ミラ子の娘。   作:宮川 宗介

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第三十三話

今年の夏もひどい猛暑だったが、10月に入るとさすがに空気も秋めいてくる。

きんもくせいの甘い香りを感じながら、わたしは障害レース用のトレーニングコースでトレーナーを待っていた。

 

コースは、ちょうど坂路の麓と隣接している。

坂路はトレセン内にある施設の中でも、一番利用されるトレーニングコースだ。

今日もたくさんのウマ娘たちが、激しい爪音を響かせて懸命に坂路を駆け上がっている。

 

ふと坂路の中腹に視線を向けると、ひときわいい脚で坂を駆け上がっているウマ娘の姿が目に入ってきた。

先日行われたメイクデビューをジュニアレコードで快勝した、ルームメイトのキョウコスピアだった。

 

そのレースをわたしはスマホからURAの公式チャンネルの動画で見ていたんだけど、同室の後輩がデビュー戦をあっさり勝ち上がったのには驚かされた。

 

周りの評判を聞いていると、どうやらキョウコは結構な注目株だったらしい。

 

最近は自分のことだけで精一杯だったせいか、身近にいる後輩の評判も耳に入ってこなかったし、一緒の空間で生活しているのにキョウコからはそんな話を一度も聞いたことがなかった。

 

キョウコはかなりのおしゃべり好きなのに、部屋ではレースに関係する話はほとんどしない。

いつだったか、一度それとなく『キョウコってあんまりレースの話はしないね』と聞いたことがある。

その時彼女は『お互い厳しいトレーニングして疲れて帰ってきてるところに、寮の部屋でまで走りの話をするのもどうかな、と思いまして』みたいな返事をしてくれて、まぁそれもそうか、と思ったものだった。

 

京都での初陣を一番人気で飾ったキョウコは、早くもGⅠ・阪神ジュべナイルフィリーズへの参戦を表明していた。

 

「……わたしも、負けてられないな」

 

今週の日曜日に行われるJ・GⅡ東京ハイジャンプで、わたしはいよいよグランアンネリーゼさんに挑戦する。

 

今回は一緒のレースを走る、というだけじゃない。

障害界の絶対王者を、負かすつもりで出走するのだ。

 

前途洋々な後輩の走りに刺激を受けたわたしは、気合を入れるために軽く自分の頬を両手でパチン、と叩いた。

 

よし。

 

トレーナーがくるまでの間に、軽くアップを済ませておこう。

 

わたしは軽く屈伸をしてからゆっくり右脚を上げ、左脚の母指球に身体が乗っているのを意識してから、次の一歩を踏み出した。

 

そしてこの動作をコースの端から端まで、駆け足の速度で繰り返す。

 

これはトロッティングといって、母指球でうまく地面を捉えるためのトレーニングだ。

 

地味で退屈なアップだけど、こういう基礎的な練習が確実な地力になっていく。

 

身体が動きに慣れてしまって集中力が他に逸れそうになると、『母指球へ』と心のなかで呟いてから、意識をそこへ戻す。

 

トレーナーがやってくるまで、わたしはそれを愚直に繰り返した。

 

*

 

トレセン学園に通うウマ娘にとって、東京レース場はホームのような競技場だ。

 

学園から一番近いという立地的な条件もあって、一番出走機会の多いレース場の一つになる。

 

そんな東京レース場で行われる重賞競走は、フルゲートになることが多いのだけど。

 

「今日の東京ハイジャンプ、出走人数はたったの5人かぁ……」

 

あごに手を当てながら、わたしは控室に設置されてあるモニターに目をやった。

 

「今年もグランアンネリーゼが出てきたからな。彼女を恐れて出走を回避したウマ娘がたくさんいたんだろう」

 

そんなわたしの様子を見て、トレーナーも苦笑をもらす。

 

激しいレースでの戦いは、ウマ娘を著しく消耗させる。

長い距離を走る上に、ハードルまで飛ぶ障害レースはなおさらだ。

 

