仮にもアイドルとプロデューサーという関係の男女がデートに行くのは如何なものか。それが、必要な行為だったら良い。だが単純に遊びに行くというのは、言い訳が出来ないだろう。
SNSが普及している現代社会に於いて、もしその場面を他人に見られたら篠澤広というアイドル人生は誇張なく幕を閉じる事になる。
そのような事を俺は言い、到底賛同出来ないと伝えた。
しかし、篠澤さんは強情だった。
曰く、そもそもデビューすらしていないアイドル未満の女の子が異性と外出していようが誰も気にとめないとの事。
……なるほど。確かに、一理あるだろう。
だが、と、もしもの事を俺は考えてしまう。学園のホームページには広報活動の一環として、アイドル科の生徒の写真が載っている。それには当然、篠澤さんもそうだ。全く知名度がないとは言えない。
そんな俺に向かって、篠澤さんはどうしても行くのだと訴え──いつになく強い輝きを放つ琥珀色の瞳に見詰められた俺は、気が付けば首を縦に振っていた。
──そして、約束の日。残念ながら天気は雲一つない快晴。
俺は篠澤さんが事前に指定してきた場所、即ち、大型ショッピングモールまで足を運んでいた。俺は篠澤さんが先に来ていない事を確認すると、メインゲート近くの設置されているベンチに腰掛け、メッセージを送った。
すぐに、ピコン♪ と返信を告げるサウンドがスマホから鳴る。
『集合時間まであと三十分あるよ。そんなに楽しみだった?』
『時間に余裕を持って行動したいだけですよ』
『そういう事にしておくね』
まだまだ篠澤さんの事は分かっていないが、俺はこの時ばかりは確信した。間違いなく今、篠澤さんはドヤ顔になっているだろう。
『倒れないように、ゆっくりと来て下さい』
『うん、そうする』
『待たせてごめんね』と続いたメッセージに俺は少しだけ表情を緩めると、ベンチの背もたれに少しだけ身体を預けた。
何となく、前を通り過ぎていく人々を観察する。週末という事もあり、老若男女問わず、沢山の人が笑顔で行き交っていた。
その中には、初星学園の生徒と思われる姿も見受けられる。
「──よう、こんな所で何をしているんだ?」
顔を横に向けると、そこには気さくに片手を上げている親友が立っていた。彼の担当アイドルも居る。
買い出しだろうか。
俺は親友に、担当アイドルと外出の約束をしている事を正直に伝えた。すると、彼は少しだけ驚いたように目を開けた。
「その格好……備品の買い出し、って訳じゃないよな?」
その質問に、俺は頷く。
普段のプロデュース活動中はスーツを着用しているが、今日は私服である。これも、篠澤さんの指定だ。もし俺がスーツで行けば無理なレッスンをして倒れると脅迫されれば、俺に選択肢はない。
その事を伝えると、親友はさらに驚いたように言った。
「お前の担当アイドル、中々の強者だな。お前を言い負かすなんて、並大抵の奴じゃない」
そんな事はないと思うのだが、親友は俺の内心など知らずさらに続けた。
「お前は頑固だからな。俺には分かる。お前、今日の外出はあんまり乗り気じゃないんだろ?」
俺は言葉を濁した。
そしてそんな俺を見て、親友は口角を上げる。
「なあ、良い加減お前のアイドルを紹介してくれよ。気になってしょうがない。俺はお前にこいつを紹介しているんだから、不公平だろうが」
俺は曖昧に頷き、機会があればと答えた。
当然、親友は納得しなかった。子供のように駄々を捏ね始める。
親友は俺の事を頑固だと言ったが、彼も大概そうだ。こうなったら最後、
いつもなら、苦笑と共に俺が先に折れている場面だ。
だが──今回は。今回に限っては、そうしたくなかった。
どうしようかと俺が深く悩んでいると、それまで黙っていた人物が動きを見せる。 穏やかに窘めた。
「まあ、プロデューサー。これ以上の長居は、お馬さんに蹴られてしまいますよ」
「はあ? どういう事だ?」
困惑する友人。
それを横に、彼の担当アイドルはにこやかな微笑を携えると頭を下げてきた。
「失礼しました、広さんのプロデューサーさん。さあ、行きますよプロデューサー」
「あっ、おい! 服を引っ張るなよ! 伸びちまうだろうが!」
俺はモール内に消えていく二人を見送ると、長嘆した。
まず間違いなく、親友の担当アイドルに助けられたのだろう。それは有難い事であったが、同時に、俺にどうしようもない敗北感を与えてくる。
篠澤さんより先に来たのは、間違いでもあり、正解でもあった。
俺は自身の担当アイドルが来るまでの間、行き場のない激情を胸の内に収める事に専念する事に費やした。
「──お待たせ。待った?」
そんな声と共に、篠澤さんが現れる。
俺はベンチから立ち上がると、彼女に向き合った。幸い、頭は冷えていた。
「……いいえ、待っていません──と、答えるのが良いのでしょうが。それを言うのは無理がありますね」
「ふふっ。そうだね。でも、プロデューサー。わたし、時間には間に合ってるよ」
「ええ。だから、大丈夫ですよ」
「うん。なら、良かった。それじゃあ、行こう?」
そう言うと、篠澤さんは「ん」と片手を俺に差し出してきた。
「……握手をご所望ですか?」
「プロデューサー、分かっている事を聞くのは非効率的だよ」
正論を突き付けられ、俺は歯噛みした。そんな俺に、篠澤さんは言う。
「わたしは、確かに言った。デートに行こうって。そして、プロデューサーは了承した。違う?」
「いえ、了承した訳では……」
