7月、8月と2ヶ月間お世話になった合宿所から数時間バスに揺られて、わたしたちはトレセン学園へ帰ってきた。
充実した夏を過ごしたウマ娘たちに混じって、わたしもバスから降りる。
到着した正門前から時計台を見上げると、時刻はもう午後3時を指していた。
ここを留守にしていたのはたった2ヶ月ほどだというのに、戻って来るとなんだか妙に懐かしい。
それだけ濃密な夏合宿だった、ということなんだろう。
*
「ただいま~」
「おかえりなさい。エルサ先輩」
栗東寮にある自分の部屋に戻ると、ルームメイトのキョウコスピアが笑顔で出迎えてくれた。
高等部1年生でジュニア級の彼女は夏合宿がないので、お盆に休暇を取った日以外は、普通に学園でトレーニングに励んでいたはずだ。
「いやぁ、それにしてもホントに疲れた。シニア級の年寄りが、合宿なんかに参加するもんじゃないねぇ……」
わたしの冗談に、キョウコはあきれたようなため息をついた。
「なに言ってるんですか。シニアの一年目って、ウマ娘が一番強くなる時期って言われてますよね。エルサ先輩のお母様だって、シニア1年目に天皇賞と宝塚記念勝っていらっしゃいますし。先輩も今からプールトレーニング1キロ行ってくる! ぐらいの気概は見せてくださいよ」
うん。
この遠慮のないツッコミが、キョウコスピアという後輩ウマ娘なんだよなぁ。
「なかなか手厳しいこと言ってくれるねぇ」
「空き缶でプールに追い立てないだけ、優しい後輩だと思いませんか?」
キョウコは優しげな笑顔を浮かべながら、恐ろしいことをサラリと言う。
「先輩ウマ娘をカンカンしてプールに追い落とす後輩ウマ娘なんて、いてたまるかっ!」
そんな後輩がルームメイトだなんて、とてもじゃないが恐ろしくて一緒の部屋で生活していられないじゃないか。
「まぁ、冗談はこの辺にしておいて」
……冗談なのは、わかっていましたけどね。
言っていい冗談と悪い冗談があるだろ、と思わないでもなかったけど、ここは先輩の心の広さを見せつけて受け流してあげることにする。
「改めて新潟ジャンプステークス優勝、おめでとうございます」
そう言ってキョウコは折り目正しくお辞儀をして、祝意を表してくれた。
「うん、ありがとう」
キョウコからは優勝したその日のうちにLANEで祝辞をもらっていたが、やはり直接顔を見て言われると、嬉しさもひとしおだ。
「それにしても凄まじいレースでしたね。ウマ娘も人間ですから、『これ共闘してるよね?』みたいなレースは稀に見かけますけど、あそこまでロコツなラビット戦法は見たことありませんでしたよ」
「……そうだね」
シニア二年目の人たちが行った、限りなく不正に近い行為には今思い起こしても怒りを覚える。
けどちゃんと謝ってもらったし、彼女たちの状況や心情を考えると、そのことをもう責める気にはなれなかった。
「あの意図的なハイペースにエルサ先輩が巻き込まれたのを見た時、これ、かなり苦しくなったなって思ってたんです。位置取りもそうでしたし、ああいう色んな感情が渦巻いている勝負の中で平常心を保つのって、すごく難しいでしょうから」
キョウコはレース経験こそないものの、将棋という世界で幼い頃から勝敗を競ってきている。
彼女にも難しい感情が渦巻いている中での勝負、という経験がきっと一度ならずあったんだろう。
「それでも先輩は冷静に現実と向き合って状況を分析して、最善手を見つけて見事に初重賞優勝をしてみせた。素直にすごいなって、思いましたよ」
「そうかなぁ」
わたしはそっけなく答えると、椅子の上にカバンを置いてガサガサする。
こうしてキョウコに買ってきたお土産を探すふりでもしてないと、鋭い観察眼を持つ後輩にニヤけ顔を見られてしまいそうだったから。
「そうですよ。エルサ先輩って、ただのおもしれー先輩じゃないなって見直しました」
……こいつ。
今までわたしのこと、そんなふうに思っていたのかよ。
