ミラ子の娘。   作:宮川 宗介

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第十七話

体操服に着替えてきてダートのバ場に到着すると、そこにはちょっとした人だかり(ウマ娘だかり?)ができていた。

 

「いや~。こんなおばさんのサインが欲しいだなんて、嬉しいこと言ってくれるね~」

 

その人だかりの中心には、デレデレの顔で差し出される色紙にマジックでサラサラとサインを書いているヒシミラクルの姿があった。

 

「いやいや! ヒシミラクルさんといえば、デビューから9連敗しながらも諦めずに努力し続けて、3度のGⅠ制覇というミラクルを起こした伝説的なステイヤーですから! サイン、ありがとうございます。家宝にしますね!」

 

サインされた色紙を受け取った一人のウマ娘が、目をキラキラさせながらウチのお母さんにそんなことを言っている。

 

そんなシーンを見ていると、なんだかちょっとむず痒かった。

 

「はっはっはっ。伝説的ステイヤーとは持ち上げてくれたもんだね~。それは嬉しいけど、わたしのような年寄りに人気が集まるんじゃ、トゥインクルの未来もちょっと心配になってくるよ」

「桑原本因坊か、あんたは。……余計な心配してないで、さっさと併走始めない?」

 

わたしはためらいながらも人混みの中に入り、気分良くサインをし続けているお母さんをジト目でにらみながら声を掛ける。

 

「ああ、ちょっと待って。あと3人でサイン欲しいって人終わりだから」

「あっそう。……ったく、お調子者なんだから」

 

ウチのお母さんはちょっとおだてられたり持ち上げられたりすると、すぐにその気になるというちょっと困ったところがある。

 

お父さんから現役当時の話を漏れ聞いている感じ、うちの母親は昔からあんな感じらしい。

 

仕方がないので脚元の砂を蹴りながらサインを終わるのを待っていると、ようやくお母さんがこちらへやってきた。

 

「いや~、おまたせ。まったく人気者は辛いものです。じゃあさっそく始めましょうか」

「それはいいけど。併走の条件は?」

 

併走トレーニングでダート一本、といえば相場はだいたい1マイルである。

でもトレーニング内容によってはこれが1000Mになったり2000Mになったりするので、開始前にお互い条件を確認しておくのが通例だ。

 

「せっかくだし、ダート2400で行こっか」

「!? 本気で言ってる?」

 

マジか、このおばさん。

その長さのダート併走を行うのは、長距離レースを得意とするステイヤーウマ娘が今の自分のスタミナの限界を確かめるために、まれに行うぐらいである。

 

わたしだってその距離の併走は、デビューしてから1度しかやったことがない。

あれは肉体的にも精神的にはかなりきつく、終わったあとは食事も喉を通らなかったのを思い出す。

 

「ん~? エルサちゃんはおばちゃんにこの距離の併走勝てないと思ってるんだ? まぁあんた、最近トレーニングサボってるみたいだし? スタミナに自信がないんなら、センロクで許してあげてもいいよ~」

「…………」

 

下手な挑発を。

わかった。

そんなに老体に鞭打って走りたいなら、お相手しようじゃないか。

 

その下手な挑発に、乗ってあげようじゃないか。

 

「OK、その距離でいいよ。終わってからぶっ倒れたり、そのへんに吐き散らかして周りに迷惑掛けるのだけは、やめてよね」

「そうなったら、エルサが片付けてくれたらいいだけの話じゃない」

「絶対嫌!」

「冷たい子だよ……。こりゃ老後の介護をしてもらうのは望み薄だねぇ……」

 

がっくりと肩を落としながら、お母さんはわたしの隣に並んだ。

 

「ほんとにやる気なんだ。じゃあ、誰かにスターターお願いしないと」

「……それは、俺がやろう」

 

そう言いながらバ場に入ってきたのは、わたしの父親兼トレーナーだった。

 

