わたしはきっと、自分は現実逃避なんてしないタイプだと、無意識のうちに思い込んでいたのだと思う。
今まで結構ノホホンと生きてきたわたしにだって、もちろんそれなりに辛いことはあった。
小学生時代、お気に入りの自転車を盗まれて一週間ほど落ち込んだこともあったし、中学3年生のときに出走した全日本中学生ウマ娘ステークス(ウマ娘版インターハイのようなものだ)のディスタンス部門でハナ差の2着に負けてしまって、泣きに泣いた。
人間泣きすぎると、最後は涙も出なくなって『ひぃ、ひぃ』という変な声しか出なくなるのだ。
トレセン学園の受験も補欠での合格で、こんな成績でこの先ここでやっていけるのかなぁ……と不安になったりもした。
平地の未勝利最終戦で敗れた時はさすがにこの世の終わりかと思うほど落ち込んだけど、お父さんが障害レースという道を示してくれたことで、すぐにレースに対して前向きな気持ちになることができた。
こんな感じで色々と辛いこと、キツいことはあったにせよ、心の何処かで『今は辛いけど、また良いこともあるさ。なんとかなるさ』とのん気に構えられる余裕があったのだと思う。
だから現実逃避なんてマネをせずに済んでいたのだろう。
つまりわたしは、現実逃避をしなければならないほどの挫折を味わったことがなかった。
でも先日の京都ジャンプステークスで、わたしは自分の走りの限界を知ってしまった。
重賞に出走してくるウマ娘たちのレベルの高さを、そしてそのウマ娘がレースに懸ける執念の違いというものを、殿負けという屈辱的な形でイヤというほど思い知らされた。
わたしはもう、これ以上強くなれない。
わたしがグランアンネリーゼさんのように、お母さんのように、GⅠに出走して活躍するなんてことは、きっとないのだ。
それを自覚した瞬間、わたしのなかで、なにかが壊れた。
何が壊れたのか、自分でもよく分からなかった。
でも、レースを走るウマ娘としての大切ななにかが、致命的なダメージを受けたことだけは分かった。
障害に転向してから運良く勝ちが続いたことで、分不相応な希望や欲を持ってしまい、余計にショックが大きくなったということもあったと思う。
これ以上速くなれないのに、強くなれないのに、貴重な青春を浪費して、なんのために厳しいトレーニングを行う必要があるのか。
そう思ってしまうと、何もかもが、嫌になってしまった。
もう、わたしは走りたくなかった。
レースでも、トレーニングでも。
わたしは自分が才能の壁にぶつかったことで、未勝利戦を
ミサさんがトレセン学園に入れなかったことで、異常なほど性愛にのめり込んだ理由が、分かった気がした。
そんなわたしができたことと言えば、レースとトレーニングから逃げることだった。
走るということから、現実逃避することだった。
と言っても、今のわたしはトレセン学園というかごの中にいる鳥のようなものである。
逃げるにしたって、手段は限られていた。
わたしはその逃避先を、とりあえずやっていればそれに没頭できる――走ることを忘れられれば何でも良かった――対人ゲームに求めた。
*
対面からのリーチに、わたしは彼女の河に捨てられている牌から、通っている本数を数えた。
1・2・3……。
7本通ってるのか。
で、対面の抜きドラは一つ(今プレイしているのは、三人麻雀だ)。
トップ争いしているところからのリーチか。
ヤなところからリーチ掛かったなぁ……と、心のなかで愚痴りつつツモってくると、それはリーチに対して無筋の牌だった。
「う~ん……」
しばし手を止め、考える。
こっちがノーテンならベタオリしてしまえばいいんだけど、なんの因果かホンイツ中赤1でこっちもテンパイしてるんだよね。
しゃあねー。
もう一本だけ、勝負するか。
わたしはそう腹をくくり、無筋の3ピンを勝負した。
「ロン!」
栗毛のウマ娘が、そう宣言して手牌を倒す。
「リーソクピンフドラ2……裏1でハネマン! 12000だね」
「げっ、マジ?」
「マジマジ。これで完全に捲ったね」
勝負に行ったから仕方ないとはいえ、この失点は痛い。
わたしは顔を歪めつつ、一万点棒1本と千点棒2本を対面の栗毛のウマ娘に差し出した。
「こっちもマンガン張ってるから、8本目までは仕方ないんだよねぇ……」
言っても詮無いことを愚痴りつつ、わたしはガシャっと手牌と山を崩す。
「えっ? もうその3ピン、9本目だよ。ずいぶん押してくるな、もう降りれないぐらい高い手持ってんだろうな、ってビビってたんだけど」
「えっ?」
思わぬ指摘に、まだ崩してなかった彼女の捨て牌の通っている筋の本数を数え直してみる。
1・2・3・4……。
「ホントだ。リーチ掛かった時点でもう筋8本通ってる……」
どうやら、単純に数え間違えていたようだ。
……徹マンなんかするから、こういうミスを犯してしまうんだよ。
