日本でも屈指の高偏差値を誇るA女子高校の制服を少し崩して着ているミサさんは、薄い黒ストッキングに包まれたスラリとした長い脚を組み直してわたしとイングリッドを交互に見つめた。
「あんたら二人の悩みはゼータクってもんだわ。まるで金持ちの女が今度バッグを買い替えようと思ってるんだけどバーキン買うかケリー買うか迷ってるんだよね、みたいな話しているのを聞いてる感じだよ」
もちろんわたしたちにそんなつもりはなかったのだが、ミサさんがそう言いたくなる気持ちは理解できた。
なんせ彼女はトレセン学園に入学してトゥインクルで活躍する、という幼い頃からの夢を叶えることができなかったウマ娘なのである。
でも、ミサさんだってわたしの相談に乗ると決めてこの場に来た以上、こういう話になることは分かっていたはずだ。
それを承知したうえで、彼女はわたしたちに何かを伝えようとしている。
「アタシさ。制服姿のエルサさんを初めて見た時、正直ムカついたんだよね。なんだこいつ、そんなにトレセン学園の制服を着ている自分を見せびらかしたいのかよって」
「いや、あれは……」
「うん、わかってる。これはアタシの完全なヒガミだよ。今だってトレセン学園に通ってるアンタらを羨んで、八つ当たりしてこんなこと言っているのもわかってる」
ミサさんはそう言って手元のパンケーキをナイフで一口サイズに切り分けると、眉一つ動かさずにそれを口に運んだ。
「小学校入ってすぐぐらいのときだったかなぁ。ウマチューブでエアグルーヴさんが勝ったオークスの動画を見た瞬間、アタシも絶対彼女のようになりたい! って思った。なんでそう思ったのか、理由なんて分からない。アタシはエアグルーヴさんの、女帝とまで言われた彼女の走りを見てただそう思ったんだ。その日から、アタシの頭の中は速くなることと、トレセン学園に入学してオークスを勝つことでいっぱいになってしまったってわけ」
テレビや動画に映るプロの素晴らしいパフォーマンスを見て自分もやってみたい! と幼い子どもがその競技に興味を持って夢中になるというのは、何も珍しいことではない。
わたしだって、シンボリクリスエスさんやタニノギムレットさんといった先輩たち。
それに……お母さんがGⅠを走る動画を見て自分もこうなりたい、きっとわたしもトゥインクルで彼女たちのように大活躍するウマ娘になるんだ!って幾度となく思ったものだ。
「自分で言うのもナンだけどさ、やれることは全部やったと思う。レース倶楽部に所属してプロのトレーナーに指導を受けて、自分の体の限界まで鍛え上げた。居残り練習もやったし、トレーナーにいろいろ教えてもらいながら家でできる自主練もやってた。食事も嫌いな青物を中心にして、バランスよく食べてた。少しでも時間が空いたら過去のトゥインクルのレースを研究したり、フォーム改良の本を読んだりして座学にも励んだもんだよ」
なんの感情も交えずに過去を語るミサさんに、わたしとイングリッドは身動ぎひとつせず耳を傾けた。
「でもさぁ、才能ってやつは残酷なもんでさ。トレーニングの時間が終わったらさっさと着替えて食べ歩きに行くヤツとか、暇さえあればスマホゲームやってるヤツにレースで大差負けしたりするわけよ。それでもアタシは腐らずに努力を続けた。夢を叶えるためにアタシにできることは、それしかなかったから」
過去を話す彼女の口調は淡々としたものだったが、それ故に現実味を感じさせてわたしの胸を打った。
それは、ミサさんと長い付き合いのあるイングリッドも同じだったのではないだろうか。
「でもダメだった。ダメだったんだ、アタシは。どんなに頑張っても、どんなに努力しても、アタシは自分の夢を叶えることができなかった。トレセン学園高等部から不合格通知が届いた時は、もう笑うことぐらいしかできなかったんだわ」
すっかり食べ終わって何も乗っていないお皿にフォークを突き立てるようなマネをしたのは、掴むことのできなかった彼女の夢のメタファーだったのかもしれない。