「トレーナー! よくここに顔を出せたもん……」

「まぁまぁ。じゃあ、お願いするよ」

 

お母さんはそんなことを言いながら、トレーナーに食ってかかろうとしていたわたしの肩を掴んでくる。

 

それが思いの外力強くて、思わず脚を止めてしまった。

 

ちっ。

まぁ、いいか。

どうせこれが終われば、契約が切れてしまうトレーナーとウマ娘の関係である。

 

わたしはできるだけ無表情を装い、スタンディングスタートの姿勢を取った。

お母さんも、同じような姿勢を取ったようだ。

 

「位置について。用意……」

 

トレーナーがスターターピストルの代わりにパン! と大きく手を鳴らしたのが、スタートの合図になった。

 

わたしの出足は、決して褒められたものじゃない。

 

かと言って下手というほどのものでもなく、可もなく不可もなく、といった感じだろうか。

 

そんなわたしのスタートより、お母さんは明らかに出遅れた。

しかも、その後のスピードの乗りが笑ってしまうぐらい悪い。

 

最初の50Mで、もう5バ身ほどの差がついてしまう。

 

現役時代のお母さんはズブい、と散々聞かされてきたもんだけど、あんなにひどいものだったとは。

 

それに、こういっちゃなんだけど歳のせいもあると思う。

お母さんはわたしを26歳のときに産んでいるから、今年でもう42歳だ。

 

あのお腹を見ている感じ、最近ちょっとは体を動かしているみたいだけど、さすがに現役当時と同じパフォーマンスを発揮する、というわけにはいかないだろう。

 

あれが、かのシンボリクリスエスとネオユニヴァースを破り、ミラクルとまで言われたヒシミラクルの走りなのか……。

 

いや、ガッカリするほうが間違っているというのはわかっている。

 

お母さんが現役を退いてからもう20年以上経っているわけだし、全盛期と同じ走りを見せてみろ、という方が酷と言うもんだ。

 

ただ、やっぱりこうして『ウマ娘』として走るからにはそれ相応のモノを見せてほしかった、と思ってしまうのは、GⅠを3勝もした、あのヒシミラクルに対するあこがれが強すぎたからだろう。

 

それにしたって……。

麒麟(きりん)も老いては()バに劣る、か。

 

年寄り相手に、あまり大差で勝つのも大人げない。

未だにサインを欲しがるウマ娘がいるように、お母さんは伝説的なウマ娘なのだ。

そんな母を大勢のウマ娘の前でケロケロに負かして、恥をかかせるのも忍びない。

 

最後は少し緩めて、いい勝負を演出してあげるとしよう。

 

そんなことを考えているうちに、もう残り1000Mを切ってしまった。

 

最近トレーニングをサボっていたのでさすがに少々息切れしてきていたが、スタミナが尽きてしまいそうなほどじゃない。

 

確かにわたしは平地未勝利で、障害競走でもオープンの壁にぶち当たった非才なウマ娘ではある。

それでもこっちは高等部クラシック級の、うら若き現役ウマ娘なのだ。

 

ちらっと後ろを見ると、7バ身ほど後ろを走っているお母さんが、少しギアを上げるのが見えた。

 

おいおい……。

まさかあんなところから、ラストスパートを掛けるつもりなのか。

 

まだゴールまで、1000Mもあるんだよ。

そういやお母さんは、ロングスパートが得意だと聞いたことがある。

 

でもあんなところからスパートを掛けて、ゴールまでスタミナが持つわけがない。

わたしに間を空けられすぎて、焦ってしまったのか。

 

その負けん気は、大したもんだと思う。

 

完全にタイミングを見誤ったスパートを見せられているにも関わらず、観戦しているウマ娘たちからはなぜか大きな歓声が上がった。

 

往年の名ウマ娘のスパートに、ノスタルジーな感情が揺さぶられたらしい。

 

ノスタルジーも大いに結構だけど、あんなラフなレースをされてしまっては、こちらも手加減するのも難しくなる。

 

