ミラ子の娘。   作:宮川 宗介

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第三十七話

寝返りを打つのは、これで何度目だろうか。

 

どうにも、今夜は寝付けない。

 

消灯時間の10時にベッドに潜り、気が高ぶって眠れないことを自覚しつつ目をつむっていると、一度はいつの間にか寝ていたようだった。

 

でもふと目を覚ましてしまい、時計を見るとまだ午前1時ぐらいだった。

 

眠ろう、眠らなきゃ、と目を閉じても、なかなか眠気がやってこない。

 

夜中に目が覚めてしまって眠れないなんて、一体いつ以来だろう。

 

めったにないことなので、すぐに思い出せた。

 

トレセン学園の試験前夜。

あの時も緊張と不安のせいで、よく眠れなかったんだ。

 

「……」

 

わたしは隣で寝ているキョウコを起こさないよう、できるだけ音を立てないようにして二人のベッドのちょうど真ん中においてあるミニ冷蔵庫から水を取り出して、机の上においてあったコップに注いだ。

 

エアコンの暖房のせいなのか、意外とのどが渇いていたようだ。

わたしはそれを一気に飲み干し、ふぅ、と小さくため息をつく。

 

明日……いや、もう日付が変わってしまっているから、今日になるのか。

 

今日はいよいよ、J・GⅠ中山大障害が行われる。

このレースに出走できるのは、トレセン学園の中でも本当に一握りのウマ娘だけ。

 

そもそもトレセン学園という場所は、子供の頃からレース界のエリートコースを先頭で駆け抜けてきた天才たちが、人生を懸けて才能の量を競い、激しい競争が繰り広げられているという人外魔境だ。

 

そこになんとか補欠で滑り込んだわたしは結局出走制限に引っかかって、平地のレースから追い出されて障害競走を走ることになった。

 

平地を走っていた時代はもちろん、障害競走に転向してからも、わたしは自分の走りに才能があるだなんて一度も思ったことはない。

 

わたしはただ、トレーナーをやってくれているお父さんをはじめ、いろんな人たちの協力と、ちょっと諦めの悪い性格のおかげで、なんとかトゥインクルシリーズにしがみついてきたというだけの話だ。

 

そんなわたしが、J・GⅠの大舞台に出走する。

だいたい14時間後には、わたしは中山レース場のゲートに収まって、その大レースのスタートを切っているのだ。

 

なのにこの期に及んで、まったく実感がわかなかった。

 

そのくせ脳と身体はしっかり緊張してしまって、全く眠れる気がしない。

 

こんな調子で、明日まともなレースができるのかな……。

 

眠らなきゃいけないのに……と腰掛けているベッドの上で頭を抱えていると、ポン、と優しく肩に手を置かれた感覚がした。

 

「……ごめん、キョウコ。起こしちゃったかな?」

 

後ろを振り向くと、寝ていたはずのキョウコがわたしの肩に手を添えながら、小さく微笑んでいた。

 

「エルサ先輩。眠れないのですか?」

「……うん。ちょっと、緊張しちゃってるみたい」

 

同室の後輩相手に意地を張っても仕方ない。

わたしは苦笑を浮かべながら、正直に本音を吐露する。

 

「わかりますよ。大きな勝負の前って、どうしても眠りが浅くなってしまいますよね。私も中学生名人戦の決勝戦の夜とか、阪神ジュベナイルフィリーズの前夜はあまり良く眠れませんでしたから」

 

そう言うとキョウコは自分の本棚から一冊の本を取り出し、わたしに差し出した。

 

「……3手詰めの本?」

「眠れない時は、簡単なことでちょっとだけ脳みそを使ってやるのがいいんですよ。ほら、勉強している時、あまり歯ごたえのない問題が続くと眠くなったりしたことってありません?」

「あぁ。言われてみれば……」

 

受験勉強をしている時、覚えているとは思うけど一応念のために復習しておくか、ともう何度も見返した英単語帳を数枚めくり始めたとたん、恐ろしい眠気に襲われたことを思い出す。

 

「アプリの詰将棋だと、ブルーライトのせいでよけい眠れなくなっちゃいますからね。こういう時は、紙の本が一番です。ベッドライトの薄明かりで、ひと目で解ける問題だけ解いていってみてください。意外とあっさり、眠気が来たりするものですよ」

「キョウコ……」

 

キョウコの気遣いに、胸の奥がジン、とする。

 

