ジャパンカップが終わり、季節は完全に秋から冬へと移行しつつあった。
日の出も日に日に遅くなっていて朝練の時間はまだあたりが薄暗く、坂路には煌々と照明が灯っている。
そんな坂路を、わたしは激しく息を切らしながら必死に駆け上がっていた。
「エルサ、残り100Mだ! 気を抜かずにしっかり行け!」
「はいっ!」
わたしは坂の頂上で待っているトレーナーの檄に返事し、ラストスパートを掛ける。
心臓が暴れまわり、脚が思うように動かなくなってきた。
でも、これでいい。
限界に近い負荷をかけてこそ成長につながるのだ。
「ふっ、ふっ、はっ、はっ、はぁっ、はぁっ……」
意識して整えていた呼吸も、どんどん乱れてきた。
これはわたしが最近トレーングをサボっていたせいで、1000Mの坂路をギャロップで駆け抜けるスタミナが戻っていないことが原因である。
1日練習を休んだら走力を取り返すのに3日かかる、なんて科学的根拠のない迷信を信じているトレーナーやウマ娘はほとんど全滅したけれど、トレーニングを休めば休むほど体がなまっていくということだけは事実だ。
それでもわたしは2回吸って2回吐くという基本の呼吸法だけは遵守しつつ、なんとか坂の頂上にたどり着いた。
「よし、ゴールだ。どうだ、脚の具合は?」
「はぁっ……ふぅっ、ふうぅっ……。うん、脚の方は大丈夫。ただ、やっぱりちょっと体がきついのと……ふぅっ、息の戻りがまだまだ本調子じゃないね」
わたしの返事を聞いて、トレーナーはそうだろうなと首を縦に振る。
「それは仕方ない。しばらくトレーニングを休んでいたわけだからな。だが、それは走り込んでいるうちに戻ってくるから心配ない。脚元に問題がないなら、次は飛越のトレーニングに行くぞ」
「OK、わかった」
本当はもう少し休憩していたかったけど、わたしは軽く返事してから水筒やタオルなどが入っているバッグを手に取り、先に坂路を降り始めたトレーナーの後を追う。
「はぁっ……はぁっ……ふぅっ……」
ゆっくり歩いているうちに、ようやく呼吸が落ち着いてきたわたしはバッグからスポーツタオルを取り出して額の汗を拭った。
今日の気温は、9度。
吐く息も白くなる気温なのに額のみならず全身に汗をかいていて、体操服が胴体に張り付いて気持ち悪い。
まったく。
陽も出ないくらいの朝っぱらから、青春真っ盛りの乙女が一体何をやっているんだろう。
朝の早くから必死に走って、汗まみれになって。
でもこれがわたしの日常であり、わたしの選んだ青春なのだ。
*
お母さんと併走した日の夜。
わたしはルームメイトがいなくなった暗い寮の自室で考えた。
わたしは一体レースに対して、走ることに対してどう向き合えばいいんだろう。
わたしは確かに、走ることが好きでレースを始めた。
ただ全身全霊で走ることが、好きだった。
でもレースというものに、執着心を持っているのだろうか。
他のウマ娘に勝つということに、価値を見出していただろうか。
レースに勝つことって、そんなに大事なことなんだろうか?
それは走ること自体よりも、価値があることなのだろうか?