「で、結局親のお望み通りA女子高校に進学したんだけど、アタシはA女子高校なんてこれっぽっちも行きたくなかった。こんな制服、アタシは別に着たくなかった。本当はトレセン学園の制服を着て、三女神様の噴水の前を肩で風きって歩きたかったんだ」
そう言うミサさんの大きくてつぶらな瞳が、いっそうきらめいて見えたのはわたしの気のせいだろう。
「でね。アタシがA女子高校に入学したときにさ。慰めてんのか褒めてんのか分かんなかったけど、親戚の中にはつまんないことを言うヤツもいるわけよ。『トレセン学園なんかに行ったって活躍できるウマ娘は一握りよ。あんなところに行ったウマ娘たちより、A女子高校に合格したミサちゃんのほうが人生勝ち組だよ』って」
「それは確かにそうかもしれないけど……その人がミサの夢のことを知ってたんなら、もうちょっと言い方ってもんがあると思うわ」
長年付き合っているというイングリッドが、眉をひそめてそういう。
ひょっとしたら、この話を聞くのは長い付き合いの彼女も初めてだったのかもしれない。
ふたりのやり取りにわたしは黙っていたけれど、内心はイングリッドと全く同じ意見だった。
「そうっしょ? あのおばちゃんの言ったことは正しい。正論ってやつだわ。正しすぎて正しすぎて、腹が立って仕方なかった」
ミサさんは苦笑いしながら、なぜかまるでボクサーのように左右の拳でパンチを繰り出した。
「いやぁ。あの時は自分がウマ娘だってことも忘れてそいつの顔面、思い切りグーで殴っちゃってね。その後救急車は呼ぶわ、医者から説明を求められるわ、警察に連絡するしないの話になるわでアレはマジでやばかったわ。殴ったアタシも悪かったと思うけど、ソイツも結構ひどいこと言ったと思わね?」
とんでもない過去バナに、わたしとイングリッドはただ顔を見合わせるだけである。
彼女の暴力行為を肯定するわけにはいかなかったけど、思わず手が出てしまった彼女の心情は理解できないでもなかった。
「JKになってからのアタシがどんな生活してるかは、エルサさんも多分知ってるっしょ。イングリッドとはいい付き合いしてるみたいだし、アタシも別に口止めしてないしね」
ミサさんが高校進学後、乱れた性愛に身を委ねているのはわたしもイングリッドから話を聞いて知っている。
「アタシの男遊びは確かに褒められたもんじゃないと思うけど……アタシには他にどうすればいいかわからなかった。正味の話、今もわかっていないんだ」
ミサさんの不純異性交友は彼女にとっての挫折との折り合いの付け方なんだ、ミサさんにとって仕方のない必要なことなんだ、と頭の中ではわかってる。
しかし何度聞いても、湧き上がってくる嫌悪感のようなものを顔に出さないようにするのは少し苦労させられた。
「でもさ。大なり小なり、夢破れた人間なんてみんな同じようなことしてんじゃないかなぁ。あのライトハローさんなんて、未勝利の最終戦で負けてもうトゥインクルで戦えなくなったって決まったときには、酒飲みまくって救急車で搬送された、って話も残ってるしね」
その学園伝説はさすがに眉唾だとわたしは思っているのだが、夢破れた人間や才能のどん詰まりに行き遭った人間が自暴自棄的な行動を取るのは珍しくもないだろう。
わたしだって才能の壁にぶち当たっているという現実から逃れるために、対人ゲームに全ての時間を費やしていたのだから。
「でも、アンタたちは違うでしょ。アタシが……いや、アタシのような非才なウマ娘たちが、どんなに望んでも立つことすら許されなかった場所にアンタたちはいる。アンタたちはトレセン学園に在籍して中央で戦うことが許された、特別なウマ娘なんだ。そのことを忘れないで欲しい」
そう言うとミサさんは持っていたフォークを皿の上に置き、もう冷めきっているであろうカフェラテの入ったカップを手に取る。
しばらく気まずい沈黙が続いたが、それを破ったのはミサさんのスマホが鳴らしたLANEの通知音だった。
「ん、ごめん。……あ~。彼氏から呼び出し入っちゃった。今日のところはこれで失礼してよき?」
彼氏かぁ。
