第三コーナーを回ってすぐの生け垣障害を超えて、レースは中盤に突入した。
「ふっ……ふっ……」
まだ呼吸のテンポが乱れるほどの疲れは感じないけど……それにしても、タフなコースだ。
今まで走ってきたどこのコースより、スタミナの消耗が激しい。
今年に入って重賞路線で戦い始めるようになってから、トレーナーと相談しながら練習の強度を少しずつ上げてきた。
トレーニングはきつかったけど、その積み重ねがなかったら、このあたりでバ群に沈んでいたかもしれない。
現にわたしと一緒に先行集団を形成していたJ・GⅠ初出走の一人は、スタミナ切れを起こして後方のバ群に飲み込まれていった。
最高難易度を誇る、日本一タフな障害レースコースと言われているのは、決して大げさじゃなかった。
先頭のグランアンネリーゼさんが、4度目のダートコースに脚を踏み入れた。
衰えないスタミナとパワーを誇示するかのように、派手に砂塵が舞う。
折り返し地点を迎えても、彼女の脚色に一片の陰りも感じられない。
そんな彼女に続いてわたしたちもダートを横切り、三回目のバンケットの下りに差し掛かった。
下り坂は体感的にちょっと楽に感じるけれど、トモの疲労のたまり方がえげつない。
そしてすぐに、心臓や肺に負荷をかける上り坂が襲いかかってくる。
坂の間には階段で言うところの踊り場がまったくなく、徹底的にウマ娘のスタミナを搾り取る構造になっている。
中山大障害と中山グランドジャンプが行われる中山の大障害コースは、こんな起伏を何度も、何度も乗り越えてゆく。
ウマ娘の体力だけではなく、長い距離と険しい道のりを踏破するための精神力も試される、本当に厳しいコースだ。
……グランアンネリーゼさんは、こんなタフなコースのレースを、春の中山グランドジャンプを含めて6連覇しているのか。
改めて、思う。
彼女は本当にすごいウマ娘だ。
わたし達の世界のトップ、グランアンネリーゼは、九冠ウマ娘・アーモンドアイに引けを取らない歴史的な名ウマ娘なんだ!
みんなもっと、彼女のことを褒め称えるべきだ。
そしてみんなにもっと……グランアンネリーゼさんのことを、わたしたちが人生を懸けて走っているこの素晴らしい障害レースという世界を知ってもらいたい。
そんな想いを胸に、わたしは約5Mもの傾斜のある坂を勢いよく駆け上がる。
「……!」
坂を登りきった直後。
背後から2つの力強い蹄鉄の音が聞こえてきた。
わたしは一瞬だけ後ろに振り向いて、状況を確認する。
どうやら差し脚質のリーチヨハンナさんと追込脚質のアクサナデイジーさんが、バ群を割ってするすると順位を上げてきているようだった。
今日のコースのタフさを考えると、彼女たちは意識的にポジションを上げてきたというより、すでにスタミナを使い果たしつつある他のウマ娘たちを追い抜いてきたのだろう。
リーチヨハンナさんがわたしの2バ身ほど後ろにつけると、そこでペースを落ち着かせる。
アクサナデイジーさんはリーチヨハンナさんの1バ身ほど後方に陣取り、前の様子を伺っている。
アクサナデイジーさんから後ろはもう8バ身以上離れてしまっていて、上位争いは実質彼女から前にいる7人に絞られた。
上位人気4人を含むわたしたちの一団は、再び大障害コースへ戻ってきた。
またすぐに、起伏の激しいバンケットがわたしたちを待ち受けている。
下り坂へ向かうわたし達に北風が強く吹き付け、全身をなぶる。
雪の勢いも、少し強くなってきた。
重力の勢いに脚を取られないよう、慎重に深い谷を下り、今度は重力に負けないよう、しっかりトルクを使って坂を登った。
幅数メートルのダートを横切り、設置してあるのは高さ1・6Mの大生け垣だ。
グランアンネリーゼさんは相変わらず惚れ惚れするようなジャンプで、その高いハードルを軽々と超えてゆく。
「ふっ!」
わたしも臆することなく、重賞競走にしか設置されていない高難易度の大生け垣を飛越した。