「それなら、わたしとの約束は破れば良かった。来なければ良かった。違う?」
琥珀色の瞳が、俺を真っ直ぐと射抜く。
長い沈黙の末、俺はせめてもの抵抗で溜息を吐いた。そして、外聞を気にするという振りをわざとらしくしてから、今にも落ちそうだった篠澤さんの手を取る。
篠澤さんは、たおやかに微笑んだ。
「わたし、デート初めて。プロデューサー、エスコート、お願い」
「……あまり、期待しないで下さい。俺も、異性との『デート』は初めてですから」
「……! ふふっ、わたしたち、初めまして同士、だね」
何が面白いのか。篠澤さんは笑みを深くすると、おもむろに歩き始めた。それに釣られ、俺の身体も動く。
彼女の細腕に俺を引っ張るだけの力はない。そうだと言うのに、俺の身体は無抵抗に動いていた。
繋がれていた手から伝わる温度はあたたかく、俺の手の中にある彼女の手は小さかった。
「わ。人が沢山。すごい」
それが、ショッピングモールの室内に入った篠澤さんの第一声だった。
口を少しだけ開け、目も普段よりも開いている。
「佑芽さんや倉本さんとは来ないのですか?」
「うーん、あんまり。わたし、人混みの中に居ると潰されちゃうだろうから。佑芽も千奈も、わたしを気遣ってくれているんだと思う。学校か、寮のわたしか佑芽の部屋な事が多い。それか、千奈のお家」
「なるほど。それなら篠澤さん、何故、今日はここを選んだのですか?」
休日という事も相まって、ショッピングモールの利用客はとても多い。篠澤さんの体力の無さを思えば、此処は適してないだろう。
体力の無さだけではない。篠澤さんが、賑やかな場所よりも静かな場所を好むであろう事は、まだまだ彼女に対して理解度が足りていない俺でも分かる。
「理由を尋ねても?」
「ネットで調べたら、こういった施設はデートの定番スポットだって書いてあった。さっきも言ったけど、わたしは、デートをするのは今日が初めて。先人の知恵を借りた」
それは正しい判断の一つと言えるだろう。
「さて、プロデューサー」
「はい、何でしょうか」
「今から、どうしよっか」
俺は思わず、ジト目で篠澤さんを見てしまった。
悪びれず、彼女は滔々と語る。
「色々と考えてみたけど、やっぱりわたし、
「……なるほど」
「プロデューサー、何処か行きたい場所はある? わたしは、何処でも良いよ」
投げやりという訳ではないだろう。篠澤さんが俺を見上げてくる。
彼女は、出来る事をやったと言う。そしてその上で、事前に計画を練るのではなく当日の行き当たりばったりの破綻しかねない選択肢を取った。
何処でも良いというのは、建前ではなく本音だろう。
それなら、と。俺は少し考えてから言った。
「書店にでも行きましょうか」
「うん、良いよ。わたしも、前から気になっていた本がある」
「それでは、まずはそうしましょう。えっと、確か書店は──」
このショッピングモールには何度か来た事があるが、こうも人が多いと方向も定かではない。
頭の中で地図を思い浮かべようとする俺に、篠澤さんは間髪入れずに言ってきた。
「プロデューサー、このショッピングモールに書店は一店舗しかない。そして、そのお店は、こっち」
くいくい、と袖を引っ張りながら、篠澤さんがある方向を指さす。俺は少しばかり驚いた。正解だ。
「あまり来ないという割には、覚えているようですね」
篠原さんとはぐれないよう──または、押しつぶされないよう──注意しながら、俺はそんな事を篠澤さんに尋ねていた。
篠澤さんはあまりの物量に顔色を悪くさせながらも、短く首肯し、こう答える。
「この中にあるお店と場所、全部、覚えてきたから」
「……今、何と?」
「……? この中にあるお店と場所、全部、覚えてきた、よ?」
「…………それは、凄いですね」
俺が褒めても、篠澤さんは不思議そうに小首を傾げるばかりだった。
こういう時、篠澤広という人間の天才性を感じる。
それと同時に、何度も思う。何故、約束された将来を全て擲ってまで過酷な道を選んだのか、と。
「あっ、見えてきたよ」
篠澤さんが声を上げる。
俺達は人混みの中から抜け出すと、書店に入った。とはいえ、書店もかなりの客で埋まっている。
小さいながらもカフェが併設されており、静謐な時間が流れていた。
「プロデューサーは、どんな本を読むの?」
「そうですね。アイドル関係の雑誌は勿論プロデューサーを目指している者として読みますし、推理小説も読みます。あとは漫画なんかも、時々」
「ふぅん。そうなんだ。ね、わたしに教えて」
「……? 俺が読んでいる本を、ですか?」
「うん。興味がある。知りたい」
そう言って俺の顔を見上げる篠澤さん。その琥珀色の瞳は好奇心で輝いていた。
これは俺の個人的な考えでしかないのだが、自分が普段から読んでいる本を紹介するというのは、中々に勇気がいる事だと思う。
自分の歩んできたこれまでの人生、それが大なり小なり浮かび上がってくると思う為である。
それは照れ臭くて、中には嫌だと感じる人もいるだろう。
「──ふむふむ。プロデューサーは、こう言った本を読むんだ」
篠澤さんが興味深そうに、俺が勧めたアイドル雑誌の表紙を見て呟く。
今の俺達は傍から見たらどのように映っているのだろうか。
そんな事を、思う。
交際している男女が一番の候補なのだろうが、俺達はそうではない。その事を知っているのは、当事者である俺達だけだ。
アイドルと、そのプロデューサー。それが俺達だ。
