ミラ子の娘。   作:宮川 宗介

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第二十七話

わたしは、春が好きだ。

 

日に日に、頬を撫でる風や耳に当たる陽射しが暖かくなってくる。

木々や花々の生命が、力強く芽吹き出す。

 

その様を感じられると、胸が弾む。

 

また、春というのは新しい出会いの季節でもある。

4月を迎えて、今年もたくさんの新入生がトレセン学園に入学してきた。

 

彼女たちの顔はみんな晴れやかだ。

これからの学校生活やレース人生に思いを馳せ、胸踊らせているのが感じられて、なんだかエールを送りたいような気分になってくる。

 

真新しいトレセン学園の制服を誇らしげに身にまとい、物珍しげにあちこちを見回っている一年生のウマ娘たち。

 

そんな彼女たちの姿が入学当初の自分の姿と重なり、なんだか少し心がこそばゆくなってしまった。

 

*

 

入学式が行われた日の午後は、毎年寮が騒がしくなる。

今日から寮で新生活を始める娘たちが、いっせいに引っ越してくるからだ。

 

『同じ部屋になれてよかった~』とか、『同室になる娘、全然知らない娘なんだよね……緊張する~!』とか、そんな声が部屋の外から聞こえてくる。

 

今でこそ慣れ親しんだ、栗東寮の我が部屋だけど。

わたしも2年前、期待と不安を抱きながらここに入寮したっけ。

その時、ルージュと出会って……。

 

今でもふとした瞬間に、元ルームメイトのことを思い出してしまう。

 

トレーニングの休憩中に。

カフェテラスで友だちと食事をしているときに。

寝る前に部屋の明かりを、消すときに。

 

別れの挨拶をかわすこともなく、わたしの前から去っていった友だち。

彼女のことを思うと、今でも少し胸がズキリとして、心の奥に薄いもやがかかったような気持ちになる。

 

ルージュは元気でやっているだろうか。

トゥインクルシリーズで活躍するという夢の代わりを、見つけることできたのだろうか。

 

ちょっとセンチメンタルな気分でそんなことを考えていると、コンコンと小さなノックが鳴った。

 

「はい?」

「今日からこちらのお部屋に入寮させていただくキョウコスピアと申します。入室させてもらってもよろしいでしょうか?」

 

ノックに返事すると、ずいぶん緊張したような声でお固い挨拶が返ってきた。

 

寮長から聞いていた、今日からこの部屋で生活を始める娘だろう。

 

「あ、うん。大丈夫だよ」

「失礼します」

 

頭を下げながら入ってきたのは、青鹿毛のウマ娘だ。

その娘は黒光りするキレイな髪をショートカットにしていて、知性的な切れ長の瞳の上に黒縁のメガネをかけている。

 

ひと目見た彼女の第一印象は、『真面目で大人しそうな娘だな』だった。

 

彼女は少し不安げな面持ちで、ベッドに腰掛けていたわたしの元へやってきた。

 

「はじめまして。今日からお世話になる、高等部1年生のキョウコスピアです。未熟者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」

 

ショートカットと眼鏡がよく似合っている彼女は、改めて名乗って深々と頭を下げると、丁寧な口調でわたしに初対面の挨拶をしてくれた。

 

その挨拶だけでもキョウコスピアさんがすごく緊張して、わたしに気を使ってくれているのが伝わってくる。

ルームメイトになるウマ娘が2つも年上となると、それも無理のないことだろう。

 

「うん、はじまして。わたしはエルサミラクルっていうんだ。どうぞよろしくね」

 

そんな後輩にわたしはできるだけ、優しく友好的な口調を意識して挨拶を返した。

 

ルームメイトは大げさでなく寝食をともにする、長い付き合いになる間柄。

だからこそわたしとしては、先輩だからといって変に気を使われたり、怖がられたりすることはできるだけ避けたいと考えていた。

 

自分に対して萎縮している人が目の前にいるというのは、あまり気分のいいものじゃない。

 

「あの。これはご挨拶の品と言いますか……よかったら、使ってください」

 

わたしの返事を聞いてようやく顔を上げた彼女は、恐縮しながら手に持っていた小さい紙袋を差し出してくれる。

 

「えっ、いいの? ……うん、ありがとう」

 

もらっていいものか一瞬迷ったけど、せっかく用意してくれた物を受け取らないのもきまりが悪い。

わたしはありがたく、後輩の厚意を受け取ることにした。

 

