ミラ子の娘。   作:宮川 宗介

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※ウマの漢字表記について。

本作ではウマの漢字を用いる単語(有マ記念・バ場など)については、カタカナ表記で統一しております。
ただし、ウマ偏を内包している漢字(駿など)につきましては、そのまま使用しております。

これはできるだけ、ウマ娘プリティーダービーの世界観を反映したいと考えているからです。
ご了承の上、お話を楽しんでいただければ幸いです。


第四話

バスから降りると、夏らしい強い日差しと潮の香りがわたしを歓迎してくれた。

 

「おお~……ここが合宿所かぁ」

 

合宿所は、位置も建物も昔から変わっていないと聞いていた。

ひょっとしたらオンボロ旅館みたいなところで2ヶ月も過ごすのかなぁ……と少し心配していたけど、こうして外から見ている分には結構きれいな建物で安心した。

 

クラシック級のわたしは、今年が初めての夏合宿だ。

お母さんも夏の合宿で力をつけて菊花賞を勝ったことだし、わたしも頑張って強くなりたい。

 

「よぉ~し、やるぞ!」

 

わたしは気合を入れるべく、夏の太陽に向かって吠えたのだった。

 

*

 

合宿一日目。

さっそくわたしはトレーナーに浜辺に呼び出され、海で水泳の指導を受けていた。

 

「腕で水を掻くときは手のひらだけじゃなくて、腕全体で水を押すように……そうそう、いいぞ」

 

今日のトレーニングは、スタミナや持久力をつけるためのものではない。

最初に言ったとおり今教わっているのはあくまで水泳、つまり泳げるようになるための練習である。

もう少し正確に言うなら、クロールでの泳ぎ方だ。

 

(いつまでもビート板で泳いでいたら、全身をバランスよく鍛えるのが難しくなる。せっかくだからクロールで泳げるように、夏合宿のあいだしっかり練習しておくか)

 

合宿直前にお父さん……もとい、トレーナーはそう宣言していた。

 

言われてみれば確かにビート板を持っている両手はあまり動かしていないわけで、上半身もしっかり動かすクロールのほうが、全身をバランスよく鍛えられる気がする。

 

「ウマ娘はもともと、生まれつき泳げるようになっているんだ。泳げないというのは、体の使い方が下手なだけなんだ」

 

トレーナーのそんな説明を聞きながら、わたしは意識の1/3をバタ足に向け、残りの意識をどうにも自分の思ったように動かない腕に向けて、必死に水をかき出す。

 

「息継ぎは呼吸する方の手が、太ももに触れたタイミングで顔を横に向けて……」

 

わたしは言われた通り、そのタイミングで海面から顔を出して呼吸したつもりだったが……。

 

「!!」

 

うげぇ!

しょっぱい!!

 

思い切り海水が口に入ってくるばかりで、肝心の空気は全然肺に入ってこなかった。

 

「げぼっ! げぼっ! げぼっ!!」

 

たまらずわたしは泳ぎを中断し、立ち上がって思い切り咳き込んでしまった。

というか、女の子が出していい咳の音じゃないなこれ。

 

しかしどうやら気管支に少し海水が入ったらしく、こちらとしてもそんなことは気にしていられなかった。

 

「大丈夫か、エルサ」

 

激しくむせる私を見ても、トレーナーはあんまり心配してなさそうな感じである。

 

「げほ……いや、もうだめ。わしゃもう死ぬるよ」

「うむ、大丈夫そうだな」

 

わたしの悲痛な叫びを聞いても、トレーナーは腕を組んでうなずいているだけだ。

ひどい男である。

 

しかし私はこのひどい男に、確かめなければいけないことがひとつあった。

 

「ねぇ、トレーナー」

「ん、なんだ?」

 

ようやく呼吸が落ち着いてきたわたしは、合宿前から気になっていたことをトレーナーに聞いてみる。

 

「お母さんも確か、泳ぎ苦手だったよね。ビート板を使った水泳で全身を鍛えるのが難しいんだったら、一体お母さんはどうやって泳いでいたの?」

 

わたしのお母さんのヒシミラクルは典型的な遅咲きのステイヤーだったから、スタミナを養う水泳のトレーニングは必要不可欠だったはずである。

 

ひょっとしてお母さんもこうやって指導を受けて、苦手は苦手なりになんとかクロールで泳げるようになったのだろうか。

 

「ん……あ~……それなぁ……」

 

なぜかトレーナーはあさっての方向を向いて、難しそうな顔をこしらえた。

なんだろう。

わたしの母の泳法に、なにか重大な秘密でもあるのだろうか。

 

「実はな……」

「実は……?」

 

わたしはごくっとつばを飲み込んで、父親兼トレーナー兼ヒシミラクルの夫の言葉を待つ。

 