トレーナーやウマ娘からすると、選手寿命を削ってまで勝てる見込みのないレースに出ることない、と考えるのも無理のないことだった。

 

「それは分からないでもないけどさ。にしたって日曜日のメインレースなのに、この人数はちょっとさみしいね」

 

わたしの言葉に、トレーナーは軽く頷く。

 

「だが、5人の出走者があったのは幸いだった。登録人数が5人以下ならレースが不成立になるところだったからな」

「そうなの?」

「うむ。URAの規則でそう定められている。実際マルゼンスキーの現役時代には、彼女があまりに強すぎたせいで出走辞退者が相次いでレースが不成立になりかけた、ということがあった」

「その話は聞いたことがあったけど、それって本当にあったことなんだ」

 

マルゼンスキーさんといえば通算成績8戦8勝、それらのレースで2着につけた着差は61バ身もあったという伝説的なウマ娘だ。

トレーナーから聞いた逸話はわたしも知っていたけれど、それは史実と言うより、レジェンドウマ娘にありがちな【神話】の一つだと思っていた。

 

「それで強いウマ娘が出てくるせいで少人数になってしまうレースのことを、マルゼンスキー状態って言ったりするんだね。今日の出走人数を見て、そんなこと言ってる記者やトレーナーが何人かいたよ」

「ああ。彼女が現役を退いてからもうかなり経つのに、いまだにそう言われていることがマルゼンスキーの偉大さを改めて思い知らされるな。その名と同列に語られるグランアンネリーゼの強さも」

「……そうだね」

 

今日のグランアンネリーゼさんは単勝支持率94%、オッズ1倍の元返し一番人気に推されている。

どの専門誌のウマ柱を見ても、グランアンネリーゼさんの欄には◎しか付けられていない。

専門家やファンたちは、たとえ東京レース場がひっくり返ってもグランアンネリーゼが負けるわけがない、と思っているわけだ。

 

「だが、お前の仕上がりも捨てたもんじゃない」

 

そう言ってトレーナーは自分の太ももをポン、と叩いた。

 

「夏からの厳しいトレーニングの成果は、しっかりと出てきている。特にトモの筋肉の成長ぶりは、まるで別のウマ娘のようだ」

「それはさすがに褒め過ぎだと思うよ」

 

トレーナーの評価にわたしは思わず苦笑いを浮かべたけど、春先に比べて尻から太ももにかけての筋肉がひとまわり大きくなった。

徹底した筋トレと、スタミナ強化のトレーニングの効果が出てきているのだ。

 

「実際、追い切りのタイムは自己ベストを大幅に更新したことだしな。いい状態に仕上がっているのは間違いないはずだ」

「そうだね。能力はともかく、体調と気力だけはグランアンネリーゼさんに負けてないと思うよ」

「よし、その意気だ。今のお前のありったけを、絶対王者にぶつけてこい」

 

トレーナーの激励を受けて、わたしはぐっと拳を突き出した。

 

*

 

パドックへ向かうために控室から連絡通路に出ると、少し先でグランアンネリーゼさんとそのトレーナー、それからもうひとり、年配のトレーナーが話しているのが見えた。

 

「今回は無理言ってすみませんでした」

 

頭を下げたのは、グランアンネリーゼさんのトレーナーだった。

彼に倣って、グランアンネリーゼさんも薄い笑みを浮かべながらお辞儀をする。

 

「正直重賞への出走はうちのポルカジュエルにとって荷が重いんだが……あいつも重賞の空気を肌で感じてみたいって言ってくれた。これもきっといい経験になるだろう。それにあんたほどのトレーナーに頭を下げられちゃ、嫌とは言えんよ」

 

礼を言われた年配のトレーナーは苦笑すると、帽子に手を当てた。

 