「開けていい?」

「はい。つまらないものですが」

 

彼女の許可をもらってから、紙袋から中を取り出してみる。

入っていたのは赤・白・青の三色のマークが描かれたタグの付いたタオルと、アトリックスの無香料ハンドクリームだった。

 

「わぁ、今治のタオルとわたしも使ってるハンドクリームだ! これ、よく使うから助かるよ。ありがとね」

「恐縮です。そう言っていただけて、良かったです」

 

彼女は胸に手を当てると、小さく安堵の息をついたようだ。

ルームメイトが同じ年のウマ娘だったら、こんな気遣いはせずにすんだのに……。

そう思うと新入生の彼女に対して、ちょっと申し訳ない気持ちになる。

 

「タオルとハンドクリームのお礼ってわけじゃないけど、よかったら荷物の運び入れとかベッドメイキングとか手伝うよ。教科書とかレースの参考書とか、運び込むの結構大変でしょ?」

「えっ、いえそんな! そんなことをしてもらうわけには……」

 

遠慮するキョウコスピアさんに、わたしは軽く笑ってパタパタと軽く手を振る。

 

「いいよいいよ。どうせヒマだったし。荷物は部屋の前においてあるよね?」

「えっ、あっ、はい……。そう言ってくださるなら、よろしくお願いします。気を使っていただいて、申し訳ありません……」

 

とことん恐縮しながら、彼女はペコリと頭を下げてくれる。

まぁ初日はこんなものかな。

少しずつ距離を縮めて、仲良くなっていけばいい。

 

「OK、じゃあ早速片付けてしまいますか」

 

軽く笑いながらサムズアップを飛ばすと、彼女も小さく笑って「はい」と返事してくれた。

 

*

 

キョウコスピアさんは、あまり私物を持ち込まないタイプの娘らしい。

部屋の前に置いてあった段ボール箱は、たったの2つしかなかった。

 

……これなら、手伝うなんて言わないほうがよかったかもなぁ。

これぐらいの量だったら手伝おうとしたことで、かえっていらない気遣いをさせてしまったかもしれない。

 

そんなことを思いながら手前にあった段ボールを手に取ろうとすると、慌てて彼女がやってきた。

 

「あっ、その荷物は重たいので……こっちの段ボールをお願いしてよろしいですか?」

 

彼女の……というより、ウマ娘の腕力なら、2つ重ねの段ボールぐらいは軽く持ち上げられる。

それでもお手伝いをお願いしてくれたのは、手を貸すと言ったわたしの顔を立ててくれたのだろう。

 

「大丈夫だよ。いくら重たいと言っても、さすがに100キロもあるわけじゃないでしょう?」

 

冗談っぽく笑って持ち上げると、想像していたよりもずしりと腕に重力が乗っかってきた。

 

「ん。思ったより重たいね。ひょっとして本が入ってる?」

 

わたしが聞くと、彼女は申し訳なさそうに頷いた。

 

「はい。教科書と参考書だけでなく、私的な本や小物も入っていますので……」

「私的な本って、マンガとか?」

「……いえ。一応、実用書になると思うのですが……」

 

なにか会話が広がれば、と思って本のジャンルを聞いてみたけど、彼女の反応はあまり思わしくなかった。

 

まぁあまりツッコんで聞いて、ウザい先輩だなと思われるのも嬉しくない。

 

「そっか。じゃあ本棚の前に置いておくね」

 

そう言ってわたしは段ボールを運び込むと、一人一台ずつ与えられている本棚の前にそれを置いた。

 

「すみません。お手数かけてしまって……」

 

もう一つの段ボールを運び込んできたキョウコスピアさんは、ベッドの上にそれを置いて頭を下げてくれる。

 

「いやいや。他に手伝えることが何でも言ってね」

「はい。本当にありがとうございます」

 

彼女はお礼を言ってくれると、わたしの持ってきた段ボールの方から荷解きを始めた。

 

作業をじっと見られるのもいい気はしないだろうな、と思ったわたしは椅子に座るとなんとなしにスマホを手にとってウマッターを起動させる。

 

よく行くお店や友だちのタイムラインを見ながら、ちらっと段ボールの中身を取り出している様子をうかがっていると、寮では普段あまり見かけないものを彼女は手にしていた。

 

「あっ。キョウコスピアさんって、将棋指すの?」

 