もうお土産渡すの、やめようかな。
オープンマインドな環境で育ったのか、もともとの性格のせいなのかは分からないけど、どうもキョウコはいらない一言が多い。
それでいてキョウコの言葉には悪気や悪意を一欠片も感じさせないので、さらにタチが悪かったりするのだ。
わたしが怒ったら、なんだかこちらが『細かいことで怒る器の小さいやつ』みたいな空気になりそうなんだよね。
「……はい、これ。おもしれー先輩からの新潟土産だよ」
ちょっとモヤッとしたものを抱えながら、わたしは皮肉めいた返しを含めて新潟銘菓『万代太鼓』を手渡した。
「あっ、これは気を使わせてしまってすみません。お菓子ですか、これ?」
こちらの皮肉にまったく悪びれた様子もなく、キョウコはニコニコ顔でお土産を受け取る。
こういうところが案外憎めなかったりするんだけど、そんなことを伝えようものならさらに調子に乗りそうだったので、わたしはただ頷くだけにしておいた。
「うん。年輪状に焼き上げたソフトクッキー生地の中に、クリームを入れて和太鼓を表現したお菓子だそうだよ」
「おお~っ、なんだか聞いてるだけで美味しそうですね! さっそく、二人でいただきましょうか。私、談話室でお茶淹れてきますね」
後輩にお茶汲みみたいなマネさせるのもなぁとも思ったけど、これぐらいの気遣いには甘えておくとしますか。
「じゃあ、お願いしようかな」
「はい。ところでエルサ先輩はコーヒーと紅茶、どっちがお好みですか?」
……口は悪いけどけっこう気の利くところがあるのも、この娘を憎めない理由のひとつなんだろうな。
「どっちも好きだけど、今日は紅茶の気分かな。砂糖とミルク多めで」
「了解です。そうだ、エルサ先輩が良ければ、将棋でも指しながらおやつタイムを楽しみませんか?」
「それは別にいいんだけど」
キョウコの提案に首肯しながら、彼女が机の上に置いたお菓子を指さした。
「知ってるかもだけど、寮の部屋での間食って基本禁止されてるんだよ。部屋でおやつを食べるなら、寮長に許可を取らないと……」
ちなみに談話室での間食は、消灯前までならオーケーだ。
「ああ、それなら心配無用ですよ」
わたしの注意に、なぜかキョウコはにっこり微笑む。
「寮長……シャノン先輩とは結構仲良くしてもらってるんで、私が言えばすぐにオッケーもらえるはずですよ」
「えっ。そうなの」
正直、ちょっと驚いた。
栗東寮の現寮長はアドマイヤシャノンさんと言って、あのアドマイヤグルーヴさんの娘だ。
なによりも厳格にルールを重んじる彼女は、寮生たちから『氷の寮長』とか『ジャッジメントAI』とか影で言われていたりする(前者はともかく、後者はヒドいと思う)。
普段はそれぐらい厳しい寮長なんだけど、そんな彼女といつの間に仲良くなったのだろうか。
「はい。少し前にシャノン先輩が、もう一人の先輩と将棋トレーニングしているのを拝見したんですよ。その時、私がつい口を挟んでしまいまいまして」
「……シロウトさんの将棋に、プロ目指してるキョウコが口を出すのは大人げないと思うよ。まさか対局中に口出ししたんじゃないでしょうね」
キョウコが先輩ふたりの将棋を見て、堂々とあれこれ意見しているシーンが容易に想像できてしまい、わたしは眉をひそめてしまった。
わたしたちの将棋はしょせん、レーストレーニングの一環である。
プロは言うに及ばず、プロ志望やハイアマチュアの人たちから見れば、ただのヘボ将棋でしかないのだから。
「いやいや、さすがにそんなことはしていません。ただ、負けたシャノン先輩が感想戦で『どこが悪かったのかしら……』と首を傾げていらっしゃったので、『49手目の銀上がりが敗着ですよ。あまりの形の悪さに、見た瞬間吐き気がしました』って指摘しまして」
「……吐き気って。そんなこと言って、よくぶん殴られなかったね」
言った相手が、冷静沈着で知られるアドマイヤシャノンさんだから良かったものの。
