ミラ子の娘。   作:宮川 宗介

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第二十九話

障害レースの春の祭典・中山グランドジャンプが終わり、緑薫る風が吹く季節になった。

 

そんな中、わたしは夏の大目標であるJ・GⅢ新潟ジャンプステークスに向けて、基礎トレーニングを徹底的にやり込む毎日を送っていた。

 

ウマ娘のトレーニングメニューには様々なものが取り入れられているが、基礎を鍛える練習といえばやはりダート・坂路・筋トレの三大トレーニングだ。

 

特に障害レースでは長い距離を走るタフなスタミナと、障害物を飛越するしなやかな筋肉が要求される。

 

両方を効率良く鍛えるために、3つのトレーニングはうってつけだった。

 

しかし基礎的なトレーニングをやるだけだから、といって決して楽なわけじゃない。

 

朝練はまず30分かけてのストレッチから始まり、ダートのマイルを強めに一本走る。

それが終わったら、全身を使った負荷の高い筋トレ。

 

放課後のトレーニングは、最初に坂路を一杯(全力疾走のレース用語だ)に走って少し休憩。

それから強めに2本、しっかりと追う。

仕上げに中程度の負荷の筋トレと、朝と同じく30分ほどのクールダウン運動をやって、一日のトレーニングは終了だ。

 

毎日こんな厳しいトレーニングを積んでいると、もう今日は休みたいな、さぼりたいな、と思うときも当然ある。

 

そんなときは『エルサ。あなたは重賞を目指しているんだから、甘いこと言ってられないでしょ!』と自分に発破をかけた。

 

それでモチベーションが上がってこないときは『キツいのはわかるけどさ。トレーニングしないとそれはそれで気持ち悪いでしょ、エルサ。休みの日の食べ歩きを楽しみにして、今日も一日がんばりましょう!』と、まるで親友を励ますがごとく、自分に優しく語りかけたりもしてみる。

 

しかし休日の前日など、肉体的にも精神的にも疲労がピーク近くに達してくる時期になると、自分への叱咤激励もセルフコンパッションも、あまり効果を発揮しなくなってくる。

 

そういう時は『気持ちのいい朝の空気を吸うためと思って、一応トレーニング場に顔は出そう……。それでどうしてもやる気が出ないようなら、トレーナーに相談しよう』とだけ考えて、あとは脊髄反射でソンビのごとくトレーニング場へ脚を向けるのだ。

 

トレーニング場に行ってしまえば、そこにはトレーナーがわたしにトレーニングを指示しようと待ち構えている。

 

いつもわたしより早くトレーニング場に来ていて、「おはよう、エルサ。今日もやるか」と言うトレーナーの顔を見ると、『今日は疲れてるし、なんだかやる気もなくて……』とはなかなか言えるもんじゃない。

 

不思議なものでいったん始めてしまえば、多少疲れていてもやる気がなくても、それなりのパフォーマンスで練習に取り組めるもんだ。

 

そんな日のトレーニングが終わったときには、もうダート一本でも走ったらマジでケガして倒れる、ぐらいに疲れ果てている。

 

でも練習後のシャワー室で熱い湯を浴びながら、『今週もなんとかやりきった。わたしも結構やるじゃん!』という達成感にひたるのは、割と気分の良いものだ。

 

わたしに限った話ではないんだろうけど、レースに対して本気で取り組んでいるウマ娘は、みんな似たような日常をこなしているんじゃないだろうか。

 

こんなにがんばっているんだ。

明日の自分は、きっと今日の自分より少し強くなっている。

 

そんな小さな進展と希望を信じて、みんな日々のトレーニングに励んでいるんだと思う。

 

*

 

バスから降りると湿気をたっぷり含んだ浜風が、わたしの芦毛としっぽをさぁっと撫でた。

強い日差しが、サンサンと頭上から降り注ぐ。

 

吹いてくる風も照りつける太陽も、一年前と何も変わっていない。

 

今年もいよいよ、夏合宿の季節がやってきた。

 

バッグを手に持って合宿場へ向かっていると、違うバスに乗っていたトレーナーがこちらへやってくるのが見えた。

 

「やっと着いたな。東京よりかはこっちのほうが少しマシか、と思っていたが、温度も湿度もあまり変わらないな」

「それ、去年も言ってなかった?」

「海の近くってだけで、多少は涼しいかもしれないって期待してしまうんだよ」

「その気持ちは分かる」

 

汗を拭き拭きぼやくトレーナーに、わたしも軽く笑いながら頷く。

 

「だがこの暑さこそが、夏合宿らしさだな。今年のトレーニングは去年より厳しく行くぞ。今日は移動の疲れを残さないよう、ゆっくり休むといい」

 

わざわざ宣言するあたり、本気でわたしをしごくつもりらしい。

 

どうもトレーナーはこの夏までのトレーニングを、厳しい合宿に耐えるための体力作り、と考えてわたしを指導していたようだ。

 

もちろん、わたしもトレーナーの意図を理解しているつもりだった。

 

「了解。あの、遠泳のトレーニングは……」

「当然、トレーニングメニューに組み込んでいる。去年の3倍は覚悟しておけ。嫌がればもちろん、空き缶で追い立ててでも泳がせるぞ」

「……うへぇ……」

 

最近プールトレーニングを指示されることが多かったから、薄々はそういうことなんだろうなと思っていたけどね。

 

……今年は本当に、地獄の夏合宿になりそうな予感しかしなかった。

 

*

 

真夏の海を泳いでいるはずなのに、少し肌寒い。

クロールで掻き出している海水が、まるで粘ついているかのように重い。

 

スタミナには自信がある方だったが、3キロ以上も泳いでいるとさすがに辛くなってくる。

レースの終盤に差し掛かったときのような疲労感が、わたしの全身を覆っていた。

 

「エルサ、あと1キロぐらいだぞ。頑張れ」

 

そんなトレーナーの声が、頭上の小舟から聞こえてくる。

 

今日のトレーニングは往復4キロの遠泳だ。

あまり泳ぎが得意でないわたしからすると、かなり厳しい距離だった。

 

