「……トレーナー。部屋の中になんか異種生命体がいたわ。部屋間違えた」
「ちゃうちゃう、異種ちゃう! エルサの母のヒシミラクルだよ。ちなみにエルサの母父はサッカーボーイだよ。間違えてない。エルサ、部屋間違えてないよ!」
なんだよ、サッカーボーイって。
母方のおじいちゃん、サッカーでもやってたのかな。
「ってお母さん。見に来てくれるなら、昨日のLANEでそう言ってくれればよかったのに……」
後ろ手で控室の扉を閉めながら、驚かされたわたしはジト目で自称(でもないところがまたムカつく)伝説のステイヤー、ヒシミラクルを睨みつける。
「いや~。こういうのはサプライズの方がエルサも喜んでくれるかなって」
「ただびっくりさせればいいってもんじゃないでしょ……。こっちは今から初めてのJ・GⅠを走るというのに」
「うんうん、そうだよねぇ。お父さんに相談したら『いいんじゃないか』っていうもんだからさ。まったく、レースで走るウマ娘の気持ちってものがわかってないよね、あのトレーナー」
信頼すべき妻の鮮やかな手のひら返しに、トレーナーは目を大きく見開いた。
「いや、俺はいいんじゃないか、なんて一言も言ってないが!? むしろ『初めてのJ・GⅠだしサプライズはいかがなものか』って、俺止めたよな?」
父の必死の弁明は、母の大きな耳には届かなかったようだ。
「まぁ困ったトレーナーだけど、許してあげてよ」
「まったく仕方ないなぁ……。次からはちゃんとわたしに伝えるようにしてよ」
母娘二人からの冷たい視線を受けて、トレーナーは何やら納得できない、という表情を浮かべている。
「え? 今回のミラ子のサプライズ訪問、結局俺が悪いってことになったのか?」
醜い夫婦の責任転嫁の争いは、これにて一件落着である。
まぁいつもウチのお父さんとお母さんは、こんな感じだから特に問題はないだろう。
「そんなことより、エルサ、改めてJ・GⅠ出走おめでとう!」
いつもこうなんだ、とか、女二人ががりでずるすぎる、とか、男はつらいよ、とかブツブツ言っている夫を捨て置いて、お母さんは満面の笑みでわたしを祝福してくれる。
「うん、ありがとう」
「正直、あんたが平地の出走制限に引っかかった時はどうしたもんか、ってちょっと心配したもんだけど、なんでも諦めないで続けてみるもんだね。エルサが走ることを諦めなかったから、今日という日があるんだよ」
諦めなかったから、か。
でも、その諦めの悪さはきっと。
「そうだね。そのあたりはたぶん、お母さんに似たんだと思うよ」
「そうかもしれないね~」
お母さんはわたしの意見に同意すると、カラカラとおかしそうに笑った。
お母さんのトゥインクルでの初勝利は、9連敗後のクラシック期5月の未勝利戦だった。
この日はちょうど同期のタニノギムレットさんがダービーを勝利した日であり……去年デビューしたウマ娘たちが最後に挑戦できる未勝利戦が行われた日でもあった。
負けても負けてもレースを諦めなかったからこそ、お母さんはこのラストチャンスをモノにし、その後の菊花賞・天皇賞・宝塚記念の勝利へとつながった。
GⅠを3勝もしたお母さんの蹄跡と、ようやくJ・GⅠの舞台にたどり着いたわたしの今までの道のりを重ね合わせるのは申し訳ない気がしたんだけど……どうしてもレースを諦めきれなかったお母さんとわたしの気持ちがオーバーラップしてしまって、思わず声が震えそうになる。
「……ごめん。先に勝負服に着替えておきたいから、お母さんもトレーナーもちょっとだけ出ててもらえるかな」
震えそうな声を押さえつけるように一回ツバを飲み込んでから、わたしは控室の扉を指さした。
「そうか、わかった」
「オッケー。そうそう、腰のロインクロスはリボンがしっかり左側に来ないと上の青縦一文字と合わなくて決まらないから、気をつけて着付けるようにね~」
二人はそう言い残すと、部屋から退出してくれた。
わたしはふぅ、と小さく息を吐いて手に持っていたバッグを椅子の上に置き、ファスナーを開けて新品同様にリペアされた勝負服を取り出す。
制服を脱いでストッキングを履き、着心地の良い生地に今まで鍛え続けてきた脚をそっと入れて、備え付けの鏡を見ながらワンピースの形を整える。
「……重たいなぁ……」
エアコンが発する小さな音だけが響くレース場の控室で、わたしはつぶやいた。