窓に掛かっているカーテンから漏れ出る朝日を見ながら、わたしは自分を責めた。
時間的にも、この辺が潮時だろう。
「あ~、もうボケてるわ。これラス半で」
わたしの提案に、栗毛の娘も親を蹴られた鹿毛の娘からも、反対意見は出なかった。
*
最後の半荘は鹿毛の娘にもまくられて、結局ラス落ちしてしまった。
今精算中だけど、結構負けてるような気がする。
少なくとも、プラスで終わっているということはないだろう。
「で、いくらマイナスかな」
精算が終わり、わたしはバッグから財布を取り出しながら二人に聞く。
「え~と……エルサさんは12000マニーのマイナスかな」
「12000ね。はい、8000バックで」
わたしが10000マニーを2枚差し出すと、二人は5000マニーと1000マニーをお互いに財布から出し合いながら、わたしのお釣りを作ってくれた。
「OK。じゃあこれ、お釣りね。……にしてもエルサさん、初めてなのに結構高いレートで打ったね。普通初めての娘は5とか3、慎重な子だとマイクロピンとかで打つのに」
今日(というか昨夜か)、わたしはとある友だちから聞いて初めて寮の一室にある【麻雀部屋】にきたわけだけど、この部屋を割り当てられている二人から「レートは?」と聞かれて「二人が決めてくれていいよ」と答えたのだ。
二人はいつも千点100マニーで遊んでいるらしく、財布を見たらまぁ4ハコ食っても払えそうだったのでそれでオーケーした。
「まぁ、ピンくらいなら結構負け込んでも借金ってことにはならなそうだったからね」
「なるほど。さすが、オープンウマ娘は金回りが違うな」
からかわれたのか、本当に感心しているのかはわからないが、鹿毛の娘がそんなことを言いながらウンウン頷いている。
実際、オープンを勝ったときに与えられた【入賞奨励金】は、未勝利を勝った時のものより、文字通り桁違いのものだった。
あまり
GⅠなんて勝利すると、そこら辺の大学生が懸命に1年間アルバイトしたときと同じぐらいのお金がもらえるらしい。
GⅠを3勝しているお母さんは、その時の賞金で大学の学費をほとんど賄ったんだそうだ。
獲得した賞金の使い方はウマ娘それぞれで、実家に送金している娘もいれば、お母さんみたいに現役引退後に備えて貯金している娘もいる。
メジロ家とかサトノ家のようにお金持ちのお嬢様ウマ娘だと、レースで得た賞金は慈善団体や福祉施設などに匿名で全額寄付しているそうだ。
わたしの場合は両親から『好きに使いなさい』と言われていたので、半分を貯金して半分を小遣いにしている。
「じゃあ、今日はこのへんで。負けっぱなしってのもなんだし、また近いうちに来るよ」
そう言って立ち上がると、ふたりは笑顔で手を振ってくれた。
「うん。ここはいつでもやってるから、また来てよ」
「アンタの麻雀、基礎に忠実でなかなか打ちごたえあったよ。またやろうぜ」
そういう二人に軽く会釈して、わたしは麻雀部屋を辞すことにする。
……彼女たちもわたし同様、自身の才能の壁にぶち当たってしまい、レースに対して
だからこうして平気で朝練をサボって、徹夜麻雀に興じていたりする。
はたから見ればきっと、わたしたちは明確な夢や目標があるのにがんばることができない、ろくでなしの集まりなのだと思う。
でも、仕方ないんだ。
自分ではもう、本当にどうしようもないんだ。
声なき叫びは心の中で激しく反響し、行き場を失ってただただ自己中毒を起こすだけだった。
*
寮から出ると、徹夜明けの目に朝日がやけに染みた。
麻雀は小学校5年生のときに、お父さんとお母さんから教わった。
親戚が集まるお正月や、家族が3人とも暇なときなど、たまに打っていたのを思い出す。
このゲームは楽しくて好きだったのが、中学に入って本格的にレースを始めてからは、のめり込む自分の性格をよく分かっていたのでプレイすることを自分に禁じていたのである。
解禁してみれば案の定楽しくて、レースのために鍛えた体力で、無駄に徹夜して遊んでしまっているというわけだ。
今はそのことにちょっとした罪悪感を覚えるが、そのうちきっと、なんにも感じなくなるんだろう。
まぁもう、どうでもいいか。
「にしたって、腹減ったなぁ……」
若干眠い目をこすりながら学校のどこからでも見える時計台に目をやると、時刻は7時半を少し回っている。
麻雀を打ってる最中は空腹なんか感じなかったのだが、あの部屋を出て緊張感が緩んだ瞬間、腹の虫が暴れ出した。
そろそろ朝のトレーニングを終えたウマ娘たちが寮に戻ったり、カフェテリアに行ったりして朝食を取る時間だ。
そりゃ、腹も減ってくるか。
で、わたしはと言えば、心が折れたあの日以降、まったくトレーニングしていない。
脚に溜まった疲労の回復とメンタルケアを理由に、トレーナーからはしばらく休みをもらっていた。