わかってる。
レースというのは誰が一番速いかを競う競技であり、誰が一番最初にゴールを駆け抜けるかを競う勝負なのである。
自分が甘いことを言っているという自覚はある。
こんなわたしをみて、ルージュは『甘いなら、甘いままトップを取ってしまえばいい』と言ってくれていたけど。
トゥインクルの世界というのは、そんなに甘くない。
人生のすべてを懸けたトリプルティアラですべて2着に終わり、
同期の溢れんばかりの才能を目の当たりにし、クラシック競走を目の前にして『あの娘には勝てない』と絶望して引退したウマ娘がいた。
『最低でも三冠、最高でも三冠』とまで言われていたのに結局一つも取ることができず、敗れた菊花賞当日に学園から去っていったウマ娘もいた。
才能あるウマ娘が全てを懸けてレースに挑んでなおも勝利に手が届かずに絶望し、消えてゆく。
それがトゥインクルという世界なのである。
そんな世界の中で、わたしは戦い続けたいのだろうか。
青春のすべてを懸けて、レースに挑み続けたいのだろうか。
わたしの答えは、ノーだった。
無理だ。
わたしにはレースのために人生や青春のすべてを捧げるなんてことは、きっとできない。
美味しいものも食べたいし、たまには友達ともお出かけしたい。
本当のことを言えば恋愛だってしたいし、好きな人に愛されて、情熱的なエッチだって経験してみたい。
わたしはウマ娘である前に、一人の人間であり、一人の女の子なのだ。
そう思うならすっぱりトレセン学園もレースも辞めて、普通の女の子に戻ってしまえばいいだけの話だ。
しかし困ったことに走ることに対してまったく未練がないのかと言われれば、それもまたノーなのである。
走ることは楽しい。
全力で走っているうちにすべての思考が消えてゆき、時間と空間の感覚さえなくなるようなあの没入感がわたしは好きだ。
それにたった2回の経験しかないけれど、先頭でゴール板を駆け抜けてファンからの喝采を浴び、ウイニングライブでセンターを務めた感激と興奮、あの高揚感は忘れられない。
勝つことはそんなに素晴らしいことなのか? というある意味レースとウマ娘を冒涜するような疑問を持っているわたしだけど……。
日頃の努力が実を結んで勝利するということが大きな喜びを与えてくれたのも、また事実だった。
お金のこともある。
たとえ勝利できずともオープンクラスにいてそれなりの成績を収めている限り、普通の高校生がアルバイトをするよりよっぽど稼げてしまうのだ。
一体、何を優先すればわたしは満足するのか。
自分の選択に、納得できるのだろうか。
何を選べば、わたしは幸せになれる?
女子としてのわたし。
レースを走るウマ娘としてのわたし
そしてお金の問題。
いくら考えても悩んでも思考は堂々巡りを繰り返すばかりで、明確な優先順位なんてつけられそうにない。
「……つぅっ……」
同じような悩み事が頭の中で切り替わるたびに、胃がキリキリと痛む。
その頭も、なんだかぼんやりする。
そのくせ眠気は全く襲ってこない。
考え事をするから眠れないのか。
眠れないから考え事をしてしまうのか。
一体どれぐらいの時間、ただひたすらそんなことを反芻していたのだろう。
「……明るい……」
ふと窓に目をやると、薄暗い部屋に朝日の光が差し込み始めている。
どうやら、うだうだと悩んでいるうちに夜が明けたようだ。
……なにをやっているんだ、わたしは。
だめだ。
いくら考えても、答えは出せそうにない。
お母さんいわく、わたしは物事に悩むと視野が狭くなるらしい。
「そうだ……」
そうであるなら、もう他人の視点を借りるしかないか。
あの娘たちに相談してみよう。
無謀な挑戦と言われながらも重賞に挑戦して見事勝利した友人と、夢破れて極端な方法で自分の夢の挫折に折り合いをつけざるを得なかったあの人に。
*
ちょうど昼食と夕食の間であるこの時間のファミレスは、かなり閑散としていた。
この時間帯の飲食店というのは面白くもない話をするのに、ちょうどいい場所だったかもしれない。
わたしが午前中にイングリッドとミサパルフェさんに『ちょっと相談事があるから時間取れないかな?』とLANEで連絡すると、二人とも忙しいだろうに時間を作ってこの前合コンをやったファミレスに集まってくれた。
「そう。エルサはそんなに悩んでいたのね」
わたしの長い独白を、二人は口を挟まず相槌だけ打って傾聴してくれた。
「うん。続けるのも辞めるのも、どうにも決心がつかなくてさ。どうしたもんかと思ってね」
わたしは喋り通しで疲れた喉を潤すために、もう水滴もついてないグラスを手にとってコーヒーを口に運んだ。
「最終的には、エルサが決めなきゃならないことなんだろうけど」