勝負の場で、初めて着用する勝負服。
レース専用の、通気性が良くて軽い生地で作られているはずのワンピースが、まるで鉄で造られた鎧を着込んだかのように、重い。
ロインクロスに付け袖と、装飾品を一つ身に纏うたびに、今まで感じたことのないような重圧がのしかかってくる。
脚が、震える。
おまけに笑っちゃうぐらい手も震えてしまって、うまくアクセサリーが付けられない。
これが勝負服の……GⅠというレースの重みなのか。
「でも」
お母さんも、この
……不思議だ。
そう思うと、まるでお母さんがわたしの重荷を一緒に背負ってくれているような気がして……少しばかり気持ちが楽になる。
最後に紐タイをしっかりと締め、わたしは大きく息を吐いた。
「よし」
鏡に映った自分の勝負服姿を見ながら、わたしはパチン、と両手で頬を叩く。
リーチヨハンナさん。
アクサナデイジーさん。
それに、グランアンネリーゼさん。
相手は強くて、今日の【四強】と言われている四人の中でわたしだけがJ・GⅠ初出走。
しかも一番人気という大きなプレッシャーも掛かってる。
だけど。
「勝負服は、負けてない」
わたしは鏡の中の自分にそう言い聞かせて、強気に微笑んでみせた。
時計の針が2時半を指した。
「そろそろ、いくね」
この時間までパート先であった面白話をしてくれていたお母さんと、珍しく昔学園であった、信じられないようなトンデモ話(たいていがゴルシさんかアグネスタキオンさん絡みのものだった)をしてくれていたスーツ姿のお父さんに声をかけて、わたしは椅子から立ち上がった。
気を使ってくれたのか、お父さんもお母さんも、今日のレースに関することは一切話題にしなかった。
「ああ、行ってこい。作戦は昨日話したとおりでいい。しっかりな」
いつものとおり、トレーナーが短くわたしを激励してくれる。
「エルサ」
お母さんも立ち上がると、そっとわたしの肩に手を置いた。
冬の乾燥と、家事のせいでちょっとささくれている母の手。
でも温かくて優しい体温が、確かにわたしに伝わってくる。
「……どうしたの?」
「今はまだそうでもないかもしれないけど、パドックにでたらすごく緊張してしまうと思う。初めてのGⅠ……菊花賞に出たときのわたしもそうだったから」
「へぇ。なんだか意外だね」
わたしの気の抜けた返事に、お母さんは苦笑する。
普段緊張なんかとは無縁そうなお母さんだから、『いや~。なんかすごいとこに来てしまいましたね~』とか言いながら、飄々と走ってあっさり菊花賞を勝ったんだと思っていた。
でもお母さんもやっぱり、大舞台でむちゃくちゃ緊張してしまう【ふつーのウマ娘】だったらしい。
「エルサ。緊張に飲み込まれそうになったら、今までがんばってきた自分自身を思い出して」
そう言うとお母さんは、肩に置いていた手をわたしの頭に持っていき……優しく撫でながら微笑んだ。
「そうしたらきっと、大丈夫だから」
大丈夫だから。
お母さんがそういう時はけっこう大丈夫じゃないことも多いんだけど……なぜか今日だけは、お母さんのその言葉を信じてもいいような気がした。
いつもはお母さんの『大丈夫』に、『ホントに大丈夫?』と返すことが多かったものだから、どう返していいものか迷ったんだけど。
「うん。……ありがとう、お母さん」
今日ばかりはお母さんの『大丈夫』に、わたしは笑って返事してみせた。
「じゃあ、行ってくるね」
「ちょっと待て」
背を向けようとしたわたしに、お父さんが声をかけてくる。
「どうしたの?」
「……紐タイのカラワクの位置がおかしいな。ちょっとこっちに来い」
言われるがままお父さんの方に向き直ると、お父さんはちょいちょい、と少しだけ曲がっていたカラワクを触って、まっすぐの位置に整えてくれた。
「よし。これで大丈夫だ」
「……ひょっとして、お母さんにもこうしてあげてたの?」
いたずらっぽく笑ってそんなことを聞くわたしに、お父さんは「どうだったかな……」とつぶやいて、明後日の方向へ視線を向ける。
そんなお父さんを見て、わたしはお母さんといっしょに苦笑してから、控室のひんやりしたドアノブに手を掛けた。
*
パドックからのざわめきが、歩いている通路まで聞こえてくる。