ひどいレース運びのロートルに負けたとあっては、現役であるわたしのメンツが立たないからね。

 

残り、600M。

ホントはこのあたりからスピード調整して接戦を演じるつもりだったけど、わたしもちょっと、本気を出させてもらうとしよう。

 

「ふっ……!」

 

平地を走っていた頃を思い出し、わたしはこの地点で一段ギアを上げた。

ここから少しずつ加速していけば、ゴール前時点で全速力の7・8割ぐらいのスピードに乗っているはず。

 

それでお母さんはわたしに追いつくどころか、影さえ踏めないだろう。

 

やれやれ。

 

実の母親を相手に、ちょっとやりすぎてしまったかもしれない。

こんなことで火が付くあたり、わたしも意外と負けず嫌い……。

 

「!?」

 

おかしい。

 

聞こえないはずの音が、わたしの耳に入ってくる。

力強い、ウマ娘の爪音が。

 

背後から、感じるはずのない重圧を感じる。

今まで感じたことのないような、こちらを押しつぶさんとするプレッシャーを。

 

思わず後ろを振り返ると、はるか後方にいるはずのお母さん ――ヒシミラクルだ!―― が、もうわずか2バ身後ろに迫ってきていた。

 

「ウソでしょ!」

 

驚きと焦りのせいか、背中とわきから冷たい嫌な汗がまるで滝のように溢れ出る。

慌ててわたしは視線を前に戻し、ギアを最大に急変させた。

 

まだ、残りが300Mほどあったのは助かった。

これが残り1ハロンを切っていたら、マジで差されていたかもしれない。

 

残り、200M!

 

ここでようやく脚がトップスピードに乗ったのを感じたが、視線の端にいるお母さんをまだ振り払えない。

 

お母さんは現役ウマ娘であるわたしと、ほぼ同じぐらいの脚で食らいついてきているのだ。

 

もうレースから退いて20年以上経つウマ娘が、である。

 

まったく、信じられなかった。

 

これがGⅠウマ娘の力なのか。

その底力を見せつけるかのように、お母さんは一瞬、わたしに並びかけたが……。

 

「さすがに、負けられるかっ!!」

 

迫ってくるお母さんを置き去りにせんと、わたしは体を深く沈み込ませ、思い切りダートを踏み抜いた。

自分では突き放したつもりだったが、それでもお母さんを振り払うことができない。

 

焦りが、どこに向けているのかさえわからない苛立ちが、募る。

耳の奥から、まるで早鐘のような心音が聞こえてくる。

 

お母さんは根性を見せてわたしに並びかけてきている、という感じはしない。

どうやらこの最終盤に至ってまだ、お母さんの脚は加速し続けているらしい。

 

わたしがトップスピードを維持し続けているのに差が少しずつ縮まっているということは、そうとしか考えられなかった。

 

そうか。

そういうことか。

 

……お母さんが現役当時、長距離を得意にし、中距離の宝塚記念でも勝てた理由が、今分かった。

 

お母さんは自分のズブさを自覚したうえで、鍛え抜いたスタミナを武器に超ロングスパートを掛け、普通のウマ娘なら速度を維持するだけで精一杯のはずのゴール地点手前でも、スピードをさらに加速、維持することができていたのだ。

 

全盛期のヒシミラクルにこんな脚を使われてはロングスパートを活かしにくい中距離だったとはいえ、天皇賞ウマ娘のシンボリクリスエスも二冠ウマ娘のネオユニヴァースも、追いつくことができなかったわけである。

 

しかし、それはあくまで全盛期のヒシミラクルの話。

 

ウマ娘を一人産んだあとの人妻の身では、さすがにそこまでの鬼脚を発揮することはできなかったらしい。

 

わたしは現役ウマ娘の意地を見せ、1バ身ほど母より先にゴールへ飛び込んだ。

 