腕のだるさは限界に来ているし、水を蹴っている脚がつりそうだ。

長時間全身を酷使している疲労のせいか、胃がムカムカする。

 

くそっ。

レースに勝ちたいってだけで、なんでこんなに辛い思いをしなければならないんだろう。

 

もうここらでギブアップして、トレーナーの乗っている小舟で浜辺に帰ってもいいんじゃないか。

わたしはもう、十分にがんばったんじゃないか。

 

そんな弱気の虫と同時に、なぜか昔見たディズニーアニメのワンシーンが脳裏に蘇ってきた。

 

そのアニメでわたしと同じ名を持つ主人公の女王は、圧倒的な魔法の力で巨大な氷の城を一瞬で作り上げる。

 

そして長い長い城の階段をあっという間に駆け上がり、頂上のバルコニーで『ありのままで自分でいい!』と高らかに歌い上げるのだ。

 

幼い頃はそんなシーンを見て、おしろきれい! エルサすごい! と無邪気に感動したものだった。

しかし、成長した今の自分がそのシーンを俯瞰してみると、また違った考えが浮かんでくる。

 

彼女のように高貴な家柄に生まれ、すごい才能を持っている人は、ありのままの自分を肯定し、現状を維持するだけでも良いのだろう。

 

でも、わたしのような【ふつーのウマ娘】は違う。

 

努力して成長してどんどん変化していかないと、何者にもなれないまま終わってしまう。

 

変われ。

 

がんばって努力して、変わり続けろ、エルサ。

 

全身全霊で、一段上の階段を登るんだ。

 

そう自分を奮い立たせ、痺れる腕を動かし、つりそうな脚で必死で海水を蹴り飛ばす。

 

呼吸が苦しい。

体がどんどん冷たくなってきて、体力が海に奪われてゆく。

 

それでも少しずつ前に進むたび、海底が視界に入ってくるようになってきた。

 

陸地が、近いのだ。

 

ねばれ。

ねばれ、わたし!

 

掻いていた手が浅い海底に触れたのを感じると、わたしは海面から顔を上げてなんとか足をついた。

 

「ぷはぁっ……! はぁっ……はぁっ……はぁっ……けほっ……!」

 

4キロという長距離を泳ぎ切ったというのに、達成感なんてまるで感じない。

 

とにかく、気持ち悪い。

 

空っぽのはずの胃からなにかが込み上げてきていて、吐き気がする。

 

耳の奥から、ぐぁんぐぁんと聞いたことのない不快な音が聞こえてくる。

 

「キツい……」

 

そうつぶやいた瞬間、わたしの意思とは無関係に脚から力が抜けて、ぐらりと体が揺れた。

 

視界が回転し、膝が折れる。

 

でも砂浜が顔面にぶつかる直前に、熱っぽくて汗の匂いがする力強い何かが、わたしの身体を支えてくれたらしい。

 

「大丈夫か、エルサ!」

「……おとうさん。うん、大丈夫……」

 

脚に力は入らないが、意識が飛んでしまいそうな感じはしない。

少し休めば、立てるようにもなりそうだ。

 

「よくがんばった。泳ぎでは完全にミラ子を超えたぞ!」

「……トレーナー。それ、全然褒め言葉になってないよ」

 

わたしの指摘に、トレーナーはバツが悪そうに顔を背ける。

せめて『スタミナではミラ子を超えたぞ!』ぐらいは言ってほしかった。

 

「確かにな……いや、ともかくよくやった。今日のトレーニングはこれで終わりだ。少し休憩して立てるぐらい体力が回復したら、部屋に戻ってゆっくり休んでくれ」

 

そう言うとトレーナーは、もう一度わたしの目に視線を戻す。

そのまなざしには父親としての優しい想いと、本当によくやったと褒めてくれているトレーナーとしての想いが、入り混じっているようにわたしには感じられた。

 

「うん、そうさせてもらうよ。ところで体調がもとに戻ったら、今日がんばったご褒美にチョコパフェとドーナツとどら焼き食べていい?」

 

ホントはそんなもの食べられる気はまったくしなかったけど……あんな優しい目でまっすぐ見つめられてしまうと、ちょっとからかってみたくもなる。

 

「そうだな。明日も4キロ泳ぎたいなら、好きなものを好きなだけ食べていいぞ」

「うっ……それはいやだ……」

 

思わず涙目になったわたしを、トレーナーは近くにあった岩の影側へ背を預けるようにして座らせた。

陽があたっていない岩肌はひんやりしていて心地よく、吹いてくる暖かい浜風が、優しく髪としっぽを乾かしてゆく。

 

「少し待ってろ。スポーツドリンクを取ってくる」

 

そう言って駆け出すトレーナーの背中を見送ったあと、わたしは大きく息を吐き出しながら、ゆるゆると静かにまぶたを閉じた。

 

*

 

今まで出走したいくつかの重賞は『参加することに意義がある』くらいの、気楽な立場でエントリーしていた。

 

わたしもトレーナーも、『勝ち負けにはならないだろうけど、まあ入着ぐらいは夢見てもいいだろう』という気持ちで出走していたのである。

 

でも、今回の新潟ジャンプステークスは違う。

 

トレーナーは、明確に勝ちに行く姿勢でトレーニングを指示している。

何よりわたし自身が、今度のレースは必ず勝ちたい! という強い気持ちで練習に臨んでいた。

 

ウマ娘はなぜキツいキツいと文句を言いながら、時にはリアルにヘドを吐きながらでも辛いトレーニングを頑張るのか。

 

それは、レースに勝ちたいと心の底から願うから。

他のウマ娘よりも速く走りたいと、本能が命じるからだ。

 

遅まきながら、ようやくわたしにもその本能が芽生えたらしい。

こういった精神的な【ズブさ】も、お母さん譲りなのかもしれない。

 

そんなわたしの重賞初勝利を阻む最大の壁は、やはり去年の覇者のリーチヨハンナさんだろう。

 

実はリーチヨハンナさんは、彼女たちの世代から出た初めてのジャンプ重賞ウイナーだ。

 