だが、と同時に思う。
篠澤さんは、今日の外出を『デート』だと言った。
そして、俺も渋々ではあるが、この外出を『デート』だと認識した上で此処にいる。
で、あるならば。名前こそ違えど、今の俺達はそのような関係なのだろうか。
少し考えて、それは違うと結論を出す。
この違和感を言語化する事は至難であり、俺が篠澤広という人間を理解した時に初めて解ける難問なのだ。
「ね、プロデューサー」
雑誌を陳列棚に戻した篠澤さんが、俺の名前を呼ぶ。「はい、何でしょうか?」と聞き返すと、彼女は至って真面目な表情で爆弾を放り投げてきた。
「プロデューサーは、おっぱいの大きい子が好き?」
「ゴホッ、ゴホッ!?」
噎せ込む音が、書店に響く。周りの客から送られてくるのは、好奇と非難の眼差し。
「わ。大丈夫?」
大丈夫なものですか! そう叫びたい衝動を理性で抑えた俺を、誰か褒めて欲しい。
俺は呼吸を無理やり落ち着かせると、篠澤さんを睨んだ。しかし俺の喉の痛みを、彼女はちっとも分かっていないようで、不思議そうな顔をしている。
「……すみません。意味が分かりません。どうして、先程の質問を?」
篠澤さんは、真剣な表情で、真剣な口調で言った。
「プロデューサーが勧めてくれた雑誌、どれもおっぱいの大きい子が表紙だったから。そうなのかな、って」
「……たまたまですよ、それは」
「本当に?」
「…………ほんとうです」
「本当の本当に?」
「………………ほんとうのほんとうです」
琥珀色の瞳から、俺は逃げた。
そんな俺に、勢い付いた篠澤さんは容赦しない。
「だから、佑芽の事は名前で呼ぶの?」
「……あの、何故そこで佑芽さんの名前が出てくるんですか?」
「プロデューサーは、佑芽の事は名前で呼んでいるから。わたしの知る限り、プロデューサーは、人の名前を呼ぶ時は苗字。でも、佑芽は違う。好みの女の子だから、差別化しているのかなって思った」
「断じて違います。佑芽さんはお姉さん──
「……。……ふぅん」
納得したのか、していないのか。ともあれ、それ以上、篠澤さんが追及してくる事はなかった。
ただ、自分の胸部に視線を落としていたのは気になったが。
これ以上此処に居ては危険だと判断し、雑誌コーナーから離れ、次は文庫本の置かれているエリアに移動する。
「推理小説を読むって言ったけど、具体的にはどんなのを読むの?」
「最近読んだのは、これですね。とても面白かったですよ」
言いながら、一冊の分厚い本を棚から取り出す。それを手渡すと、篠澤さんは「ありがとう」と受け取るとパラパラと頁を捲った。
「面白そう。読んでみる」
「何だったら、俺のを貸しましょうか?」
しかし俺の提案を、篠澤さんは丁寧に断った。
「ううん、大丈夫。それだと、意味がないから。他にも教えて欲しい」
「分かりました。他には、そうですね──」
それから三冊ほど、俺は作者が異なる推理小説を勧めた。そして驚くべき事に、篠澤さんはその全てを購入すると言った。
「俺に気を遣っているのでしたら、大丈夫ですよ?」
「そんな事はない、よ。どれも面白そう。さすが、プロデューサー」
「褒めて頂けるのは嬉しいですが……」
どうにも腑に落ちない。
篠澤さんは
「次は、漫画を教えて欲しい」
「漫画も、ですか」
「うん。小説はわたしも馴染みがあるけど、漫画は全くない。プロデューサーが読んでいる漫画を、教えて欲しい」
それから漫画コーナーに移動し、俺は幾つかの漫画を紹介する。
国民的な作品から、俺個人が追っている作品まで。
そして先程と同様に、篠澤さんはその全てを購入すると言い出した。
「いやいや、流石に全ては無理ですよ、篠澤さん」
一巻で完結する事が多い小説とは違い、漫画は連載形式である。ましてや俺が勧めた作品は、そのどれもが長編であり巻数が多い。
「この書店には、有料だけど宅配サービスがある。それを使えば良い」
「学生寮に全て置けるとは思えません。管理も大変ですよ」
部屋がどのような状態なのかは分からないが、そこまで広くはないだろう。限られたスペースに、大量の漫画を置く余地はない。
「というかそもそもの話、お金はあるんですか?」
「うん、ある。口座、見る?」
そう言って、篠澤さんはスマホを取り出すと銀行アプリを開こうとする。俺は慌ててそれを制止する。
「どうしても買いたいのですか? 篠澤さんに大人買いするだけの資金があるのはよく分かりましたが、買ってから面白くなかったと後悔するかもしれませんよ?」
「それはない」
「断言しますね」
「わたしは、プロデューサーを信じている。この子達は、きっと面白い。それに例えそうじゃなくても、大丈夫。だって、
「研究資料、ですか……?」
「そう」
篠澤さんは深く頷くと、一歩も引かない姿勢を見せた。
彼女なりの理由がそこにはあるのだろう、と俺は推測し、代替案を出した。
「それなら、電子版はどうでしょう? スマホ一つあればいつでも読む事が出来ますし、もし篠澤さんが紙の形式に拘りがなければ、その方が良いかと」
「そうだね。うん、分かった。そうする。でも、小説は直接買いたい。駄目?」
上目遣いで、篠澤さんは聞いてきた。
俺は少し考え、そのおねだりに答える。
「まあ、小説でしたら数は少ないですし……それくらいでしたら寮の保管も容易でしょう。良いですよ」
「やった」
「早速買ってくる」と篠澤さんは俺の返事を聞かずして会計に向かう。
