今年最初の中央GⅠ・フェブラリーステークスが先週終わり、暦は3月を迎えていた。
「なのに、まだまだ寒いなぁ」
わたしはブルっと身をふるわせ、ひとりごちた。
とっくに立春は過ぎたと言うのに、冷たい風が吹き抜ける中庭はひたすらに寒い。
今着ている分厚いコートを春物に変えるのは、当分先になりそうだ。
昼休みでこの寒さだから、放課後のトレーニングは一段と冷え込んでいるんだろうなぁ……。
そう思うと、ちょっとばかり気が滅入った。
そんな感じで春らしい気温が待ち遠しいこの季節だが、3月になるとトレセン学園はにわかに活気づいてくる。
今月の上旬にはシニア級の中距離最強を決める大阪杯の前哨戦である中山記念が行われるし、同じ週の阪神レース場では、クラシック第一弾・桜花賞のトライアルレースであるチューリップ賞も予定されている。
春のGⅠ路線に向けて、シニア級・クラシック級の有力ウマ娘たちが始動し始めるのがこの時期なのだ。
野球ファンは『球春到来』といってこの時期を待ちわびている人も多いそうだが、レースファンにとっても春はクラシック競走に春シニア三冠と、GⅠレースが目白押しで週末が楽しみになる季節である。
障害レース界も今月は阪神スプリングジャンプというJ・GⅡの大きなレースが控えていて、一応わたしも出走することになっていた。
それにしても、一年ほど前まで平地の未勝利をなかなか脱出できずにもがき苦しんでいたわたしが、J・GⅡの大舞台に出走できるなんて、まるで夢のような話だ。
お母さんはジュニア級、クラシック級の未勝利戦を9連敗していたにも関わらず、菊花賞を勝ってまさにミラクルと言われたけど、わたしのキャリアもたいがいミラクルなのではないだろうか。
このミラクルを実力に変えて、いつかは重賞競走で一番人気に推されて勝利してみたいなぁ……などと夢想していると、その夢が覚めるような場面に遭遇してしまった。
「おい、リゼちゃん。ちょっとツラ貸せや」
そんな低いダミ声が、中庭に通じる校舎の柱の陰から聞こえてくる。
その声に気づかないふりをして柱の方へ視線だけ向けると、人相の悪い3人がどうやらグランアンネリーゼさんに絡んでいるらしかった。
あの三人組は……。
宝塚記念を勝っているシニア二年目のウマ娘がリーダー格の、あまり良い噂を聞かない連中だ。
とりまきの2人も確か、重賞を勝っているウマ娘のはずである。
そのシーンを目撃したわたしは、思わずため息をついてしまった。
残念なことにGⅠや重賞を勝つぐらいの実力者でも、ああいった不良じみた人格の持ち主がいるのだ。
素晴らしい才能を持っている人が、必ずしも立派な性格をしているとは限らないらしい。
にしたって『ツラ貸せ』なんてそんな陳腐な脅し文句、マンガ以外で初めて見聞きしたよ……。
「いや」
そんなことに感心している場合じゃない。
わたしはコートのポケットからスマホを取り出して動画撮影をONにすると、校舎裏へ連れて行かれたグランアンネリーゼさんたちのあとをこっそり追うことにする。
万が一あの連中がグランアンネリーゼさんに暴力を振るうようなことでもあれば、これで決定的な証拠を抑えるつもりだ。
連中は
ニヤニヤしながらグランアンネリーゼさんにメンチを切る不良連中に気づかれないよう、気配を殺してそっとスマホをそちらに向ける。
……もし、一発でもグランアンネリーゼさんに手を出してみろ。
その暴行現場を動画と写真に収めた瞬間、スマホで警備員室に電話をかけてやる。
そんな覚悟をわたしが決めると同時に、リーダー格のウマ娘がだんっ! とグランアンネリーゼさんの顔の隣に思い切り手を突き出した。