「はっ……はぁっ……はあぁぁっ……」

 

久しぶりに全力疾走したせいで、疲労感が半端ない。

もちろん、最近トレーニングをサボっていたせいもあるだろう。

 

しかし、わたしが感じていたのは、疲労感だけではなかった。

 

「う~ん、いいとこまで追い詰めたんだけど。さすがに現役のウマ娘には勝てないか~」

 

額から流れ出る汗を腕で拭い、お母さんが苦笑いしながらこちらへやってくる。

 

2400Mを走ったわけだからお母さんの息ももちろん荒かったけど、わたしほどじゃない。

 

併走終わったあとの息遣いが、現役ウマ娘より42歳のウマ娘のほうが落ち着いているって、いったいどういうことなんだよ……。

 

やっぱり、わたしとおかあさんじゃあ生まれ持ったスタミナが違うんだろうな……。

 

「おばちゃんに……はぁっ……負けたとあっちゃ……ふぅっ……こっちも現役のメンツが立たないからね……」

 

息も絶え絶えなわたしの強がりに、お母さんはなぜか楽しそうにウインクする。

 

「なんだ。もうやる気なくなってるってトレーナーから聞いてたけど、まだそれだけの負けん気があるじゃない」

「…………」

 

母からの鋭い指摘に、わたしは何も言い返せない。

 

確かに、わたしは負けたくなかった。

ヒシミラクルというウマ娘の激走に中てられて、闘争心に火をつけられたのだ。

 

久しぶりに、本気になった。

 

「まぁわたしも現役時代、レースに対する覚悟ややる気に関しては、決して褒められたものじゃなかったからねぇ。エルサがモチベーションなくしてもうレースやめたい、やめたいとまでは言わないにせよ、もっと気楽にやりたいってんなら、それをとがめるようなことはしないよ」

 

気楽に言ってくれるねぇ……。

 

「わたしには、お母さんみたいな才能がないからね。もういいかなって気持ちは、正直ある……」

「そっか。才能がない、か。そうかもしれないね」

 

わたしの弱音と言うか、負け惜しみをお母さんはあっさり首肯する。

 

「才能がないのがわかったから、走るのが嫌になった、と?」

「だってもう速くなれない、強くなれないのなら、レースとキツいトレーニングなんて続ける意味ないじゃない」

「ふ~む……」

 

わたしの言い分に、お母さんはあごに手を当てて何やら考え始めた。

 

「エルサが走るのを始めたのって、速くなりたい、強くなりたいって、それだけだったの?」

「えっ?」

「だって。エルサが小2でレース倶楽部に入りたいって言ったとき、なんでクラブに入りたいの? ってわたしが聞いたら『走るのが楽しいから!』って答えてたからさ」

「……………」

 

そうだった。

わたしは走るのが楽しかったから、好きだったからレースを始めた。

 

それは嘘じゃない。

 

「レースを始めたきっかけは、そうだったかもしれない。でももう、わたしも小さい子供じゃない。好きって気持ちだけじゃ、続けられないんだよ。才能があったお母さんには、わからないかもしれないけど」

「う~ん……。走り続けるのに才能があるかどうかなんて、あんまり関係ないと思うけどなぁ」

 

そうそう。

才能のある人は、みんなそう言うんだよ。

だって走れば走るだけ成果はついてくるし、周りの人は認めてくれるんだから。

 

そんな状況だったら、誰だって高いモチベーションを保つことは容易だろう。

 

わたしは決して、才能のある人の努力を軽んじているわけじゃないんだ。

成果や周囲の承認が得られない非才に、そんな天才たちと同じような努力や継続、高いモチベーションを求めるのが土台無理だって話なのである。

 

「だってわたしもデビューから9連敗って結構ひどい状況だったけど、そんな時期でも別にトレーニングは苦じゃなかったし、レースに出るのも嫌じゃなかったよ」

「……」

 