彼女の世代は、障害レースファンや一部の関係者たちから【悲劇の世代】と呼ばれていた。

 

なにせリーチヨハンナさんたちの2つ上の世代には先日引退した天才的ジャンパーのクリスタルソナーさんがいたし、そして1つ上の世代にいるのが現役最強の超天才障害レースウマ娘、グランアンネリーゼさんである。

 

それにクリスタルソナーさんとグランアンネリーゼさんの世代は、まるで二人の王者がまわりを引っ張り上げるかのように、同世代のジャンパーの層も厚かった。

 

強豪ぞろいの上の世代から徹底的に頭を抑えつけられていたリーチヨハンナさんの世代のジャンパーからは、J・GⅠ勝ちウマ娘どころか、重賞を勝っている娘すら一人も出ていなかったのである。

 

そのような状況で、ようやく現れた待望のステークスウイナーが彼女なのだ。

 

簡単に牙城を引き渡してはもらえないだろう。

 

しかも彼女は新潟県出身のウマ娘で、当日のリーチヨハンナさんへの応援はかなり盛り上がるに違いない。

 

敵は強いし、レース場ではアウェーのような状態で戦うことになる。

それに、わたしは前投票で2番人気に押されていて、マークも厳しくなりそうだ。

 

きっと今まで経験したことのないぐらい、ハードな戦いになる。

 

そのことに不安がないと言えば嘘になるけど……重賞で戦っているようなウマ娘は、みんなこの厳しい戦況を乗り越えてきているのだ。

 

わたしに、重賞戦線で戦い続ける資格があるのか。

 

今回の挑戦は、それが問われる試金石になりそうだ。

 

5*

 

千葉にある合宿所から一旦東京駅に行き、新幹線に乗って3時間ほど揺られると新潟駅に到着する。

 

新潟駅から新潟レース場までは、タクシーで移動してだいたい20分、といったところだろうか。

 

そうして到着したレース場の控室に入って、わたしはようやく人心地ついた。

 

エアコンの冷気が、なんとありがたいことか。

 

「タクシーで来たのに汗がすごい。ムレる。気温はともかく、湿気がひどすぎる。新潟は東京より北にあるからちょっとは涼しいかと思ったけど、そんなことないね……」

 

顔面をとろけさせながら新潟の気候を愚痴るわたしに、レースのための出張で何度も来ているであろうトレーナーは苦笑する。

 

「前に来た時は10月の秋口だったからな。新潟の夏はフェーン現象のせいで日本海から湿った空気が流れ込むから、典型的な高温多湿になるんだ」

「ああ……なんか地理の授業でそんなこと習った気がする」

 

それを思い出したところで、新潟の夏の暑さがマシになるわけでもない。

わたしはカバンから汗ふきシートを取り出し、ベタついている額と首筋の汗をとりあえず拭った。

 

「そういや新潟ジャンプステークスがメインレースなのに5時前から始まるのも、暑さ対策のひとつなんだっけ?」

 

わたしがそんなことを聞くと、トレーナーはうむ、と小さくうなずいた。

 

「そうだな。昔は夏のメインも、いつもと同じ時間にやっていたんだがな。15年ぐらい前から暑熱対策の一環で、一番気温が高い3時台のレースは一時中断しようってことになったんだ。最近の夏の暑さは、舐めてかかると本当に命に関わるからな」

「いや、それは本当にそう」

 

トレーナーの見解に、わたしは2、3回首を縦に振って激しく同意した。

 

わたしたちウマ娘はアスリートだから体力もあるし、暑熱順化のトレーニングもそれなりにしている。

それに、いざレースとなったら暑いだの寒いだのは言っていられない。

 

とは言えウマ娘にも耐えられる限界があるし、来てくれるお客さんは普通の人たちだ。

 

来場者やわたしたちウマ娘の健康のことを考えると、URAの暑さ対策は正しいと思う。

 

「でもまぁ、多少時間をずらしたぐらいじゃ、体感的な暑さがマシになってる気はあんまりしないけどね……。ごめん、トレーナー。ちょっと着替えるよ」

「わかった」

 

トレーナーは短く返事すると、タオルと水を手に取って控室から一時退室する。

控室から一歩出れば、当然エアコンのご加護は得られない。

夏場は灼熱地獄、冬場は極寒地獄に放り出されることになるわけだ。

こういう時、男性トレーナーにはちょっと申し訳ないな、と思ってしまう。

 

せめて素早く着替えて、外にいる時間をできるだけ短くしてあげよう。

 

そう考えたわたしは、手早くカバンから体操服を取り出して、制服の裾に手をかけた。

 

*

 

新潟レース場のパドックは、夏の暑さだけではない熱気に包まれていた。

 

これからメインレースを戦うウマ娘たちの仕上がりをひと目見ようと、駆けつけた観戦者たちの熱い視線がパドックの気温を上昇させているかのようだ。

 

興奮に満ちた観客席からの視線をひときわ集めているのは、栗色の髪を長いポニーテイルにしているウマ娘だった。

 

前年の新潟ジャンプステークスの覇者であり、今日一番人気に推されているウマ娘。

リーチヨハンナさんがパドックの舞台に登壇すると、大きな拍手と歓声が上がった。

 

「リーチさん、がんばってください!」

「ハンナ! 越後人(えちごびと)らしい粘り強い走りを、今日も見せてくれ!」

「2番人気の東京モンに、負けてくれるなよ!」

 

地元の人のものだろうか。

東京レース場や京都レース場などではあまり感じることのない、独特の熱を持った応援が乱れ飛ぶ。

 

いや、今日2番人気のわたしは厳密に言うと千葉県民なんだけどね……。

 

そんな地元民の声援に応えるようにリーチヨハンナさんは大きく手を振り、形の良い胸をぐいっと張って絶好調をアピールする。

 

身体もしっかり絞れていて、短パンから伸びる白い脚には強靭な筋肉が走り抜けていた。

 

ディフェンディングチャンピオンの仕上がりはまさに完璧で、水を弾きそうな肌も、夏の陽を受けて金色に輝く栗毛も、見とれてしまうほどに美しい。

 