恋多き少女のミサさんのことだからその彼氏が前回会ったときと同じ男の子なのかわからないけど、そう呼べる異性がいることは素直に羨ましかった。
「私はいいけど……エルサは他に、ミサと話しておきたいことはない?」
そう聞いてくれたイングリッドに、わたしは首を縦に振った。
「あ、うん。ミサさん、今日は急に来てもらってごめんね。ありがとう」
「いいってことよん。支払いは各自払いでいいよね? じゃーねー」
ミサさんは軽く手を振りながら立ち上がると、会計のある出入り口へ向かおうとする。
「待って待って。今日はわたしが無理言ってきてもらったわけだし、わたしが出しとくよ」
「そう? じゃ、ゴチになりま~す! またいつでも誘ってよ」
彼女は冗談めかして敬礼の仕草をすると「ただ ただ 君に似合う あのステージ衣装 笑顔で見てたけど 好きじゃなかった~」なんて聞いたことのない、アップテンポな曲調で始まっているのになんとも意味深に聞こえる歌を唄いながら、颯爽とお店を出ていった。
「もう長い付き合いになるけど、ミサとレースについてここまで深い話したのって初めてだったかもしれないわ」
ミサさんが店を出てすぐ、イングリッドはそちらの方を見つめながらポツリとそう言う。
「そうだったの」
「ええ。同じ倶楽部に通ってたときは友だちとはいえ、レースになるとライバルになるわけだからね。胸の内をつまびらかに話すなんてことはお互いしなかったし、進路が別れてからはミサとレースについて話すのはなんだか気まずくってね」
イングリッドの言うように、レースを走るウマ娘同士の友情というのは難しいものがある。
普段どんなに仲良くしている娘でも、同じレースに出走するとなれば優勝を競い合う敵同士になるのだから。
これは推測でしかないが、重賞を勝つほどの素質のあったイングリッドと、トレセン学園を不合格になってしまったミサさんでは、当時かなりの実力差があったではないか。
普通そういう格差が生まれてしまったウマ娘たちの友人関係は、対等でいることが難しくなってしまう。
強くなった方が変に気を使ってしまって相手を萎縮させたり、逆に伸び悩んでいる友人を見下してしまったりして関係がうまくいかなくなることが多いのである。
今でもイングリッドとミサさんが良い友だちでいられるのは、レースでの勝ち負けや走力の格差以上にふたりが固い友情で結ばれているからだとわたしは思う。
「あんなことを話してくれたってことはきっとあの娘、トレセン学園に不合格だったこと、未だに吹っ切れていないんでしょうね……。ひょっとしたら、私はそんなミサに対して無関心すぎたのかもしれない。ミサに拒絶されるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、トレセン学園に合格した私が上から安易に慰めるべきじゃない、立ち入るべきじゃないって決め込んで傍観者になっていただけかもしれない。夢破れて傷ついていた親友に、もっと寄り添ってあげることもできたかもしれない」
そう言ってイングリッドは深い悔恨のため息をついた。
それは、わたしにはわからない。
二人の付き合いの長さ、深さを思えばわたしが軽々しく口を出す問題じゃないことは確かだ。
「今のミサの現状には、私にも責任があるのかもしれないわ。今からでもなにか私がミサにできることってあるのかな……。あっ、ごめん。今日はエルサがこれからどうレースに向き合っていけばいいかってお話だったのにね」
「ううん」
そのことについては、二人から十分にヒントをもらうことができた。
今日イングリッドとミサさんに無理を言って相談に乗ってもらって、本当に良かった。
「ミサさんも行っちゃったし、わたしたちもそろそろ出ようか」
「もういいの?」
「うん。二人に相談したおかげで頭の中色々整理できたからさ。あとは自分で考えてみるよ」
「そう。それはよかった」
そう言って笑ってくれたイングリッドは、カバンを手に取って席を立った。