「いや、本当に助かりました。あなたとポルカジュエルが出走を決めてくれてなかったら、あやうくレースが不成立になるところでした。いかにリゼといえど、ぶっつけで中山大障害に向かうのは不安がありますから」

「今の障害界にアンネを負かすウマ娘がいるとは思えんが……まぁ気持ちはわかるよ」

 

年配のトレーナーはわたしの存在に気がついていないのだろう。

だからつい、ウマ娘の実力とレースの結果を断じるようなことを言ってしまったんだとは思う。

でもそれを聞いてしまったわたしの心は、穏やかでいられるはずもなかった。

 

「アンネさんよ。今日のレースを勝つのはアンタしかいないと思うんだが、うちの娘をあまりちぎってやらないでくれよ。力の差があるのはわかっちゃいるが、ひどい惨敗を食らうと完全に自信喪失して、走る気力を失っちまうかもしれないからな」

 

年配トレーナーのその言葉に、グランアンネリーゼさんとトレーナーはなんともいえない苦笑いを浮かべている。

 

……聞いてる感じ、グランアンネリーゼさんのトレーナーが年配トレーナーにお願いして担当ウマ娘を今日の東京ハイジャンプに出走させ、レースを成立させたようだ。

 

ポルカジュエルさんは今日の出走メンバーの一人で、彼女とわたしに直接の面識はなかった。

わたしが彼女について知っていることといえば、専門誌のウマ柱に書いてあった近5走の成績ぐらいのものだ。

ウマ柱を見る限り、どうやら彼女は今年の9月に未勝利を脱出したばかりのウマ娘らしい。

このキャリアで重賞に挑戦するなんて、ひょっとしてすごい素質のある娘なのかな? とちょっと気にはなっていたんだけど、そういう事情があったのか。

 

今日の東京ハイジャンプは定員割れしていて、ルール的には一つ勝っていれば出走できるとはいえ……。

 

いち陣営の都合で明らかにキャリアに見合ってないレースに出てくるというのは、どうなんだろう?

 

いや、今は人のことなんてどうでもいい。

 

わたしは、わたしのレースをするだけだ。

 

わたしはなにも聞こえなかったようなふりをして、彼らのそばを通り抜けた。

 

*

 

パドックでの顔見せを終え、バ場に足を踏み入れると大観衆の熱気がわたしを迎え入れてくれる。

 

振り返ってスタンド席を見渡すと、そこは移動するのも苦労しそうなほどすし詰めになっていた。

 

観客の一番のお目当ては、もちろんグランアンネリーゼさんだろう。

 

オルフェーヴルさん、キタサンブラックさん、アーモンドアイさんといった偉大な先達が時代時代でレース界を大きく盛り上げてきたように、レースファンはみんな強いウマ娘が好きなのだ。

 

駆けつけた大観衆と盛り上がりはメインレースにふさわしいものではあったけれど、今日の東京ハイジャンプの出走人数はたったの5人。

 

ほとんどのオーディエンスはこのレースに、誰が勝つかわからない、手に汗握る好勝負を期待しているわけじゃない。

 

グランアンネリーゼが連勝記録をどこまで伸ばすのか。

絶対王者が、どんな勝ち方を見せてくれるのか。

 

観客の興味は、その一点。

 

でもわたしたちはグランアンネリーゼさんの記録更新のお膳立てをするために、東京レース場に集まったわけじゃない。

 

誰もが平等に、勝利という栄冠を手にする権利を与えられている。

 

グランアンネリーゼさんという天才にも、ポルカジュエルさんという新たな挑戦者にも、そして、わたしというふつーのウマ娘にも。

 

といっても今のわたしの実力では、おそらくグランアンネリーゼさんに勝つことはできないだろう。

 

それでも絶対に、一泡吹かせてやる。

あのキレイな顔に、一瞬でも焦りの表情を浮かべさせてやる。

 

そのために、わたしはきついトレーニングの日々を乗り越えてきたのだから。

 