今日はグランアンネリーゼさんもアクサナデイジーさんもいないから、案外カンタンに初重賞制覇できちゃうかも……なんて甘い考えは、舞台上の彼女を見て吹き飛んでしまった。

 

力強い歩様で降壇するリーチヨハンナさんを横目で見ながら、舞台の階段に脚を掛ける。

 

深く息を吸い込みながら、わたしは一段一段踏みしめるように、階段を登った。

 

重賞でのパドックの舞台はもう4回めになるけど、何回登壇しても少し手が震えるし……お腹の底からこの時にしか味わえない高揚感が沸き上がってくる。

 

そんなわたしに、地元のエースほどのものじゃないけど、たくさんのファンが拍手を送ってくれていた。

 

心地よい拍手の音を聞きながら、足取りも軽やかに舞台の上を進む。

ステージの中央にやってきたわたしは、肩幅に脚を開いて腰に手を当て、鍛え上げた背筋をピンッと反らせた。

 

自分で言うのも何だけど、リーチヨハンナさんに負けず劣らず、わたしの体調も最高のコンディションだ。

 

最終追い切りでは自己ベストを更新することができたし、夏合宿中の厳しいトレーニングをこなしながらも、食欲は落ちなかった。

 

「エルサ、がんばって~!」

「障害レースを走るウマ娘らしい体型になってきたな。今日のエルサは好勝負が期待できそうだ」

 

わたしに期待を寄せるファンの声が、耳に届いてくる。

 

その声援を受けて、脚がブルッと震えた。

鍛え上げた二本の脚が、『早くレースを走りたい!』と叫んでいる。

 

今回で4度目になる、重賞への挑戦。

 

最初に挑んだ重賞は、シンガリ負けという大惨敗に終わった。

小倉ジャンプステークスでは、レジェンドに戦うことの意義を教わった。

前走では、年下の同期に完敗して悔し涙を流した。

 

でも、敗戦はわたしに何が足りてないのかを教えてくれた。

トレーナーと協力して、わたしは精一杯、その足りないものを埋めてきたつもりだ。

 

応援してくれるファンのために。

そしてこの先、わたしが上を目指して戦っていくためにも。

 

今日のレースは、負けられない。

 

そんな想いを胸に、わたしは観衆に手を振りながら、静かにステージから降壇した。

 

*

 

盛夏の空気の中で、新潟レース場のターフはひときわ碧くきらめいていた。

 

そんな芝を踏みしめながら、わたしはゆっくりとゲートの中に収まる。

 

しばらくして、鉄扉の隅に設置してある全員ゲートイン完了のランプが灯った。

それを合図にして、スタンディングスタートのポーズを取る。

 

きっかり3秒後。

乾いた音とともにゲートが開き、新潟に集ったジャンパー12人がスタートを切った。

 

いいスタートを切った3番の娘が、後ろをチラチラ確認しながら果敢にハナを切ってゆく。

そして、スタートしてからすぐに設置してある竹柵障害を軽く飛び越えた。

 

新潟レース場の障害レースは、すべてが竹柵の置き障害物だ。

コースも障害専門のものではなく、普段平地の芝レースに使っているコースにハードルを設置して障害競走を実施している。

障害を飛越する技術だけでなく、平地のターフを駆けるための純粋なスピードも求められる難しいコースだ。

 

そのことを意識しながら、わたしは4番手の位置で最初のハードルをクリアする。

 

「!?」

 

着地した際。

わたしの右側を走っていた娘と腕が接触してしまい、少し内ラチ側へと寄せられてしまった。

 

内ラチ沿いの位置取りは距離のロスは最小限で済むものの、コーナーリングが難しくなるし、内に包まれたままだとラストスパートが遅れてしまう危険性もある。

 

といっても、レースはまだ始まったばかり。

焦らずにレースの流れを見極めて、ベストポジションを探っていけばいい。

 

今は経済コースのポジションを確保できた、と考えよう。

 

わたしは先行集団のだいたい真ん中ぐらいに位置して、2つめの障害も問題なく飛び越えた。

 

ちらっと、後ろを振りってみる。

一番人気のリーチヨハンナさんはどうやら中団より後ろに控えたようだ。

 

2番めの障害を超えてからは、しばらく平地が続く。

一団は、外回りコースを目指して淡々と進んでいた。

 

それにしても、バ群がなかなか広がらない。

 

レース前の研究では、新潟ジャンプステークスは例年このあたりでバ群がバラけて、各ウマ娘がポジションを落ち着かせるはずなんだけど……。

 

レースは生き物なので毎年同じような展開になるわけではないのだが、事前の調査と違う流れというのは、どうにも気味が悪い。

 

でもそれはまわりも同じか。

 

そんなことを考えながら、固まっているわたしたち先行集団が3つめのハードルを次々とジャンプする。

その時先頭の娘が少し見えたのだが、どうもかなりのペースで飛ばしているようだ。

 

二番手との差が、もう10バ身近く開いている。

 

新潟ジャンプステークスは、外回りコースと内回りコースを約2周するという、3250Mの長丁場。

 

あんなペースで飛ばして、スタミナが持つのだろうか?

 

先頭の娘に引っ張られるように、二番手の娘が少しペースを上げた。

それにつられて、先行集団全体のテンポも上がったようだ。

 

ひょっとして、先頭の娘はほかに逃げるウマ娘がいないせいで大きくリードを取っているように見えているだけで、実は超スローペースで逃げているのか?