「さっきも言ったけどね。私はエルサにレースを辞めてほしくないし……ミサはあんな感じでぶっきらぼうに言ったけど、あれはきっとあなたに走り続けてほしいってエールだったんだと思うよ」
「うん。きっと、そうだったんだろうね」
わたしは彼女のあの言葉を聞いて、トレセン学園から補欠合格のお知らせが届いたときのことを思い出していた。
第一志望校になんとか引っかかったという安堵感と、来月からわたしもお母さんの通っていたあのトレセン学園の生徒になれるという誇らしさ、それにトゥインクルで走る資格を得たのだという歓喜で、涙目になって腰が砕けてしまったものだった。
どうしてわたしはその時の喜びを、今の今まで忘れていたのだろう。
「そうだ。今度さ、お互いのトレーナーの許可が取れたら併走してみない? もう結構長い付き合いになるけど、エルサと私って併走したことないでしょ」
「そういや、そうだね」
併走トレーニングは基本的にトレーナーが相手を見つけてきて行うので、長い付き合いになるのに友だちとは併走したことないというウマ娘は意外と多かったりする。
「そうなったら、ステークスウィナーとしては負けられないわね。併走楽しみにしているわ!」
「わたしだって、負けないから」
こんな約束をしてしまうあたり、わたしもお母さんに似て乗せられやすい性格なのだろう。
それにきっと、わたしは走り競うこともも決して嫌いではないのだ。
ステークスウィナーであるイングリッドとオープン勝ちしかないわたしでは彼女のほうが格上なのであるが、今日の勘定ばかりはその格差を無視してわたしが持たせてもらった。
*
友人たちに相談したり、それからまた何日か色々悩んだりした挙げ句に、わたしはようやく一つの結論を出した。
わたしには、青春のすべての時間をレースに捧げることなんてできない。
かと言って、レースを辞めるだけの覚悟もない。
それならわたしはわたしなりに、頑張ってみよう。
練習時間は集中して取り組む。
レースには本気で挑む。
その時の、最善全力を尽くす。
でも、それ以外の時間は
友だちと遊びに行ったり。
美味しいものを食べたり。
たまには麻雀をするのもいいし……もし、もし彼氏ができたならその恋愛を思い切り楽しもう。
レースに関すること以外に費やしてしまった時間は、現役を引退せざるを得なくなった時、『あんなことしてないでもっと練習すればよかった』と後悔するかもしれない。
人からは『遊んでいないでその時間を練習に使っていれば、一廉のウマ娘になれたかもしれないのに』なんて言われてしまうかもしれない。
中途半端だ、と言われてしまえばそのとおりなのだと思う。
でもその後悔も批判も、わたしの競走人生として受け入れよう。
今はそれでいいと、心から思えるのだから。
こうしてわたしは一応の結論を出したわけだけど……これが正解かなんて、わかるわけもない。
その判断は引退後のわたしに、もしくは大人になった時のわたしに委ねるとしよう。
*
あのファミレスでのお悩み相談から数日後の夜。
ふと時刻を確認すると、時計は10時を指していた。
思えば次の日の朝を気にして時計を見たのは、久しぶりじゃないだろうか。
明日の朝練のことを思えば、今日はこの辺が切り上げどきだろう。
「ごめん。そろそろ終わりにするね」
わたしがそう言うと、今まで卓を囲んでいた二人が渋い顔をする。
「おいおい、エルサさん勝ち逃げかい? そりゃないぜ」
「そうだよ~。もう半荘だけ付き合ってよ~」
ブーイングを上げる二人に、わたしは苦笑しながら手を振った。
「いやいや。通算したらわたしがまだまだ負けてるでしょ。これ以上夜ふかししたら明日のトレーニングに響くから、申し訳ないけど今夜はこのへんで」
トレーニングという単語を聞いて、2人は怪訝そうに顔を見合わせる。
朝練に出るつもりのあるウマ娘は普通ここには来ないだろうから。
白けるようなこと言いやがって的な嫌味の一つでも言われるかと思ったけど、彼女たちは小さくため息を微苦笑したり、肩をすくめたりしただけだった。
