ミラ子の娘。   作:宮川 宗介

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第二十八話

土日の3時半になると、寮の談話室にはいつもたくさんのウマ娘が集まってくる。

 

備え付けのテレビで、今日のメインレースを見るためだ。

 

「もうすぐ中山グランドジャンプ、始まるね~」

「グランアンネリーゼさんが支持率90%で一番人気か。相変わらずすごい支持率だねぇ。それに土曜日とは思えないぐらい、お客さん入ってる」

「障害レースは今、グランアンネリーゼさん効果で人気急上昇中って感じだからね。二番人気は阪神スプリングジャンプを制したアクサナデイジーさんか。アンネさん相手にどこまでやれるか、見ものだわ」

 

みんな楽しげに、あーでもないこーでもないと、今日のメインレースについて語っている。

まったくレースというものは自分が走るとなったら大変だが、人が走っている分を見るのは気楽でいいものだ。

 

「アクサナデイジーさんって、エルサ先輩の前走のレースで優勝した人ですよね?」

 

わたしの隣で立ち見している同室の後輩、キョウコスピアが確認するように聞いてくる。

 

キョウコは入寮する前に同室になるわたしのことをレースメディアなどで調べていたみたいで、わたしが障害レースをメインに走っているウマ娘、ということはすでに知っていた。

 

「そうそう。彼女中等部なんだけど、すごく強くてね。前回はいいレースされて力負けだったよ」

「一番人気のグランアンネリーゼさんのことは、中学にいるときから『当代最強の無敵のジャンパー』なんて聞いてたんですけど、先輩的にはアクサナデイジーさんとどちらが勝つと思ってます?」

「気楽に聞いてくれるなぁ……」

 

率直な質問をうけて、わたしとしては苦笑するしかない。

 

「個人的には、わたしを負かしたアクサナデイジーさんを応援したいけどね」

 

今日出走している二人と同じフィールドで戦っているわたしが言えるのは、ここまでだ。

そのへんはトゥインクルでのレース経験はなくても、将棋という勝負の世界でプロを目指して生きてきたキョウコのこと。

どうやら勝負するウマ娘たちの機微というものを、ちゃんと察してくれたらしい。

 

「将棋の世界でもそうですけど、絶対的王者に挑むチャレンジャーってのは応援したくなりますよね。あっ、レースが始まるみたいですよ」

 

喋っているうちにゲート入りも終わったみたいだ。

テレビのカメラは、スタート前の一瞬の静寂を映し出していた。

 

数秒後。

 

ガチャン! という小気味良い音が、晩春の中山レース場に響き渡る。

 

4260Mという長丁場のハードルマラソンが、今スタートした。

 

*

 

『第4コーナーを回って、先頭はグランアンネリーゼ。後方は7・8バ身後方!』

 

『さぁ最後の直線、グランアンネリーゼが立ち上がった! ラストのハードル障害を踏み切って、ジャンプ!』

 

『先頭はグランアンネリーゼ、グランアンネリーゼ先頭! 後ろからはなんにもこない! 後ろからは何も来ない! 後ろからはなんにもこない!』

 

『グランアンネリーゼ、今一着でゴールイン! 二着は……アクサナデイジーか』

 

『グランアンネリーゼ、下の世代のJ・GⅡ覇者アクサナデイジーを鎧袖一触と言わんばかりに退けました!』

 

『グランアンネリーゼ、恐ろしいウマ娘です! これで中山大障害に続き、中山グランドジャンプも3連覇! 母が持つ中山グランドジャンプ・中山大障害両2連覇の偉大な記録を、今日塗り替えました!』

 

*

 

圧倒的な実力差を見せつけて勝利したグランアンネリーゼさんをテレビ越しに見ていたウマ娘たちは、今日のレースの感想を口々に言い始めた。

 

「いや~、強かった!」

「これでアンネさん、J・GⅠ6連勝か。すごいなぁ」

「しばらく彼女の長期政権は揺るぎそうにないね」

 

これぐらいの評論はまぁ、GⅠを何勝もしているウマ娘が勝ったレースのあとではよくあるものだった。

わたしもいや、まったくそのとおりと彼女たちに内心同意していたものの……。

 

「にしたって、あの人と同じ時代のジャンパーは気の毒だよね~。だって、あの化け物を倒さない限りJ・GⅠウマ娘に絶対なれないわけでしょ。シニアのほとんどのウマ娘はグランアンネリーゼさんともう勝負づけが済んでるし、下の世代もJ・GⅡを勝ったアクサナデイジーさんが惨敗するようじゃ、あんまり期待できない……」