もし相手がちょっと気性の荒いウマ娘だったら、殴るどころか蹴られていても文句は言えない言い草だと思う。
「そうは言いますけどね、エルサ先輩。そこに指が行くぐらいなら、一手パスのほうがはるかにマシだって手だったんですから」
そう言ってキョウコは、眉間に深いシワを寄せる。
わたしはその盤面を見てないからなんとも言えなけど、まぁキョウコほどの指し手が言うなら、そうなんだろう。
「そうなんだ。でもどうやって、そこから仲良くなったの?」
それ以来寮長に目をつけられて寮内での肩身が狭くなった、とかなら分かるんだけど、一体どういう展開になれば親しくなんてなれるのか、まったくの謎である。
「あ、その時ですね。シャノン先輩から『そこまで言うなら、あなたはさぞかし強いんでしょうね。そこに座りなさい』って言われて、対局することになりまして」
「……で、平手でボコボコにしたってわけね」
キョウコと初めて対局した時、文字通り草も生えない局面にされて負かされたのを思い出す。
「まぁ平手で私が手抜きできないのは、エルサ先輩もご存じのとおりでして。でも、シャノン先輩もさすがに一廉の
ウマ娘という人種には、走りを極めて自分の人生を切り開いていっていることに、自信と誇りを持っている者も多い。
そういうウマ娘たちは自分たちと同じように、一つの芸を極めんとしている人たちには自然と敬意を払うものなのだ。
「それは良かったと思うけど。トレセン学園に所属している先輩がみんなシャノンさんみたいな人ってわけじゃないから、尖った物言いもほどほどにね」
「わかってますよ。私は私を受け入れてくれそうな人にしか本音を話しませんし、素の自分を出したりしません。で、私は結構そのへんの人を見る目には自信があるんですよ。じゃないと、将棋なんてやってられませんから」
そう言ってキョウコは意外に器用にウインクを飛ばすと、「パリのみやこ~ 雨に煙り キミの脚も~ 届かないよ」とよくわからない歌を歌いながら、お茶を淹れるために部屋から出ていこうとする。
でもなにか思いついたらしく、開けた扉のノブに手を掛けたまま、こちらを振り返った。
「そうだ。シャノン先輩にこのお菓子、一つ持っていってあげてもいいですか?」
「そりゃ構わないけど。あの人、甘いものなんて食べるかな……」
シャノンさんが食堂以外でなにかを食べているのって見たことなかったし、飲んでいるものもたいていはお茶か水、たまにブラックコーヒーを手にしているのを見かける程度だ。
「シャノン先輩、ああ見えて実は甘いもの好きなんですよ。この前、たまに学園に来ている移動クレープの店でごちそうしてもらいましたし」
「……ほんとに可愛がってもらっているんだね」
いつも難しい顔をしていて、ルールを守らない寮生に厳しく注意しているシャノンさんの姿しか知らないわたしには、彼女が誰かと一緒に甘味を楽しんでいる様子がどうにも想像できなかった。
「はい。シャノン先輩はアイスドール系のビジュアルと平坦な口調のせいか、文字通り敬遠されることも多いみたいですけど、話してみれば裏表のない、率直な人柄で付き合いやすい人ですよ」
「そうなんだ」
笑顔で仲のいい先輩の内面を語るキョウコに、わたしは無難な返事をしたけれど。
そういう性格の人のことを付き合いやすい、と言えるこの娘はきっとコミュニケーション能力が高いんだろうな。
ふつーの人は感情が読みにくい人とはやっぱり、積極的には付き合おうとは思わないものだから。
「食事についてはシャノン先輩は体重のコントロールが難しいタイプみたいで、普段は結構厳しくカロリーと糖質を制限しているみたいですね」
「ああ。それであんまりおやつ食べてるのを見ないんだ」
そんなこと、わたしはちっとも知らなかった。
というより寮長に苦手意識のあったわたしは、彼女がウマ娘にありがちなそんな悩みを抱えていることすら、思いもしなかった。