「なぁ、アンタ。最近少しばかしマスコミやファンやらがアンタを持ち上げてるからって、ちょっと調子乗ってね?」
しかしグランアンネリーゼさんも一廉のウマ娘であり、長年切った張ったの世界を生き抜いてきた女である。
そんな威嚇行為を受けても、泰然として首を小さくかしげるだけだ。
「はぁ。具体的にどのような私の言動に対して、あなたはそう思われたのでしょう?」
「ア・ン・タの! その余裕ぶった態度が気に入らねえし、目立たない障害レースを走ってるウマ娘のくせに有マ記念の人気投票で8位になって、あげく有マの出走権をあっさり蹴飛ばしたのも気に入らねえ!!」
「左様ですか」
顔に唾をかけられながら怒鳴りつけられても、グランアンネリーゼさんは余裕の態度を崩さない。
「それにアンタ、GⅠウマ娘って言ったってJ・GⅠっていう別枠じゃねえか。そんなレース勝ったぐらいであたしたち平地のGⅠウマ娘と同格です、みたいなツラして堂々と学園の中歩いてんじゃねーよ!」
リーダー格のウマ娘はあたりに響き渡るような大声でグランアンネリーゼさんを侮辱すると、とうとう胸ぐらをつかむという暴挙に出た。
……もうここらが、潮時だろう。
このスマホで今までのあんたらの悪行を全部録画してるし、このまま警備員さんたち呼ぶから!
そんなことを言うつもりで緊迫の現場に踏み込もうとした瞬間だった。
「!?」
グランアンネリーゼさんがそっとリーダーウマ娘の胸元に触れたかと思うと、そのままヤツを地面に叩きつけてあっというまにウマ乗りの形に持ち込んでしまう。
いったい何がどうなったのか、わたしにはまったくわからなかった。
「えっ!? なっ……体が動かねぇ!」
一番驚いたのは当のリーダーだったはずで、ヤツは一体自分がどうなっているのかも分からず、地べたで目を白黒させている。
「お前っ……!」
一瞬遅れて取り巻きの二人が、自分たちのボスをウマ乗りにしている不埒なウマ娘に掴みかかろうとした。
だがグランアンネリーゼさんは右手をリーダーの太ももにおいて左手を突き出し、二人の動きを牽制する。
「それ以上私達に近づかないでください。そんなことされると、私、怖くて
言葉はしおらしかったが、つまりグランアンネリーゼさんは『それ以上近づいたら、貴様らのリーダーの脚を折るぞ』と言っているのだ。
ウマ娘の力を持ってすれば、それは実に容易いことである。
「き、きたねぇ……」
取り巻きの片割れが、グランアンネリーゼさんを睨みつけながらそうつぶやく。
いや、三人でたった一人を取り囲んでいたあんたらがそれを言うんかい。
内心思わずツッコんでしまったけど、ともかくGⅠウマ娘の脚を【人質】に取られたのでは、いかに忠義心に厚い手下とはいえ迂闊には動けないらしかった。
「……ふむ」
なんとなく形勢逆転な雰囲気を感じ取ったわたしは、動画での撮影を止めて彼女たちの様子を息を潜めて伺うことにした。
こうなってしまえば、わたしもただの野次ウマである。
「さてリーダーさん。少し『お話』しましょうか」
グランアンネリーゼさんはそう切り出し、いつもの優しい笑みを浮かべた。
二人の状況と体勢のことを考えると、それはとても恐ろしい表情だった。
「で、一体どんな私の言動があなたの気分を害したのでしょうか? 教えて下さいますか?」
「あっ……いや……その……」
「ふむ、お答えいただけませんか。どうでもいいですけど、結構立派なバストをされていらっしゃいますのね」
そういうとグランアンネリーゼさんはなぜか、右手をリーダーの脚から胸へと移動させた。