そうだった。

お母さんは最初っから期待されていた天才ウマ娘、というわけじゃない。

 

それは知ってる。

 

「でもそれは、お父さんがお母さんの才能を見抜いて、ずっと励ましてくれていたから……」

「ん? じゃあエルサもお父さんにがんばれ、お前はすごいウマ娘だぞ! いつかきっとGⅠ穫れるぞ!って励ましてもらえたら、続けられそうなの?」

「あっ、いや……」

 

それはたぶん、違う……と思う。

 

じゃあどうして、お母さんはそんな厳しい状況でもトレーニングを続けられたのだろう。

デビューから9連敗しているような状況で、モチベーションを落とさず、レースに出走し続けることができたのだろう。

 

「ウマ娘がレースを走ってる理由なんて、一つじゃないよ。他にすることがないから走ってるって娘もいるし、お金のために走ってるって娘もいる。あの時のわたしみたいに、とりあえずトレセン学園に通っておいて、キリのいいところでスポーツ系の大学に推薦してもらうために走ってるってウマ娘も多いと思うよ」

 

ああ、なるほど。

だからお母さんはレースにどうやっても勝てないという状況でも、なんとか踏みとどまることができたのか。

 

授業の単位と小遣いが欲しいがために、レースと学園に残ろうとしているわたしも同じようなものだろう。

 

「確かに、そうかもね。ってか、お母さんにもそんな時期があったんだ……」

「まぁね。でも、そんな(よこしま)な気持ちを抱えながらトレーニングしていてもそんなに嫌じゃなかったのは、結局わたしも、走るのが好きだったからじゃないのかな」

 

そう言って照れ笑いを浮かべるお母さんを、わたしはなにか眩しいものを見るような目で見つめていた。

 

まぶしいものなんて、いつまでも見続けているもんじゃない。

わたしは小さなため息を付きつつ、そっとお母さんから視線を外す。

 

「まぁエルサは、小さい頃から思い悩んだら視野が狭くなる(たち)だからね。性急に答えを出さないで、色んな視点から走るってことを考えてみなさいな。エルサにも、友だちがいるでしょう? いろんな人に相談してみるのも、アリだと思うよ」

 

そう言ってお母さんは笑顔でわたしの肩に、ぽんと手を置く。

 

普段からのん気で、結構いい加減なお母さんだけど、この笑っている顔を見て、お母さんの手の体温を感じていると、まぁ人生なんとかなるか、と思えてくるから不思議なものである。

 

「そうだね……もうちょっと、いろいろ考えてみるよ」

 

いつのまにかこちらへ来て、わたしたち母娘の会話を傾聴していたお父さんに一瞬だけ視線を向けると、わたしはそう言ってダートのバ場をあとにした。

 

**

 

娘が寮の方へ歩いていき、視界から消えたのを確認してから、ヒシミラクルは夫の方へ倒れ込んだ。

娘の前ではなんとかカッコつけていたものの、42歳の彼女にとって、今の併走は限界を遥かに超えていた。

 

「おいおい、ミラ子! 大丈夫か?」

「ぷはぁ……だいじょばない。死ぬ。マジで死ぬ。やっぱカッコつけないで、1000Mにしておけばよかった……」

「そんな減らず口をたたけるのなら、死にはしないと思うが……」

 

彼はそう言って倒れかかってきた妻を抱きとめると、すぐさま顔色を観察し、手首の脈に触れてみる。

顔色は全く悪くないし、脈もかなり速いものの、飛んだり変に乱れている様子もなく、正常なものだった。

 

それを確認した彼は、ホッと安心のため息をついた。

 

「うん、大丈夫そうだ。それにしても、今回はいろいろと無理を言ってすまなかったな」

「いいよ~。エルサといつか併走してみたい、と思ってあの娘が入学してからコツコツジムに通ってた甲斐もあったってものですよ」

 

そう言ってミラクルは二ヘラ、と笑う。

 