イングリッドはそう前置きして、わたしの目をじっと見つめながら続ける。
「私としては、エルサに学園もレースも辞めてほしくない。ルームメイトがそんなふうにいなくなったのは辛かっただろうし、キツい負け方してやる気がなくなったってのも痛いほどわかるわ。私もたまたまローズステークスに勝っちゃって秋華賞に出れたけどね。もうGⅠなんてホント、化け物の巣窟よ。才能もレースへの覚悟も、非才な私なんかとは全然違った」
彼女はそう言って、力なく笑う。
その微笑には諦観や無力感と言った単純な一言では言い表せない、様々な感情が混じっているようにわたしには思えた。
「今年の夏場までプレオープンを走っていた私とレース人生の初期からGⅠに出走しているような常連にしているウマ娘とじゃ、才能が違うなんてことは分かりきっていたわ。それでもその現実を実際見せつけられると、バッキバキに心折られた。だって私は絶対にあの領域に届かないって、分かってしまったんだもの」
上には上がいる。
そんなことは誰もが知っていることだし、頭の中でみんなわかったつもりになっている。
だがリアルにそれを突きつけられると、その現実は思っていたより何倍も何十倍も、わたしたちのモチベーションとプライドを傷つけてくるのだ。
なにかに本気で取り組んでいる人は、ある時自分より遥か上の実力者にスキルレベルの違いを見せつけられるという絶望を必ず経験することになる。
その絶望は自分が真剣に取り組んでいるほど、取り組んでいることを愛しているほど深い。
自分の才能が大したものではないという現実を突きつけられ、わずかにあった自信みたいなものは木っ端微塵に砕かれる。
そしてある者はその道を諦め、悲劇的にも自ら命を断ってしまう人すらいる。
「でも、私はレースを辞めないわ」
「それは、どうして?」
なぜイングリッドは大きな壁にぶち当たっても、レースに対するモチベーションを持ち続けることができているのだろう?
わたしはその才能の差というやつを見せつけられて、レースを辞めたくなっているのに。
「GⅠの領域には届かないかもしれないけど、私は自分の限界を極めたい。私もいつか、レースから身を引かなくちゃいけないときが必ずやってくる。私はその時に『私は私なりに精一杯やった。結果はともかくとして、やり残したことは一つもない。お疲れ様イングリッド。よくやったわ』って自分に言ってあげたいの」
「なるほど。自分の限界を極めたい、か」
それは一つの価値観であり、これからもレースを続けていくために一番健全な考え方ではありそうだった。
「でもさ、もし今のイングリッドが最盛期だったのなら? もうこれ以上速くなれなかったら、あの時やっぱりやめとけばよかったって後悔しない?」
この質問はあまりに失礼というか、本来ならたとえ親しい友人相手とはいえ絶対にすべきでない質問だということはわたしにもわかっていた。
でもこのことはわたしが抱えている、根本的な悩みなのだ。
多少踏み込み過ぎであったとしてもこれを聞かなかったら、なんのために彼女たちに時間を取ってもらったのか分からない。
ブチ切れられても仕方のなかった質問に、イングリッドは真摯に答えてくれる。
「それでもやっぱり、引退する時に『あの時の私、もう少しがんばれなかったのかな』って後悔するよりはマシだと思う。その後悔すら残りそうにないほど燃え尽きたら、さすがにレースなんて辞めちゃうけどね」
冗談交じりの本音を交えつつ、イングリッドはいつものように笑ってくれた。
「エルサも少しでも走る気が残ってるのなら、もうちょっとがんばってみない? 走れなくなった時に、後悔を残さないようにね」
「……そうだね」
友だちがここまで言ってくれているにも関わらず、わたしは煮えきらない返事をすることしかできなかった。
きっとわたしは、イングリッドほど心が強くないんだと思う。
イングリッドの話を聞いた上で自分の価値観と考え方を変換させて、またレースをがんばろう!と思えるほどには。
「それにね。やっぱり」
「やっぱり?」
コップに残っていたコーヒーを意味もなくストローでクルクルかき混ぜていたわたしからイングリッドは少し視線を宙に泳がせると、照れ笑いを浮かべながらこちらに向き直ってこう言ってくれた。
「エルサがいなくなったら私、さみしいと思う」
「……そっか」
わたしもイングリッドと離れ離れになるはさみしいよと言えなかったあたり、わたしはメンタルが弱い上に素直でもないという割とどうしようもないウマ娘らしい。
「アタシから言わせてもらえばさ」
そんなわたしに呆れたわけでもないのだろうけど、イングリッドの話をだまって聞いていたミサさんが、ちょっと不機嫌そうに口を開いた。
<続>