俺はその背中を見送りながら、そう言えばと、思った。
俺はお茶を濁すつもりで、篠澤さんを書店に誘った。その提案に対して、篠澤さんはこう答えていた。
前から気になっていた本がある、と。
しかし、彼女の腕の中にあるのは、俺が紹介した本だけであり、元来の目的が果たされているとは思えない。ましてや彼女は俺から別行動を取る事もせず、ずっと俺の傍にいた。
そして、決定的なのは、彼女が口にした研究資料という言葉。
これらの言動から考えられるのは──。
俺が一つの答えに辿り着こうとしたそのタイミングで、篠澤さんは戻ってきた。黒色のビニル袋が、すっぽりと両腕に抱えられている。
「持ちましょうか?」
「ううん、大丈夫。でも、ありがとう。嬉しい。何だか今の、彼氏みたいだった、ね」
返答に困る事を平然と口にする篠澤さんに、どう反応したら良いかと俺が悩んでいると。
彼女は、「次、どこ行く?」と尋ねてきた。
「何処か行きたい場所は出てきましたか?」
「ふふ、お店が沢山あって、迷う」
「まだ特別決まってないのなら、少し早いですが、昼食にしましょう。この混み具合です、遅れてしまえば最後、長蛇の列に並ぶ可能性もあります」
「わたしはそれでも良いよ」
俺は思わず半眼となってしまった。
「体力のない篠澤さんが、長時間立ち続けるのは至難です」
「正論。反論の余地はない」
「ほら、行きますよ。何か食べたい物はありますか?」
「何でも良い。プロデューサーが決めて良いよ」
それはまた困った事を言う。
女性の言う何でも良いとは、自分が気に入っている物なら何でも良いのだと、以前テレビで特集されているのを見た事がある。
勿論、世の中の女性全てがそのような考えではないだろう。
問題は、篠澤さんがどのような考えの持ち主なのか、という事だ。
普段の彼女を思えば額面通り受け取れば良いのだろうが、しかし、女の子アピールする時があるのも事実。
悩む俺を見兼ねてか、篠澤さんが口を開く。
「ほんとうに、何でも良い、よ」
「本当ですか?」
「うん。ただ、一つだけ注文しても良いのなら、わたしが普段行かないような場所だと嬉しい」
それはまた難題だ。
俺を溜息を吐こうとして……キラキラと期待で輝かせている琥珀色の瞳を見て、すんでのところで口を閉ざした。
「後で文句言わないで下さいね」
「うん」
首を縦に振る篠澤さんを連れ、俺はレストラン街に足を向ける。
昔ならいざ知らず、最近のショッピングモールはこう言ったレストラン街にも力を入れている事が多い。寧ろ、このレストラン街を売りにしている所もあるくらいだ。
そして、移動を初めて数分後。俺達は一軒の店の前に立っていた。
「此処は……ラーメン屋、さん?」
「ええ、正解です。篠澤さんならあまり訪れた事がないだろうと思い、此処をチョイスしました」
「ふふ、正解。わたし、ラーメンはあまり食べない。正確には、食べられない。量が多くて食べきれないのと、途中で胃もたれしちゃうから」
そんな事を堂々とドヤ顔で口にした篠澤さんは、俺を見上げて続けて言った。
「それにしても、アイドルにラーメンだなんて、プロデューサーはわたしの想像を超えてくる、ね」
「アイドル未満なのでしょう、今の篠澤さんは?」
俺がそう返すと、篠澤さんは心から面白そうに口角を上げた。
篠澤さんが先に臆する事なく暖簾を潜り、店内に入る。俺もその後を追うと、「いらっしゃいませ!」と歓迎する声が。
「……わぁ。かなり、混んでる」
店内を見渡しながら、篠澤さんがそんな感想を漏らす。
満員とまでは行かないが、篠澤さんの言う通り、店内は賑わっていた。これから益々混むのだろうという事は、想像に難くない。
空席は幾つかあるが、これは店員の誘導に従った方が良いだろう。
直ぐに、一人の女性店員が俺達の所に来る。
「いらっしゃいませ! お客様は、二名様でお間違いないでしょうか?」
「プロデューサー、わたしが答えたい──はい、そうです。席、空いて、ますか?」
店員は申し訳なさそうに答えた。
「申し訳ございません。ご案内は出来ますが……カウンター席でも宜しいでしょうか?」
篠澤さんが目で俺に確認してくる。俺はそれに対して、軽く頷いた。
「はい、寧ろカウンター席でお願いします」
「……? 承知致しました。それでしたら、すぐにご案内出来ますので、どうぞ此方にいらっしゃいませ」
店員は篠澤さんの言い回しが気になったようだったが、すぐに我に返ると、俺達を案内し始めた。
俺と篠澤さんはその数歩後ろを歩く。
「カウンター席、案内された事あまりない。楽しみ」
その気持ちは少し分かる。
俺も子供の時は、カウンター席が大人の特権のような気がして憧れていた時期があった。
案内されたカウンター席、その隣には別の客が先に座っていた。
席に座る俺だったが、篠澤さんは中々そうしようとしなかった。
「篠澤さん、どうかしましたか──」
「
俺の言葉を遮る形で、篠澤さんが弾んだ声音を出す。その言葉は、隣の客──より具体的には、俺達と同様の若い男女で、そのうちの光沢のある漆黒の長髪の女性に向けて放たれていた。
手毬、と呼ばれたその女性は、とても不機嫌そうな表情を隠しもせずに、篠澤さんをギラりと睨む。
「何?」
「手毬、元気?」
「見れば分かるでしょ。元気じゃなかったら、外出してない」
やはり不機嫌そうに、その女性は篠澤さんの質問に答えた。
彼女は一体、篠澤さんとどのような関係なのだろうか?