休養を申し込んだ時、トレーナーからは『完全に休むのも悪くないが、脚元に負担のかからないプールトレーニングや軽い筋トレぐらいはしておいたらどうだ?』って言われたんだけど、わたしはその提案に首を縦に振らなかった。
練習に対して前向きになれていないわたしの心情を察したのか、トレーナーもそれ以上は何も言わず、『そうか。それなら、ゆっくり休め』とだけ言って1週間の休養をくれたのだ。
その休養期間が終わったらどうするかは、なんにも考えていない。
「……?」
結構負けたけど財布の中はまだ余裕があるし、今日はカフェテリアで優雅にモーニングセットをキメますか、と思ってそちらへ脚を向けると、何やら大きな声が聞こえてきた。
朝っぱらから、ケンカだろうか。
「こんな朝から、何かあったの?」
わたしはその様子を遠巻きから見守っていた一人のウマ娘に、そう声をかけてみる。
「うん。私も最初っから見てたわけじゃないけど、どうやら親子で揉めてるみたい」
「親子で?」
わたしのようにお父さんがトレーナーという娘が(父が娘を担当するってケースはそれほど多くないけど、稀ってほどでもない)、なにか原因があって口論になってしまっているんだろうか。
「そうみたい。私は遠目に見ただけだけど、言い合ってるお母さんの方、ダイワスカーレットさんじゃないかな……」
「!? ホント?」
ダイワスカーレットさん?
じゃあ、この揉め事の中心にいるのは……。
「ママのバ鹿! GⅠを勝ちまくったママに、同室の人と同じぐらい強かったママなんかに、アタシの気持ちはわからないわよ!」
意外な名前を聞いて思わず騒ぎの中心地に慌てて目をやると、そんな啖呵を切って椅子から立ち上がり、どこかへ駆け出していくルージュフルールが目に入った。
同じ席に座っていたらしいダイワスカーレットさんは、走り去った娘を引き止めるようなことはせず、どうやら少しため息をついたようだ。
どうしよう。
ルージュを、追いかけたほうがいいんだろうか。
迷っているうちに野次ウマになっていた娘たちは騒ぎの終焉を感じ取ったのか、それぞれカフェのカウンターに注文しに行ったり、寮に戻ったりするために散っていく。
同室で友だちのルージュが気にならないわけではなかったが、彼女とはまた部屋で話す機会もあるだろう。
そう思ったわたしは、少し勇気を出してダイワスカーレットさんに声をかけることにした。
「あの、おはようございます。はじめまして」
わたしが挨拶させていただくと、彼女は少し驚いたような顔をしながらも、優しく微笑んでくれた。
「あら。あなたは……ルージュと同じ部屋の、エルサミラクルさんね」
「はい、そうです。わたしのこと、ご存じなんですか」
ダイワスカーレットさんがわたしのことを知っていたのが少し意外で、思わずそう聞き返してしまう。
「もちろん。ルージュがトレセン学園に入学してすぐに『同室の娘と友だちになったわ!』って言って、あなたと一緒に写った写真をLANEに送ってきてくれたから」
そういや出会った日にルージュが『入学と入寮とアタシたちの出会いの記念に、一枚写真取っておきましょうよ!』と言ってくれたので、彼女と一緒にスマホで写真を撮ったのを覚えている。
あの時の写真を、ルージュはダイワスカーレットさんにも送っていたらしい。
「その写真を見たとき、ちょっと安心したのよ。あの娘、結構自己主張が強い子だから、昔から友だち少なくてね。アタシは同室だったウオッカとはバチバチにやり合ったものだけど、ルージュは仲良くできそうな娘と同じ部屋になったみたいで、良かったなって思っていたの」
「そうだったんですか」
そう嬉しそうに言ってくださるダイワスカーレットさんを見ていると、少しばかり心が痛んだ。
ここ数日、ルージュとは会話どころか、朝のおはようの挨拶さえ、交わしていなかったから。
あのいさかいがあった日以降、彼女との雰囲気は険悪になるばかりだった。
こちらがどんなに朗らかに接しようとしても『なによ、うるさいわね』『才能のあるウマ娘さんはいいわね! 人のこと気にしてる余裕があるんだから。無能なアタシのことなんかもう放っておいてよ』とか、そんなことばかり言い返されたら、いくら相手が友人とはいえ、さすがに会話するのが嫌になる。
どんなに望んでも、もうルージュとはきっと元の友人関係には戻れないんだろうな、とわたしは半分諦めていた。
そんなルージュと一緒にいるのがどうにも気まずくて、昨夜はあの麻雀部屋に逃げ込んだ、ということもある。
「それで……あの娘、昨日の夜に『もうレースも学園も辞める』ってLANE送ってきてね」
「えっ?」
ダイワスカーレットさんのその発言に、わたしは間抜け面をして驚く以外、何ができただろうか。
あのルージュが、レースを、辞めるって……?