 

黒鹿毛の娘がそれを口にした途端、談話室は静まり返り、その娘に刺すような視線が集まった。

 

彼女は圧巻だったグランアンネリーゼさんのレースを見た感想として、ちょっと口を滑らせてしまっただけなんだと思う。

でもレース界の常識として、実力の差を断じるような発言は、少なくとも公の場では慎むべきだとされていた。

 

わかってる。

 

あの娘に、悪気はなかった。

誰かを傷つけるつもりなんて、きっとなかった。

 

それでも彼女の言葉は鋭利なトゲになり、前走でアクサナデイジーさんに負かされたわたしの心にグサッと突き刺さる。

 

心に鋭い痛みが走り、感情が、どんどん冷めてゆく。

 

それが視線にまで伝わったのだろう。

 

わたしを含む()()()()()()()()()()たちの冷たい視線に気づいた彼女は、バツが悪そうに下を向けた。

 

「あっ……私、宿題しなきゃ……。そろそろ、部屋に戻るね」

 

失言をしてしまったその娘は誰に言うでもなくそうつぶやき、そそくさと逃げるように談話室から出ていった。

 

誰かが電源を切ったのか、レース後の様子を伝えていたテレビからの声が聞こえなくなる。

 

そのタイミングであの娘に白い目を向けていたウマ娘たちも、呆れたようなため息をついたり、肩をすくめたりして談話室をあとにしていく。

 

「エルサ先輩。あんな無責任な言葉、気にすることないですよ。勝負事なんて、やってみなくちゃわかりません。あの藤井聡太先生だって、対局全部勝っているわけじゃないんですから」

 

キョウコはそう言うと、仏頂面していたわたしに気楽な笑みを向けてくれる。

それは将棋の世界出身の彼女らしい励まし方だった。

 

「……そうだね。偉大な先輩に少しでも近づけるよう、がんばるよ」

 

キョウコの笑顔で心に刺さったトゲが抜けきったわけではなかったけど、少なくともわたしは小さな微笑を浮かべて、後輩に前向きな言葉を返すぐらいのことはできた。

 

*

 

「み~らみらみらみらこのこ~♪ 外から一気に~やってきた~♪」

 

なんてテキトーな替え歌を歌いながら障害コースのトレーニング場へやってくると、意外なウマ娘が竹柵障害の前で(たたず)んでいた。

 

「あれ、イングリッド? なんでこんなところに?」

 

手持ち無沙汰の様子で竹製のハードルに背を預けていたのは、クラスメイトで友だちのリズムイングリッドだった。

平地を走っているステークスウィナーの彼女が、どうして障害のトレーニングコースにいるんだろう?

 

「あら、エルサ。こんなところで顔を合わせるなんて、奇遇ね」

「それはたぶん、こっちのセリフだと思うんだけど……。いったい、どうしたの?」

 

わたしが重ねて理由を聞くと、彼女は微苦笑を浮かべた。

 

「いやぁ、実はね。ほら、私ここのところあんまり成績が振るわないでしょ。それで気分転換とトモの筋トレを兼ねて、今日は障害コースを走ってみようかってトレーナーが言ってくれて」

「……なるほど、そういうこと」

 

ここに来た理由を教えてくれた彼女に、わたしは意識的に神妙な顔を作って相槌を打った。

イングリッドは去年のローズステークスを勝って秋華賞を12着したあと、GⅢを3回戦っている。

けど最高順位は金杯の5着と、お世辞にも順風満帆とは言えない結果に終わってしまっていた。

 

平地でスランプに陥ったウマ娘が、今のイングリッドと同じような理由で障害のトレーニングコースを走ってみる、ということはたまにある。

 

「うん。それで今この竹柵障害を近くで見て、結構高いなって驚いていたところ」

 

そう言うと彼女は、自分の首ぐらいまでの高さがある竹製のハードルを軽く叩いた。

ぽんっという軽快な音が、二人しかいないトレーニングコースに静かに響く。

 

「ああ~。初見だとやっぱり、ハードルの高さにちょっとびっくりするよね」

「私今までレース用の障害物って飛んだことないから、正直少し不安なのよね……。一応切り株で飛越の練習はしてきたけど、こんなの本当に飛び越えられるのかしら?」

 