「は? いや、アンタほどのものじゃないけど……。てか、気安く触んな!」
リーダーはなんとか強がって大声を出し、自分の胸に押し当てられたグランアンネリーゼさんの手を振り払おうとする。
だがグランアンネリーゼさんの腕はまるでそこに柱が生えたかのようで、GⅠウマ娘の腕力を持ってしてもビクリともさせることができなかったようだ。
「確かあなた、宝塚記念を勝利なさっていらっしゃいましたね」
「まぁ一応……」
「宝塚記念を勝ったウマ娘と言えば、私の後輩であるエルサミラクルさんのお母様であらせられるヒシミラクルさんや、120億ポイント事件を起こされたゴールドシップさんなど、様々な名ウマ娘が想い起されますが……生涯唯一のGⅠ勝ちとなったサイレンススズカさんの逃げ切り勝ちが、私は特に印象に残っておりますわ」
「そ……それがどうした……って、痛い! 痛い! マジで胸痛い!」
一体なにをされたのか、リーダーは苦悶の表情で胸の激痛を訴え始めた。
え~と……。
あまりの状況に突如心臓発作を起こした、というわけではなさそうだ。
ここから見てる感じ、どうやらグランアンネリーゼさんは、結構強い力でリーダーさんの胸を掴んだらしい。
うわ……ほんとに痛そ。
なんかわたしの胸まで、痛くなってきた……。
「どうでしょう? ここは一つ、あなたと同じく宝塚記念を勝利した偉大なる先達に近づくために、この大きなおっぱいをナーフしてサイレンススズカさんのようにしてしまうというのは?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながらブラックジョークを言い放ち、ちょっとやりすぎとも思える報復を遂行しているグランアンネリーゼさんからは、静かな怒りが感じられた。
いや、グランアンネリーゼさん。
あなたのお怒りはよくわかりますけどね。
その人の胸をナーフしても、彼女は多分サイレンススズカさんにはあまり近づけないと思いますよ。
というかそんなこと言ってると、スズカさん本人にもファンにも怒られますよ……。
それはともかく、その反撃はかなり効果的だったようだ。
「悪かった! あたしが悪かったよ! 最近みんなに注目されているアンタがちょっと妬ましかっただけだ! つまらないいちゃもん吹きかけて、本当に申し訳なかったっ!!」
「そうでしたか。私は別にこういう【おふざけ】もさほど気にしませんが……あなた達のように気合が入った方々に声をかけられると、『怖い』と感じる生徒もいるようです。生徒会に何件か、苦情が寄せられていましたから」
なるほど。
ちょっと厳し目に奴らを懲らしめたのは、そういう事情もあったのか。
にしてもやりすぎな気はするけど……。
「これからはどうか、気をつけてあげてくださいね?」
「わ、わかった。他の生徒に絡むようなマネはもうしないって、約束する。だから胸から手を離してそこをのいてくれないか?」
「わかりました。私もちょっと、悪ふざけが過ぎましたね。申し訳ありませんでした」
グランアンネリーゼさんが立ち上がると、リーダーはまるで金縛りが解けたようにさっと起き上がった。
GⅠウマ娘のプライドか、はたまた負け惜しみすら出てこなかったのか、彼女は取り巻きの二人に「おい、行くぞ」とだけ声をかけ、その場からずいぶんな早足で去っていく。
どうやら修羅場は、幕引きのようだ。
さて。
気づかれないうちに、わたしもさっさとここから立ち去るとしま……。
「で、そこに隠れている芦毛のウマ娘さん。私になにか、御用ですか?」
げっ、バレてる!?