ブラストワンピースさんの指導を受けてから、無駄な空気抵抗や着地時の衝撃が激減しているという実感がある。
着地してから瞬時に次の一歩を踏み出せるようになり、障害物をクリアするための時間が大幅に短縮された。
当然その分、他のウマ娘よりも前に出ることができるわけで……わたしはこの時点で、グランアンネリーゼさんの2番手まで位置を上げていた。
しばらく平地を走ると、またコースは右回りに戻ってくる。
スタンドを通過する際、大きな拍手が巻き起こった。
先頭のグランアンネリーゼさんは、変わらず完璧なラップを刻みながら逃げている。
雪の中を巫女装束に身を包んだウマ娘が疾走している様はどこか幻想的で、彼女こそが三女神の
「……!」
わたしは一度だけブルっと顔を振り、そんな空想を頭の中から追い払う。
わたしは彼女に導かれるために、中山レース場にやってきたのではない。
彼女と同じ一番人気を背負い、彼女を倒すためにこの戦場へやってきたのだ。
宿敵の背中を追い、一つ、また一つとハードルをクリアしてゆく。
そしてまた戻ってきた1号坂路の坂を下る。
絶対王者の飛越と脚色はまるで乱れることはなく、終盤が近づくにつれ、むしろ圧が増しているようにすら感じられた。
そのプレッシャーに気圧されないよう、わたしも気合を入れてバンケットの坂を駆け上がる。
レースはもう終盤。
次の障害が、ラス前のハードルだ。
そう思った瞬間だった。
後ろから、ひときわ力強い爪音が2つ、聞こえてくる。
確かめるまでもなかった。
目を見張る末脚でわたしの横に並んできたのは……やはり、アクサナデイジーとリーチヨハンナの二人だった。
絶対王者を前に見て、わたしたち三人はほとんど同時に竹柵障害を飛越する。
着地後の加速はわたしが若干勝ったが、すぐに二人は追いついてきた。
「上の世代に頭を押さえつけられるのも、下の世代に踏みつけられるのも、もうたくさんだ。今日こそ【悲劇の世代】なんて汚名を返上してやる!」
ターフを揺るがすような声で叫び、リーチヨハンナさんが一歩、前に出た。
「あの娘じゃグランアンネリーゼに勝てない、なんて決めつけにはもううんざりです。私はグランアンネリーゼさんの添え花なんかじゃない! 今日センターで咲き誇るのは、この私!」
J・GⅠで2回連続、グランアンネリーゼの二着という順位に甘んじているアクサナデイジーさんが、その屈辱をバネにしてリーチヨハンナさんに並びかける。
ふたりとも、すごい気迫だ。
絶対に負けられない、負けたくないという気持ちが、痛いほど伝わってくる。
でも、わたしにだって負けられない理由が、ある!
わたしみたいなふつーのウマ娘を、一番人気に推してくれたファンのために。
どんなときでも見捨てずに導いてくれた、トレーナー……お父さんのために。
わたしが情熱を失ったとき、体を張って立ち直らせてくれた……この勝負服を託してくれた、お母さんのために!
「たあぁあぁぁぁぁっ!」
わたしはここでトップギアを解放した。
その勢いを駆って、わずかに前をゆく二人に競りかけにゆく!
ふたたび、3人が横並びになった。
リーチヨハンナさんが一歩前に出れば、そうはさせない、とまたアクサナデイジーさんが並びかける。
わたしも遅れを取るまいと、残された力を振り絞ってふたりに喰らいついてゆく。
絶対王者・グランアンネリーゼへの挑戦権を懸けての、最後の鍔迫り合いだ。
三人は併走しているかのようにラストバンケットを下り、尽きそうなスタミナに根性という燃料を無理やり投下して、急峻の坂を駆け上がる。
まるで爆発しているかのような心音が、絞られた耳に聞こえてくる。
増える呼吸の回数に、肺が破れそうだ。
フラフラになりながらも坂を登りきった時……わたしの横には、誰もいなかった。
わたしは、あの二人に競り勝ったのだ!
わたしの目の前に映るのは、たった一人しかいない。
最強ウマ娘、グランアンネリーゼ。
ただ一人だ。
あとは、奴を、追い抜かすのみ。
行くぞ、グランアンネリーゼ――!
