「どうした、元気ないな」
ダートの練習バ場に出てきたわたしに、トレーナーは開口一番、そんなことを言ってきた。
「ん、いや。別に。そんなことないよ」
トレーナー兼父親の鋭い指摘に、わたしは愛想笑いを浮かべてごまかす。
うちの父親は決して人の機微にさとい方ではないと思うのだが、長年ウマ娘ばかり見ていると、担当の微妙な感情の変化には敏感になるのだろうか。
「……そうか。なにかあったら、何でも相談しろよ。どんな問題でも、手を打つのは早ければ早いほど良いからな。じゃあ、今日のトレーニングメニューは……」
練習内容を指示されたわたしは、意識的に無表情を作ってうん、うん、とうなずく。
すべての指示を聞き終えたあと、最近ルームメイトとうまくいっていない憂鬱感を抱えたまま、パサパサのダートの砂を蹴り上げた。
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彼の自宅は千葉県のベッドタウンの一角にあり、東京にある職場のトレセン学園まで、片道約1時間弱かけて毎日通勤している。
今の家は娘のエルサが生まれた時に、35年ローンで購入したもの。
通学しようと思えばできる距離なのに、エルサが寮生活をしているのは、ミラクルが寮生活を強く勧めたからだ。
『家庭以外でご飯を食べて寝る生活は、絶対にあなたの人生のプラスになるから』
父としては娘が離れて暮らすことに若干の寂しさを覚えないではなかったが、ミラクルの言うことは正しいと思った。
だから彼も、『嫌なら無理にとは言わないが、そういう生活も経験しておいた方が良いのは確かだ』と娘に言って聞かせたものだ。
両親にそう言われたエルサは特に反対することもなく、すんなりと学園での寮生活をOKする。
寮での生活というものに、彼女も興味があったのかもしれない。
この家を買う時、一番苦労したのはローンを通すことだった。
トレーナーという収入が不安定な職業柄、審査がなかなか大変ではあったのだが、そこはトレセン学園付のGⅠトレーナー。
これからもトレーナーとして長期的な活躍が見込めるとの銀行からお墨付きをいただいて、なんとか住宅ローンを組むことができた。
ローンの頭金は嫁のヒシミラクルが現役時代、GⅠを勝った時にもらったGⅠトレーナー特別報奨金を貯金していたので、それで賄った。
家の名義は一応彼になっているものの、実質この家は嫁が建てたようなものだ。
少なくとも、彼はそう思っている。
「ただいま」
玄関に入ると、醤油で何かを煮ているような香りが彼の鼻腔をくすぐった。
今日はミラ子が得意な煮物料理だろうか。
付き合い始めて意外に思ったのが、ミラクルは料理が上手なことだった。
彼女は普段割とテキトーな感じの女性だったし、お好み焼き以外はまともに作れないんじゃないか、と勝手に思い込んでいたのだ。
もちろん、そんなことは一度も口に出したことはないが。
ただ、やはり彼女は掃除と片付けは若干苦手ではあるので、その辺は彼が休みの日にカバーしていた。
ミラクルもフルタイムパートとして働いているので、家事は分担制である。
洗濯は乾燥まで、ドラム式洗濯機にお任せだ。
取り入れて畳むのはミラクルで、決まった場所に片付けるのは彼である。
この立ち回りで、この夫婦はそれなりに上手くやっていた。
「おかえり~。ご飯作ってる間に、風呂入ってきて」
キッチンリビングに足を運ぶと、エプロン姿のミラクルが料理に集中していた。
こちらを振り返ることもせずに、持っていた菜箸で風呂場を指し示す。
新婚当初はお帰りのハグ、キス(時にはそのまま玄関ウマぴょい)なんてこともやったものだが、結婚生活も長くなるとこんなもんである。
「了解」
基本掃除は彼の仕事であるが、風呂掃除だけは帰宅の早いミラクルが請け負っていた。
疲れて家に帰ってくると、温かい風呂が沸いている。
風呂から上がると夕食が出来上がっていて、冷たい発泡酒を仲の良い嫁と飲める。
職場では、直接この目で娘の様子や成長を、見守ってやることができている。
それって結構、幸せなことだよな。
たいていの父親は、年頃の娘とコミュニケーションを取るのも一苦労なんだから……。
最近つとに疲労を感じている心身にそう言い聞かせ、彼はバスルームへ向かった。
*
「難しいよな」
彼は注がれていた銀麦をコップ半分ほど一気に飲むと、独り言にしては少し大きな声でそう言った。