彼女が荷解きしている物の中に、将棋の駒箱と布製の将棋盤があったのが目に入ったのだ。

 

「えっ? あっ、はい。一応……」

「そうなんだ!」

 

ちょっとテンションが高くなってしまったのは、わたしも将棋が結構好きだったからだ。

トレセン学園では認知機能向上のために、将棋を使ったトレーニングを積極的に取り入れている。

学園内ではわたしはそれなりに強い方で、トレーナーいわく『初段とまでは言わないが、1・2級の棋力はあるな』とのこと。

 

棋は対話なり、という言葉もある。

 

将棋を通して、気を使いすぎてくれる後輩と仲良くなれるチャンスかもしれない。

 

「わたしはトレーナーから1級ぐらいは指せる、って言われてるんだけど、キョウコスピアさんはどれぐらい指せるの?」

 

わたしの質問に、彼女はちょっと困ったような表情を浮かべた。

 

「……駒の動かし方ぐらいは」

「あっ、じゃあ初級者さんだね」

 

なるほど。

それぐらいの実力だったら、覚えたてで一番将棋が面白い時期なんだろう。

だからわざわざ、ああやって私物として将棋を持ち込んだってわけだ。

 

「ねぇ。片付け終わったら、一局やらない?」

「えっ、いや。私は……」

「もちろんハンデつけてあげるよ。初級者さんとわたしなら、飛車落ちぐらいかな?」

 

わたしの申し出に、なぜか彼女はますます困惑の度合いを深めたような顔をしている。

 

「そうおっしゃってくださるなら、一局だけお願いします。……それと多分、手合は平手で大丈夫です」

 

おおっ。

こちらのハンデの申し出を断ってくるとは。

言動は謙虚なのに、かなり負けず嫌いな性格をしているらしい。

 

……そういやルージュもトレーニングの将棋に負けると『なんでアタシが負けるのよっ!』って、プリプリ怒ってたっけ。

 

「OKOK! じゃあちゃっちゃと片付けて、対局しよう。やっぱり、わたしも荷解き手伝うよ」

 

後輩がみせた意外な負けん気に、思わず元ルームメイトのことを思い出してちょっと心がチクリとしたわたしは、ことさら明るい感じで再度協力を申し出る。

 

「あっ、いえ。さすがにそこまで先輩の手を煩わせるわけにはいきません。あの。整理している間、バタバタと騒がしくしてしまうでしょうから……。終わったらお声がけしますので、少しお待ちいただけませんか?」

 

う~ん。

考えてみたら、先輩に遠慮しながら『あれはここに置いてください。それはこちらに置いてください。お願いします』となど指示して荷解きするより、彼女ひとりで片付けてしまったほうが早いかもしれない。

 

「了解。じゃあ談話室にいるから、終わったら声かけに来てね~」

 

それなら、わたしがいないほうが気を使わせず片付けられるだろう。

わたしは笑顔で手を振って部屋を出ていき、寮の談話室で後輩を待つことにした。

 

*

 

で、1時間後。

 

「ま、負けました……」

 

眼の前には、無惨に負け散らかした局面が広がっている。

わたしの駒台に乗っているのは、歩が2枚だけ。

盤面に残っているわたしの駒も、今は亡き王(玉ではなく!)の近くにいた香車と、そのまわりにあった数枚の歩を残すのみだった。

 

――ああ、国破れて山河あり。

 

ほとんど全駒負けである。

 

「ありがとうございました」

 

同室の先輩をケロケロに負かした後輩は、無表情で頭を下げる。

今まで緊張したり、恐縮したりした彼女の顔しか見ていなかったせいだろうか。

その顔が少し怒っているかのように見えてしまって、ちょっとたじろいでしまう。

 

彼女に怯んだのは、今だけじゃない。

将棋を指している時の彼女は、まるでレース中のウマ娘と同じような気迫を発していて、眼の前にいるだけで得体のしれない圧力を感じるほどだった。

 

それに中てられたせいで対局の間ずっと手汗が止まらず、わたしは何度、ティッシュでそれを拭ったことか。

 

そんな将棋、今まで経験したことない。

 

「どこが悪かったかな……」

 

あれだけエラそうなことを言っておいてヒドい負かされ方をしたもんだから、ホントはもう恥ずかしすぎて、すぐに席を立ちたいぐらいだった。

 

それでも、わたしは感想戦をしようと静かに駒を持った。

『ボコボコにされても感情的になってませんよ』ということだけでも、圧勝した後輩に伝えたいという、先輩のささやかな意地みたいなものだ。

 