おそらくたくさんの人がパドックに詰めかけていて、これから中山大障害という檜舞台を戦うウマ娘たちのお披露目を楽しみにしているのだろう。
お母さんはパドックに入ったらすごく緊張した、なんて言っていたけれど、わたしはお母さんよりキモが小さいらしい。
パドックの光景が目に入ってきただけで一気に心拍数が跳ね上がって、手と脇の下に汗が滲んできた。
こんな調子で舞台に上がったら、わたしの心臓は破裂してしまうんじゃないか。
ありえないような心配をなかば本気でしながらパドックに脚を踏み入れると、今まで見たこともないような数の人たちが、観客席を埋め尽くしているのが目に飛び込んでくる。
そしてその瞬間、パドックから歓声が消えた。
最初、緊張のあまりわたしの耳がどうにかなってしまったのか、と思ったがどうやらそうではないらしい。
だってパドックを周回しているウマ娘たちの爪音は、しっかり聞こえているのだから。
突然の静寂にわたしが軽くパニックを起こしかけていると、今度は大きなざわめきが起こり、声があちこちから飛んできた。
「びっくりした! 一瞬ミラ子がターフに戻ってきたのかと思ったぞ!」
「エルサの勝負服、お母さんと同じ勝負服なのね! とっても似合ってるわ!」
「その勝負服を着ていたヒシミラクルも長い距離が得意だったからな! 今日は絶対、一番人気に応えてくれよ!」
そんなファンたちからの声援を聞いていると、緊張とはまた違う胸の震えがわたしの全身を包みこんだ。
お母さんが現役を退いたのは、もう20年以上も前のことなのに。
それでもみんな、お母さんのことを覚えている。
お母さんの走りを、覚えている。
ウマ娘の競走生活は、本当に短い。
他のスポーツのように、10年も20年も現役の選手でいられるウマ娘はまずいない。
でもファンは、その刹那の輝きを覚えていてくれるのだ。
わたしたちウマ娘が人生を懸けて走った、その蹄跡を。
わたしもお母さんが残した蹄跡に負けないような、みんなの心にいつまでも残るレースをするからね!
声援を送ってくれているレースファンと着ている勝負服にそう誓って、わたしはパドックの舞台に向かう。
激しく波打つ心臓の音を意識しながら、わたしは一歩ずつ舞台への階段を登っていく。
集まってくれた観客の歓声や拍手を浴びながらわたしは舞台の中央に立つと、いつもと同じようにぐっと胸を張って好調ぶりをアピールした。
拍手と歓声が、一段と大きくなる。
派手なパフォーマンスは必要なかった。
わたしは観客席に向かって一礼してから、舞台から降壇する。
その時、勝負服に身を包んだアクサナデイジーさんとリーチヨハンナさんの姿が目に入ってきた。
3・4番人気に推されている彼女たちの仕上がりは完璧で、パドックを周回する歩調にもどこか余裕があるようにすら、わたしには感じられた。
同期のアクサナデイジーさんは今回が3度めのJ・GⅠ出走になるし、歴戦のウマ娘であるリーチヨハンナさんの経験は言わずもがな、だ。
J・GⅠの常連である彼女たちだって、この大舞台に緊張していないわけがない、なんてことはわかってる。
それでも堂々とパドックを闊歩する二人を見ていると、思わず腰が引けそうになってしまう。
いや、違う。
わたしだって今日のJ・GⅠに出走することを許されたウマ娘の一人なのだ、と気後れしそうになる自分を鼓舞してから、意識的に胸を張ってパドックの輪の中に加わった。
そんなわたしの次に舞台の階段に脚を掛けたのは……今日わたしと一番人気を分け合っている絶対王者、グランアンネリーゼさんだった。
ゆっくりと登壇する本命バの異容に、観客たちがざわめく。
わたしたち出走者たちも、思わず彼女に目を奪われてしまう。
グランアンネリーゼさんのトレードマークとも言えた長い黒髪は、まるで肩口から切り捨てられたかのようにざんばらで、巫女装束をモチーフにした勝負服から見える彼女の腕は、常識では考えられないほど細い。
動画サイトなどで先日の記者会見は何度も再生されており、彼女の容貌はファンもレース関係者も知るところではあったが、実際の彼女を目の当たりにすると、やはりその衝撃は大きかった。
ただ、千早から覗く首筋や腕には強靭な筋肉が確かに走り抜けており、舞台の上を進む彼女の歩様からはひ弱さなど一切感じさせない。
今日の彼女はメガネをかけていない。