 

わたしの感覚では、そうは思わないのだけど……。

この流れについて行ったほうがいいのだろうか。

 

すぐ前を走っている娘たちも、少しスピードを上げた。

 

ウマ娘は、前にいるウマ娘を追いかけたい、追い抜かしたいという強い本能を持っている。

だが理性でそれをなだめ、うまくスタミナを配分していかないと、特に障害のような長距離レースでの勝利はおぼつかない。

 

わたしは本能と湧き出てくる疑念に『大丈夫。ペースはそんなに遅くないはず』と言い聞かせ、速度を上げた娘たちについていくことを自制した。

 

後ろを走っているリーチヨハンナさんも、ギアを変えている様子はない。

やっぱり、ペースはそれほど遅くなっていないのだ。

 

少し間が開いた先行集団を見ながら、外回りコースの第3コーナー、第4コーナーとカーブしてゆく。

 

第4コーナーを回ると、直線に置かれている3つの連続障害がわたしたちを出迎える。

 

短い間隔で置かれている竹柵障害は、歩幅をしっかり意識して、テンポよく飛越しなければならない。

そうじゃないと障害にスピードを殺されてしまったり、走っているリズムを大きく狂わされたりする。

 

最初の障害をしっかり目で捉えて、踏み切ってジャンプ!

 

竹柵をきれいに飛び越えて、左脚で着地。

 

よし!

いい感じで1つ目のハードルを超えることができた。

 

勢いをつけて踏み込んだ右脚で思い切りターフを蹴り、2つ目の障害へ突き進もうとした瞬間だ。

 

少し後ろから、がさっ!とかなり大きな音が聞こえてきた。

気になって視線を後ろにやると、どうやらリーチヨハンナさんが脚先で竹柵をかき分けてしまったようだった。

 

いや、しまった、という言い方は正しくない。

あれが彼女のジャンプなのだ。

 

動画でリーチヨハンナさんの飛越を拝見している限り、彼女のフォームは決してエレガントではない。

彼女は低い姿勢から、まるで生け垣や竹柵を蹴り倒すかのように脚を突き出してジャンプする。

 

すると当然障害物に脚がぶつかるわけだけど、それでも彼女のスピードはまったく落ちない。

そんなマネが誰にでもできるわけではなく、リーチヨハンナさんが卓越したパワーとキック力を持っているからこその強行突破だ。

 

一番人気のウマ娘の動向を気にしつつも、わたしは2つ目、3つ目の竹柵障害も同じ歩数、同じ高さでクリアしていく。

 

飛越はなかなかいい感じだ。

 

ただ、やっぱり今日のレースは少しペースが速いんじゃないかな、と考えながら3つ目のハードルを飛び越えた直後だった。

 

先頭を走っていた娘が、突如失速してズルズルと後退し始めた。

まだレースは中盤に入ったばかりなのに。

 

まさか故障? と少し焦ったけど、彼女はスピードを大きく落としたものの、立ち止まる気配はない。

脚に異常が発生したのならすぐに競走を中止するはずだから、単にスタミナが切れてしまっただけなんだとは思う。

 

彼女はどんどん順位を下げ続け、中団の少し後ろを走っていたわたしも彼女を追い抜いてしまう。

追い抜く時に彼女の顔が少し目に入ったが、顔面蒼白でもう脚をなんとか動かしているのが精一杯、という感じだった。

あの様子では、体力的に最後まで走り切ることすら難しいかもしれない。

 

あのウマ娘はシニア2年目で、障害レースもかなりの場数をこなしているはずだ。

 

そんな彼女が、なぜあんな無謀な作戦に出たのだろう?

 

意外な展開は、それだけでは終わらなかった。

 

先頭の娘の失速を見て、今度は3番手ぐらいを走っていたゼッケン7の娘が、急に加速してあっという間に先頭に躍り出る。

 

2番手の娘を追い抜いてからも彼女が減速する様子はなく、むしろどんどん後ろを突き放していく。

 

なんだ、あれ?

 

ハナを切った娘が、レース中盤にバテてしまうほどの速いペースでバ群を引っ張ったのだ。

この展開で、前にいる娘が有利になるほどのスローペースになっているわけがない。

 

それなのに7番の娘はまるで最初に逃げたウマ娘のあとを継いで、今までのハイペースをさらに加速させるかのようにスピードを上げ続けている。

 

あんなペースで走っては、さっきの娘の二の舞になるのは明らかなのに。

なぜ、あのようなことをするんだろう?

 

わたしは困惑を通り越して、もはや薄気味の悪ささえ感じていた。

 

この不自然なレース展開に首を傾げているのは、わたしだけではないらしい。

 

あまりに異様な展開に、スタンドがどよめいている。

 

顔を合わせて、『これ、絶対変だよね』のようなアイコンタクトを送っている娘たちもいる。

 

かと思えば、何事もないようにレースに集中している娘もいて……。

 

「…………」

 

この異常事態にもかかわらず、淡々と走り続けるウマ娘たちを見て、何かがわたしの直感に引っかかった。

 

レース直後、ハナを切ってものすごいスピードでバ群を引っ張り続けた娘。

彼女がバテたあと、まるでそのあとを継ぐように急に先頭に駆け出したウマ娘。

 

そんなおかしなレース展開に、まったく動じないウマ娘たち。

 

「!」

 

そのウマ娘たちのことを考えていると、ある共通点が浮かび上がった。

ひらめいた事実に、わたしは思わず目を見開く。

 

彼女たちは全員、シニア2年目の娘達じゃないか!

 

それに気づいてしまえば、一つの仮説にたどり着くのは簡単だった。

 

シニア2年目の連中は、結託して同期である一番人気のリーチヨハンナさんに有利な展開を意図的に作り出そうとしている……?

 

リーチヨハンナさんは、後ろから行くタイプのウマ娘だ。

となると当然、ペースは速くなってくれる方がいい。

 

だから同期の二人があんな無理をしてバ群を引っ張り、人為的にハイペースを作り出したんじゃないか。

 

今考えると、わたしがスタート直後に腕が接触したウマ娘もシニア2年目のウマ娘だった。

二番人気のわたしを内に追いやってハイペースに巻き込み、終盤はそのままラチ側に閉じ込めて脚を使わせないつもりだったんじゃないか。

 

現にわたしの前をまるで壁になるかのように並んで走っている3人は、やはりシニア2年目のウマ娘たちだ。

 

もちろんこの仮説は、あくまでわたしのうがった想像に過ぎない。

でも、そう考えるとこの異常な流れと不自然な前の壁に納得がいく。

 

チームでトレーニングを積むことが多い海外では、レース中にチームメイトが【協力】して特定のウマ娘に有利になるよう、レースを作ることも珍しくないという。

 