「でもさ、シャノンさんがそういう体質って分かってるなら、甘いものなんて持っていかないほうが良くない?」
わたしの余計な心配を聞いても、キョウコは苦笑しながらひらひらと手を振るだけだ。
「節制している時期なら、置いといてまた食べれる時に食べてくれますよ。それに、いらなかったらいらないって普通に言ってくれるでしょうし」
「それはそうかもしれないけど……」
こちらは親切のつもりでも向こうにとっては迷惑かも、と考えてしまうと普通の人はなかなか行動に移せないもんなんだけど、キョウコはあまりそういうことは気にしないらしい。
「じゃあ1個、持っていってあげますね~。あ、そうだ。シャノン先輩、ああ見えて結構人と話すのは嫌いじゃないほうなんで、機会があればお話してみてください。きっとエルサ先輩とも、仲良くできると思いますよ」
そう言ってキョウコは「凱旋門をくぐりぬけて 天国極楽厄落とし きっと最後は大団円 拍手の合間に~」と、さっきの続きのような歌を歌いながら、部屋を出ていった。
う~ん……。
まぁ確かに、見た目の印象だけで人の好き苦手を決めつけるのは良くないのかもしれない。
今度『同室のキョウコが世話になってるみたいで』みたいな口実で、声かけてみようかな。
同じ寮で生活していて……同じトゥインクルシリーズに青春を懸けている仲間の人となりを知るということは、決して悪いことではないのだから。
*
この日、わたしは初めてキョウコに二枚落ちで勝つことができた。
合宿中、暇を見つけて将棋の勉強をしていた甲斐があったというものだ。
「……腕を上げたものだ」
詰まされた自分の玉を見て、キョウコは昔のゲームに出てきた悪役のようなセリフを吐いた。
「クジンシーか、あんたは」
「別に私は命を吸い取ったりしませんがね。いや、エルサ先輩。冗談はともかく、ホント強くなりましたよ。私の揺さぶりにも冷静に対処してましたし、自分がミスしたときもそれ以上傷口を広げないよう、暴発しないでしっかりリカバリーできてました。
そう言ってキョウコは肩をすくめる。
おどけたジェスチャーの中にもわたしの努力を認めてくれている雰囲気を感じられて、ちょっと胸を張りたくなった。
「キョウコにそう言ってもらえたら、合宿所で消灯後にコツコツ詰将棋解いてた甲斐があるよ」
「ああ、アプリ開いてついやっちゃいますよね。中学の修学旅行のとき朝までそれやって、そのせいで眠たくてどこ回ったか全然記憶にないんですよ」
「そこはさすがに修学旅行を楽しむべきだったでは……」
わたしのツッコミにも、彼女は軽く笑うだけだった。
「もともと、そんなに行きたかったわけじゃないんですよ。そんな時間があれば将棋の勉強か、トレーニングに時間を使いたかったですし。最初行かないって私も言ってたんですけど、親がどうしても行けってうるさいのでしぶしぶ行ったって感じでして」
なるほどねぇ。
こういう学校行事嫌いは、どこのクラスにも一人はいるもんだ。
「でも、行ってみたら案外楽しかったんじゃない?」
「どうでしょう? 旅行中も頭ん中でずっと詰将棋解いてたので、誰と何してたかとかはほとんど覚えてないんですよ。京都と奈良に行ったのはさすがに覚えているんですけど。あ、そうだ。京都レース場に行ったのを思い出しました。三冠ウマ娘ロードで何枚か写真を撮った記憶があります」
「そう……。ウマ娘らしい思い出、って言っちゃそうなんだろうけど」
寝る前の枕投げとか恋バナとか、お土産なに買うか悩んだとか、そういった青春らしい思い出はなかったのだろうか。
でも夢を本気で追いかけている人というのは、こういうもんなのかもしれない。
トレセン学園に通っているウマ娘の中にも、自分が速くなること以外はなんにも興味がないって娘がたまにいる。
「旅費出してもらった両親には申し訳ないんですけど、そんなわけで古都へ行った修学旅行のことはあんまり記憶に残ってないんですよ。まぁ、過去のことはともかく」