それを観客席に向かって投げ捨てるという、いつものパフォーマンスを披露するつもりはないようだった。
グランアンネリーゼさんは舞台の中央で立ち止まると、まるで睥睨するかのように観客たちを見回してから、美しい仕草で一礼する。
無駄のない洗練されたその動きはまるで、これから始まる長丁場の大勝負に備えて少しでも体力を温存しようとしているかのようだった。
観客たちはその
「…………っ」
今日のグランアンネリーゼさんは絶対的王者として周りを威圧しているわけでも、他を圧倒する闘気を発しているわけでもない。
彼女はただ、一人のウマ娘としてそこに
それなのにわたしは……そのウマ娘のことを、今日の中山の大障害コースに設置される巨大で踏破不能な
壇上のグランアンネリーゼさんを視界に捉えていると、手に汗がじんわりとにじみ出てくる。
尻尾が、根本からブルブルッと、何度も震える。
わたしだって、やれることはやってきた。
吐きそうになりながら坂路を一日何本も走り込み、苦手なプールで手足が吊りそうになるまで泳ぎ込んできた。
お父さんとお母さんに無理をさせて、超一流コーチの指導も受けさせてもらった。
わたしは間違いなく強くなった。
今日の仕上がりも、過去一と言っていい。
でもそんな今のわたしだからこそ、感じられるのかもしれない。
史上最強のジャンパーとまで称えられたウマ娘の、本当の実力を。
わたしは思わず、汗を滴らせた手で紐タイのカラワクを握りしめる。
……怖い。
舞台上にいるあのウマ娘が、一番人気というみんなの期待が、すごく怖い。
それでも。
わたしは、勝ちたい。
一番人気に推してくれたみんなの期待に、応えたい。
J・GⅠという大舞台で最強の敵を打ち負かして、この勝負服に恥じない自分になりたい!
心の内でそう叫んで、強く握り込んでいたカラワクからそっと手を離す。
汗まみれの手は、まだ少し震えている。
それでもわたしは、グランアンネリーゼさんが舞台から降壇するまで、決して視線をそらさなかった。
*
『雪がちらついてまいりました、中山レース場。スタンドは明日の有マ記念にまさるとも劣らない、15万人ものファンで覆い尽くされています。それではこれより、16人の選ばれしジャンパーたちの本バ場入場です』
『夏以降、重賞での連対率は驚異の100%。もう悲劇の世代とは言わせません! 打倒グランアンネリーゼの一番手、今日の四番人気、リーチヨハンナ!』
『母ニシノデイジーはこのレースを2度勝った名ジャンパー。その名血の開花の時が、いよいよやってまいりました。 三番人気、アクサナデイジー!』
『本日の、いえ、日本障害レース界の主役の登場です。前走では思わぬ不覚を取りましたが、中山の大障害コースはこのウマ娘の結界内と言っていいでしょう! 負けられない一番人気を背負います、絶対王者グランアンネリーゼ!』
『今日のもう一人の主役が母と同じ勝負服を身にまとい、本バ場に姿を現します。前走の東京ハイジャンプでは、圧倒的一番人気のグランアンネリーゼを見事に撃破するというミラクルを見せました。今日はその確たる実力をファンたちに認められて、絶対王者と並ぶ一番人気に推されて初めてのJ・GⅠを戦います。エルサミラクル!』
『以上16人の戦乙女が、思い思いにタフな中山の大障害コースへ向かいます。寒さを吹き飛ばしてくれるほどの、熱戦を期待しましょう!』
*
バ場に脚を踏み入れると、上からなにか白いものがゆっくりと舞い降りてきた。
なんだろう? と思ってふと上空を見上げると、どうやら雪がちらつき始めたようだ。
でも雪の降り方はそれほど激しいものではなく、視界を遮られるなどのトラブルになるようなことはなさそうだ。
雪の粒が顔に当たって溶けるのを感じながら、腕や背筋を伸ばしたり、軽く体を動かしながらゲート入りの順番を待つ。
アクサナデイジーさんとグランアンネリーゼさんが、わたしより先に枠に収まった。
わたしもそれを見て、よしっ! と気合を入れて、ゲートへ向かう。
わたしがゲートに収まると、後ろに控えていた係員の人がゆっくりと鉄扉を閉じる音がした。
やがて大外枠の最後の一人が、ゲートに収まった。
全員、ゲートイン完了。
訪れる刹那の静寂。
直後、小雪の舞い散る中にゲートが開く音が響き渡って、4100Mものハードルマラソンがスタートした。