「そうだね~。ニジェールの首都名なんて、いきなり聞かれても出てこないよね」
クイズ番組を見ていたミラクルは問題を出された出演者と同じような難しい顔をして、真剣に正解を考えているようだった。
「いや、テレビのクイズの話じゃなくてだな……。ちなみにその問題の答えはニアメだ」
「え? そうなん?」
半信半疑のミラクルだったが、司会者が答えを発表して夫の解答が正解だとわかると、なぜかちょっと引いたような表情を作った。
「なんでそんなこと知ってるん……?」
ミラクルは基本的に標準語で喋っているが、親しい人間との会話だと、たまに謎の関西弁が混じったりする。
関西弁と言うと早口、キツイ、というイメージがあるが、彼女の口から出るそれは、なぜかほんわかした雰囲気が感じられた。
「いや、世界の国の首都ぐらい頭に入っているよ。学生時代、お前も勉強しただろう」
「そうだったっけ? わたしなんて、首都どころか国が30個出てくるかも怪しいよ……」
そう言ってミラクルは小さく笑った。
トレセン学園を卒業して気づいたのだが、あの学園にいたトレーナーは色々と人知を超越している人が多かったように思う。
もっと正確に言うなら、中央に所属しているトレーナーたちというのは、変わり者の集団だった。
ウマ娘にドロップキックを食らわされても平然としているトレーナーや、自ら進んで得体のしれない薬を飲んで発光しているトレーナー。
東大を出ているのに年収200万円台に甘んじているトレーナーもいれば、飛び級できる海外の大学でウマ娘のトレーナーの資格を取得してトレセン学園で開業し、10代ですでに年収1000万円プレイヤーに到達している、なんてトレーナーもいたりする。
あの学園にはそんな(変な)トレーナーがゴロゴロいたので、当時のミラクルはそれが別におかしなことだとは思わなかったが、社会に出てみるとあの学園に在籍しているトレーナーという人種の異質さが、際立って見えた。
もちろん自分を担当ウマ娘にして、妻として選んだ彼なんかはその変人の筆頭格だろう。
「いや、俺が難しいと言ったのは娘との距離のとり方だよ」
「ふむ。エルサとの?」
どうやら、真剣な話らしい。
ミラクルはテレビを消すと、座っていた椅子の上で姿勢を正して彼と向き合った。
「あいつ、なんか悩みを抱えてるみたいなんだけどな。聞いてみても『なんでもない』っていうだけで、なかなか話してくれようとしないんだよ」
「う~ん……本人がなんでもない、っていうんなら、本当になんでもないんじゃない?」
ミラクルがそう言うと、彼は渋い表情を作って首を横に振る。
「俺だってダテに20年以上、ウマ娘の面倒を見てきたわけじゃない。なにか悩みを抱えてるウマ娘ってのは、雰囲気やトレーニングの様子からなんとなく分かるもんなんだ。今のあいつは、十中八九、なにか深刻な悩みを抱えていると思う」
「ほんとにそうなら、トレーナー兼父親のあんたに真っ先に相談するでしょ。それをしないってことは、きっと思い過ごしだと思うよ」
娘の父親なんてどこもそうだと思うが、彼は娘のエルサが生まれたときから、少々過保護なところがあった。
エルサが欲しいと言ったオモチャやお菓子を、母であるミラクルに内緒でよく買い与えていたし、幼い頃、ちょっところんだだけなのに、整形外科へ行ってわざわざ検査をしてもらったりしたこともあった。
いくらなんでも心配しすぎだよ、とミラクルが苦笑いしながら言うと『この娘はウマ娘なんだから、親が娘の脚のケガに敏感になるのは当然のことだ』と言い返してきて、むしろこちらをたしなめるようなことを言ってきたものだった。
「俺があいつにとって
彼はコップに残っていた発泡酒を飲み干すと、ふぅ……と深いため息をついた。
「と、いうと?」
「トレーナーとウマ娘って関係は、微妙な距離感でもあるけど、絶妙な距離感でもあるんだ。家族ほど近いわけでないし、他人ほど遠いわけでもない。それに、学校の友だちや学校の先生とも、また距離感が違うだろう」
「あ~、確かにそうかも」
現役時代はそんなこと気にもしなかったが、言われてみればウマ娘とトレーナーの距離感というものには独特のものがある。
「そんな間柄だからこそ、相談できる事柄ってのがあるんだよ」
「ん……。まぁ、言いたいことはなんとなくわかるけどねぇ」
思春期、それもトレセン学園に所属してレースなんてものをやっているウマ娘は、人並み以上にいろんな悩みを抱え込む。