そんな事を、俺は疑問に思う。
普通に考えるなら、友人同士なのだろうが……女性の反応からして、それはあまり考えられないだろう。
かと言って全くの赤の他人という訳でもないだろう。もしそうであるのなら女性は篠澤さんに声を掛けられても無視をすれば良い。
「篠澤さん、こちらの女性は?」
「手毬。わたしの友達。とても親切で、優しい」
刹那、女性の表情が大きく歪んだ。
篠澤さんは女性の事を友人と思っているが、向こうはそう思ってない。つまり、一方的な関係だという事だろうか。
そんな事を俺が考えていると、会話が再び始まる。
「あなた、ラーメンを食べに来たの?」
「うん。プロデューサーが、連れてきてくれた」
「はぁ? あなたにプロデューサー? 初めて聞いたんだけど?」
「今まで聞かれなかったから、言う機会もなかった。彼が、わたしのプロデューサー。お試し契約中」
「…………ふぅん」
女性はそう意味深に呟くと、初めて俺に視線を寄越した。
「あなたが、篠澤のプロデューサー?」
「ええ、そうですが……」
「見る目ないね、あなた。本当にプロデューサー? よりにもよって篠澤をスカウトするだなんて。見る目ないよ」
空気が文字通り凍った。
おかしい。此処は熱気が支配するラーメン店であり、そのような空気とは無縁の筈なのだが。
どう対応したら良いか俺が決め兼ねていると──。
「申し訳ございません、うちの手毬がご無礼を!」
今まで沈黙していた最後の人である男性が、慌てて女性の頭をガシッと摑んで強引に頭を下げさせながら、謝罪の言葉を口にした。
女性が、眼光を強くして男性を睨む。
「ちょっ!? プロデューサー、何するの!?」
「その台詞はこっちの物です! 『H.I.F』前に問題を引き起こさないで下さいよ!」
「はぁ? 私は事実を言っただけだけど?」
「ああ、もう! 本当に、あなたって人は! 黙ってラーメンを食べていればただの美人でいられるのに!」
「び、美人……」
「あなた、自分が今怒られているって分かってます? 間違っても照れる場面じゃないですからね?」
目の前で繰り広げられるコントに、俺は固まった。篠澤さんも困っているようで、無言で俺に視線を送ってくる。
どうにかしろと、言いたいのだろう。
……俺が事態の収拾化を図るしかないのだろうか。現実逃避気味にそんな事を俺が考えていると、「あのー」と俺達四人に声が掛けられた。
そこには、ビジネススマイルを浮かべている店員が立っていた。
「お客様方、お知り合いのようですので、テーブル席にご案内致しますね」
そう言うと、店員はすたすたと歩き始めた。拒否権は、ない。これ以上騒げば追い出されるのは確実だ。
俺達は一度顔を見合わせると、出された指示に従うのだった。
……どうしてこうなった。
「カウンター席が、良かった……」
「そんなにカウンター席が良かったんですか?」
「うん」
「それなら……また今度来ましょうか」
「良いの?」
「流石の俺も、同情はしますよ」
「やった」
そんな事を話しながら、俺と篠澤さんは席に着いた。
店員が案内したのは、角に位置するテーブル席だった。その判断は正しいと言える。
目の前に居るのは、一組の男女。
口火を切ったのは、男性だった。俺とそう変わらない年齢だろう──もしかしたら、同い年かもしれない──彼は、申し訳なさそうに目尻を下げると、こんな提案をしてきた。
「せめてもの迷惑料です。この場は私が出しますので、お好きな物を遠慮なく注文して下さい」
「プロデューサー、本当!?」
「あなたの分も出すつもりでいましたが、やめました。自分の分は自分で出して下さい」
「酷い!」
「酷いも何も、自業自得でしょう」
またも始まる言い合い。もといコント。
賑やかだなと思っていると、篠澤さんが小声で尋ねてきた。
「プロデューサー、どうする?」
俺は少し考えてから、意向を伝えた。
「この場はご厚意に甘えましょうか」
「良いの?」
「個人的には奢られるのはあまり好きではありませんが……この場に於いては、それが正解でしょう」
「ん、分かった。プロデューサーがそう言うのなら、従う」
コクリ、と頷いた篠澤さんはメニューを眺めた。
「醤油、味噌、塩、豚骨、他にも沢山……。凄いね、こんなに種類があるんだ。どれが良いのかな」
「豚骨一択でしょ、何言ってるの?」
「そうなんだ。それじゃあ、豚骨にしよう、かな」
「待って。あなたが豚骨を食べられるとは思えない。塩にしたら?」
「ありがとう。それなら、手毬の言う通りにする、ね」
「……フン。勝手にすれば?」
「うん、勝手にする。ねえ、手毬。ラーメン以外だと、何が良い?」
仲が良いのか、悪いのか。
そこの判断はまだ出来ないが、女性はそこまでの悪人ではなさそうだ。
まあ、それとは別に、篠澤さんが一方的に慕っている面もありそうだが。
「プロデューサー。わたし、決めた。塩ラーメンの麺柔らかめ、味の濃さ普通、油少なめ。あと、半ライスも付けたい」
「……半ライスもですか。食べられそうですか?」
「分からない。ラーメンすらも怪しい。けど手毬が、ラーメンを食べるなら、ご飯を一緒に食べるべきだって力説してきた」
「力説はしてない。私は、当然の事を言っただけ」
ぶっきらぼうに、女性が俺達の会話に口を挟む。
俺は逡巡してから、許可を出した。
「分かりました。もし途中で食べられそうになかったら、俺が責任を持って残りを食べます」
「うん。お願い」
決意の眼差しで、篠澤さんが言う。
さて、俺は何を頼もうかとメニューを見ていると、外野の声が聞こえてきた。
「プロデューサー、今の、見た!?」
「ええ、見ましたよ。私も驚きましたが……これがお二人の日常なのかもしれませんね」
「どんな日常!? 篠澤、あなた、自分が今何をやったのか分かってる!?」
「……? うん、分かってる、よ」
「絶対分かってない!」
「手毬。声が大きい。静かにしよう」
「何でそこは常識的なの!? プロデューサー、あなたも笑わないで!」
「失礼。手毬さんがこうも調子を崩されているのは、珍しい物で」
俺はメニューから目線を上げると、三人に注文が決まった事を告げた。
男性が呼出ボタンを押すと、すぐに店員がやってくる。男性が彼の分と女性の分を纏めて言い、次に、俺が自分の分と篠澤さん分を纏めて言う。
「プロデューサー。味噌ラーメンにしたんだ」
「はい。普段は醤油なのですが、偶にはと思いまして。興味がありますか?」
「うん」
「それなら届き次第、数口食べても良いですよ」
「やった。ふふ、今日のお昼は、とても楽しい」
篠澤さんが言葉通り、声を弾ませてそんな事を言った。
「プロデューサー! 今の! 見た!?」
「見ました。見ましたよ。まあ、そういう物だと思うようにしましょう」
男性は女性をそう窘めると、こほん、と咳払いをした。
全員の視線が、彼に集まる。
「食事が来るまでの間にお話をさせて頂きたいです。まずは改めて、謝罪を。うちの
深々と頭を下げる男性は、そのまま自己紹介した。
「私は、初星学園プロデューサー科二年の──」
プロデューサー科二年。ある程度予測はしていたが、つまり、俺の先輩である。
差し出された名刺を受け取り、俺は先輩に頭を上げるよう伝えた。
先輩は、女性を紹介する。
「此方が私の担当アイドル、月村手毬です。手毬、挨拶を」
「月村手毬。トップアイドルになる」
月村さんは自信満々に、自分がそうなる事を微塵も疑っていない眼差しで自己紹介した。
彼女のプロデューサーが、慌てて言う。