出遅れた娘は一人もおらず、揃ったスタートになった。
まず飛び出していったのは、やはりグランアンネリーゼさんだった。
抜群のスタートダッシュで、どんどん後続を引き離していく。
いつものように単騎で逃げようとする彼女に競りかけていこう、というウマ娘はいない。
他に3・4人のウマ娘が少し出脚を使って、グランアンネリーゼさんの3バ身ほど後ろにつける。
そしてわたしも、その先行集団の真後ろに取り付いた。
いつもはだいたいバ群の中団ぐらいで待機して、最後の直線の手前ぐらいからロングスパートを掛ける、というのがわたしの戦略だった。
(しかし道中中団での待機策では、グランアンネリーゼに勝つことは難しいかもしれん)
昨日のミーティングの最中、トレーナーは決意を秘めた顔でそう言った。
(彼女のあの仕上がりが4100Mを逃げ切ってしまえる【本物】であったとするならば、今のお前のロングスパートを持ってしても凌ぎ切られてしまう可能性が高い)
(それならばレース開始直後からグランアンネリーゼのすぐ後ろで徹底的にマークして、彼女がラストストレート前に一息入れる瞬間を見計らってラストスパートを掛けるんだ)
(他のウマ娘は気にするな。それで負けたら仕方ない。負けた時の作戦ミスの批判は全部、俺が引き受ける。お前は、グランアンネリーゼを倒すことだけに集中しろ)
いつもと違う位置取りで大一番を戦うことに正直一抹の不安はあった。
でもわたしはトレーナーの指示に、ただ「はい」とだけ返事した。
だってそれは、この世で一番信頼できるトレーナーが立ててくれた作戦だったのだから。
*
最初の障害を、グランアンネリーゼさんがいつものように完璧な飛越でクリアする。
いや、研ぎ澄まされた肉体から繰り出されるジャンプは、いつも以上に洗練されたものに見えた。
後を追うわたしたち先行勢も、問題なく最初のハードルを飛び越えた。
少し前を走っている二人は今日は決して注目されているウマ娘ではないけれど、その飛越技術は水準以上のもので、豊かな経験と厳しい修練の積み重ねを感じさせた。
歴戦の強者たちばかりが集まって、たった一人の最強ジャンパーを決める。
これがJ・GⅠという舞台なのだと、改めて思い知らされた。
それからわたしたちは水濠、生け垣とおなじみの障害物を次々とクリアしていく。
そのすぐ後に横たわっているダートコースを横切って、1号坂路の下りに差し掛かった。
中山大障害のコースは、アップダウンがある坂路を何度も通過するのが大きな特徴だ。
スピードを出しすぎないよう、少し慎重になって坂を下り、そして下りでついた勢いを削ぎすぎないようにして坂を登った。
ほぼ固まった隊列のまましばらく平地を走ると、いよいよ大障害コースへ突入する。
大障害コースへ脚を踏み入れてすぐに、先程よりもアップダウンの激しい2号坂路がわたしたちを出迎えてくれる。
さっきの1号坂路もそうだったが、先頭のグランアンネリーゼさんはそんな険しい坂道も平地に等しい、といわんばかりに美しいフォームをまったく崩すことなく、軽やかに駆け抜けていた。
グランアンネリーゼさんからすれば、中山の大障害コースは勝手知ったる我が家のようなものなのだろう。
しかしあの安定した走りは、単にこのコースを走り慣れていると言うだけではなく、鍛え上げられた肉体に支えられた体幹があってこそのものだ。
わたしも練習量では負けてないつもりだったが、経験の差か、それともまだ修行が足りないのか、やはり下りと登りではわずかにフォームとスピードのバランスが崩れてしまう。
この少しの差が、結果に影響しなければいいけど……。
そんな不安を抱えながら坂を登りきった先に待ち受けているのは、1メートル60センチの高さでそびえ立つ大竹柵障害だ。
この大障害もグランアンネリーゼさんは脚先に竹柵をまったく触れさせることなく、軽やかに飛び越えてターフへ舞い戻った。
そのまるで軽業師のような跳躍。
完璧なラップを刻む逃げ脚。
アップダウンの激しいバンケットをまるで苦にしない体幹。
どこをとっても、まったく隙なんてない。
その走りはまさに『走る芸術品』と称される、ウマ娘の究極形を体現しているかのようだった。
グランアンネリーゼさんのあの仕上げは、決して失敗などではなかった!