イングリッドの心配は、わたしも感じたことがあるものだった。

 

実際、障害物を飛び越えるという練習メニューは、他のそれより多少なりとも故障してしまう確率を上げてしまう懸念はある。

 

それでもここでトレーニングをしようというウマ娘は、もうやれることは全部やってしまって、他に打つ手がないという場合が多い。

 

……トレーナーによっては『平地ではもう頭打ちだし、もし障害レースに適性がありそうなら転向させよう』と考えてハードルをトレーニングさせる場合も、決して少なくなかったりする。

 

「それにこんなトレーニング、本当に意味があるのかしら……」

 

竹柵障害を見つめるイングリッドの顔が、憂鬱と疑念に満ちたものになる。

結果が出てないときって、何をしても無駄に感じちゃうよね……。

 

自分の限界を突きつけられたときに感じる、まるで抜け出せない底なし沼に陥ったかのような感覚を、わたしもイヤというほど知っていた。

 

「普段平地を走っている娘がハードルを飛ぶと、いつもは使わない筋肉を刺激するから結構いいトレーニングになるとは思うけどね。それはともかくとして……障害のトレーニングを始めたってことは、イングリッドもあの切り株に処女を捧げちゃったんだね」

 

ちょっと沈んだ空気になりつつあるのを感じたわたしは、そんなつまらない冗談を言って場を和ませようとしてみた。

 

わたしもそうだったけど、障害コース未経験者は、まず高さ30センチ・幅が50センチほどの切り株を飛び越えるところから練習を始める。

 

で、年配の男性トレーナーの中には、そんな障害物飛越未経験のウマ娘のことを【処女】と呼んで揶揄する人がいるのだ。

 

21世紀が始まって40年も過ぎているこの時代に、そんな下ネタが生き残っていること自体が驚きだけど、これもトレセン学園が男社会だった頃の名残なんだろう。

 

「あははっ! いや、ほんと参るわよね。あんな切り株の前に、好きな人に処女捧げたかったんだけどねぇ」

 

イングリッドも、トレーニングに対する疑問の気持ちを吹き飛ばしたかったのだろう。

わたしのしょうもない下ネタに拒否反応を起こすこともなく、明るく笑って付き合ってくれた。

 

「ま、非処女同士今日は仲良くトレーニングしますか」

「なんか嫌な同士ね……。しかもその実態は処女二人だし」

 

まったくもってその通りである。

しかしわたしは、その不都合な真実に大きな耳を傾けないことにした。

 

「……そうだ! ウォーミングアップアップの代わりに、あそこにある一番低い障害物を飛んでみてよ。障害レースオープンのわたしが、イングリッドの飛越センスをチェックしてあげましょう」

 

真実を無視したわたしはわざとらしく声のトーンを上げてそう言うと、コースの脇に設置してある高さが80センチほどの練習用生け垣障害を指さした。

 

「なにげにスルーを決め込まれた気がするけど、まぁいいわ。トレーナーがいうには、私のジャンプもそれほど悪いものじゃないみたいなんだけど、実際に障害レースを戦っているウマ娘の評価も聞いてみたいしね」

 

そう言ってイングリットは駆け足でそちらの方へ向かうと、生け垣障害から1ハロンほど手前で脚を止める。

 

ひょっとしたら『勝手なことするな』ってトレーナーに後で怒られるかもしれないけど……切り株トレーニングをクリアできたのならこのぐらいのハードルは楽に飛べるはずだ。

 

イングリッドはその場で軽く屈伸すると、ステークスウィナーらしい勢いある出足で生け垣へ向かって走り始めた。

 

さて、どんな飛越を見せてくれるのか。

 

「はっ!」

 

短く息を吐ききると、彼女は生け垣から2完歩ほど手前で思い切り踏み切り、ジャンプする。

 

おおっ、これは……。

 

イングリッドはきれいに生け垣を飛び越え、ほとんど衝撃を感じさせない着地を決めると、50Mほど走って脚を止めた。

 

「どうだったかしら?」

「上手いね! 始めたばかりのころの私より、よっぽどしっかりしたジャンプだったよ」

「本当?」

 

こちらに戻ってきたイングリッドに率直な感想を伝えると、彼女は口元をほころばせてくれた。

 

「うん。やっぱり重賞勝ってるウマ娘はすごいね。持ってるバネが違うよ」

 