*
『祖母のハクレイも母のグランドマーチスも、ここを先頭で駆け抜けていきました』
『中山大障害4連覇へ向けて、グランアンネリーゼが最後の障害をジャンプ!』
『さぁ例年のごとく一人旅になりますか。グランアンネリーゼ』
『いや、今年は違う! 今年は違うぞ!』
『リーチヨハンナとアクサナデイジーを競り潰して! 外からやってきたのはエルサミラクルだ!』
『もう一人の主役が白い芦毛をなびかせて、ここでようやく、ここでようやくやってきた!』
『最後の障害を飛越して……エルサミラクルが絶対王者に並びかける!』
>>
ヒシミラクルは、コースに隣接しているトレーナー待機所で、夫ともに娘のレースを見守っていた。
最後まで、娘の戦いをしっかり目に焼き付けなければ。
しかしそう思えば思うほど、目から熱いものが溢れてきて、視界がゆがむ。
ヒシミラクルは、幼い頃から娘の走りを見てきた。
気の毒なことだが、エルサは自分と同じで、走りの才能なんてないと思っていた。
エルサがトレセン学園に補欠でなんとか滑り込んだときも、きっとひとつも勝てないだろうけど、その経歴を活かしてスポーツ系の大学への足掛かりにしてくれればいい、ぐらいに思っていた。
そしてやっぱり、
娘が平地でのレースを諦めざるを得なくなった時、ヒシミラクルは『脚の速いウマ娘に産んであげられなくてごめんね……』と、何度も、何度も、心のなかで謝った。
そんな娘が。
ふつーのウマ娘であるわたしの娘が。
平地という花形の舞台から追い出され、一度はレースを諦めかけたわたしの娘が。
障害レース史上最強とまで言われているウマ娘に果敢に競りかけ、この大舞台で互角の勝負を繰り広げている。
わたしと同じような、ふつーのウマ娘だったあの娘が。
ここにくるまで、あの娘はどんなに頑張ったんだろう。
ここにくるまで、あの娘はどれだけの試練を乗り越えてきたのだろう!
決して順風満帆ではなかったであろう娘の道のりを思うと、瞳から、胸から、熱いものがあふれ出てきて、津波のように押し寄せてくる。
隣りにいた夫であり、元トレーナーである彼は、そんな妻の肩を優しく抱きしめた。
*
苦しい。
呼吸が、ままならない。
心臓がぶっ壊れてしまいそうなほど荒れ狂い、悲鳴を上げている。
なぜか鼻の奥で、鉄のような血のような、おかしな匂いがする。
脚の疲労も、限界が近づいていた。
少しでも気を抜くと、ふらつきそうになる。
でもそれはわたしだけではないようだった。
少し前を走っているグランアンネリーゼの脚色も、決して十分なものじゃない。
完璧だったフォームがわずかに崩れ、体幹が左右に揺れている。
彼女の荒い息遣いが、ここまで届く。
あのグランアンネリーゼさんでさえ、苦しいのだ。
彼女も、限界ギリギリのところで戦っている。
『ハイセイコーも、私と同じ二本脚だ。勝てないわけがない』
ダービー前にタケホープさんが言ったとされる言葉を思い出しながら、わたしは最後の力を振り絞って、最強のウマ娘に競りかけにゆく。
「……! エルサミラクルッ!」
わたしの気配を感じ取ったのか、グランアンネリーゼさんは一瞬だけこちらを伺うと、短く息を吐きだしてさらに力強く加速した。
また少し、わたしとの差が開く。
あんな脚色なのに、まだ加速できるのか。
でもわたしも、ここで諦めるわけにいかない!
「はぁぁっ!」
鉄の味がする冷たい空気を飲み込み、刹那鋭く吐き出した。
わたしはまた外から、彼女に並びかけようとする。
その時、彼女の腕にひとひらの雪が落ちてゆくのが見えた。
ただ、その雪の欠片は肌に触れる前に蒸発して消えてゆく。
彼女の身体から、それだけのエネルギーが発せられているのだ。
すごい。
なんて、すごいウマ娘なんだ……!
こんなウマ娘と競い合えるだなんて、ウマ娘冥利に尽きる。
刹那の微差を競っている最中だと言うのに、わたしはこの倒すべきウマ娘に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
障害レースに転向して、本当に良かった。
この時代に生まれてきて、本当に良かった!
わたしはその尊敬の念を力に変えて、ついにグランアンネリーゼの隣りに並んだ。
この時、わたしの脳裏にかすかな期待がよぎった。
彼女はこれまでその天賦の才を持って、後ろを突き放して勝利する、というレースを繰り返してきた。
彼女は、泥臭く競り合うということを知らないのだ。
ひょっとしたらその泥臭さに嫌気が差して、あっさり引き下がってくれるのではないか。
「……ナメるなっ!」
しかし彼女はまるで、こちらの甘い期待を見透かしたかのように大きく吠えた。
そしてその勝負根性を見せつけるかのように、またわたしを突き放す。
そうだよねっ!