わたしはぐっと拳を握り込み、秋らしい乾いたターフの上を駆け出した。

 

*

 

ゲートインはいつもどおりスムーズに進み、スタートも出遅れたウマ娘はいなかった。

 

飛び出していったのは、ここ数戦逃げにこだわっているグランアンネリーゼさんだった。

 

彼女に一人旅をさせると彼女のお気に召すままに展開を作られてしまう、なんてことはみんな分かり切っている。

それでもグランアンネリーゼさんに競りかけよう、なんてウマ娘はわたしも含めて誰もいない。

 

そんなことをすれば、鈴をつけに行った方が力の違いですり潰されてしまうからだ。

 

貫禄の単騎逃げを見せる絶対王者に、スタンドからは大きな歓声と拍手がわく。

 

ダードコースを横切り、最初のハードルを彼女はいつも通り完璧な飛越でクリアした。

 

わたしもグランアンネリーゼさんに続いて、その竹柵障害を無事にジャンプする。

 

「…………?」

 

グランアンネリーゼさんの二番手につけて背後から様子を伺っているが、なんだかいつもと走りが違う。

 

故障しているとか、そういった明らかな異常が見られるわけではない。

なんというか……ズブいとまでは言わないにせよ、行きっぷりがすこぶる悪いのだ。

 

わたしは何度か彼女と一緒のレースを戦っているけれど、こんなに重たい走りをしているグランアンネリーゼさんは初めて見る。

 

グランアンネリーゼさんの前走は春に行われた中山グランドジャンプで、彼女にとって今日のレースは約6ヶ月ぶりだ。

ひょっとしてグランアンネリーゼさんは、長期休養明け直後のレースを苦手としているのかもしれない。

 

だからこそポルカジュエルさんの陣営に無理を言って、中山大障害の前哨戦である今日のレースを多少強引に成立させた、という可能性もある。

 

しかし、グランアンネリーゼさんはクラシック期からシニア2年目の去年まで、この東京ハイジャンプを同じような休み明けの状態で三連覇しているのだ。

わたしはその動画を全部見たけど、これほど重鈍な走りはしてなかった。

 

もちろん動画で見るのと、実際にレースで走っている姿を見るのでは印象が違うのは当然のことなのだろうけど……ひょっとして今日のグランアンネリーゼさんはあまり体調があまり良くないのか?

 

もしそうならば、実力の差があったとしても、最高の状態に仕上げてきたわたしにも勝機があるかもしれない!

 

思わぬチャンスに脚が逸りそうになる。

 

でも、ここは我慢だエルサ。

しっかり自分の走りに徹してこそ、巡ってきたチャンスを活かせるというもの。

 

脚が先へと行きたがるたびに、わたしは何度でも自分にそう言い聞かせた。

 

*

 

少人数ということもあり、レースは淡々と流れている。

隊列もほとんど変わっておらず、相変わらずわたしは二番手の位置取りでグランアンネリーゼさんの2バ身ほど後ろにつけていた。

 

グランアンネリーゼさんを観察している間、彼女の動きが良くないのは体調不良などではなく、単に久しぶりのレースのせいで身体が温まっていなかっただけなのかもと考え直したりもした。

 

けどレースが中盤を過ぎても、彼女の動きにいつものキレが戻る様子はなかった。

 

飛越こそいつもの通り芸術的なものだったが、平地を走っている時のラップタイムがまるで揃っていない。

それにスタンドで歓声が上がったり、後続の脚音が近づくたびにそっちに視線を向けたりしている。

 

今日のグランアンネリーゼさんは、完全にレースへの集中力を欠いていた。

 

それでも地力の違いを見せつけて、ダートを横切って最後の障害へ向かうあたりで、二番手のわたしを引き離し始める。

 

ここで遅れるわけにいかない。

 

「ふっ……!」

 

わたしはギアを入れ直し、絶対王者の背中を追う。

 

最後の直線に入り、ラストハードルが近づいてきた。

 

やはり、グランアンネリーゼさんの動きは重い。

 

今まで一度も追いついたことない背中が迫ってきて……竹柵障害の前で、わたしはついに彼女に並んだ。

 

そして同じタイミングでハードルをジャンプ!

