来られたらよしとする。もし、五日後までに来られなかったり、ルールを破ったり、アルムサイダーに正体を見破られた生徒は、留学の資格はないとみなしワガドゥーに強制送還とする!」
「では、長々とした説明はこれくらいにしておいて、諸君の健闘を祈っている!」
では、また会おうという言葉とともに先生は杖を振るった。すると先生は光の粒と一緒に消えてしまった。
その声とともに、各々が行動を始めた。
鳥やうまになり、目的地に向かうもの。
箒にまたがり、空を飛んでいくもの。
おどおどして、何もしていないもの。
「どどど、どうしよう!ナディ!」
私たちは後者であった。青ざめた顔で、縋り付いてくるは先ほどまで呑気にパンを食べていたジョン。相変わらずパンはしっかりと手に握りしめている。
「とにかく、出発しましょう」
二人はトランクから箒を取り出し、またがり宙に浮かぶ。
この学校では任意ではあるが一、二年の時にアニメーガスを取得する授業が行われる。もちろんナディアもジョンも取得済みだった。アニメーガスの中には、移動に長けたものもいなくはない。しかし、二人の取得したアニメーガスは長距離の移動に不向きだった。時間が限られているのなら箒で移動した方がより早く着けると考えた。
「とりあえず、エジプトに向かいましょう。五日しかないのだもの。とりあえず距離は稼いでおいて損はないわ」
ロンドンまで、最短距離で行くにはエジプトに一度寄ったほうがいい。エジプトは古くから魔法の溢れる魔法使いにとっては、かなりの大規模な街。おそらく、エジプトのどこかには私の探し求めているものがある。それをうまく使えば……。ナディアは、少し顔がこわばる。
必要最低限の食料と水は用意している。コンパスをふよふよと浮かせ常に方角を確認できるようにする。生憎、私たちは犬のように方角がわかる動物ではないので。
目指すは北に位置する魔術の盛んな国、エジプト。
「みろ!朝日だ!」
眩しい朝日が私たちも照らす。まるで私たちを祝福してくれているかの様に。
二人のデットヒートは始まったばかりである。
胸の中は未知なるものへの探究心で満ち溢れていた。
◆◇◆◇
あの熱い声援から数刻後、ダインはカフェテリアで優雅に紅茶を飲んでいた。カフェの中には、粋なジャズが流れている。
だが、普通のティータイムとは違う。
彼は、ティーカップをソーサーに置いて、前に視線をやった。
目の前のモニターに映るのは、苦労してロンドンに向かう大切な子どもたち。あるものは動物になって、そして、あるものは箒に乗って、それぞれがそれぞれの方法を用いてロンドンを目指す。
「今回は一体どれだけ残るかな?」
それを見てダインは笑みを浮かべる。このチキチキレースはただのレースではないのだ。日時が過ぎるまでこのレースは終わらない。
そう、たとえ、行方不明者が出たとしても……。