そんな先輩の心情を知ってか知らずか、駒をちまちま初期位置に戻しているわたしに彼女は鋭い視線をくれると、ため息をひとつついた。

 

そして目にも止まらぬ速さで、盤面を序盤に戻す。

 

わたしに王手も掛けさせなかった圧倒的な実力に、この駒を動かすスピード。

どうもこの娘は、相当将棋をやり込んでいるみたいだ。

 

……わたしなんか、まるで相手にならないレベルで。

 

「振り飛車の定跡型からこの歩を突き捨てる手はありませんよ。こんな手を指して、幸せになった人はいません。それから……」

 

厳しい口調でそう言うと、またもキョウコスピアさんはすごいスピードで今度は中盤の、戦いに入ったばかりの時の盤面を再現する。

 

えっ。

……この娘ひょっとして、初手から終局まで全部の局面覚えているの!?

 

いやいや。

それってかなりの腕前じゃないとできないんじゃ……。

 

この娘絶対、ただ者じゃない!

 

「ここの飛車交換がほぼ敗着ですね。見た目、美濃囲いがまるまま残ってる振り飛車側のほうがいいように見えますけど、ここに歩を打てているので、私のほうが玉が堅いんです。もう将棋はここで終わってますね」

「はぁ……」

 

まるで人が変わったかのように早口で盤面を解説する後輩に、ボロ負けしたわたしとしては間抜け面をさらすよりない。

 

「キョウコスピアさんって、じつは将棋強かったんだね」

 

わたしが苦笑しながらそう言うと、彼女はハッとしたように息を呑む。

その賢そうな顔には、やってしまったという感じがありありと表れていた。

 

「えっ、あっ! す、すみません。その、隠すつもりはなかったんですが……」

 

いや。

これだけむちゃくちゃに負かしておいて、隠すつもりはなかったってのは嘘だろ。

 

それを言うのも大人げないと思ったわたしにできたことは、後輩に向けて顔面神経痛のような笑顔を浮かべ続けることだけだった。

 

「一応プロを目指している身としては、平手の将棋で手を抜くわけにいかなかったものですから……」

「えっ、プロ!?」

 

意外な告白に、思わず大きな声がでてしまう。

そりゃ、わたしなんかが相手にならないぐらい強いわけだ。

 

「はい。実は私、小さい頃から棋士になるのが夢で、ずっと将棋の勉強しているんです」

「そうだったんだ……」

 

なるほど。

『駒の動かし方ぐらいは』なんてキョウコスピアさんが言ったのは、彼女なりの断り方だったのだ。

キョウコスピアさんからすれば、アマチュア1級のわたしと指しても、得るものなんて何もないのだから。

 

それでもわたしと対局してくれたのは、やっぱり先輩からのお誘いは断りにくかったんだと思う。

 

「あの。先輩は、奨励会ってご存じですか?」

 

自分のことを話し続けるのは、ちょっと気を使うのだろう。

おずおずと質問してきた彼女に、わたしは少し間をおいてからうなずく。

 

「うん。詳しくは分からないけど、聞いたことはあるよ。確かプロの将棋棋士になるためには、そこに入って勝ち抜かなきゃいけないんだよね」

 

わたしの答えを聞いて、キョウコスピアさんは小さく首肯する。

 

「はい。進路を決める時、奨励会に進むか、トレセン学園に進学するか、すごく悩みました。どちらも厳しい道ですから、両立させるのは難しいと思ったんです」

 

彼女の話に耳を傾けながら、わたしはうんうん、と相槌を打つ。

将棋のプロを目指すということが、どれほど厳しいのかわたしには分からなかったけど、どんなジャンルだってプロになるための修練は生半なものじゃない、ということぐらいは想像できる。

 

「進学する際、将棋の師匠にも親にも相談しました。そうしたら『今は時代も変わって20歳を超えてからでもプロ棋士になれる制度があるのだから、進学はレースの道を選んだほうが後悔が少ないんじゃないか?』ってアドバイスをもらうことができまして。それもあって、トレセン学園への進学を決めたんです」

「それは……なかなか難しい決断だったでしょ?」

 

わたしなんかは勉強があんまり得意じゃなかったし、他に特技もなかったから『少しでも受かる可能性があるなら受けておくか』って感じで、トレセン学園を受験したんだけど……(なんとか受かったけど、補欠合格だった)。