彼女は今日のレースに向けて、体力の超臨界点スレスレまで絞り込んできたのだ。
……なんて、なんてすごいウマ娘なんだろう。
人々からの称賛も、勝利の勲章も、彼女はもう十分すぎるほど得ているのに、どうしてあれほどまでに、自分を追い込むことができるのか。
限界まで絞り込まれた細い背中を見ていると、心が奥底からゾワッと震える。
彼女が持つ勝利への執念が、そのための常軌を逸した努力が、悪寒を覚えるほど恐ろしい。
……あんな狂気のウマ娘には、到底追いつけないかもしれない。
そんなことを思い、空恐ろしい走りを見せるグランアンネリーゼさんの背中を見ながら、竹の先端を少し蹴ってしまうようなジャンプでわたしは大竹柵を飛び越える。
ターフに着地した瞬間だ。
突然わたしの心の中で、弱気の虫がぞわぞわと這い回り始めるのを感じてしまった。
わたしだって精一杯頑張ってきたのに、天才に一分の油断も隙もなく努力されてしまったのでは、わたしのようなふつーのウマ娘が付け入るところなんてないんじゃないか。
……天才が凡人以上に努力しているだなんて、そんなのずるい。
前走みたいに、どこかで油断してくれなきゃ、とてもじゃないけど勝てないよ……。
トップジャンパーのあまりに厳しい走りを見て、わたしの弱気虫は延々と泣き言を垂れ流す。
その泣き言がわたしの涙腺を刺激したせいで、グランアンネリーゼさんの背中が滲み始めた。
レース中に悔しさで、自分の情けなさで、泣きたくなったことなんて、今まで一度もなかった。
初めてのJ・GⅠという大舞台で一番人気を背負ってるくせに、今にも涙をこぼしそうな自分の弱さがよけいに惨めで、もうこの場にへたり込んで小さな子供のように泣き叫んでしまいたくなる!
その時だ。
スタンドから、今まで聞いたこともないような大歓声が聞こえてきた。
大竹柵障害を越えてコーナーを曲がると、少しの間逆周りになってスタンド前を通過するのだ。
「エルサー! がんばってー!!」
「グランアンネリーゼは強いけど、またその勝負服がミラクルを起こすところを、見せてくれ!」
……無責任なことを言う。
わたしは精一杯がんばってる。
わたしにはお母さんみたいに、ミラクルを起こす力なんて、ないのかもしれないのに。
でも、そんな無責任極まりない、それでいて熱い声援が、どうして零れそうだった涙を蒸発させてくれるのだろう。
そうだ。
こんなにもたくさんの人が、わたしを応援してくれている。
……お母さんもどこかで、わたしのレースを見てくれている。
途中で何もかも諦めて泣きじゃくるような、恥ずかしいレースはできない。
泣き叫ぶのは、4100Mを走りきってからでいい!
わたしは顔についた雪を払うふりをして、涙を拭う。
そして先頭を走る最強のウマ娘に意識を戻すと、雪がつもりつつある生け垣障害をジャンプした。