この入眠方法が、本当に効くかなんてわからない。

でもこうしてキョウコがわたしの心配してくれていることが、本当に嬉しかった。

 

「ありがとう。じゃあさっそく試してみるね」

「ええ、ぜひ」

 

差し出してくれた本を受け取ると、真夜中に起こされてしまったにもかかわらず、キョウコはそれだけ言って自分のベッドに戻っていった。

 

わたしもベッドに入って豆電球をつけ、さっそく1問目から解き始める。

 

キョウコが貸してくれた三手詰め問題集は、かなり読み込まれているものらしかった。

紙の色は少し黄ばんでいたし、ほつれそうになっているのをセロハンテープで補強してあるページもある。

 

きっとキョウコは幼い頃から将棋の世界で何度も大きな勝負を戦う中、この3手詰めの本を読みながら、いくつもの眠れぬ夜を超えてきたのだろう。

 

幼いキョウコが頼りない光源の下、翌日の大勝負に緊張を覚え、小さな手を少し震わせながら深夜に三手詰の本を()っている。

 

そんなシーンを想像すると、胸がかぁっと熱くなる。

全身が、なんだが暖かくなってくる。

 

そのおかげか、綺麗な手筋で詰む三手詰めを解き続けているうちに……わたしはいつのまにか、詰将棋の本と意識を手放していた。

 

*

 

ピピピ、ピピピ、という電子音が枕元で鳴っている。

わたしは音源のスマホをベッドの中からもぞもぞと腕を出して探し当て、停止の表示をタップした。

 

「おはようございます、エルサ先輩。少しは眠れましたか?」

 

すでに起きて、ベッドの上で布の将棋盤を使って勉強していたキョウコが、笑顔で挨拶してくれる。

 

「おはよう、キョウコ。うん、おかげで結構ぐっすり眠れたみたい」

 

ベッドから身を起こし、う~ん、と思い切り伸びをしながらわたしは答えた。

睡眠時間はいくらか短くなっているはずだけど、寝足りない感じはまったくしない。

 

キョウコが勧めてくれた三手詰の本のおかげか、あれから熟睡できたようだ。

 

「それはよかった。レースにしろ将棋にしろ、睡眠はパフォーマンスに直結しますからね。しっかり眠れたのなら何よりです」

「あのままだったら、絶対にほとんど眠れてなかったと思うから助かったよ。本当にありがとう。これ、返しておくね」

 

わたしは心から礼を言いながら、読み込まれた三手詰の本をキョウコに手渡す。

キョウコの眠れぬ夜に寄り添ってきたであろう、彼女にとって宝物のような棋書を。

 

「いえいえ。お役に立てたのなら良かったです」

 

本を受け取ったキョウコは、そっとそれを本棚に戻した。

高段者のキョウコが三手詰という初心者向けの本をいつでも取り出せる位置に戻したのを見て、彼女がどれほどあの本に愛着を持っているのかがよく分かった。

 

「……わたし、朝ごはん行くけどキョウコはどうする?」

 

そんな大切な本を貸してくれたことにちょっと感動しながら朝食に誘うと、キョウコはこちらに振り向いてから少し意外そうな顔をした。

 

「エルサ先輩が朝起きてすぐ朝食に行くなんて珍しいですね。いつも起きてからしばらくはベッドの上でボーちゃんみたいな顔してらっしゃるのに」

 

いや、ボーちゃんって。

一応わたしは女の子なわけだし、敬愛すべきセンパイなのだから、もう少しマシな例えはなかったのか。

 

さっきの感動の気持ちが、はるか彼方に飛んでいってしまったじゃないか。

 

「あ~……うん。朝はどうしてもボーッとする時間が必要なもんで」

 

まぁキョウコはこういうヤツなので、いちいち気にしていても仕方ない。

 

朝起きてからなにをするでもなく、ただ身を起こして15分ほどぼ~っとしてから朝練に出る準備をし始めるのは事実だし。

 

どうもこのクセはお母さんに似たらしく、お母さんも朝は同じような感じで過ごしてから家事に取り掛かっている。

 

「わたしの朝のルーティンのことはともかくとして、今日は目覚めが良かったからね。なんだか結構お腹も空いてるし」

「そうですか。そういうことなら付き合いますよ。駒片付けるので、少し待ってください」

 

キョウコはそう言って布の将棋盤の四隅を持って巾着のように持ち上げると、真ん中に集めた駒たちを器用に駒箱へ流し込んだ。

 