どんなにルージュと険悪になろうとも、わたしは多分、心のどこかで『あの死ぬほど負けず嫌いのルージュが、レースを放り出してトゥインクルから逃げ出すわけがない』と、ある意味彼女を信頼して、その根性を認めていたのだと思う。
だから、ルージュが学園やレースを辞めるなんてことを言い出したなんて、とても信じられなかった。
「今は思うような結果が出てなくて、あの娘も辛いんだと思う。まだクラシック級だし、自分をあきらめるのは早すぎるって返事したのよね。でも、それ以降こちらが何送っても未読スルーで……。思わず心配になってやってきたら、もう話も聞いてくれなくて」
「……そうだったんですね」
単に相槌を打つだけになってしまったが、わたしにそれ以上何ができたというのだろう。
レースへの情熱を失い、トレーニングもまともにしていない今のわたしが、ルージュを引き止めるようなことを言う資格があるとは思えなかった。
「今は、あの子も一人でいろいろ考える時間が必要なのかもしれないわね……。今日は、これで帰るとするわ。エルサさん、あの子のこと、よろしくね」
そう言って立ち去ろうとするダイワスカーレットさんに、わたしは微妙な笑みを浮かべて、あいまいに頷くことしかできなかった。
*
ダイワスカーレットさんとのことがあってからも、ルージュとの雰囲気は何も変わらなかった。
彼女も自分の母親とやり合ったことを話してくれなかったし、わたしもダイワスカーレットさんとそのことをお話したことを言わなかった。
思えば、あの日の夜がルージュと話し合う最後の機会だったのかもしれない。
学園の授業が終わり、特にすることも、やりたいこともなかったので(休養中のウマ娘はとにかく暇なのである)、とりあえず寮の自室へ直帰したわたしは……目を疑うような光景を目にした。
部屋の右半分 ――ルージュが使っていた場所だ―― から、備え付けのベッドと机以外、すべてのものがなくなっていた。
ルージュのお気に入りだった置き時計も、彼女の教科書も、レースの参考書も、スマホの充電器も、誇らしげに飾ってあった、ダイワスカーレットさんがラストランの有マ記念を勝ったときに撮ったという写真の入った、フォトフレームも。
まるで最初から誰もそこにいなかったかのように、彼女が存在した痕跡が、消えていた。
「……………」
そっか。
ルージュ、ほんとにガッコもレースも、やめちゃったんだ。
2年以上同じ部屋で一緒に寝起きした、友だちであったはずのわたしに何も言わず。
いや。
たった一つ、彼女が残していったものがあるようだ。
いつだったか、わたしがルージュの健康を願ってプレゼントした小さな赤ベコが、わたしの机の上に置かれている。
それが、すべてを物語っていた。
手に取った小さな赤ベコが、にじんで見える。
あるじがいなくなった赤ベコを濡らした涙が、一体どんな感情からこぼれ出たものだったのか、わたしにはよくわからなかった。
読了、お疲れさまでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しばかり、間が空いてしまいましたね。
掲載を待っていてくださっている読者様(……ちょっとはいらっしゃると信じたいw)には、
本当に申し訳なく思っております。
少し言い訳させていただけるのなら……実は先月半ばくらいから原因不明の体調不良に悩まされておりまして、思うように執筆作業が進まなかったんです。
やばい病気ではなさそうなのですが、原因がわからないぶん明確な治療法もなく、今は様子を見るしかない、というのが診てくださったお医者さんの見立てであり、現状だったりします。
同居している家族の体調もすぐれなくて、病院に連れて行ったりしていた、ということもあります。
そんな事情もあり、これから更新スピードが少し落ちてしまうかもしれません。
時間を見つけて少しずつでも執筆していくつもりですので、読者様には気長に付き合っていただければ幸いに存じます。
生きていれば、こんな感じでちょっとキツいなぁ……って時期が定期的にやってきますね。
今回もなんとか、乗り越えたいと思っています。