駒を片付けながら、キョウコはめったに見せない真剣な表情を浮かべた。
「私も来月にはいよいよ、京都でメイクデビューを戦います。今度はいい思い出にできるよう、がんばらないといけませんね」
「そうだね。メイクデビューを戦えるのは一生に一度だから、悔いのないようがんばってよ」
「はい、もちろんそのつもりです。ところでエルサ先輩。京都レース場で走るにあたって、なにか気をつけたほうがいいこととかあります?」
「ん? そうだね……」
キョウコがこの寮にやってきてから色んな話をしたけれど、レースの話をするのはこれが初めてかもしれない。
「キョウコって、京都レース場のどの距離でデビューするの?」
「私はトレーナーから短距離からマイルに向いてるって言われているので、一応マイル戦でデビューする予定ですよ」
ふ~む。
京都のセンロクか。
「それなら京都の内回りコースを走ることになるんだね。となると、最後の直線が短いからスタートからゴールまで緻密な立ち回りが要求されるよ。あと、外回りのときほどの影響はないけど、やっぱり淀の坂はキーポイントになると思う。京都の最後の直線はフラットだから、ここの下り坂で勢いをつけておけるかが勝敗を分けることも多いんだ」
「すみません、ちょっと待ってください。メモ取りますので」
わたしの講釈に大きな耳を傾けながら、キョウコは机の中にあった手帳を取り出してメモを書き込み始めた。
「なるほど。レース中の思考戦には自信があるので、性格的にも距離適性的にも京都の内回りコースは私に向いているかもしれません。他に気をつけることってありますか?」
「あっ、そうだ。あとメイクデビューには、靴擦れ防止のクリームを持ってっといたほうがいいよ。もちろんトレーナーも言ってくれると思うし、メイクデビュー前にレース用シューズはあるていど履き慣らしておくとは思うんだけど、デビュー戦って自分が想像している以上に脚を酷使するからね。慣れたと思っていたシューズを履いていても、レース後に靴擦れを起こしてしまうことがよくあるんだよ」
幸いわたしはこのことをデビュー戦前にトレーナーから聞いていたから、そんな目にあわずに済んだ。
だけど担当してくれているトレーナーの経験が浅かったり、そんなことは当然だと考えているトレーナーだと言わない人も結構いたりする。
「それは初耳ですね。有益な情報、ありがとうございます。そうだ。今もうポチっておきますね」
キョウコはスマホを取り出すと、何度か画面を細い指でスワイプさせた。
おそらくウマゾンで靴擦れ防止クリームを購入したのだろう。
……こうして素直にアドバイスを実行してもらえると、わたしとしてもちょっと嬉しい。
「他に何か、気をつけておくことはありますか?」
「そうだねぇ。あとは……」
熱心にアドバイスを求めてくる後輩に、わたしはレース前の食事のことやゲートに入ったあとの気持ちの整え方など、わたしの知っていることを全部伝えてあげたのだった。
*
学園に戻ってきた週の、土曜の昼下がり。
年末の中山大障害へ続く前哨戦の第一弾、J・GⅢ阪神ジャンプステークスをわたしはトレーナー室のテレビで観戦していた。
3330メートルのハードルサバイバルを生き残ったウマ娘たちが、第4コーナーを回る。
レースは佳境を迎えていた。
『さぁ阪神ジャンプステークスもいよいよ大詰め。最後の障害を踏み切って、一番人気のアクサナデイジーが先頭でジャンプ!』
『しかし独走は許さないとばかりに、外からリーチヨハンナもやってきている!』
『先頭はわずかにアクサナデイジー! しかしリーチヨハンナも食い下がる! 逃げるアクサナデイジー! 追い詰めるリーチヨハンナ!』
『後続ははるか後ろ! 完全に前の二人の争いとなった!』
『今、ふたりが並ぶようにしてゴールイン!』
『わずかに外、リーチヨハンナが体勢有利か!?』
白熱のレースにふさわしい気迫のこもった実況を聞きながら、わたしはトレーナーの方を向いた。