例えば今回のように、逃げバテるのを承知の上で強引にバ群を引っ張るウマ娘を【ラビット】と呼んだりするようだ。

 

それにしたって、ここまで露骨なことはやらないだろう。

 

一体、誰がこんなことを指示したのか。

普通に考えれば……。

 

しかし、奴らの姑息なマネに気づいたからと言って今のわたしができることは限られている。

 

まずは落ち着くこと。

そして、ペースを落とすことだ。

 

これ以上、彼女たちが作り出したハイペースの流れに乗っかっているわけにはいかない。

 

このことに気づけたのは、幸運だった。

 

わたしはギアを一段落とし、位置取りを中団から少し後ろにまで下げた。

となりには、何食わぬ顔で走っているリーチヨハンナさんの顔が見える。

 

思い切り睨みつけてやりたかったが、今それをしたって仕方ない。

湧いてくるそんな苛立ちをなんとか抑えつけながら、わたしは道中のハードルをクリアしていった。

 

わたしと併走するような形で走っているリーチヨハンナさんも、例の力強い低空飛越で障害物を次々と撃破してゆく。

 

彼女のジャンプは迫力満点だったし、平地を走るスピードもかなりのものを持っている。

レースも中盤を越えようとしているのに、呼吸もまったく乱れていない。

その整った呼吸のテンポからは、長い障害レースを走るための厳しいトレーニングに耐えてきたのがうかがえた。

 

彼女は才能があって努力もできる、素晴らしいウマ娘だ。

 

なにも同期全員を巻き込んで反則まがいの【チーム戦】を仕掛けなくても、彼女には十分に今日のレースを勝ち負けできる実力があるはずなのに……。

 

今日のレースは負けられない、年下のウマ娘にあっさりと牙城を引き渡すわけにはいかない、というリーチヨハンナさんの気持ちは理解できる。

 

それでも……ううん、それだからこそ【世代の最強ウマ娘】として、正々堂々とわたしの前に立ちふさがってほしかった。

 

*

 

第3コーナーを曲がってすぐ、わたしは一度スピードを落としてペースをさらに緩めた。

そうして一旦リーチヨハンナさんを先に行かせ、再度加速して今度は彼女の外側から並びかける。

 

これで最後の直線で内に包まれて脚が使えない、ということはないだろう。

 

第4コーナーを回って、残る障害はあと一つ。

レースもいよいよ、最終盤だ。

 

「ふぅっ……ふぅっ……」

 

息が、激しく乱れる。

全身から体験したことのない量の汗が吹き出てくる。

 

途中までハイペースに巻き込まれていたことに加え、道中腹ただしいことがあったせいで、いつもより心身の消耗が激しい。

 

しかし夏合宿で鍛え上げた心肺と両脚は、まだ余力を残していた。

 

ここからが本番だぞ、エルサ!

 

心のなかで自分を鼓舞し、最後の戦いに向けて気持ちを昂らせる。

 

隣を走る疑惑のディフェンディングチャンピオンは、わたしのことなどまったく気にした様子もなく、最後の障害もまるで蹴り飛ばすように突破していく。

 

「ふっ……!」

 

こちらも負けていられない。

わたしは彼女に見せつけるかのように、気合の入ったジャンプで竹柵障害を飛越してみせた。

 

さぁ、あとは最後の直線でのスピード比べだ。

 

ラストスパートに備えて、リーチヨハンナさんはギアを一つ温存していたのだろう。

 

彼女はハードルを超えてすぐに素晴らしい加速を見せ、ゴールに向かって突進する。

そのダッシュ力はここまで3000M以上の距離を走り、11のハードルを超えてきたものとはとても思えないほど、力強いものだった。

 

すごい。

なんてタフなウマ娘なんだ。

 

リーチヨハンナさんは、間違いなく当代を代表するトップジャンパーの一人だ。

それだけの実力があるのに、どうしてあんな策を弄するようなマネをしたんだろう。

 

そんな怒りと失望が入り混じった気持ちが、ふつふつと心の底から湧いてくる。

でも今は……。

 

「ふっ!」

 

わたしはそれを無理やり奥に押し込み、思い切りターフを蹴り込んでラストスパートを掛けた。

 

トップスピードに乗ったわたしとリーチヨハンナさんは、前を走っているウマ娘を外から次々に追い抜かしてゆく。

その時、わたしを内ラチ沿いに閉じ込めておくはずだった三人の顔が見えたけど……彼女たちがどんな表情をしていたかなんて、見たくもなかった。

 

残り200Mのハロン棒が見えてきた。

 

中盤までのハイペースに巻き込まれなかった分だけ余力があるのか、リーチヨハンナさんの脚色の方が、わたしのそれより少しばかり良い。

 

ハロン棒を通過した瞬間、身体半分、リーチヨハンナさんが前に出た。

 

「くっ……!」

 

こちらも必死に食い下がるが、なかなかその差を詰められない。

 

ちくしょう……!

よってたかって、自分たちの都合のいいように流れを作りやがって。

普通のレースをしてくれていれば、きっと互角以上に競り合えたはずなのに……!

 

こんなレース、もうやってられるか!

 

怒りと苛立ちが頂点に達しようとした瞬間だった。

ふと、心の何処かが冷静に囁いた。

 

違う、そうじゃない。

 

相手のホームグラウンドで戦うなんてことは、最初から分かっていたことじゃないか。

アウェーの競技場での不利なんて、どんな競技者でも経験することだ。

 

このぐらいの逆境を乗り切れないで、これから先どうやって重賞で戦っていくつもりなの、エルサ!

 

冷静さを取り戻したわたしは、不遇を喚く声を押し殺して自分を強く叱咤した。

 

それだけで、怒りが戦う気力に変わってゆく。

疲れ果てていたはずの脚に、力が戻ってきたのを感じる。

 

恨みつらみは、レースが終わったあとでいい!