 

わたしもグランアンネリーゼさんも、最高のジャンプをしたはずだ。

 

着地して先に抜け出したのは……なんとわたしの方だった。

 

その瞬間、スタンドから悲鳴のようなどよめきが聞こえてきた。

 

「!?」

 

マジか。

これは現実のことなのか。

 

思わずほっぺたをつねりたくなったが、そんなことはゴール後にすればいい!

 

わたしは無我夢中で、東京レース場のスタンド前を先頭で駆け抜ける。

 

相手はあのグランアンネリーゼだ。

必ず盛り返して、わたしに競りかけてくるはず!

 

しかし、いつまで経っても彼女の力強い爪音が聞こえてこない。

むしろ、後ろの気配がどんどん遠ざかっているような錯覚すら覚える。

 

一体何が起こっているのかわからないまま、わたしは先頭でゴールへ飛び込んだ。

 

思わず立ち止まって振り返ると、3バ身後ろにようやくゴールしたグランアンネリーゼさんの姿があった。

 

圧倒的一番人気を背負って敗れた絶対王者は、まるで狐につままれたかの表情を浮かべて、しきりに首を傾げている。

 

たぶんわたしも同じような、いやそれ以上にまるで世界がひっくり返ってしまったかのような顔をしていたことだろう。

 

……………。

 

え~っと。

 

わたし、勝ったんだよね?

 

奇妙な静寂が、東京レース場を支配している。

 

10万にも届こうかという観客が詰めかけているはずのスタンドが、静まり返っていた。

比喩でもたとえでもなく、本当に誰も声を発していないのだ。

 

とりあえずわたしは右手の拳を突き上げ、おそるおそるウイニングランを開始する。

 

するとスタンドの一部からポツポツと拍手や歓声が起こり始め、瞬く間にそれは大音量となって東京レース場を包みこんだ。

 

「すげぇぞエルサ! あの絶対王者に勝っちまった!!」

「やっぱお前はあのヒシミラクルの娘だ! 母娘二代ですごいミラクルを起こしやがった!!」

「おめでとう、エルサ! 本当におめでとう!」

 

そんな驚きと興奮が入り混じったような声が、スタンドのあちこちから飛んでくる。

 

ミラクル、かぁ……。

 

その祝福の声になにか釈然としないものを感じたのは、わたしもそれなりに努力したんだよ、という気持ちがあったからだろうか。

 

それともグランアンネリーゼさんの不可解なレースっぷりに、どうにも納得できない引っかかりを感じているからなんだろうか。

 

今日のレースについて、いろいろと思うところはある。

 

それでもわたしは勝者の義務としてウイニングランを続け、作った笑顔でスタンドからの声援に応え続けた。

 

*

 

ものすごい怒号が、連絡通路に響き渡っていた。

 

「リゼ! 何だ今日のレースは!? なんであんなナメたようなレースをしたんだ!?」

 

厳しい言葉が、ウイニングライブの準備をするために控室に戻ろうとしていたわたしの耳を打ちつけてきた。

その凄まじい声量と激しい語勢に、わたしは思わず身震いしてしまう。

 

おっかなびっくり、そ~っとそちらへ顔を向けると、強面のトレーナーが憤怒の表情で愛弟子であるはずのグランアンネリーゼさんに詰め寄っている。

グランアンネリーゼさんは肩をすぼめ、ひたすら恐縮して彼の怒りを受け止めているようだった。

 

「いえ、決してレースを舐めていたわけでは……。走力を加減していたのは認めますが、それはその、ポルカジュエルさんをちぎるわけにも行かなかったわけですし……。それに、思ったよりエルサミラクルさんが力をつけていて追いつけなかった、と言いますか……」