完全に気配を消していたつもりだったのに……。
「あ、わかっちゃいましたか」
バレたもんは仕方ない。
えへへ、と気まずさをごまかすような半笑いを浮かべて、仕方なくわたしは柱のかげから顔を出した。
そんなわたしをみて、彼女はやっぱり、と言った感じで小さく頷く。
「ええ。あのお方を地面に倒すまで、そちらから恐怖の気配を感じていたので」
「そ、そうでしたか……」
うげぇ。
気まずすぎる。
それってわたしに危害が及ぶ心配がなくなってから野次ウマを決め込んでいたのが、バレているってことじゃないか。
にしたって、そんなことまでわかるのか。
寺生まれの人は色々すごいと聞いたことがあるが、神社生まれのウマ娘も負けてないな……。
「でも、その怖い気持ちを押し殺してでも、私を助けに来てくださったのでしょう?」
が、当のグランアンネリーゼさんはわたしの野次ウマ根性を気にした風でもなく、そう言ってくださった。
「最初はそのつもりだったのですが……」
今の状況で隠し事をしたって仕方ない。
わたしは偶然彼女が絡まれていたところを見かけてしまったところから、スマホでさっきの一部始終を録画していたことまで、ぜんぶ話した。
「そうでしたか。ですがもう、その動画は必要ありませんよ。彼女たちも他のウマ娘たちへのちょっかいをやめてくれると約束してくれましたしね。それにあんなの、女子校にありがちな、よくあるちょっとえっちなスキンシップじゃないですか」
わたしの自白を聞いたグランアンネリーゼさんはそう言って、うふふ、といつものように冗談っぽく微笑んだ。
初めて出会ったときから思っていたけど、この人がジョーク交じりに笑っているときって、ちょっとコトが冗談になっていない場合が多い気がする。
「そうですかね……」
あのバストクローはマジで痛そうだったけど、まぁ、いいか……。
「ところでグランアンネリーゼさんは、なにか武道でもやっていらっしゃるんですか? リーダー格のウマ娘を抑え込んだあの体捌き、すごかったですね!」
この話はもう終わりにしたほうが良さそうだと判断したわたしは、話題をそらすことにした。
彼女が見せた体術に、本当に興味惹かれたということもある。
「はい。心身の鍛錬のために、幼い頃からカレンチャン先生が師範を務めていらっしゃる道場へ週に3回ほど通っているんですよ」
そういや、カレンチャンさん(敬称が重なって変な感じだが、他に適切な呼び方もない)は合気道の達人って話を聞いたことがある。
「へぇ、そうなんですね。あのあしらい方を見るに、かなりお強いのでは?」
「それほどのものでは……先生のご指導のおかげで、なんとか黒帯を締めるお許しをいただいているという感じですね」
「黒帯! ってことは、有段者じゃないですか」
「ええ。一応、二段の免状をいただいていますよ」
「それはすごいですね!」
武道の二段というそのすごさを本当に理解できたわけじゃないけど、どんなジャンルでも有段者になるということは簡単じゃない。
グランアンネリーゼさんはGⅠを勝つぐらいのウマ娘だから、元々の運動能力が高いということはあるにせよ、そこまで到達するには相当の努力が必要だったはずだ。
本業の障害レースだけではなく、彼女はきっと自分で『これ』と決めたものには、努力や労力を惜しまず精進し続けられる人なんだろう。
「どうですか? エルサミラクルさんも合気道を始められては。最近ではダイエット目的の女性も結構通っていらっしゃいますし、よろしければ先生をご紹介しますよ」
ダイエットにも効果がある、というのは魅力的な誘い文句だったけど。
「お誘い、ありがとうございます。お気持ちはすごく嬉しいんですけど、今はレースのことだけでいっぱいいっぱいって感じでして……」
もちろん、あちらも本気で誘ったわけじゃないだろう。
わたしの返答に彼女はそうですか、と言って、軽く笑うだけだ。
「もし武道に興味が出てきたら、いつでもお声がけくださいね。では、失礼します」