「そこまで言われちゃ仕方ない。今日はお開きにするか」
「だね~。今からメンツ探すのも面倒だし~」
二人は不満げながらも、ガチャガチャと麻雀牌を片付け始めた。
もちろんわたしも一緒に片付けようとしたんだけど。
「あ~。あとはあたしとこいつでやっとくから、あんたはもう部屋に帰りなよ」
「そうそう。ワタシたちと違って、エルサさんは朝からトレーニングに行くんだから~」
そんな二人にどうしたものか迷っていると、彼女たちのほうが牌の扱いに慣れている分、ものすごいスピードで牌を片付け始めた。
こりゃわたしが手出しした方があと片付けの邪魔になりそうな感じである。
「じゃ、じゃああとはお任せしようかな……。ありがとね」
「おう。また今度な。明日の朝練、気張りなよ」
「今度は負けないからね~。頑張ってトレーニングしてレースで勝って、お金いっぱい持ってきてね~」
そんな声援(?)を受けつつ、わたしはちょうど自分の部屋の真下にある麻雀部屋をあとにする。
扉を完全に締めて部屋から離れる直前、こんな会話が聞こえてきた。
「ねぇ、さーちゃん。早く卓割れちゃって、今夜はよく寝れそうだしさ。明日は久しぶりにトレーニングに顔出してみない~?」
「……お前と同じこと考えてるようじゃあ、あたしの麻雀が錆びついてたのも納得だわ。ま、そんなことは明日起きてから考えようぜ。おやすみ」
「そうだね。おやすみ~」
彼女たちのこの会話は、ただの気まぐれなのかもしれない。
明日の朝になればやっぱりめんどくさくなって、そのままふたりしてサボってしまうのかもしれない。
それでもわたしは、心のなかで『明日の朝、練習場で会おうね』と思わずにはいられなかった。
*
まだ陽も昇らぬ師走の早朝6時前。
久しぶりに練習場へ顔を出すと、いつもの場所でトレーナーが待っていた。
「来たか。体調とメンタルの方はもう大丈夫そうか?」
「え。あぁ、うん。まぁなんとか」
「そうか。それはよかった。今日は久しぶりのトレーニングだし、軽くダートのキャンターから始めるか。体が温まってきたら、坂路の方へ移動するぞ」
いつものように短く的確に指示を出すと、トレーナー兼お父さんはそれ以上は何も言わず、スタート地点へ向かって歩き始める。
「その……お父さん」
「なんだ?」
いつもなら学園やレース場でお父さんと呼ぼうものなら注意が飛んでくるのだけど、今日はなぜかそうせずにわたしに振り返ってくれた。
「その。今までトレーニング休んで……ううん。サボってたわたしに、なにかないの?」
そういうわたしに、お父さんは小首を傾げるだけだ。
「いや、特には。お前が戻ってきてくれただけで十分だ。行くぞ」
ぶっきらぼうというわけではないが、感情を感じさせない平坦な声でそれだけ言うとお父さんはまた歩き出した。
トレーニングをサボってた娘に、自分の手取りを減らしたウマ娘に思うところがないわけないだろうに。
昨日の麻雀が終わったあと、LANEで『明日から復帰するつもりなので、よろしくお願いします』と送信したとき(直接顔を合わせて伝える根性がなかった)も、短く『了解。遅刻しないように』と返ってきただけだ。
結構勇気を出して復帰することを伝えたのに正直ちょっと、いやかなり拍子抜けしてしまった。
お父さんはもう、あきれて怒る気にもなれなかったのか。
それとも本当に『エルサが戻ってきてよかった』と思ってくれているのか。
父親の本心なんて、娘の……子どものわたしがいくら考えてもわかるわけもない。
まぁでも。
いつもの歩幅でスタスタ歩いているお父さんの様子を見る限り、あまり怒っている感じはしない。
わたしと父娘ゲンカをしたり、お母さんとちょっとした夫婦ゲンカをしたりしてホントに機嫌の悪い時、お父さんは大股でドスドスと歩くからだ。
とりあえずわたしは、わたしの復帰を受け入れてくれたトレーナーの期待に応えるためにも指示されたトレーニングを精一杯こなすことに決めた。
*
トレーニングに復帰して、1週間が経った。