「実況のとおり、ちょっとリーチヨハンナさんが先着してるかな?」
「おそらくな」
トレーナーが軽くうなずく。
ほぼ同時にゴールしたリーチヨハンナさんとアクサナデイジーさんは、どちらも祈るような表情で電光掲示板を見つめている。
待っていたのは、数分ぐらいだっただろうか。
いつものように何の前触れもなく、着順と確定のランプが無機質に灯る。
阪神 8R 確定
Ⅰ 12
Ⅱ 7 アタマ
Ⅲ 9 大差
Ⅳ 4 3
Ⅴ 10 クビ
そのとき、テレビのスピーカーが壊れたのか、と思ってしまうほどの大歓声がスタンドから上がった。
手を天空に高々と突き上げたのは12番のウマ娘 ――リーチヨハンナさん―― だった。
その勝者の様子とは対照的に……アクサナデイジーさんが膝から崩れ落ちてターフの上にうずくまってしまったのを、カメラは冷徹に捉えていた。
鮮明に映し出される
ウマ娘なら、誰もが否が応でも明日は我が身、と思ってしまうから。
『阪神ジャンプステークス、今順位が確定しました。勝ったのはリーチヨハンナ、リーチヨハンナです! 堂々たるレースっぷりで年下の強豪を退け、確かな実力を見せつけました! もう悲劇の世代なんて言わせない! 打倒グランアンネリーゼの一番手はこの私だ!』
名勝負の余韻を伝える実況の声を聞き終えてから、トレーナーはテレビの電源を切った。
「強かったな。リーチヨハンナにとって有利でも不利でもない展開で、強敵相手にきちっと勝ちきった。当たり前のように見えるが、距離の長い障害レースでのああいう勝ち方は本当の地力がないとできないもんだ」
トレーナーの見解に、わたしは「そうだね」と相槌を打つ。
少し声のトーンが下がってしまったのは、仕方がなかったと思う。
「リーチヨハンナさんの今日のレースっぷりを見てると、わたしが新潟ジャンプステークスで勝てたのはたまたまだったのかも、ってちょっと自信なくしそうだよ……」
「そこまで思い詰める必要はないが、彼女が強い勝ち方を見せたのは確かだな」
そう言うとトレーナーは、タブレットを手にとって立ち上がった。
「だがエルサ。ライバルのいいレースを見て自信をなくしている場合じゃないぞ。お前は1か月後の東京ハイジャンプで、障害レース界の絶対王者に挑むんだからな」
「うん、わかってる。人のレースを見て、不安になってる場合じゃないよね」
そうだ。
今のわたしにはトップに君臨するグランアンネリーゼさんを倒してJ・GⅠを勝利するという、これまでのレース人生のすべてを懸けた目標がある。
「うむ。それに不安や心配という気持ちは捉え方次第で、トレーニングへのモチベーションにすることもできるはずだ」
トレーナーの言うとおりだった。
自分の実力や相手の強さを不安に思って膝を抱えているだけでは、何も変わらない。
ウマ娘が抱えている不安の氷塊を小さくするには、結局トレーニングを積み重ねるしかないのだ。
「なるほど。そういう考え方もできるね」
「そうだろう? もちろん不安が暴発したがゆえのオーバーワークのせいでケガをしました、では本末転倒だがな」
「うん……確かに」
残念なことに、勝利に焦って自罰的な自主トレを繰り返したせいで、取り返しのつかないケガをして長期休養や現役引退を余儀なくされた、というウマ娘は後を絶たない。
「ま、そうならないよう俺達トレーナーがいるとも言えるわけだ」
トレーナーが力強い表情で、こちらを振り返る。
「餅は餅屋、ウマ娘はトレーナー。お前の力を引き出すためのトレーニングメニューは、俺を信じてくれていい。エルサはただ、前を向いて走っていれば大丈夫だ」
おお……。
なんだか結構かっこいいこと、言ってくれるじゃないか。
「そっか。じゃあ今日もよろしくお願いしますよ、トレーナー」
そんなお父さんの顔が頼もしく見えてしまったのがちょっぴり悔しかったわたしは、わざと軽薄な感じを装って、椅子から立ち上がった。