グランアンネリーゼさんはそう言って一礼すると、まるで何事もなかったかのように去っていこうとする。
「グランアンネリーゼさん!」
そんな彼女に、わたしは余計なお世話だと思いつつも声をかけずにはいられなかった。
「どうしました?」
「その、大丈夫ですか? あんなこと言われてしまって……」
一瞬、わたしがなにを言っているのか分からなかったようで、彼女は少し困ったような表情を浮かべる。
でもすぐにわたしが伝えようとしたことに思い当たったらしく、困惑した顔から苦笑をもらした。
「ええ。あの手のことは今まで何度か言われたことがありますし、平気だとまではいいませんが、あまり気にしていませんよ」
「でも……」
わたしの言葉を遮るように、グランアンネリーゼさんは首を横に振る。
「それに、あのようなことを言われてしまうということは、私の実績がまだまだ足りていないという証左です。もっともっと勝ち星を積み重ねて、殿堂入りした母にも負けない成績を残して障害レースにファンを呼び込むことができれば、誰も私を……障害レースを軽んじるようなことは言わなくなるはずですから」
それは、そうかもしれない。
しかし、その問題は……。
「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですから。それでは、失礼します」
グランアンネリーゼさんはそれだけ言うと、わたしに背を向けて校舎の方へと歩を進める。
もうこれ以上、若輩のわたしからなにかを言うべきではないだろう。
幾度となく追いかけたその背中が、遠ざかっていく。
レース中はそんなことはまったく感じさせなかったけど……日常生活の中で見るグランアンネリーゼさんの背中は、年相応に薄く、とても細かった。
あの華奢な背に、障害レース界の第一人者としての重圧がすべて乗っかっている。
そのことに気づいた瞬間、わたしは見送っていた彼女の背から思わず目を背けていた。
自分が身を置く世界に何も貢献できていない自分自身が、とても恥ずかしく思えてしまったから。
*
「どうした、浮かない顔して。なにかあったのか?」
放課後。
ダート練習場の外側でトレーニング前のストレッチを行っていると、トレーナーが声をかけてきた。
イングリッドとかにも言われるんだけど、どうもわたしは思っていることがすぐに顔に出てしまうタイプらしい。
話すかどうか迷ったけど、今日の昼休みにあったこともレースに関係することである。
トレーナーの見解を聞いておくのも悪くないと思ったわたしは、コトの顛末をかいつまんで話してみることにした。
「いやね。グランアンネリーゼさんがさ、昼休みに後輩のGⅠウマ娘から『J・GⅠウマ娘のくせに』みたいな絡まれ方してたのを見ちゃったんだよね。あれだけの実績を持っている人でも、なんというか……リスペクトされてないんだなって思うと悔しくて」
「そんなことがあったのか」
腕を組みながら静かにわたしの話を聞いてくれていたトレーナーは、険しい表情で頷いた。
「確かに一部のレース関係者の中には、障害競走のことを平地より下に見ている人たちもいる。だがそれは、日本のレース界が平地のレースに重点を置いているせいだ。実際イギリスには障害レース……あっちじゃナショナルハントっていうんだが、そのGⅠが30レースもあるし、アイルランドだと平地のレースより障害のレースのほうが多く開催されているぐらいなんだ」
へぇ。
レース発祥の地であるイギリスや、ヨーロッパの中でもレースが特に盛んなアイルランドで障害レースがそんなに盛り上がっているなんて初めて知ったよ。
「そうなんだ。世界的に見ると、障害レースっていうのは決してマイナーじゃないんだね」
「マイナーじゃないどころか、レースの本場のイギリスだと、平地より障害レースのほうが人気があるぐらいなんだぞ。実際イギリスのレース紙で行われた【後世に伝えたい20世紀の名ウマ娘100選】の投票では、上位4人までが障害を走ったウマ娘が独占したぐらいだ。ちなみに5位は、ディズニー映画の主人公にまでなった伝説的なウマ娘のセクレタリアトだったりするぞ」