彼女のように天から二物を与えられた人は、幅広い選択肢があるがゆえに、そんな悩みが生じるものらしい。

 

それはきっととても悩ましいことなんだろうけど、非才のウマ娘としてはちょっと羨ましくもある。

 

「はい。でもプロになる夢を諦めたわけじゃなくて、レースキャリアが一段落ついたら、プロか奨励会への編入試験を受けるつもりです。ですから、トレーニングの合間とか休みの日にはしっかり将棋の勉強をしようと思って、駒と布盤を持ってきたんです」

「そっか。……なんか、ごめんね。素人が偉そうなこと言っちゃって」

 

わたしが頭をポリポリかきながら謝ると、彼女は慌てたように両手を振る。

 

「いえいえ! こちらこそいろいろと生意気なこと言ってすみませんでした。将棋のことになると、つい……」

 

キョウコスピアさんは、本当に将棋が好きなのだろう。

そして夢に向かって自分が選んだ道を、最善と信じて突き進んでいる。

 

そうしてがんばっている年下の娘にちょっと横柄な言い方されたからと言って、腹を立てる気にもなれなかった。

 

「いいよ、気にしないで。わたしも、気にしてないから」

「本当にすみませんでした。……あの。もう少し生意気言わせてもらえるなら……」

 

彼女は一瞬言い淀んだけど、口を少しほころばせて続けた。

 

「私、エルサミラクル先輩の将棋、好きです。筋が良くて勝利に向かって真っ直ぐで、負けそうでも最後まであきらめない。きっと、レースでもそうなんだろうなって、思ってしまいました」

 

面と向かってそんなことを言われたわたしは、ためらいがちに微笑んでみせる。

 

「そっか。まぁ、それだけが取り柄だからね」

 

へりくだった物言いは、二物を持っている後輩へのちょっとした意地悪だった。

こちらの思ったとおり、彼女は少し慌てた様子でわたしの謙遜を否定してくれる。

 

「何をおっしゃるやら! あの……よかったらこれからも、たまに対局お願いしていいですか?」

 

上目遣いで尋ねてきた彼女に、わたしはちょっと首を傾げた。

そりゃ別に構わない。

わたしも将棋が好きだし、彼女がプロを目指すほど強いのなら、こちらがハンデを貰って勉強させてもらいたいぐらいだ。

 

でもキョウコスピアさんがわたしと対局することで、得るものなんてあるんだろうか。

 

「それはいいけど……わたしとやったって強くならないんじゃない?」

「技術的には、確かにそうかもしれません」

「はっきり言ってくれるね」

 

スパッと言い切る将棋指しの卵に、わたしは苦笑いを返すよりない。

でもそれが、なんだが少し心地よかった。

 

「でも、エルサミラクル先輩と指していると、勝っても負けても、ただ楽しいだけで将棋を指していた小さい頃を思い出すんです。エルサミラクル先輩の手は、素直でこころのままに指しているなって、感じられるから」

 

褒められているのは分かったが、年下に持ち上げられてハナを伸ばすチョロい先輩と思われるのも面白くない。

ここでは少し、先輩の威厳を見せつけておくとしますか。

 

「ん? それってわたしが何も考えずに指しているって言ってない?」

「そう取っちゃいます!? ひょっとしてエルサミラクル先輩って、後輩いじめて楽しむタイプですか?」

「いやいや。後輩たちはみんな、わたしのことを『仏のエルサ』って呼んでるよ」

「いや、それ嘘でしょ……」

 

将棋のおかげでちょっとは打ち解けられたのか、それからはお互いに家族のことからトレセン学園に入学するまでのレースキャリアのことまで、いろんなことを消灯時間までお話できた。

 

最初あいさつされたときは『少しお固い感じの娘なのかな』『仲良くなれるまで時間かかるかもしれないなぁ』なんて思ったけど、根は明るくてけっこう社交的な性格のようだ。

 

話しているとちょ~っと、それはツッコみ過ぎじゃない? って感じるときもあるけど、それは彼女が素直な性格で、わたしに心をひらいてくれているからこそだろう。

 

だから、ベッドに入る前に。

 

「あっ、わたしのことはエルサって呼んでよ。近しい人は、みんなそう呼ぶから」

 

わたしがそう言うと、キョウコスピアさんは照れくさそうに微笑んだ。

 