さらさらと、駒のこすれる心地よい音があたりに響く。

 

ただ駒を片付けただけという些細な動作だったけど、そのよどみのなさがキョウコの長年の修練を感じさせる。

最後に音も立てずに駒箱にフタをすると、キョウコは笑ってわたしの方に振り返った。

 

「お待たせしました。行きましょうか」

「うん。食堂とカフェテリア、今日はどっちで食べようかなぁ」

 

わたしの小さな悩みに、キョウコはすこし首を傾げた。

 

「入学してから思ったんですけど、なにげにこの学園、食に関してむちゃくちゃ豪勢ですよね。日本中どこ探しても、トレセン学園以上に食事の施設とかメニューが充実してる学校ってないんじゃないですか?」

「いや、ホントに。わたしもここに初めてきた時、それすごく思ったよ」

 

メニューのクオリティの高さもあってか、カフェテリアや食堂にはたまにレースとは全く関係のないメディアの取材が来ることもある。

噂話程度だけど、近くにある会社からは『相応の代金をお支払いしますから、お昼休みに社員たちをカフェテリアで食事させてもらうことできないでしょうか?』なんて要望があった、なんて話も聞いたことがあった。

 

「だってわたしなんか、入学説明会で寮の食堂での食事とカフェテリアのメニューを見て、『これなら寮生活でも食生活が楽しめそう』と思って入寮を決めたぐらいだもん。あと、お好み焼きがメニューに常設されていれば完璧だったんだけど」

「なぜ学校の寮のメニューにお好み焼きを求めるのかはよくわかりませんが……寮生活の決め手が食事だったってのは、エルサ先輩らしいですね」

 

どういうわけか、キョウコは生暖かい目でわたしをみつめながら、まるでわたしの母か姉であるかのような優しい笑みを浮かべた。

 

「なに? その『この人、食べ物で寮生活決めたんだ~。お気楽な人だな~』とでも言いたげな、微妙な視線は……」

「いやいや。そんなつもりは一切ありませんよ。エルサ先輩、大きな勝負の前で気が立っているからか、人からの視線に過敏になっちゃってますね。気持ちはわかりますけど」

「……そうかねぇ」

 

疑わしげなジトメを返しても、キョウコは肩をすくめてみせるだけだ。

 

「そんなことより、食べたいものが決まってないならカフェテリアに行って、新メニューのサバサンド食べません? ちょっと気になってたんですよね」

 

なんか誤魔化された気がする上に聞いたこともないメニューを提案するキョウコに、思わずわたしは顔をしかめた。

 

なんだそりゃ。

 

絶対ゲテモノ料理だろ、それ。

 

「サバは嫌いじゃないけど、なんか生臭そう……。単に斬新さだけを求めた料理じゃないの?」

「いえいえ。なんでもれっきとしたトルコ料理で、焼いたサバやサバのフライをたっぷりの野菜と挟んである、結構ヘルシー志向な食べ物だそうですよ。今のエルサ先輩にピッタリの朝食だと思いませんか?」

「ふ~む」

 

それならふつうにサバの焼き魚定食でいいような気もしたけど、後輩が新しいメニューを試食したいみたいというのなら、ここは付き合ってあげるとしましょう。

 

「じゃあ、今日の朝ごはんはそれにしようかな」

「そうしましょう。なんでも、カレー味にソテーされた焼きサバを挟んだものが人気だそうですよ」

「おお、それは美味しそうだね」

 

カレー味になら口に合わなすぎて食べられない、ということはないだろうし、今回はそのサバサンドを注文することにしよう。

 

「ところでサバサンドで思い出したんですけど、なんでライスシャワーさんって朝はパン派だったんですかね?」

「……さぁ? 単にパンが好きだった、とか、昼と夜はお米だから朝ぐらいは違うもの食べたかったとか、とか色んな理由があるんじゃない?」

「あ~、なるほど。そうかもしれませんねぇ。そういや中学生の時、親戚のお姉さんの結婚式に出たんですけど、最近の結婚式ではライスシャワーってやらないんですよ」

「へぇ、そうなんだ」

 

わたしは結婚式というものに出たことがないので、キョウコのその話は興味を惹かれた。

 

「そのかわりバブルシャワーといって、係の人に石鹸水の入った可愛らしい小瓶を渡されて、それでシャボン玉を作って新郎新婦の周りに振りまくんです。伝統的なセレモニーが経験できなかったのはちょっと残念でしたけど、それはそれで素敵でしたし、現実的なことを言うならあと片付けが楽なんでしょうね」