もうカレンダーは12月に入っていて、日に日に寒さが増してくる。
寒さに強いと言われているウマ娘でも、朝起きてベッドから身を起こすのがそろそろ辛くなってくる季節だ。
そんな師走の初頭、わたしとイングリッドは昼休みの暖かいカフェテリア内で昼食を取りながら、他愛もない雑談を楽しんでいた。
……ルームメイトがいなくなった今、彼女は数少ない気のおけない会話のできる相手だった。
今日の英語の小テストの出来がお互いかんばしくなかったこと。
わたしのトレーニングの方針を巡って、トレーナーとちょっとした言い合いになったこと。
イングリッドと同室の娘がお菓子を持ち込んでそれが寮長にバレてしまい、イングリッドは一口も食べてないのになぜか反省文を書かされるハメになったこと。
そんなバカみたいな話も一段落した時、不意にイングリッドの表情が少し真面目になった。
「あのね。ミサのことなんだけど」
「あ……うん。ミサさん、どうしたの? ひょっとしてミサさんに何かあったとか?」
ちょっと心配になったわたしが前のめりに尋ねると、彼女は小さく苦笑しながら首を横に振った。
「ああ、いや。別に悪いことじゃないよ。実はあれからちょっとミサと話す機会があってさ」
「うん」
「ミサ、街のストリートレースクラブに入ることにしたんだって」
「そうなんだ!」
ミサさんの……友だちの明るい近況報告に、わたしは笑みをこぼさずにはいられなかった。
ストリートレースクラブというのは、URAに所属しているわけではないけど走ることの好きなウマ娘たちが有志で結成している組織だ。
そこに所属している人たちの経歴は様々である。
社会に出てから走ることに興味が生まれたウマ娘。
ケガの後遺症のせいでURAに所属できるほどの力はないけど、アマチュアとしては十分に走れるウマ娘。
それに、ミサさんのように一度は夢破れたが、やっぱり走り競うことが好きなウマ娘。
彼女たちは忙しい仕事や勉学の間に時間を見つけてはトレーニングを積み、ちょっとした規模の街になら必ず一つはある小さなレース場で休日に大会を開いて、日頃の練習の成果を披露したりしている。
NPBやJABAといった野球のプロ・セミプロ組織に属さずとも草野球を楽しんでいる人たちがいるように、ウマ娘にもそうして走ることを楽しんでいる人たちがいるのだ。
「単純にめでたしめでたし、って話じゃないんだろうけど。でもきっとそれは、いいことなんだろうね」
「うん、私もそう思う。まぁその報告の後、彼氏とのノロケ話を聞かされたのには参ったけど……」
イングリッドはそう言うと、その時のことを思い出したのか憂鬱極まりないため息を一つもらした。
「というと?」
「いや~。なんでもミサのヤツ、レースクラブに所属するにあたってもう男遊びをやめようって決意したらしいのよ。それはいいことだと思うんだけどさ。今までの男遊びのこと、つまり浮気してたのを彼氏に全部話して土下座したんだって」
「へぇ……」
それはきっとミサさんなりの贖罪であり、けじめだったんだろう。
「当然別れを告げられるものだ、殴られたって仕方ないと覚悟していたのに、彼氏にいきなり抱きしめられたらしくてね。『ミサは夢が叶わなかったことを、そんなに苦しんでいたんだね。気づいてあげられなくて、ゴメンね』って彼氏さんが謝ってきたそうよ。そんな話を延々1時間以上聞かされた私の気持ちが、エルサにわかる?」
「お、おぅ……。それは大変だったね……」
女は共感力に優れているなんて言うけど、ノロケ話を聞かされた愚痴に対しては、それぐらいしかかけてあげられる言葉がない。
それでもイングリッドは満足してくれたようだ。
「そうなのよ。あの娘、レースクラブの話なんかホントはどうでもよくて、単にその話を私にしたかっただけなんじゃないのかと疑ったぐらいよ。『アタシの彼氏の心って宇宙より広いと思わね? かっこよすぎじゃね!?』とか言われたって、そうでっか、そらけっこうなことでんな、ぐらいしか返せないじゃない」
「まぁ……そうかもね」