「マジですか!」
それは意外な事実だった。
【奇跡のウマ娘】とまで言われたセクレタリアトや、イギリス最後の三冠ウマ娘・ニジンスキーなどを差し置いて人気投票の上位4人がジャンパーだとは。
「じゃあ別に障害レースに魅力がないってわけじゃなくて、単に日本だとレース体系的に目立たないってだけなんだね」
「そのとおり。それにURAは、決して障害競走を軽視しているわけじゃない。その証拠にJ・GⅠを勝ったウマ娘にも、平地のGⅠを勝ったウマ娘と同格の待遇と星を授与しているだろう?」
確かに、そうだ。
日本のレース界が本当に平地より障害レースを格下だと位置づけているのなら、URAがグランアンネリーゼさんに引退後はほとんど学費無料で通える特待生に指名したり、GⅠウマ娘だけに着用が許される
障害レースが平地より下、という考え方は、個人の価値観、個人のご意見・ご感想に過ぎないということだ。
データや物証のない意見は、ただのお気持ち表明である。
そのお気持ちに聞く価値があるかどうかは、聞かされたほうが決めればよい。
「でもそんなこと、グランアンネリーゼさんが知らないわけないよね。なのにどうしてあの人は、色々なことにあんなに必死なんだろう?」
今の彼女は障害レース界からのみならず、たくさんのトゥインクルシリーズファンから大きな名声を得ている。
地位も名誉も手に入れて、すでに引退後の進路まで保証されているのだ。
そんな立場であるにも関わらず、グランアンネリーゼさんはサイン、写真撮影、握手会といった定番なものに加え、要望があればミニライブの開催やパネルディスカッションまで、さながらウマドル顔負けのファンサービスを行っている。
マスコミの取材もできる限り断るようなことはせず、それも本当に丁寧に受け答えしていた。
たとえそれが、多少失礼なものであったとしても、だ。
そう言えばお父さんにはわざわざ伝えなかったけど……あの時ちょっと不良ウマ娘に煽られたからと言って、ウマ乗りバストクローはやりすぎのお仕置きだったんじゃないだろうか。
どうして、グランアンネリーゼさんはJ・GⅠを下に見られたことをあんなに怒ったのだろう。
あんなつまらないウマ娘になにか言われたからといって、彼女の功績に傷がつくわけでもないし、J・GⅠの価値が下がるってわけでもないのに。
グランアンネリーゼさんほどの実績のあるウマ娘が、なぜこれほどあくせく働いてピリピリしているのか、わたしにはよく分からない。
「グランアンネリーゼの血統は、日本のジャンパーの結晶とも言うべきものだ。そして彼女はそんな自分の血脈に、障害レースというものに誇りと愛を持っているのだと思う。そんな彼女だからこそ、自分が成功するだけでなく、日本のレース界における障害競走の認知度の低さをなんとかしたいと心から憂いているんだろう」
ああ。
グランアンネリーゼさんの血統と障害レースへの愛着のことを考えると、彼女の怒りはもっともだったかもしれない。
それは少し納得できた。
にしても……。
「そりゃあわたしも障害レースが盛り上がって、たくさんの人がレース場に足を運ぶようになればいいな、とは思うよ。でも、それってすごく難しいことなんじゃないかな……」
今までも名ジャンパーが世間から耳目を集め、一時的に障害競走の観客動員数を増やすということは何度かあった。
でもそれはあくまで一過性のものであり、障害レースの人気を定着させることはできなかったのだ。
「お前がそう思うのも無理はないが、前例がないわけじゃない」
そう言うとトレーナーは、わたしたちの目の前にあるダートコースを指さした。
「今ではとても信じられないが、ダートのレースも昔は芝で芽の出なかったウマ娘が、仕方なく走るレースという認識だった、ってことは知っているな?」
「あ、うん。それは聞いたことがある」
なんでも昔はダートのGⅠ競走すらなく、当時GⅢだったフェブラリーステークスが一応のダートウマ娘最強決定戦だったらしい。