「ああ、もう! 何でそんな、口を開けば喧嘩を吹っ掛けるんですか!?」
「別に吹っ掛けてないし。私は言われた通り、自己紹介をしただけ。プロデューサーが何が不服なのか分からない」
「分かりました。分かりましたから。後は全て私が話しますので、手毬さんは黙ってて下さい」
ほとほと困ったように、先輩は深々とした溜息を吐いた。
俺は自分でも下手くそだと分かる愛想笑いを浮かべながら、月村さんを観察する。
月村手毬。
彼女の名前は、当然知っている。中等部時代では三人組ユニット『Syng Up!』で活動を行っており、中でも彼女の歌唱力は圧巻であり、『中等部ナンバーワンアイドル』と呼ばれていた。しかし現在はユニットを解散、ソロ活動を行っている。
だが、ソロであろうと彼女の実力が無くなった訳ではない。正しく、トップアイドルの原石だ。今年の新入生の中でも上澄みに居る。
「……何?」
俺の視線に気が付いたのだろう、月村さんがじろりと見返してきた。
その眼光は正しく狼のそれ。
彼女が気の難しい人間である事は周囲に知れ渡っており、そんな彼女にまさか、プロデューサーが付いているとは思わなかった。
「いえ、何でもありません。不快に感じたのなら謝罪させて頂きます」
「……別に、そんなの必要ない。それより、こっちは名乗った。次はそっちの番じゃない?」
「ええ、そうですね。俺、失礼、私は──」
名刺ケースから、二枚の名刺を取り出す。それを目の前の男女に手渡した。
俺の次に、篠澤さんが自己紹介をする。
「篠澤、広。アイドル科の一年生」
互いの自己紹介が終わった。
そして、最初に口を開けたのは向こうだった。
「篠澤広さん、あなたの事は私も存じ上げております。こうしてお会い出来て光栄です」
「……? わたしの事、知ってるの?」「プロデューサー、浮気!?」
篠澤さんと月村さんの言葉が重なる。
先輩は自身の担当アイドルからの質問を無視し、篠澤さんの質問に答えた。
「ええ、あなたはとても有名ですからね。うちの手毬なんて目じゃないでしょう。それだけの影響力が、あなたにはある」
「……」
「失礼。今のあなたには関係のない事でしたね」
「……ううん。あなたは、悪くない。それにわたしのプロデューサーも、最初、あなたと同じ様な事を言っていた」
会話が一度途切れる。
そのタイミングを見計らっていたように、月村さんが場を掻き乱す。
「ねえ、プロデューサー! 無視しないで! 浮気!? 浮気なの!?」
先輩はその追及に、冷静に返していた。
「あのですね……浮気も何も、私達はそう言った関係ではないでしょう」
「はぁ!? じゃあ何!? 私は遊びだったって事!?」
「もしそうなら、
「──ッ! プロデューサーッ!」
激昂する、月村さん。
しかし先輩は落ち着いていた。そして、当たり前の事を言うように、自然の表情で言う。
「遊びであなたを選ぶ訳ないでしょう、手毬さん。私には、あなたが必要だ」
「〜〜っ! な、なら良い!」
先程とは違う意味で月村さんは顔を赤くすると、そっぽを向いた。
「おー」とぱちぱちと篠澤さんは手を叩くと、俺を意味深な眼差しで見上げる。
「何か言いたい事があるのなら聞きますが」
「わたしのプロデューサーも、あんな風に格好良くなる事があるのかな、って、思った。ふふ。でも、暫くはなさそう」
「それを言うなら、あなたはいつになったらアイドルになるんですか」
「暫くはない、ね」
自信満々に無い胸を張る担当アイドルに、俺は心からの溜息を吐いた。
「月村さんの誤解をさらに解いておきましょう」
「ちょっ、私はもう、疑ってなんか……」
月村さんのごにょごにょとした言葉を無視し、先輩は篠澤さん──ではなく、俺を見詰めた。
「私は篠澤さんよりも、後輩君、君に興味があります」
「俺に、ですか……?」
ぱちくりと瞬きする俺に、先輩は「ええ」と相槌を打つ。
「機会があれば、一度、話をしてみたいと思っていました」
そう言って、先輩は友好的な笑みを浮かべる。
俺はその笑みの裏にある意味を探ろうとするが、完璧に被られた仮面の下を暴く事は出来そうになかった。
緊迫した空気が流れようとした──その時。
「えっ、ちょっと待って。プロデューサーって、まさかそっちの気が……」
「手毬さん。後で食後のアイスクリームを食べに行きましょう。勿論、奢りますよ。だから黙ってて下さい」
「うん、分かった」
素直に頷く月村さんを放置し、先輩はにこりと微笑を携えて言った。
「アイドル科の生徒はあまりご存知ないでしょうが、『プロデューサー制度』をプロデューサー科の生徒が使う為には一定の成績を修める必要があります」
「へえ。そうなんだ」
「ええ、そうなんですよ手毬さん。プロデューサー科の生徒全員が、『プロデューサー制度』を使える訳ではないのです。理由は幾つかありますが……まあ、それはこの話には関係ないので省きます」
「後で教えて」
「分かりました。──さて、私が言いたいのではですね、入学してからまだそんなに月日が経っていない今の段階で、新入生が『プロデューサー制度』を使っているのは異常だという事です」
「……そうなの?」
首を傾げる月村さんに、先輩は「そうなんですよ」と断言する。
「幾つかの試験や面接を経て、最終可否を決めるのは学園のトップ──十王邦夫学園長です。それはつまり、あの十王学園長が少なからずそのプロデューサー科の生徒に期待を寄せている、という事に他なりません」
俺は目の前の同業者の視線を一身に浴びながら、慎重に言葉を選んだ。
「……異常とまでは、行かないのでは。前例がない訳ではないでしょう」
「そうですね。実際、私も制度自体は去年のこの時期には使用許可が降りていましたから」
「プロデューサー。それって、自慢? ──痛い!? 女の子の頭を叩くなんて、信じられないんですけど!?」
「手毬さん。ソフトクリームは二個食べて良いですよ」
笑顔を浮かべて口を閉ざす月村さんは……こう、失礼かもしれないが、まるでチワワのようだ。
そして先輩が、真意の読み取れない表情で言う。
「私が真に言いたいのは──君ともう一人の生徒は、入学式の時点で制度の使用が出来ていた、という事ですよ」
俺は、無言を貫いた。それは言い換えれば、先輩の言葉が正しいのだと認めた事に他ならない。
笑顔だった月村さんが、首を傾げる。
「……ちょっと待って。それって、おかしくないですか?」
「ええ、そう。これはあまりにもおかしい。何せこれは正真正銘、前代未聞の事です。つまり十王学園長は、私を含めた他の上級生よりも、何も実績が無い新入生二人に対してとてつもない期待を寄せているのです」
「これを異常として、何を異常と言うのでしょうか」と先輩は微笑を深くする。
「君達二人の事は、私達上級生の間に瞬く間に知れ渡りました。私も遅れて知った時は驚いたものです」
「プロデューサー。友達、少ないもんね」
「手毬さん、それはあなたもでしょう」
先輩は、俺をじっと見詰めて言った。
「もう一人は、すぐに行動に移ったようですね。何せ、入学初日に契約を結んでいる」
「へえ。私じゃなくて、他の子を選んだんだ」
「おや。手毬さん、それこそあなたがよく知る人物ですよ」
「……ッ! まさか!」
「あなたの想像通りです」
先輩の言葉を受けて、月村さんが複雑な表情を浮かべる。だが次の瞬間には、勝ち気な顔となった。
「誰が相手だろうと関係ない。私は、トップアイドルになるんだから」
「その通りです。邪魔者は排除しましょう」
随分と物騒な雰囲気を出す目の前の二人に、俺は居心地の悪さを感じる。
──何故?