「じゃあ、私のこともキョウコってぜひ呼んでくださいね。……おやすみなさい、エルサ先輩」

「うん、おやすみ。キョウコ」

 

お互いに就寝のあいさつして、部屋の明かりを落とす。

 

寝る前に『おやすみ』って言ったのは、本当に久しぶりだった。

 

同じ部屋に誰かがいて、あたり前のように『おやすみ』を交換する。

たったそれだけのことなのに、今夜はとてもいい夢が見れそうな気がした。

 

*

 

放課後のトレーニングで坂路を二本走ったわたしは、もらった休憩中に【プロに勝てる! 二枚落ち定跡】という本を読んでいた。

 

「珍しいな。将棋の本を読んでるのか?」

 

少し驚いたようにこちらを見たトレーナーが、声をかけてくる。

 

「うん。実は今度同じ部屋になった娘がプロ目指すぐらい強くてね。せっかくだから将棋を教えてもらおうと思って」

「そうか。将棋はワーキングメモリーの強化も期待できるし、レース中でも大切な『自分の頭で考える』という力を鍛えられるからな。トレーニングに支障が出ない範囲で、しっかり勉強するといい」

「分かってるよ」

 

トレーナーの注意に、わたしは眉を下げて小さく笑う。

たまにだけど、将棋にハマりすぎて肝心の走る方のトレーニングや学業が疎かになってしまうという、とんでもないウマ娘がいたりするのだ。

 

「特に障害レースはハードルを飛び越えるタイミングや、スタミナの微細な調整など、レース中に考えなければいけないことがたくさんあるからな。考える力を養う将棋トレーニングに取り組むことは悪くない」

 

そう言ってもらえると、一層将棋の勉強にも力が入るってものだ。

 

「うん。レースでの冷静な思考を養えるよう、がんばるよ」

「よし、その意気だ。次走の新潟ジャンプステークスでの初重賞制覇を目指して、知力も身体もしっかり鍛えていくぞ」

 

トレーナーが提示した目標に、わたしは少し目を大きくしてしまった。

 

「次の目標は、8月の新潟ジャンプステークスなんだね。それはいいけど……結構、間隔が空いてしまわない?」

「ああ。お前の能力は、血統的にもキャリア的にも今年の夏から秋にかけてピークを迎えるはずだ。その前にしっかりと基礎から鍛え直して、心身ともに最高の状態で全盛期を戦わせてやりたいと考えている」

 

全盛期。

 

その言葉を聞いて、わたしの身体に気合がみなぎってくるのを感じた。

現役を通じて、一番強い時期のわたしが一体どこまでやれるだろう! という期待感も。

 

でもそれと同時に、最高の状態の自分がこれから先、一つも勝てなかったら……という不安もせり上がってくる。

 

このふたつはきっと、コインの裏表のようなものなんだと思う。

 

「OK。現役生活を終えたときに悔いの残らないよう、しっかりがんばらないとね」

 

わたしは拳を握りしめると、ことさら強気を装って笑ってみせた。

 

「うむ。全盛期を迎えたウマ娘のトレーニングには、俺もそれなりの経験とアイデアがある。そこは信じてついてきてくれていい」

 

わざわざそれを口にしたのは、トレーナーも最盛期を迎えるウマ娘の心理をわかっているからなんだろう。

 

「もちろん。父親としては『このオヤジ、マジないわ……』って思うときもあるけど、トレーナーとしての実力を疑ったことなんて一度もないよ」

 

冗談めかしてそんなことを言うと、父親兼トレーナーは思い切り顔をしかめた。

 

「お前、そんなこと思ってたのか?」

「まぁ。小言をもらったときとかは、たまに」

「あのなぁ、エルサ。俺がお前に色々注意するのはだな、お前のためを思って……」

「あっ、そろそろ休憩時間も終わりだね! よし、重賞制覇に向けてがんばるぞ~! さぁトレーナー、次のトレーニングは何?」

 

父上の御高説を賜るのが面倒だったわたしは、まだ少し休憩時間が残っていたにも関わらず、強引に話を遮ってやった。

 

昔からくどくど言い始めると長いんだ、うちのオヤジは。

 

トレーナーはまだ色々と言いたそうではあったが、浅いため息を一つつくと、「じゃあダートを1000M、強めで走ってこい。そのあと10分の休憩を挟んで、坂路を一本追って今日は終わりだ」と、いつもより少し強めのトレーニング指示を出してくれた。

 

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