なぜか大阪弁でプリプリ怒っている風のイングリッドだったけど、口元が少し緩んでいるのをわたしは見逃さなかった。
「宇宙より広い心って、もうちょっと気の利いた例えはなかったのかしら。あの娘は基本、理系脳のはずなんだけど……恋愛するとIQがチンパンジー並になるって話は意外と本当なのかもしれないわ。そんな単純な言葉しか使えないなんて、高偏差値御三家であるA女子高校に通ってるプライドはどこへやったの!?」
「さぁ……」
オグリキャップさんにでも食わせたんじゃないかなぁ。
いくら世間的に高評価を得ている高校と言っても、ミサさん本人は渋々進学した学校なのだから、そんなプライドは多分持ってないと思う。
そんなことは付き合いの長いイングリッドのほうがよくわかっているだろうから、これは彼女一流のイヤミなんだろう。
まぁ自分は恋愛などとは縁遠い生活をしているというのに、彼氏がいる友人に対してイヤミの一つも言いたくなるのもわからないでもない。
言ってしまえば単なる嫉妬であるが、わたしもミサさんに対してそんな気持ちがまったくないかと言われれば、そんなことは決してなかった。
それにしても、恋愛かぁ。
なんだかそれは今の自分からひどく縁遠いものの気がして、こうして話していてもまるで別世界のことを語っているような感覚である。
いつかわたしにも彼氏って呼べる人ができて、情熱的な恋愛をするのかな。
「ま、ミサのことは一旦置いておいて。この前言っていた併走のことだけど、私のトレーナーはぜひにって言ってたわ。エルサのところのトレーナーはどう?」
「ああ、ごめん。ここんとこちょっとバタついていてまだ聞けてなかったよ。わたしもようやく走る感覚取り戻せてきたし、今日の放課後のトレーニングの前に聞いてみて、ウチのトレーナーの許可が出たら併走しよっか」
「OK! 負けないんだから」
イングリッドはそう言うと、強気にサムズアップを飛ばしてきた。
レースのこと、走ることを考えればそれ以外のことは吹き飛んでしまう。
現役のウマ娘というのは、そういう人種なのだ。
「やるとなったら、今日のところはステークスウィナーであるイングリッドの胸を借りるつもりで併走させていただきますよ」
「またまた。そんなつもりなんて微塵もニジンもマルゼンスキーもないくせに。ホントは胸を借りる、なんてつもりも、私に負けるつもりも、まったくないんでしょう?」
まったくもってそのとおりであったが、わざわざそれを口に出す必要もあるまい。
その負けん気は、併走の時に証明すればよいだけの話である。
どうだろう。ま、お手柔らかにお願いしますねと謙遜を重ねようとしたところで、お昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
読了、お疲れさまでした。
この章は私得意の長文になってしまいましたから、本当にお疲れになったと思います。
そんな時はまんまる顔のファル子のドラムメジャー衣装(あれ可愛いですよね)を見て癒やされてくださいね!
とまぁ、原作の話題はこの辺にしておきまして、19話はかなり長くなってしまったので、前回のように切りの良いところでまた区切ろうかな、とも考えたのですが、やはりここまでは一つの物語として読んでいただきたいと思い、長い文章を掲載させていただきました。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
母のヒシミラクル同様、なんとかトレーニングに復帰したエルサですが、さてさてこれからどんな試練が待ち受けているのやら。
なんだかんだありつつも、エルサはミラ子譲りのスタミナ、それにいい意味でのゆるさで切り抜けていってくれると思うので、ぜひ気長に見守ってやってくださいね。
追伸:お気に入り登録してくださった方が、200名を超えました!
まことにありがとうございます。
これからも読んでくださる方に少しでも楽しんでいただける小説を執筆していくつもりですので、引き続きのご愛読、よろしくお願いいたします!