「でも、こんなガチマッチレースをやるハメになるとは、思いもよらなかったけど……」

「うむ。引退してかなり経つお前があれだけ走れたのにも驚いたが……。今日来てもらうことを決めてからの一週間、現役時代死ぬほど嫌がっていたプールトレーニングを毎日自分から通い詰めたことに、一番驚いたぞ」

「あはは。年老いたこの脚にできるだけ負担をかけないでスタミナを取り戻そうと思ったら、やっぱプールしかないかなって。母親ってのは、子どものためならどんなことだってがんばれるんですよ」

「そうか」

 

母親というのは、そんな存在なのかもしれない。

今思い起こしてみれば自分の母親も、フルタイムで働きながら何してもらっても礼も言わない息子(じぶん)のために、食事の準備や洗濯物を文句ひとつ言わずやってくれていたものだ。

 

「ミラ子との併走を通して、あいつがなにか感じ取ってくれればいいんだが……」

「その点については、心配ないと思うよ。本当にやる気をなくしたウマ娘が、あれだけ本気を出せるとは思えないからね。エルサがすぐに立ち直れるかはわからないけど、少なくともいきなり引退を決めたり、アンタとの契約を破棄したりはしないと思う」

「それなら、いいんだがな」

 

母親であり、今本気で競ったばかりのウマ娘がそういうのだ。

妻の言葉を、彼は信頼してみることにした。

 

「ところで。頼りないトレーナー兼父親の代わりに、併走までやって走ることの素晴らしさを娘に伝えて死ぬほど疲れている妻に、なにかご褒美があってもいいと思うのですが?」

 

……で、案外自分の父親もこうして、普段がんばっているご褒美を母親からおねだりされていたのかもしれない。

 

「わかってるわかってる。今日は行きつけのお好み焼き屋で、好きなだけ好きな具をぶち込んで、たらふく食ってくれ。もちろん、会計は俺が払うよ」

「さすがGⅠトレーナー! ふとっぱらだね! お金持ちだね!」

 

さっきまでの疲労困憊はどこへやら、抱きかかえられていた夫から離れると、ミラクルは彼をキラキラした瞳で見つめて過剰なまでのお世辞を垂れ流す。

 

「いや。お前が宝塚記念を勝って以来、俺GⅠ勝ってないんだが。で、お前の稼いでくれたGⅠトレーナー報奨金なんか、全部あの家建てた時の頭金になってもうないんだけど……」

 

ヒシミラクルの大きな耳に、都合の悪い言葉は届かないらしい。

 

「好きな具を入れたい放題かぁ。豚玉をベースにして、イカでしょ、海老でしょ。帆立貝はマストで、モダン焼きにするのも……」

 

今日まで食事制限をしていた反動か、ミラクルは食べたいものをとりあえず指折り数え始める。

 

まぁ、いいか。

これにビールを3杯追加されても、今の財布の中身(と言っても、今の時代電子マネーだが)で大丈夫だろう。

 

そうだ。

お好み焼きで思い出した。

 

「ミラ子。エルサが今度実家に帰ったらお前の焼いたお好み焼きが食べたいって言ってたから、作ってやってくれ」

「OKOK! いや~、少ない小遣いでやりくりしてる夫のことを考えて、今日はちょっと遠慮しようかな~とか思ってたけど、エルサのためなら仕方ない。プロのお好み焼きの味をしっかり研究するために、具沢山のお好み焼きをしっかり食べないとね」

 

娘をダシにして、ミラクルはどうやらたくさん食べる決心を固めたようだった。

いや、たぶん元々そのつもりだったんだろうけど。

 

「エルサのためにも、具がたくさん入ったお好み焼きを、うまくひっくり返す練習もするぞ~!」

 

そう言われては、是非もない。

彼はあきれ95%のため息をつきながらスマホを取り出し、独身時代から使用しているネット口座から、電子マネーにお金を追加した。

 

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