 

しどろもどろになりながらも、力のない声でグランアンネリーゼはなんとか弁明を試みている。

しかし、トレーナーはそんな担当の言葉に耳を貸すつもりはないようだ。

 

グランアンネリーゼさんの申し開きを聞いたトレーナーは険しい視線で彼女を睨みつけ、さらに眉を吊り上げた。

 

「そんな聞き苦しい言い訳は聞きたくない! それをナメたレースっていうんだよ!! お前今日のエルサミラクルの仕上がりを見て、彼我の力の差も感じられなかったのか! 何年この業界でトップ張ってんだよ!」

 

トレーナーが担当しているウマ娘を叱責しているところは、わたしだって何度も見たことがある。

しかしトレーナーがウマ娘に対して激しく怒りの感情をぶつけているという場面に遭遇したのは、初めてだった。

 

「それにお前、最近トレーニングも手を抜いていただろ?」

「えっ!? いや、あの……」

 

ひょっとして、トレーナーの指摘は図星だったのだろうか。

グランアンネリーゼさんの綺麗な細面が紅潮し、つぶらな瞳が大きく見開いた。

 

「お前ももうベテランだ。どのあたりまで身体を仕上げればレースに勝てるか、分かっていても不思議じゃないと思って大目に見ていた。そのせいでお前の今日の仕上がりが十分じゃないってのも分かっていた」

「……。申し訳ありません……」

 

グランアンネリーゼさんは不機嫌さを隠そうともしないで続けるトレーナーと視線を合わせようとせず、うつむいて謝罪の言葉を小さな声で口にする。

 

「それでも今日のメンバーなら、お前が本気で走りさえすれば勝てたはずだ。さすがにレースで手を抜くようなマネはすまいと信じて何も言わなかった。なのに、今日のレースはいったいなんだ!?」

 

トレーナーはグランアンネリーゼさんの胸ぐらをぐいっと掴むと、ドンッ!と通路の壁に思い切り押しつけた。

 

襟を掴んでいる拳は遠目からでも怒りで震えているのが分かって、もう今にも彼女に殴りかからんばかりの勢いだ。

 

グランアンネリーゼさんはぐっと目を思い切りつむっている。

殴られても仕方ない、と覚悟を決めているかのようだった。

 

ど、どうしよう……。

これ、止めに入ったりしたほうがいいのかな……。

 

そんな修羅場を前にオタオタしていると、騒ぎを聞きつけたのであろうお父さんが、わたしたちの控室から慌てたように飛び出してきた。

 

お父さんはグランアンネリーゼさんたちの方に駆け寄ってトレーナーの肩にそっと手を置くと、薄く笑ってなだめるように語りかけ始める。

 

「まあまあ。お怒りの気持ちはわかりますけど、グランアンネリーゼも反省しているみたいですし、そのへんで許してやってはどうですか?」

 

グランアンネリーゼさんのトレーナーは、お父さんの少し先輩に当たる。

後輩が間に入ったことで少し冷静になれたのか、彼は拳が真っ白になるほどきつく掴んでいたグランアンネリーゼさんの襟から手を離した。

 

「……っ! リゼ、次こんなレースをしてみろ。俺はトレーナー免許をURAに突き返してでもお前をぶん殴って、お前との契約を破棄してやるからな!!」

 

彼は通路全部に響き渡るような声でそう言い捨てると、グランアンネリーゼさんの控室とは反対の方に足を向けて立ち去った。

 

トレーナーの拳から開放されたグランアンネリーゼさんは、脱力したかのようにその場に座り込んでしまう。

 

「グランアンネリーゼ、大丈夫か?」

 

お父さんは優しく声をかけながら、グランアンネリーゼさんに手を差し伸べる。

 