何故俺は、居心地悪いと感じているのだろうか。
ましてや、戸惑っているのだろうか。
言語化出来ない感情に、俺が喘いでいると。
「ねえ」
篠澤さんがとても眠そうな表情で、それでいて温度の伴ってない平坦とした声で言った。
「今は、ご飯の時間。わたし達は、ラーメンを食べにきた。違う?」
琥珀色の瞳が、目の前の二人を射抜く。
刹那、先輩と月村さんは居住まいを正す。特に月村さんは、何故か怯えた表情を見せていた。
「……失礼しました。篠澤さんの仰る通り、食事の時にする話ではありませんね。申し訳ございません、私とした事が、つい。不必要な事まで喋ってしまいました」
「ほ、ほんとそう。プロデューサー、TPOって知ってる?」
「……あなたにだけは言われたくありませんが、今は粛々と受け入れ、反省しましょう」
頭を下げる先輩を、月村さんが茶化す。
篠澤さんも「ううん。気にしないで」と薄く微笑み、凍った空気は徐々に溶けていった。
……これはもしかしなくても、俺は篠澤さんに庇われたのだろう。
それから俺達は、取り留めのない雑談を交わした。とはいえ、話していたのは俺と先輩が主であり、篠澤さんと月村さんは殆ど口を閉ざしていたが。
「──お待たせ致しました!」
店員が料理を運んできたのは、それから数分後の事だった。
湯気を出す料理の数々に、わあ、と声を上げたのは月村さんだった。だが気持ちは分かる。運ばれてきた料理はどれも、とても美味しそうだ。
「プロデューサー、本当に、本当に良いの?」
「ええ、しかし覚悟して下さい。良いですね」
「うん、分かってる!」
力強く頷くと、月村さんは童女のように瞳をキラキラと輝かせ、「いただきます!」と言うと、ラーメンの麺を勢いよく啜った。その食べっぷりは見ている側も楽しくなるものであり、微笑ましい気持ちにもなる。
その姿に触発され、残りの俺達も手を合わせた。
「「「いただきます」」」
思い切り麺を啜る。口の中に広がる幸福感に、俺は表情を緩めた。
数口食べた所で、隣の篠澤さんに目を向ける。
「ふぅー……ふぅー……」
息を吹き掛け、篠澤さんは麺を冷ましていた。
「猫舌なんですか?」
「うん、そうみたい。前、食堂のカレーを食べたら火傷しちゃった」
「……舌も弱いんですね」
「わぁ。まさか此処でも、冷たい目を向けられるとは思わなかった。良いね、プロデューサー。もっと、ちょうだい。そうすれば、麺も冷める、かも?」
何処か恍惚とした表情で、篠澤さんがうっとりと言う。
「ねえ、プロデューサー。これって──」
「手毬さん、世の中には触れていけない事もあるんです。ほら、早く食べないと麺が伸びちゃいますよ」
「う、うん」
目の前の二人の会話に聞こえない振りをしていると、篠澤さんがようやく一口食べた。
刹那、彼女の琥珀色の瞳がめいっぱい開かれる。
「……っ! 美味しい、ね」
相好を崩し、篠澤さんが俺の顔を下から覗き込んでそう言った。
「プロデューサー。このラーメン、とても美味しい」
「それは良かった。これ、約束していた俺の味噌ラーメンです。事前に分けておきましたからご安心を」
「うん」と篠澤さんは頷くと、味噌ラーメンに箸を伸ばす。小さな咀嚼音。
篠澤さんの表情を見て、俺は内心で安堵した。どうやら、お気に召したようだ。
それから暫く、テーブルには食事の音だけが出ていた。
最初に終えたのは、月村さんだった。「ふぅーっ」と額を手を拭うと、やり切った表情を浮かべる。
「美味しかった……! プロデューサー、褒めて上げます。此処は私のランキングの中でも上位にランクインしました」
「それは何よりです。スープも完飲しましたしね。この食事で摂取したカロリーの事を考えると頭が痛いですが、今は気にしないようにします」
「大丈夫だよ、プロデューサー。明日からの私が、本気を出すから」
「そうして貰わないと困ります。でなければ、美鈴さんにまた揶揄われてしまいますよ」
「……ッ! 美鈴の名前は出さないで!」
「早く仲直りすれば良いのに」
二番目に食べ終えた先輩が、やれやれと溜息を吐く。その仕草に、月村さんが「プロデューサー!」と狂犬の如く噛み付いた。
程なくして、俺も食べ終わる。ご馳走様でした、と合掌した後、俺は篠澤さんに顔を向けた。
「うぷ……ラーメン、多い……半ライスも……まだ、こんなに沢山……」
文字通り顔を青くしている、篠澤さん。
見た所、ラーメンは残り一割で半ライスは七割といった所だった。
流石にラーメンは食べられない為、俺は箸の付いていない部分を別の箸で取る。
「プロデューサー……!」
感極まったような声を出す篠澤さんに、俺は尋ねた。
「あとは食べられますね?」
「うん。がんば、る……」
やる気を漲らせ、篠澤さんは戦地に赴く戦士となって、果敢に挑戦した。
それから数分後、テーブルに突っ伏す篠澤さんの姿があった。
「……プロ、デューサー。わたし、やった、よ……」