「まぁ確かに、何十人、何百人もの参加者が撒いた米粒を掃除するのは結構大変な気がするなぁ……。にしたって結婚か。いつかわたしたちもするんかねぇ」

「どうなんでしょう? でも結婚とか言う前に、まず彼氏作らないと」

「確かにね~」

「ウマ娘の結婚といえば、現役時代担当したトレーナーとくっつく人って結構いますけど、私の担当は女の人なので、その路線はなさそうなんですよね」

「昨今、同性同士の結婚にそんなこと言うと特定の方面から文句が来そうだけど……。それはともかく、ウチのお父さんなんかは『ウマ娘のトレーナーとの交際だけは絶対許さん』っていつも言ってるよ」

「いや。エルサ先輩のお父様、現役のウマ娘トレーナーでしかもずばり、担当したウマ娘と結婚なさってるじゃないですか……」

「そうなんだよねぇ。まぁもしトレーナーと付き合ったり結婚したりするとなると、最低でも10歳近く年上の人になるわけだから、そのあたり父親としては思うところがあるのかもしれないね」

 

こんな感じで、わたしたちはとりあえず言語中枢に引っかかった単語を足がかりにして、脊髄反射的に話題をあちこちに飛ばしながらカフェテリアに向かった。

 

それがわたしたち二人の日常会話だったし、そのおかげでキョウコの指摘通り、実はかなりピリピリしていた気持ちが、少しだけまぎれてくれた。

 

*

 

黒塗りのハイヤーで中山レース場の関係者出入り口まで乗りつけて下車すると、師走の冷たく強い風がわたしの芦毛と白い尻尾を撫でつける。

少し遅れて、トレーナーも運転手さんに会釈しながら車から降りてくる。

 

「ありがとうございました」

 

わたしも運転手さんにお礼を言うと、彼はにっこり微笑んで「がんばってください」とわたしを応援してくれた。

 

通常、レースに出走するウマ娘は、電車やバスなどの公共交通機関で移動することが多い。

 

でもGⅠに出走するウマ娘とトレーナーだけは別で、好きな時間にトレセン学園付きのハイヤーでレース場まで送ってもらうことができる。

関西の方のレース場に出走する時は、飛行機のチケットとタクシーチケットも用意してくれる。

 

GⅠという最高の舞台に出走するウマ娘だけの、特別待遇だ。

 

「とはいえ、J・GⅠ初出走の身で、なんだか申し訳ない気もするなぁ……」

 

こんな特別扱い、わたしにはちょっと身に余る。

 

走り去るハイヤーを見送りながらそうごちると、トレーナーはそう思う気持ちは分かる、と言ってから続けた。

 

「でもこれは単なる特別扱いというだけでなくて、余計なトラブル防止の意味もあるんだ。GⅠを何勝もしてるようなスターウマ娘がGⅠレース当日に公共交通機関で移動したら、どんな騒ぎになるか分かったもんじゃないからな」

「なるほど、それは確かに」

 

しがない障害オープンウマ娘であるわたしなんかでも、最近では商店街などで買い物をしていると『がんばってください!』と声をかけてもらったり、『サインをお願いします!』と色紙を差し出されたりすることが増えた。

 

サインなんて自宅で宅配便を受け取る時以外したことがなかったので、最初求められた時はなんと書いたものか、ずいぶん悩んだ。

仕方がなかったのでその時はアルファベットを適当に崩して【Elsa Miracle】だけそれっぽく書いて手渡したんだけど、そんなんでもそれなりに喜んでもらえたので、それ以来ずっとそれを書き続けている。

 

GⅠに出たことすらないわたしでもこれぐらい顔が売れてしまっているのだから、GⅠを何勝もしているようなウマ娘がレース当日に駅やバスの停留所に現れたら、すごい騒ぎになるのは火を見るより明らかだ。

 

そんな話をしながら、わたしたちは関係者出入り口から入場して控室へ向かう。

 

「ミラ子も現役時代はかなりの人気者だったから、ファンへの対応はそれなりに苦慮したもんだ。でもあいつもわりとお調子者なところがあったせいか、ファンサは嫌いじゃなかったようだが」

「あぁ……それもなんとなくわかる」

 