こんなクソみたいに苦しい世界で4年もトップ張ってるような女が、そんな甘いわけなかったか!
わたしは自分の甘ったれた根性に思い切りムチを叩き込み、再加速する。
何度わたしの前に出たって、どんなに突き放されたって、何度だって食らいついてやる!
身体はもう、限界だった。
スタミナなんて、とうの昔に使い果たしている。
わたしに残っていたのは、ただただ前を走るウマ娘に負けたくないという、
ゴール板が、見えてくる。
最強のウマ娘との差が、半歩まで縮まる。
肘が、こすれ合う。
彼女の、荒々しい呼吸が聞こえてくる。
その瞬間だった。
「まだ、私に勝つ気でいるのかぁっ!」
魂を震わせるような、グランアンネリーゼの金切り声が、わたしの鼓膜を打ちつけてくる。
「当たり前だぁぁっ!」
わたしは、反射的に言葉を返していた。
それは死力を尽くして戦い続けた、手負いの獣二匹の、咆哮だった。
ゴール板が、迫ってくる。
スタンドから、大歓声が渦巻く。
あちらも、譲らない。
わたしだって、負けられない!
雪が、止んだ。
わたしたちはどちらも半歩も譲ることなく並んだまま、中山レース場のゴール板を駆け抜けた。
*
ゴールすると同時に、グランアンネリーゼさんは内ラチにもたれかかるように倒れ込んだ。
「結果はっ!?」
そんな状態なのにグランアンネリーゼさんは鋭く叫んで、ターフビジョンを睨みつける。
わたしもつられてターフビジョンに目をやったが、1着と2着の枠には【写真】の文字が表示されているだけで、順位はまだ確定していない。
自分の体調より、勝負の結果が気になる。
一流とは、そういうものなんだろう。
……でも残念ながらわたしは、一流のウマ娘にはほど遠いらしい。
「はぁっ……ふぅっ、はぁっ……」
とにかく、しんどい。
はやく、休みたい。
今はただ、それだけだった。
「……っぁっ……ひゅっ……」
呼吸が、ままならない。
吐く息の中に、ヒュー、ヒューという、おかしな音が紛れ込んでいる。
……やばい。
呼吸だけじゃなく、脚もやばい。
太ももが痙攣していて、このまま倒れてしまいそうだ。
今ここで倒れたら、後ろを巻き込んでの大惨事になってしまう……。
その気持ちだけで、わたしはとりあえず外へ、外へと脚を動かす。
……あ……ダメだ……。
脚から重力が消えた瞬間、全身に誰かの体温が感じられた。
「お父さん……」
眼の前には、珍しく焦りの表情を浮かべたお父さんがいる。
「大丈夫か、エルサ!」
トレーナー待機所で観戦していたお父さんが、倒れそうなわたしを慌てて抱きとめてくれたらしい。
「あんまり大丈夫じゃないかも……」
実際脚に力が入らず、お父さんが肩を貸してくれていなければ、そのままターフに倒れ込んでしまいそうだ。
「担架、呼ぶか?」
そういうお父さんに、わたしは首を横に振る。
「……ううん。肩貸してくれていたら、立っていられるから」
その状態を立っていると言っていいか分からなかったけど、結果が出るまで、わたしはどうしてもここを離れたくなかった。
「そうか。無理そうなら、すぐに言えよ。担架で医務室に運んでやるから」
お父さんもそんなわたしの気持ちを察してくれたのか、それだけ言うと視線をターフビジョンの方へ向ける。
グランアンネリーゼさんのトレーナーさんも、倒れ込んだ愛弟子のもとに駆け寄っていた。
「リゼ、大丈夫か? いや、これは……。おいっ! 担架をたの……」
グランアンネリーゼさんの様子を見た彼は、すぐ係員に指示しようとしたが、彼女は彼のジャージの裾を引っ張ってそれを制止する。
「私は、大丈夫ですから」
「でもお前、顔色が……」
彼が指摘しても、グランアンネリーゼさんはゆるゆると首を横に振るだけ。