にへら、と笑う篠澤さん。辛そうでありながらも、実に楽しそうだ。
「全く。あんな量すら食べられないだなんて、ラーメンを舐めてるの?」
追加注文した餃子をむしゃむしゃと食べながら、月村さんが呆れたように言う。
俺、この女性の担当にならなくて良かったな──そんな事を、顔を引き攣らせている先輩を見て思った。この後デザートを食べると言っていたが、まさか本当にそうなのだろうか。
篠澤さんの胃が整うのと、月村さんが餃子を食べ終えたのは殆ど同時だった。
俺は先輩は頷き合うと、相方に席を立つよう促した。これ以上の長居は店に迷惑だろう。
「それじゃあ約束通り、此処は私が持ちますね」
「ありがとうございます」
背中を丸める篠澤さんの背中を摩りながら、俺は先輩にお礼を言った。
「気にしないで下さい。月村さんの会計の方が高くついていますので」
「ふふん。プロデューサー、ちゃんと責任取って下さいね──いたい!? 何で叩くんですかぁ!?」
「躾ですよ、躾」
「プロデューサー!?」
驚愕する担当アイドルを無視し、先輩はさっさと会計を済ませた。
「ありがとうございましたー」と店員に見送られ、俺達は来た時と同じように暖簾を潜る。
「さて、私達はCDショップに行く予定ですが……もし良ければ、一緒にどうでしょうか? 手毬さんも、良いですね?」
「別に。好きにすれば」
月村さんは若干不服そうだが、嫌とは言わなかった。
実の所、とても魅力的な提案だ。今後の事を考えると、是非とも頷きたい。
だが──俺はふらふらしている篠澤さんを一瞥すると、丁重に断った。
「申し訳ございません。篠澤さんが今にも倒れそうなので、今回は断らせて頂きます」
「分かりました。それでは、またの機会に」
挨拶を済ませ、先輩と月村さんが離れていく。だが通行人の中に姿をくらませる直前、先輩は振り向いて言った。
「手毬さんの失礼な言動、そして私の浅慮な発言で貴方達を傷付けてしまった。もし困った事があれば、是非相談して下さい。先輩としても、同業者としても、力になりましょう」
「……随分、俺の事を高く買ってくれるんですね」
先輩は俺の言葉には答えなかった。そのまま真意の読めない微笑を浮かべ、今度こそ俺の目の前から姿を消した。
「プロデューサー、少し、休みたい……」
食事したのに体力を削った篠澤さんからの訴えに、俺は溜息を吐くと、空いているベンチを探すのだった。
夕方。茜空の下を、俺と篠澤さんは歩く。
「今日は、どうだった?」
少し後ろを歩く篠澤さんに聞かれ、俺は立ち止まった。そして、今日一日を振り返る。顔を逸らし、俺は答えた。
「とても刺激的で……まあ、楽し──悪くなかったですよ」
言い直すも、決定的に、遅かった。
「ふふ。プロデューサー、つんでれ?」
「そのにやけ顔をすぐに引っ込めて下さい」
そう言いながら、俺は早歩きで歩く。
だが、篠澤さんの気配がすぐにない事に気が付いた。振り返れば、息を切らしながら歩く姿がそこにはあった。
俺は今日何度目になるか分からない溜息を吐くと、彼女の元へ行く。
「本、持ちますよ。やはり、重いのでしょう?」
しかし俺の提案を、篠澤さんは拒否した。
「ううん。だいじょうぶ」
「ですが……──」
「それなら、ゆっくり、歩こう? そうすれば、大丈夫だから」
赤が合わさった琥珀色の瞳が、俺を見詰める。
俺は観念した。
ゆっくりと……本当にゆっくりと、帰路に就く。
「あのね」
学園に入り、学園寮が見えた所で、篠澤さんが呟くようにして言った。
「今日は、わたし、も、楽しかった、よ」
「……そうですか」
「うん」と、頷く気配。
彼女は続けて言った。
「プロデューサーの事、たくさん、知れた」
「俺の事を?」
「うん」と、再度、頷く気配。
「ね、プロデューサー」
「……何でしょうか?」
「わたしは、プロデューサーの事を知った。プロデューサーは、わたしの事、知ってくれた?」
俺は立ち止まった。篠澤さんも、立ち止まった。
そこはちょうど、学生寮の前だった。
もし彼女がこれを図っていたのだとしたら、脱帽するしかないだろう。
「……」
俺は改めて、今日一日を振り返った。
目の前の担当アイドル──篠澤広という人間。彼女が見せてくれた言動の数々を思い返す。
そして、その上で。
俺は、言った。
「知りません」
「…………そっか」
琥珀色の瞳が閉じていく。
だが完全にそうなる前に、俺は言っていた。
「知りませんよ、まだ」
「……プロデューサー?」
「篠澤さん。あなたは俺の事を知ったと言っていましたが、たった一日で完全に知れたと思わないで下さい」
彼女が何かを言うよりも先に、俺は言葉を被せる。
「俺も、あなたの事はまだ知りません。知れたのは、ほんのちょっとです。例えば、美味しい物を食べた時は歳相応に喜ぶとか、そんな事です」
「……うん」
「だから、また一緒に。また一緒に、出掛けましょう」
「……うんっ」
夕日に照らされた彼女の顔は、直視出来ないくらい、輝いていた。