前にわたしと併走しに学園に来てくれた時、デレデレ顔で後輩たちに求められるがまま、さらさらとサインを書いていたのを思い出す。

あの時はずいぶん慣れた手つきで流暢にサインを書くもんだなぁ、と思ってみていたけれど、あれは現役時代に培われたスキルだったらしい。

 

ひょっとしたらお母さんは菊花賞を勝ったあたりから、『GⅠ勝って有名になっちゃったから、サインとか求められちゃうかも!』とか妄想して、夜な夜なサインのデザインを考えたり、それを書く練習とかしていたんじゃなかろうか。

 

そして書き上がったそれを『ダンツちゃん、どうかな?』とか言って、同室のダンツフレームさんに見せていたかもしれない。

 

……そんな母親の姿はあまり想像したくなかったが。

 

「まぁ理由はどうあれ、ファンを大切にしていたお母さんのその姿勢は立派だとは思うよ。ところでトレーナー、なんでさっきから何回もネクタイの結び目触って確認してるの? そんなに心配しなくても、ちゃんと結べてると思うよ」

 

わたしは自分でネクタイを締めたことがないから確実なことは言えないけど、ぱっと見た感じ、トレーナーのそれは別にそんなに変な結び方にはなっていないと思う。

トレーナーという仕事柄、スーツなんてあまり着る機会もないだろうから、ちょっと気になってしまうのかもしれないけど。

 

「ん。いや、それは分かってるんだが……」

 

そう言いながらもトレーナーは、またネクタイの結び目に手をやって少し上に上げてみたり、結び目に指を突っ込んで緩めたりしている。

 

ひょっとして、お父さん……。

 

「もしかして、ちょっと緊張してたりする?」

「……まぁな。なんせ担当をGⅠに一番人気で送り出す、というのは初めてのことだからな」

 

隠しても仕方ないと思ったのか、そう言ってトレーナーは苦笑した。

 

そうなんだよねぇ。

 

わたしの支持率はあれから大きく下がることもなく、結局わたしはJ・GⅠ初出走なのにもかかわらず、グランアンネリーゼさんと同率の一番人気に推されて中山大障害に出走することになってしまった。

 

「そっか。意外だけどお母さん、GⅠで一番人気になったことないんだよね」

 

あまりそのことを意識したくなかったわたしは、お父さんが担当してきたウマ娘で唯一GⅠを勝っているお母さんの話に切り替えた。

 

GⅠを3つも勝っていてそれもなんだか不思議な気がするけど、あの時代の中長距離路線にはシンボリクリスエスさんとゼンノロブロイさんという、歴史に残るような絶対王者がいた。

それにお母さんの競走生活の終盤はケガとの戦いだったから、タイミング的なものもあったんだろう。

 

お父さんはお母さんが引退してからも、指導したウマ娘に何度か重賞を勝たせていて、周りからは『名トレーナー』だなんて言われたりしている。

そんなお父さんでも、GⅠで一番人気に推されたり、勝利したりするようなウマ娘には巡り合っていない。

 

そのことがGⅠで一番人気になる、GⅠに勝利するという難しさを物語っていた。

 

「ああ。ミラ子はなぜか、前哨戦でのGⅡでは勝てなかったからなぁ。それでファンたちに実力を疑問視されて人気を落としていた、という面はあると思う」

「本番のGⅠだけぴょいっと勝った、というのが、意外と抜け目ないお母さんらしいよね」

「別にミラ子もそれほどラクしてGⅠを勝ったわけじゃないが……抜け目がない、というのは同意だな」

 

こんな会話を交わしているうちにお父さんもわたしも、少しずつ緊張がほぐれてきたようだ。

 

この場にいてもいなくても、お母さんの存在はわたし達にとってそれなりに大きいものだったらしい。

 

……そういや昨日の夜、『明日のレース、見に来れそう?』ってそれとなくお母さんにLANE送ったんだけど、既読がついただけで返事がなかったんだよね。

 

お父さんにそのことを聞いても、『どうだかなぁ……。ミラ子も今、忙しいから』と煮え切らない返事をよこすだけだった。

 

まぁパート先のスーパーも年末商戦で忙しいだろうし、ブラストワンピースさんへのレッスン料とかいろんな出費が重なって大変なんだろうなぁ……なんてことを考えつつ、到着した控室の扉を開けると、そこで思いもよらぬ人物を目撃してしまった。

 

「じゃじゃ~ん、こんにちわ! 伝説的なステイヤーの、ヒシミラクルで~す!」

 

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