「……はい。お恥ずかしいところをお見せしてしまって……」

「今日のレース、君には君の言い分がきっとあると思う。でも彼は本気で君に期待していて、君のことを本当に誇りに思っているんだ。トレーナー同士で集まると、いつも彼は『リゼは走っている舞台こそ違うが、あいつは俺が担当したウマ娘の中で唯一ブルボンと並ぶ名ウマ娘なんだ』と自慢している。だからこそ今日のようなレースに……」

「わかっています」

 

彼女はお父さんの手を取るようなことはせずに自分で立ち上がると、お父さんの言葉をにこりと笑って遮った。

 

「お気遣い、ありがとうございます。エルサミラクルさんに優勝おめでとうございますとお伝え下さい」

 

そう言ってグランアンネリーゼさんはお父さんに一礼してから踵を返し、自分の控室の方に向かって歩き去っていった。

 

「……トレーナー」

 

修羅場が一段落したところを見計らってわたしが声を掛けると、お父さんはなんとも言えない笑みを浮かべてこちらへ振り向いた。

 

「エルサ、優勝おめでとう。よくやってくれた」

「うん、ありがとう。でも……」

 

押し殺したような声で続けようとしたわたしに、トレーナーは首を横に振る。

 

「いろいろと納得のいかない勝利だったかもしれないが、体調管理やメンタルコントロールも勝負のうちだ。今日のところは、望外の大金星の結果を喜ぼう」

「そうだね」

 

トレーナーの言うことに、わたしは小さく頷いた。

レース内容を思えば素直には喜べないけど、わたしがあのグランアンネリーゼに土をつけたという結果は揺るがない。

 

「もうすぐウイニングライブの時間だな。今日のレースの主役として、胸を張ってステージに立ってこい」

 

そう言ってトレーナーは、ポンと軽く背中を押してくれる。

わたしはうん、と平坦な声で返事して、お色直しをするために駆け足で控室に向かった。

 

*

 

ウイニングライブはそれなりに盛り上がっているようには見えたけど、ライブ中のファンたちの反応はなんとも微妙なものだった。

 

集まっている人数の割に控えめな拍手の音、少しあわないタイミングで振られるペンライト、そして観客席のかすかなざわめきが、オーディエンスたちの釈然としない空気感を嫌でも伝えてくれている。

 

それは演者がセンターのわたしを含めて5人しかいなかった、ということもあっただろう。

3年ぶりの準センターという位置のせいか、グランアンネリーゼさんのダンスにミスが目立ったということも原因の一つだと思う。

 

でもライブが盛り上がりに欠けている一番の理由は『今日はグランアンネリーゼがセンターを務めるウイニングライブを見に来たはずだったのに……』という、隠しきれないファンたちの思いが箱全体に伝わっているからではないだろうか。

 

もちろんわたしの勝利を心から喜んでくれた人もいただろうけど、結局のところわたしは今日のレースにおいて、脇役の一人に過ぎなかった。

 

多くの人にとって今日のレースはわたしが勝ったレースではなく、グランアンネリーゼが勝てなかったレースになってしまったのだ。

 

そんな雰囲気のなか、【脇役】のわたしが【主役】のグランアンネリーゼさんを差し置いてセンターで歌い踊るという作業は、あまり愉快なものではなかった。

 

>>

 

薄暗い白玲神社の本殿でグランアンネリーゼは冷たい板張りの床に座し、静かに瞳を閉じて瞑想していた。

 

もう2時間も、そうしているだろうか。

 

瞑想中、自分の思考がいろんな言葉を投げかけてくる。

 

なぜ私は、あんな不甲斐ないレースをしてしまったのか?

どうして最近は、トレーニングに身が入っていなかったのか?