最高峰の舞台の格付けがGⅢというのは、ダートを走っていたウマ娘にとってもファンにとっても、決して本意ではなかっただろうことは想像にかたくない。
「だがそんな状況を少しでも改善しようと、その時代を代表する砂の王者たちはダートレースの魅力を世間に発信し続けた。自分の世代で大きく変わることはなくても、想いは次の世代が受け継いでくれると信じて活動を続けたんだ」
連綿と受け継がれてきた、自分たちが人生を懸けて走っているダートレースの魅力をみんなに伝えたい、少しでも多くの人に、自分たちのレースを見てもらいたいという強い想い。
その悲願とも言える想いは、ダートの申し子ともいうべき一人のウマ娘の登場によって大きく花開くことになる。
「ダートの人気に火がつき始めたのって、確かスマートファルコンさんが活躍しだした頃からだよね?」
「そうだな。彼女の圧倒的な強さとウマドル活動が、今のダート人気の起爆剤になったと言っていい。だが苦しい時代にあっても、地道にダートの普及に尽力し続けた先人たちの苦労があったからこそ、ダート人気に火がついた、ということは忘れてはいけないと俺は思う」
「うん。それは同感」
人は物事が大きく動いた時、どうしてもその渦中にいた人物だけに関心を向けがちだが、大きな変化が起こるまでには小さな、それでいて膨大な積み重ねが必ずあるはずなのだ。
これは世の中の動きといった大きな事柄だけでなく、個人の成果でも同じようなことが言えるんじゃないかな。
お母さんのGⅠ勝利は奇跡だ、ミラクルだと言われたけれど、お母さんだって菊花賞に出走するまで何もしていなかった、ということはあるまい。
連敗中も自棄にならず、夏の間の厳しいトレーニングをこなしたからこそ、菊花賞優勝という大輪の花を咲かせることができたのだと思う。
なんでも、コツコツと積み重ねていくことが大切だということだ。
「今やダートレースの観客動員数は芝に劣らないものだし、ダートを走るウマ娘のレベルは世界トップクラスだ。日本のダートウマ娘が、ドバイワールドカップやサウジカップといった世界的なダートレースを制することも珍しいことではなくなった」
時の第一人者たちによる地道な積み重ねと、一人のスターウマ娘の登場が、ダート界を大きく変えた。
「そういうダート界の歴史を考えると、ひょっとしてグランアンネリーゼさんは……」
「うむ。彼女は障害レース界における、スマートファルコンのような存在になりたいのかもしれないな」
そうか。
だからグランアンネリーゼさんは常に自分の能力の限界を追い求めてがんばることができるのだろうし、時に暴言や不躾な言葉をぶつけられても周りに絶望せず、マスコミやファンに対して真摯に対応し続けることができるのだ。
自分の愛する競技を、たくさんの人たちに知ってもらうために。
今の障害レース界を、もっと活発化させるために。
そしていつか、そうして盛り上がった世界を後世へ手渡すために。
その志は、本当に立派だと思う。
でも、いくらグランアンネリーゼさんが天才的な名ジャンパーだとはいえ、たったひとりで障害レース界を盛り上げるのには限界があるだろう。
スマートファルコンさんには、フリオーソさん、トランセンドさん、ワンダーアキュートさん、エスポワールシチーさんという屈強のライバルが大勢いた。
あの天才のライバルになる、だなんて今はそんな大きなこと、絶対言えないけれど。
わたしたち後輩もグランアンネリーゼさんにおんぶりだっこしてもらうだけではなく、彼女と一緒に障害レース界を盛り上げていこう! という気概ぐらいは持たなくちゃ。
「トレーナー。今日の予定はダート1000Mを強めに2本って話だったけど、目一杯3本、走ってきてもいい?」
わたしの提案に、トレーナーはうむ、と小さく頷いてくれる。
どうやらトレーナーも、わたしのやる気を買ってくれたようだ。
トレーナーの許可をもらったわたしは、立ち上がって練習バ場に足を踏み入れ、脚元の砂を全力で蹴り上げた。