学校の成績や友達との人間関係、恋愛や進路といった普遍的な悩みに加えて、レースの成績のこと、ライバルとのこと、友人とのクラス格差……。
現役の間は当然レース関係の悩みが上位に来るが、それに普遍的な悩みが絡み合うと、相談する相手も難しくなってくる。
親兄弟ではそういう悩み事は距離が近すぎて話しづらいし、友だちに話すお悩み相談としては少し重すぎる。
レースのことは学校の先生にはしづらいし、ライバルに悩みを語って自分の弱みをさらけ出すなんて、もっての外だ。
そのような時の相談相手として適切なのが、微妙で絶妙な距離感を保っているトレーナーだったりするのである。
ただミラクルの場合、あまり思い悩むことのない性格のおかげか、トレーナーにそんな深刻な相談を持ちかける機会はなかった。
ウマ娘を預かるトレーナーの仕事は、そのウマ娘に合った最適なトレーニングを施すだけではない。
時にカウンセラー的な役目を果たし、その娘の悩みを解決、もしくは軽減してやるというのも重要な仕事なのである。
「あいつを担当するって決めた時は単純に『娘だから血統とか走りの特徴もよく分かってるし、その分能力を引き出してやるのも比較的容易だろう』と安易に考えたもんだけど、今思えば失敗だったな……。父親が担当トレーナーというのは距離感が近すぎて、悩みや本音を言いにくいのかもしれん」
「まぁたしかに、そういった一面もあるかもだけど」
そう言ってミラクルは、にんじんと油揚げの煮物を箸でつまんで口に放り込む。
「うん、我ながらいい味付け。それはともかく、父娘トレーナーだったから、今までうまくやれてた面も絶対あったと思うよ。父娘だからお互い変な遠慮がなくて最初から自然体でトレーニングできただろうし、エルサからしても、体調不良とか苦手なトレーニングとか、あんたに伝えやすかったんじゃないかな」
「う~む……。そう言われると」
妻に言われるまで、彼はそんなことを意識すらしていなかった。
お互いが自然体でいて、伝えるべきことを普通に伝えあえるということが、あまりにも当たり前過ぎて。
彼は長いトレーナー人生の中で、最初に担当したヒシミラクルから今の担当である自分の娘まで、合計8人のウマ娘の面倒を見ている。
その中には本当はもう体力の限界を超えているのにまだやれます、と自己申告をしてきた娘もいたし、ひどい場合だとケガをしているのに、それをトレーナーである自分に隠してトレーニングしていた、なんてウマ娘もいた。
当然トレーナーとしては本当に疲れている時はそう言ってほしいし、故障を隠蔽してトレーニングを行うなんてことは、言語道断だ。
それは努力や頑張りなどではなく、ただの無茶、無謀なのである。
もちろん時には限界までがんばることも必要ではあるが、それは自分の限界を見極めてこそのものだ。
だが彼も、そんな彼女たちの気持ちを理解しないわけでもなかった。
わずかでも自分への手綱を緩めたらはるか彼方まで置いていかれるような、そんな厳しい競争環境に身を置いている彼女たちからすれば、少しでもトレーニングに時間を費やしたいと思うのは、しごく当然のことだろう。
せっかくスカウトしてくれたトレーナーに弱音を吐いて『こいつは見込みがない』『根性のないやつだ』と思われるのが怖い、という娘もいたかもしれない。
だから彼はそんな彼女たちを叱りつけるような真似はせず、できるだけ冷静に、すべき努力と、するべきではない無茶なことの違いを、その都度言って聞かせた。
それでも自分に自信を持てず、自傷なような自主トレを繰り返す娘には、『君は俺が絶対にモノになると信じてスカウトしたんだ。今は自分のことを信じられなくても、トレーナーである俺のことは信じてほしい』と言って、必要以上の練習を自重するように諭した。
そんな娘には、君のことは絶対に最後まで面倒を見るから、ということを何度でも何度でも伝えた。
そうやって彼は担当してきたウマ娘たちと、イチから信頼関係を築き上げていったのである。
一方、自分の娘であるエルサとは、そんなやり取りは必要なかった。
エルサはもう無理だ、と思ったら何の意地も張らずにそう言ってくるし、無理とかいいつつまだ余力がありそうなら、もうちょい頑張れ、とこちらも何の遠慮もなく尻を叩いて追加のトレーニングを言い渡せる。
父親である彼は当然エルサが生まれたときから、その体力、走力を見てきているわけだから、限界を見誤ることもほとんどない。