「本当に、大丈夫ですから。そんなことより、結果は……」
「……心配するな。お前が勝ってるに決まってる」
彼はどうやら、グランアンネリーゼさんをここから連れ出すことを諦めたようだった。
「お前は、強いんだから」
「お前は、絶対王者なんだから!」
彼は自分の肩を貸して、なんとか立ち上がらせたグランアンネリーゼさんを、震えた声で激励し続ける。
きっとグランアンネリーゼさんは、すぐにでも処置を受けたほうがいい状態なのだ。
それでも彼女のトレーナーは、満身創痍の絶対王者を、
*
わたしたちがゴールして、もう何分が経っただろう。
ターフビジョンの1・2着は、変わらず【写真】の文字を表示し続けている。
わたしとグランアンネリーゼさんだけじゃなく、ゴールした他の出走者も、スタンドの大観衆も、息を詰めて確定の赤ランプが灯るのを見守っている。
「同着に……ならないかな……」
緊張感漂うターフの上で、わたしはポツリとそんなことをつぶやいた。
ふたりとも自分の限界を超えて戦いきった。
いいレースだった。
栄冠を二人で分け合って、『あなた、なかなかやるわね』『お前もな』的なハッピーエンドで、もういいじゃないか。
わたしの甘すぎる妄言に、トレーナーはなにも言わない。
わかってる。
この期に及んで、わたしは本当に甘いことを言っていることぐらい、自覚している。
でも『同着になればいい』というのは、わたしの偽りのない本心だった。
こんな状況でも『わたしが勝ってるはずだ!』と思えないあたり、わたしはとことん、勝負事に向いていない甘い性格をしているらしい。
いつものように、結果が決まる瞬間は唐突で、冷徹だった。
1着2着の枠に無機質な2つの数字が表示され、確定の赤ランプが灯った。
「あ……」
勝ったのは、8番を背負ったウマ娘。
その数字を見た瞬間、全身から力が抜け、支えてもらっていたわたしの腕がトレーナーの肩からずるりと滑り落ちた。
膝に、強い衝撃が走る。
「エルサっ!?」
お父さんの声が、ずいぶん遠くから聞こえる気がする。
喉の奥から、熱いものが込み上げてくる。
「あ……あぅっ……あぁあっ……」
声を出したいのに、まるで声帯の奥に熱いかたまりが詰まっているかのような、かすれた声しか出てこない。
瞳からは、まるで血が流れているのかと錯覚するほどの、熱いなにかが流れ落ちている。
「ま……負け……」
負けた……。
負けた。
負けた!
わたしが、ハナ差で、負けたんだ!!
あんなに、トレーニングしたのに!
あんなに、走り込んだのに!
みんなに、一番人気に、推してもらったのに!
あれだけ、お父さんとお母さんに負担をかけて、支えてもらったのに!!
「あ……あぁ……うぁああぁああぁっ――!」
いつもいつも、わたしはこうなんだ!
中学最後のインターハイでも、ハナ差で勝利を逃した。
平地でも、最高順位は二着だった。
初めて挑戦した重賞も、3番人気まで推されていたのに、みんなの期待に応えられなかった。
本当に欲しいものは、いつもわたしの手のひらからこぼれ落ちてゆく。
落ちてしまったものは粉々に砕け散って、もうわたしの手には入らない。
どんなにがんばっても、どんなに人から応援してもらっても、わたしの力が足りないせいで、掴めない。
どうして。
どうしていつもこうなんだっ!
わたしは、無能で、非才で、きっとこれからも何者にもなれないんだ。
わたしは、お母さんのようにはなれない!
急に、自分が、お母さんと同じ勝負服を着ていることが、たまらなく恥ずかしくなった。
才能のないわたしが、この勝負服を着ているより、素っ裸でいるほうがよっぽどマシだ!!