 

「はあぁあぁっ!」

 

闘争心をむき出しにして、わたしはリーチヨハンナさんに食らいついていく。

半バ身ほどあった差が、少しずつ少しずつ縮まって……再び彼女の隣に並んだ。

 

その際、わたしの肘とリーチヨハンナさんの腕が接触した。

 

「!」

 

たらりと、冷たい汗が背中を伝う。

 

ここまで散々、露骨なことをやってきたんだ。

ひょっとして彼女はこれ幸いに、わたしを腕で弾き飛ばすのではないか。

 

そんな不安に全身が震え、思わず視線が彼女の方へ向いた。

 

だが、リーチヨハンナさんはまったく接触を気にしていないようだった。

一心不乱に、ただ前を見つめて走り続けている。

 

その目には、一片の曇りも見られない。

 

……この人が本当に、今日のような小細工を仕掛けてきたんだろうか?

 

「……っ!」

 

今、そんなことはどうでもいい。

 

自分の隣りにいるウマ娘を、競り潰す。

 

今はただ、それだけでいい!

 

勝負根性を見せて、今度はわたしが身体半分彼女の前に出る。

 

「……!」

 

これだけ自分に有利なレースを造らせておいて負けるわけにはいかない、という意地だろうか。

 

あちらも執念を見せて、再びわたしに並びかけてくる。

 

だが、わたしはそれを許さなかった。

 

前年度覇者の最後の抵抗を退けて、わたしは新潟ジャンプステークスのゴール板に一着で飛び込んだ。

 

その瞬間、スタンドからは大きな歓声が上がった。

 

「うおぉおぉっ! エルサだ! エルサが勝ったぞ!」

「エルサ! 初重賞制覇、おめでとう!!」

 

わたしを祝福してくれる声が、あちらこちらから聞こえてくる。

 

できることなら今この瞬間に喜びを爆発させて、応援してくれた人たちに笑顔で手を振ってあげたかった。

 

けど……わたしにはまず、確かめなければならないことがあった。

 

「待ってよ」

 

わたしは滴り落ちる汗を拭うのも後にして、無表情で連絡口へ向かおうとしていたリーチヨハンナさんを鋭い声で呼び止めた。

 

「……なんだい?」

 

初めて聞く彼女の声は思ったより低くて、まるで少年と話しているかのようだった。

 

「今日のレース、一体どういうつもりだったの? 全部あなたの指示だったわけ? シニア2年目のウマ娘全員とあれだけ露骨なことをしておいて、『何も知らなかった』なんてことはないでしょ」

 

わたしの詰問に、彼女は何も答えることなく再び歩き始めた。

 

「どうして何も言えないの!? それがもうアンタの答えじゃない!」

 

その態度にしっぽが根本から震え、耳が思い切り引き絞られる。

わたしが苦しいレースを強いられたから、という理由だけで怒ってるわけじゃない。

 

レースは本来、ウマ娘一人ひとりが全力で勝利を目指して走る競技であるはずだ。

そこを意図的に操作しようとしたことに対して、怒っているのだ。

 

今日の所業は、レースとレースに人生を懸けて戦っているウマ娘たちに対する冒涜ではないか。

 

まだ話は終わってない!

 

無理にでもこちらを振り向かせてやる! と駆け出した瞬間、誰かに腕を掴まれた。

 

「待って、エルサミラクルさん!」

「あの娘は……ハンナは悪くないの!」

 

汗だくの、泣きそうな顔でわたしの腕を掴んでいたのは、ハナを切っていったあのウマ娘だった。

その娘の少し後ろで、途中から彼女の代わりに明らかなオーバーペースでバ群を引っ張り始めた7番のウマ娘が、同期の出世頭を擁護する。

 

そんな二人の声を聞いて、リーチヨハンナも一旦脚を止めたようだ。

 

「……話を聞かせてくれますか」

 

容疑者は立ち止まったし、相手は一応敬意を払うべき先輩方だ。

 

あいつが悪くなかったら一体誰が悪者なんだよ! と指さして怒鳴りつけたい気持ちを必死に抑え、わたしはとりあえず引き絞った耳を彼女たちに傾けた。

 

「知ってると思うけど……ハンナって、私達の世代で初めて重賞を勝ってくれたウマ娘なんだ」

「そうですね」

 

わたしは苛立ちを隠そうともせず、ぶっきらぼうにそれだけ答える。

 

「ハンナはすごくいい娘でね。ファンやマスコミに『あの世代のウマ娘たちはもう、重賞を勝つことができない』なんて言われてたときも、『いいたい奴らには言わせておけばいいのさ。いつか結果で見返してやればいい』って、いつも私達を励ましてくれていたの」

「私達の実力じゃ、ハンナの練習相手にもなれなくて。そんなハンナに、なにか私達にできることはないかなってすごく悩んで……」

 

二人はうつむき加減で、わたしに対してほとんど理由になってない釈明をしてくれた。

 

なるほど。

彼女たちの言い分を聞いて、今日のレースの真相がなんとなく分かってきた。

 

「で? 悩んだあげくリーチヨハンナさんに内緒で、同期の出世頭を勝たせるために、あなた達は結託して今日のようなマネをしたってわけですね」

 

刺々しい言い方になってしまったのは、仕方なかったと思う。

明確なルール違反があったわけじゃないと言っても、彼女たちにやり方はあまりにウマ娘シップに反するものだった。

 

わたしの強い口調に、二人は黙り込んでしまう。

先輩相手に言い過ぎたことは分かっていたけれど、とても何かをフォローする気にはなれない。

 

「エルサミラクルさん。本当にすまなかった」

 

今まで黙ってわたしたちのやり取りを聞いていたリーチヨハンナさんは、わたしに向かって深く頭を下げた。

 

「…………」

 

黙っているわたしに頭を下げたまま、言葉を続ける。

 

「ボクにもっと才能があれば……同期のみんなから信頼されるぐらいボクが強かったのなら、みんなも今回のようなことはしなかったはずなんだ。許してくれ、とは言わない。でも、あまりボクの同期をあまり責めないでやってほしい。今日のレースの責任は、全部ボクが取るから」

「責任って、一体どうやって責任を取るつもりなんですか?」

 