わたしとしては励ましたつもりだったが、イングリッドは困ったような笑顔を浮かべるだけだった。

 

「ねぇ。障害レースに転向したら、私もエルサみたいに重賞路線で活躍できると思う?」

「……えっ?」

 

いきなり飛んできたセンシティブな問いかけに、わたしは一瞬呼吸を止めてしまった。

 

平地の芝で重賞を勝ったほどのウマ娘が、障害レースを走っているわたしにアドバイスを求めてくる。

 

その事実が、イングリッドの悩みの深さを物語っているようだった。

 

現役のウマ娘同士で、こういう質問に答えるのはすごく難しい。

答え方一つで、これからの付き合い方すら変わってしまう。

 

わたしとイングリットにはそれなりに長い付き合いがあるから、なおさらだ。

 

『わたしなんかより、トレーナーに聞いてみるのが一番いいよ』なんて、無難に答えてお茶を濁すこともできただろうけど、わたしは自分が思ったそのままを、友だちに伝えることにした。

 

わたしが才能の壁にぶち当たってイングリッドに相談した時、彼女がそうしてくれたように。

 

「イングリッドが障害に転向したら、多分オープンを勝つぐらいまでは楽に出世できると思う。トレーニングのやり方と相手関係次第では、障害レースの重賞も勝てるかもしれない。でも……」

「でも?」

「今は苦しいかもしれないけど、やっぱりイングリッドには平地を走り続けてほしい。負けが込んでるって言っても、勝ってる娘から1秒も離されていないでしょ?」

「それは……そうだけど」

「それにね」

 

今度は、わたしが苦笑いを浮かべる番だった。

 

「障害レースを走ってる自分が日陰者だ、なんてもう思わないけどさ。やっぱり、平地を走ってる娘たちは眩しく見えちゃうんだ。イングリッドには平地の重賞を走る資格も才能もあるんだから、もうちょっとがんばってみてほしいって、わたしは思う」

 

わたしの本音を聞いて、イングリッドはどう思ったのだろう。

 

しばらくトレーニングコースを睨んで難しい顔をしていたイングリッドだけど、不意に表情が緩んで、なにか吹っ切れたような笑顔を見せてくれた。

 

「そうね。重賞で3つ4つ負けが続くなんてことはレースやってたらあたり前のようにあることだし、絶望するようなことじゃないわ。私自身、あのローズステークスから力が衰えているって感じは全然していないし。しっかりトレーニングして心も体も状態が良くなってきたら、またいい結果を出せるかもしれない」

「うんうん、その意気だよ」

 

やる気と自信を少し取り戻してくれた友だちを見ていると、わたしも嬉しくなってくる。

一回のレースの結果が、誰かのなにげない一言が……。

大きくメンタルを揺さぶったり、モチベーションを高めたりする。

 

レースを走っているウマ娘はみんな、本当にギリギリのところでやっているのだ。

 

「今生け垣を飛んで思ったんだけど、障害物を跳ぶのって本当に全身運動なのね。トレーナーがどうしてこの練習を取り入れようと思ったのか、ちょっとわかった気がするわ」

 

わたしのトレーナーがいつも言うように、トレーニングへの選手の理解とその効果は、相関関係にある。

イングリッドがトレーナーに言われたことより一段深くトレーニングの効果を理解できたことは、彼女の走りのセンスを示していると思う。

 

「うん。慣れないメニューをこなすわけだから、念入りにストレッチして体ほぐしておいたほうが良さそうね。エルサ、よかったらストレッチ一緒にやらない?」

「いいね。せっかくだし、ペアストレッチやろう。ここでトレーニングする娘って少ないから、その機会もなかなかなくて」

 

そういうわたしに、イングリッドは黙って両手を差し出してくれる。

わたしはその手を、しっかりと握りしめた。

 

それから両手を上下で組み、二人の腕でハートマークを描くように引き合って脇側の筋を痛気持ちいいぐらいに伸ばす。

 

いつもは義務的なルーティーンになりがちな練習前のストレッチも、友だちとやるとちょっと楽しい。

 

レースなんて因果な商売をしていたら、しんどい時期は必ず訪れる。

 

そんなときに支えてくれる仲間や友だちがいると、本当に心強いんだ。

イングリッドもわたしのことをそんな存在だと思ってくれていたら、とても嬉しい。

 

わたしたちはお互いを励まし合うかのように、二人でしかできないストレッチや準備運動をみっちりやりこんだ。

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