胸元を思い切り掴み、勝負服を引きちぎろうとしたその時。
熱いものが、わたしの身体を締めつけた。
肩口から、震える声が、聞こえる。
「エルサ、お前は本当によくがんばった。恥じることはなにもない。投げ出すな。諦めるな。諦めないで、次を目指すんだ。お前の母の、ヒシミラクルのように。お前は、それができるウマ娘なんだから」
「お、お父さ……」
声にならない声が、喉を震わせる。
胸の中が凍りつきそうな中山の空気を何度も何度も吸い込み、わたしは顔をグシャグシャにして、お父さんの胸にしがみついていた。
*
「……ありがとう。もう、大丈夫」
どのぐらいお父さんにしがみついていたのだろう。
ようやく少し気持ちが落ち着いてきて、わたしは目をつけ袖でこすりながら立ち上がった。
でも脚の疲れはあんまり大丈夫ではなかったようで、すぐ膝が折れそうになる。
そんなわたしを、お父さんはしっかり支えてくれた。
「ごめん」
「無理するな。車椅子持ってくるか?」
「いや、肩貸してくれてたら大丈夫だよ」
「そうか」
トレーナーである父親のたくましい肩に腕を預けながら、二人で通路に向かおうとしたときだ。
「エルサ! いいレースだったぞ!」
「ホントにホントに惜しかった! 次は絶対、アンネに勝てるよ!」
「一番人気らしい、素晴らしい走りだったぞ! これからも応援するからな!」
拍手とともに、そんな声があちこちから飛んでくる。
一番人気に、応えられなかったのに。
……みんなの期待に、応えられなかったのに。
それでもみんな、わたしのことを応援してくれている。
そのことに、胸の奥がジンと暖かくなる。
わたしはファンたちの温かい声援に応えるよう、精一杯の笑顔でスタンドに向かって手を振った。
ただそれだけのことなのに、ファンたちはひときわ大きな拍手をわたしに返してくれる。
「……トレーナー……」
「よかったな」
笑顔を浮かべているはずなのに、なぜか視界が滲んでくる。
「うん」
わたしはかすれそうな声を出さずに済むよう、小さくコクリと首を縦に振って、それだけ言った。
*
「グランアンネリーゼさんは、どうしたの?」
控室に戻る道すがら、わたしは気になっていたことをトレーナーに聞いてみた。
ファンのひとたちの温かい言葉はもちろん嬉しかったんだけど……。
もしグランアンネリーゼさんがウイニングランを披露していたのなら、ファンたちの関心は当然そちらに向いていたはずで、負けて去りゆくわたしに声を掛けるなんてことはなかったはずだ。
「彼女は結果が出た瞬間、意識を失ってな。そのまま担架で運ばれていったよ。あれだけ激しいレースを戦ったんだ。きっとグランアンネリーゼも限界だったんだろう」
極力感情や私感を交えず、端的に事実だけを伝えてくれる。
別にトレーナーが冷たい人、ってわけじゃない。
トレーナーは『担当がついているウマ娘のことに、ほかのトレーナーが口を挟むのはタブー』という慣習を律儀に守っているだけだ。
「そっか。グランアンネリーゼさんのことだから大丈夫だとは思うけど、無事だといいね」
「そうだな」
「……センターがそんな状態じゃ、さすがに今日のウイニングライブは中止かな」
そう言って、わたしは小さくため息をついた。
勝ったウマ娘が今回のように極度の疲労やケガなどでライブが行えない状態の場合、ウイニングライブは中止になってしまう。
ウイニングライブなのにステージに勝者がいない、というのでは矛盾もいいところなので、中止は仕方ないと思うんだけど……。
特にJ・GⅠは年に2回しか行われず、ライブで使用される楽曲も専用曲のため、楽しみにしているファンは多いだけに、残念に思う。
「多分、そうなると思う。それにお前だって、とてもじゃないがウイニングライブに出られる状態じゃない。たとえライブが行われたとしても、今のお前にステージに立つ許可は出せないな」
「……そうだね」
実際こうしてトレーナーの肩を借りていないと歩くのもきつい状態で、ファンたちにまともなパフォーマンスを披露できるとも思えない。
もっと心身を鍛えないと、J・GⅠではとても戦っていけないなぁ……と反省したところで、控室についた。
「お疲れさま、エルサ」
トレーナーが扉を開けてくれると、そこにはお母さんが笑顔で待ってくれていた。
「お母さん……」
「すごいレースだったね! 人のレース見て鳥肌立ったのなんて初めてだよ。本当にいいレースだった」
「ありがとう。でも、せっかく応援に来てくれたのに、かっこいいとこ、見せられなくてごめんね」
お母さんの笑顔を見ていると、また目の奥が熱くなってくる。
わたしは、こんなに泣き虫だっただろうか。
こんな豆腐メンタルじゃ、そりゃあの接戦をモノにすることなんてできっこないか……。
なんとか涙をこらえて自虐的に笑おうとすると、不意に温かくてやわらかいものがわたしを包みこんだ。
「そんなことないよ。グランアンネリーゼさんに真っ向勝負を挑んだエルサは、最高にカッコよかった。エルサは、わたしの自慢の娘だよ。お母さん、これからもずっとエルサを応援し続けるからね」
……なんだよ。
なんでお母さんもお父さんも、どうしてわたしをこんなに泣かせるんだ。
もう出し切ったと思っていた涙が、瞳の奥から込み上げてくる。
子供のころみたいに『エルサは泣き虫だねぇ』とからかわれるのが嫌だったから、お母さんに涙を見られないよう、肩を震わせながら、しばらくお母さんの胸元に顔を埋めていた。