低い声で聞くわたしに、彼女は顔を上げて真摯な表情でこちらを見据えた。

 

「今日のようなレースをしておいて、レースパトロールの人たちが黙っているわけがない。おそらく、事情聴取が行われるはずだ。その時、展開を指示したのは自分だとボクが名乗り出る。それをボクの誠意として受け取ってくれないだろうか?」

「! 待ってよ、ハンナ! そんなことしたらもう、あなたはレースに出れなくなってしまう!」

「わ、私達が勝手にやったことなのに、ハンナが罪をかぶることないよ!」

 

自首しようとしているリーチヨハンナさんに、A級戦犯のふたりが慌てて止めにかかる。

 

「キミたちにも、すまないことをした。やっとこの世代から出たステークスウイナーが非才なボクだったばかりに、こんなマネをさせてしまったんだと思う」

 

今日の彼女たちの行動は、リーチヨハンナさんにとってありがた迷惑でしかなかっただろう。

それでもリーチヨハンナさんは、苦笑を浮かべながら同期たちに謝った。

……一体彼女は、どんな気持ちで二人に謝罪したのだろう。

 

「違う! ハンナの実力を疑ったわけじゃないの。あなたがどれだけ真剣にレースに向き合ってきたか、ストイックにトレーニングに取り組んでいたか。私達はみんな知ってる!」

「ただ、今日のエルサミラクルさんの完璧な仕上がりを見て、ひょっとしたらハンナを負かしてしまうかもって思ったら、いても立ってもいられなくなって……」

 

ふたりの涙ながらの弁明を、わたしは眉をひそめて聞いていた。

 

それって結局、リーチヨハンナさんの力を信じきれていなかったってことじゃないの?

 

よっぽどそう口を挟んでやろうかと思ったけど、言っても仕方ないので口をへの字に曲げるだけにしておいた。

 

同期の弁解を聞いたリーチヨハンナさんは、なんとも言えない複雑な表情を浮かべて口を結んでいる。

それから彼女は何度か強くまばたきして、こちらを振り返った。

 

「エルサミラクルさん。キミの初重賞制覇にケチをつけるようなレースにしてしまって、本当に申し訳なかった。今日のようなレースを勝ちきれるキミの実力は間違いなく本物だ。キミならひょっとしたら、いつかあのグランアンネリーゼさんにも勝てるかもしれない」

 

真剣な表情でそんなことを言うリーチヨハンナさんに、わたしはなんて返せばよかったんだろう。

 

「初重賞優勝、本当におめでとう。じゃあ」

 

彼女はもう一度頭を下げると、連絡口の方へ脚を向けた。

同期に『待って! 私達が行くから、ハンナが行くことない!』と言われても、リーチヨハンナさんは脚を止めようとしない。

 

「ちょっと待ってください」

 

おそらくはレースパトロール室へ自首するつもりだったリーチヨハンナさんを、わたしは呼び止める。

わたしにはどうしても、彼女に伝えなければならないことがあった。

 

「……謝罪には、後日改めてもう一度伺わせてもらうよ。キミに余計な負担を強いてしまったことを、キミのトレーナーにもお詫びしたい。キミは勝者として、早くウイニングライブの会場に行ったほうがいい」

「いやその。わたしの方こそ、すみませんでした。確実な証拠があるわけでもないのに、あなたを疑ってしまって……」

 

結果的に、わたしは無罪の人を疑って吊し上げてしまった。

確かにわたしは、今日のレースの【被害者】なのかもしれない。

でもそのことをうやむやにして謝罪しないということは、わたしの罪悪感が許さなかった。

 

誠意を込めて謝るわたしに、リーチヨハンナさんは小さく苦笑する。

 

「あの状況じゃ、キミがボクを疑うのも仕方ないよ。それにさっきも言ったけど、今回のことはボクの非力が原因で起こってしまったことだ。世代を代表するウマ娘として、その責任は取りたいと思う」

 

躊躇のない彼女の言葉には、世代の第一人者であろうとする矜持があった。

それでも今日の姑息な作戦の罪を、リーチヨハンナさんが償う必要はまったくないようにわたしには思えた。

 

だからわたしは、ちょっぴり本音を混ぜた建前を用意することにする。

 

「準センターのいないウイニングライブなんて、盛り上がらないに決まってるじゃないですか。その事情聴取にはわたしも同行して『レースに大きな影響はなかった』って証言しますから、リーチヨハンナさんたちもライブの準備してきてください」

 

わたしの申し出に、3人は大きく目を見開いた。

 

今日の彼女たちの行為に、思うところがないわけじゃない。

でも彼女たちの置かれた状況や、やり方はともかく同期を思いやるやりとりを見ていると、なんだか怒りも恨みも削がれてしまった。

 

それに、こちらも冤罪を吹きかけてしまったわけだし……。

 

我ながらちょっと甘いな~、チョロいなーと思わないでもないけど、チョロさはお母さん譲りだから仕方ない。

 

「エルサミラクルさん」

「レースが終わればノーサイド。それがトレセン学園の伝統じゃないですか」

 

ちょっとカッコつけてそういうわたしに、リーチヨハンナさんは強気に微笑んだ。

 

「……そうだね。よし。最高のライブになるよう、同期たちに檄を飛ばしてくるとしよう」

 

そう言って彼女は、遠巻きにわたしたちのやり取りを見ていたシニア2年めの人たちの輪の中に近づいていく。

 

「みんな、聞いていたね? ボクたちが仕掛けた小賢しい策略にも屈せず、素晴らしいレースを見せた新しいステークスウイナーのために最高のライブをするよ!」

 

シニア2年めの人たちは、本当に連帯感が強いのだろう。

リーチヨハンナさんの掛け声に、「エルサミラクルさん、本当にごめんね」「オッケ!」「任せておいてよ、バックダンサーは経験豊富だし」と、謝罪に加えてライブに向けて気合の入ったものや、ちょっとしたブラックジョークが混じったものなど、次々と返ってくる。

 

そんな彼女たちの様子を、わたしは少し羨ましいような気持ちで見つめていた。

 

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