エルサの性格や気性のことも、よく分かっている。
トレーニングに関しては、真面目だが頑張りすぎるところがある。
おっとりしていてどこに行っても物怖じせず、食欲が落ちるということはないが、いい意味での緊張感を持つのが苦手。
ゲートやスタートに難があるタイプではない。
これらはミラクルの言ったとおり、父娘だからこそ担当した直後から理解できていることであり、コミュニケーションに関しても、ある意味気楽に取ることができているのだ。
「……そういった一面は、確かにあるかもな」
「でしょ? なんにせよ、完璧で何の問題も起きない人間関係なんて、きっとないよ。トレーナーとウマ娘との絶妙な距離感を保つのが難しいなら、父娘だからこその距離感の強みを見つけるほうがいいんじゃないかな、とわたしは思うのです」
そう言いながらミラクルは、主菜の鶏ももの醤油焼きに箸を伸ばす。
普段はおっとりしていて、どことなく心もとない感じのするミラクルであるが、たまにこうして鋭いことをなにげなく言う。
昔は彼女を引っ張ってやったものだったが、今ではこうして、すっかりいい相談相手になってしまっていた。
「なんだかミラ子も、すっかりいい嫁さん、いいお母ちゃんになっちまったなぁ」
「なぁに、それ。そんなこと言ったって、お小遣い上げてあげませんよ?」
「そんなつもりで言ったわけじゃ……いや、ホントはもうちょっと上げてほしいが。そんなことより、俺はなんとなく寂しさを感じるよ。プールに無理やり飛び込ませるプレ……、ごほん。いや、特訓を施してやっていたあのミラ子がなぁ……。いやぁ、懐かしいな」
「プレ!? 今プレイって言おうとした!? いい思い出話風にごまかしたけど、あれってそういうプレイだったの!?」
「そんなわけないだろ。そんなトレーナーが存在するわけがない。あの特訓がなければ、お前はプレオープンを卒業するのも難しかったって言いたかったんだ。プール特訓のおかげで、お前はGⅠを3勝もできたんじゃないか」
「そうかな……そうかも……」
「だろ?」
「いや、ちょっと待って。じゃあなんで、そう言い切らなかったわけ? ってか文脈が明らかに変でしょ!?」
「ちょっと喉がつかえて、言い間違えただけだ」
「絶対嘘だ!? 今からでもウマ娘諮問委員会に訴えてやる!」
担当であり、娘であるエルサとの向き合い方は、妻が大きなヒントをくれた。
こいつと結婚して、本当に良かったと思う。
親には話しづらいとエルサが思っているのなら、もう少し娘を、担当を見守っていてやろう。
そして本当に娘が行き詰まってしまったときには、全力で助けてやればよいのである。
それが、親の役目ではないか。
ミラクルのおかげでひとつ心の荷を下ろせた彼は、いつものように眠くなるまで、妻とバカバカしい話をして気分をリラックスさせたのだった。
読了、お疲れさまでした。
いやぁ、仕事から帰ってきてすぐに二人でうまぴょい伝説を踊れるなんて、すごい体力だなぁ!
若いって、いいね!!
というわけで、今回はトレーナーとミラ子の夫婦の会話を中心にお届けしました。
あの二人が付き合ったら、基本的にはトレーナーがミラ子を引っ張っていくんでしょうけど、トレーナーが迷ったときには、ミラ子が何気なく、本人も気づかないような形で彼を支えてやっているような、そんなカップルになるような気がするんですよね。
というか、そんなカップルであってほしいという、私の願望を今回は書かせていただきました(笑)。
書き手の歳がバレてしまいそうなんですが、最近は今回採用したような、一人称と三人称が入れ替わるザッピング方式の小説ってすっかり減ってしまいましたね。
昔はラノベでも、何作品かあった気がします。
個人的には主人公視点と書き手の視点が切り替わることで、物語に厚さや深みを感じられて好きだったのですが、マイノリティな書き方であることには違いないでしょうから、そのあたりが最近見なくなった理由なのかもしれませんね。
私が知らないだけで、近年でもザッピング方式の小説ってあったりするのでしょうか。
もしオススメのザッピング小説があれば、教えていただけると嬉しいです。
今作も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
引き続き十三話もご愛読のほど、よろしくお願い致します。