 

そうして自動思考が自分を責めてくるときもあれば、将来の不安を煽ってくることもある。

 

あんなにトレーナーを怒らせてしまって、もう彼は私にまともな指導をしてくれないのではないだろうか。

 

能力はともかく、私のレースへのモチベーションはとうに燃え尽きてしまっていて、もうレースに勝つことなんてできないんじゃないか。

 

湧いてくる自動思考やそれに付随する感情を否定するでも肯定するでもなく、ただじっと観察する。

 

グランアンネリーゼは、そうして自分の心とひたすらに向き合い続けた。

 

シンキングセルフや自分の感情、海馬から流れ出る過去、前頭前野が見せる未来などを観察していると、ふいに中学の時に読んだ本の一節が脳裏に蘇ってきた。

 

【負けるということは、なんという幸いなのだろう。また次の勝利に向かって努力を続けることができるのだから。だがトップに立ってしまったというこの現実の、なんと辛いことか。私は今までしてきた努力を、この先どこに向ければよいのだろう? 私はこれ以上何のために努力をするのか、わからなくなってしまっていた】

 

超一流のアスリートが記した本の一節を初めて読んだ時、彼女は著者の言い分にまったく共感できなかった。

負けたことをバネにしてがんばれる、という気持ちは理解できた。

でもトップに君臨するのが辛い、そのせいで努力が続かなくなるというのは、一体どういうことなんだろう。

 

トップでいること、勝っているということ自体が、勝手にモチベーションになってより一層研鑽に励むことができるのでは?

 

だが自分がトップジャンパーになり、絶対王者となった今、この本を著したアスリートの言葉が痛いほど理解できた。

 

偉大な先輩のクリスタルソナーを追いかけ、自分がトップに立つまでの間のトゥインクルシリーズの世界は、文字通り本当にきらめいて見えていた。

 

しかしいざ自分がトップに立った途端、その素晴らしかったはずの景色が一変する。

 

J・GⅠをいくつも勝ち、自分には挑戦すべき相手もいなくなった。

勝利は喜びを与えてくれるものではなくなり、ただの退屈な日常に成り下がった。

 

一つレースを勝つたびに、世界がゆっくりと閉じてゆく。

 

ここ1年ほど、グランアンネリーゼはそんな感覚にずっと囚われて続けていた。

 

グランアンネリーゼは勝利を積み上げ続けることに飽きてしまい、それらがもたらす栄光や名声に、まったく価値を感じなくなってしまっていたのだ。

 

そのようなメンタルの状態で、トレーニングに身が入るはずもない。

 

トレーナーに自分の心の内を相談することを考えてもみたが、グランアンネリーゼはそれをしようとしなかった。

 

アンチクライマックスと言われるこの悩みは、自分と同じようにトップに君臨したものにしかわかるまい。

 

たとえ、彼がベテランのトレーナーであったとしてもだ。

 

しかしそんな灰色の日々も、どうやら今日でおしまいらしい。

 

エルサミラクル。

 

普段どこかポヤポヤとしている若きジャンパーは、自分を敗者にしてくれた。

自分の慢心と退屈を、木っ端微塵にしてくれた。

 

レースへの情熱に、また火をつけてくれたのだ。

 

そのことについて、自分はあのヒシミラクルの娘に感謝しなくてはなるまい。

 

エルサミラクルは力をつけてきている。

特に彼女の母親譲りのスタミナは驚異的で、単純な持久力比べになるとエルサミラクルに後塵を拝してもおかしくない。

 

しかし自分には、長年培ってきたレース経験がある。

祖母、母から受け継いだ天性の飛越能力がある。

 

本気になれば、まだ自分のほうが強い。

 

グランアンネリーゼにはその自信と矜持があった。

 

それに……。

 

「次はきっと、年末の中山大障害で彼女とぶつかる。中山の大障害コースは我が一族の聖域。絶対に勝利は譲らない」

 

彼女は目を見開くと、脚元に用意しておいたハサミを手に取る。

そして10年以上丁寧に手入れしてきた自慢の長い黒髪の肩口に、冷たい刃を押し当てた。

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