「ここだけの話だぞ? お母さんに俺から聞いた、とは絶対言うなよ」

「うん、わかった」

「……実はな。何度教えてもミラ子はクロールで泳げなかったから、高速犬かきで泳がせて全身を鍛えていたんだ」

「……は? 犬かき?」

 

ま、まぁあれでもバランスよく手足を動かすことはできるのかもしれないけど……。

 

「い、犬かき……。GⅠを3つも勝った名ステイヤーが……ぷぷっ……!」

 

あのお母さんがスク水を着て必死に犬かきしているところを想像すると、申し訳ないがその絵面が面白すぎて、吹き出すのをこらえることができなかった。

 

「いや、お前笑ってるけどな。今週中にクロールをマスターできなかったら、お前も高速犬かきで遠泳させるからな?」

「……マジすか」

 

どうやら我が母上のことを、笑っている場合ではないらしい。

なにが悲しくて高等部2年生にもなって、犬かきでスタミナを強化しなければならないのだ。

 

「それが嫌なら、がんばってクロールで泳げるようになることだな。さ、もう一度だ」

「へ~い……」

 

また大量に海水を飲み込むかもしれない、という恐怖が残っていたが、みんなの前で犬かきする恥よりは幾分マシである。

 

わたしはトレーニングを再開すべく、もう一度海に浮かぼうするとトレーナーがつぶやいた。

 

「苦手でもなんでも、ちゃんと泳ごうとしてくれるお前はトレーナーにとっちゃありがたいウマ娘だよ」

「と、いうと?」

「ミラ子……お前の母さんは海やプールでトレーニングしようとすると、すぐ逃げ出そうとしたからな。サイレンススズカも真っ青な逃げ足で」

 

それはまた、すごい例えである。

 

「お母さん、そんなに水泳トレーニングが嫌がってたんなら、他の方法でスタミナを鍛えるとかはできなかったの? 例えば、ダートを走り込むとか」

 

わたしのアイデアに、トレーナーは首を横に振った。

 

「ただスタミナを補強すればいいって話なら、それで事足りるんだがな。疲労の回復や脚元への負担を考えると、どうしたって水泳は必要になってくるんだ。水泳は脚元への負担がほぼゼロだし、ストレッチ的な効果も期待できるからな」

 

なるほど。

まぁ、わたしが思いつくような代替案を、プロのトレーナーが考えないわけないか。

 

「捕まえたら捕まえたで、今日は筋肉痛がひどいだの、頭痛が痛いだの、よくわからん言い訳でサボろうとするしな。あいつに水泳のトレーニングの指導をするのには、本当に骨が折れた」

 

そう言うとトレーナーはクソデカなため息をついた。

ひょっとしたらそれはもう、一種のトラウマになっているのかもしれない。

 

お母さんもきっと水泳がトラウマになっているだろうし、ウマ娘業界というのはなんとも因果な世界である。

 

「でも、そんなウソすぐバレそうなもんだけど……」

 

トレーナーという職業はレースとウマ娘に関するプロであり、担当の訴えが仮病なのか本当に悪いのかが見破れないということはないように思う。

 

「それだよ。そういうバ体の異常系のウソなら俺だって見破れるんだ。でも敵さんも悪知恵が働くもんでな。『今日は生理がひどくて……』って訴えられるとこちらとしてはもう、何も言えなくなるんだよ。当時、母さんには週イチでプールトレーニングをさせていたんだが、本当に辛かったら無理はさせられんしな」

「あ~……」

 

男性トレーナーがそれを言われると、確かにツッコみにくいかもしれない。

実際わたしも、男性トレーナー相手にそう言ってサボっているウマ娘を何人か見たことがある。

 

つーか、お母さんもあんなほわわん系の見た目して、しっかり女のズルいとこ使ってたんだな。

 

「で、だ。その理由でプールを休めたことに味をしめたのか、あいつ、プールのたびに生理痛を訴えるようになったんだよ。3週目の時は俺も心配になって『病院に行ったほうがいいんじゃないか?』って言ったんだけどな。なのに医者に見てもらうこともしないで4週連続でそう言ってきたときには、さすがにキレた」

「……。そりゃそうでしょうね」

 

3回くらいまでなら頻発月経って可能性もあるから、『それは心配だな。できれば早いうちに病院に行っておけよ』で済んでいたんだろうけど……。

 

いくら男性トレーナー相手とはいえ、さすがにそのウソには無理がある。

病院にも行っていなかったんなら、なおさらだ。

 

色々と人間離れした能力を持っているウマ娘であるが、ベースが人間である以上、そのあたりの周期はフツーの女の人と何も変わらない。

 

……うちのお母さんって、ひょっとしてバ鹿だったんだろうか。

それとも、そんな見え透いた嘘をついてでもサボりたいぐらい、水泳が嫌いだったのだろうか。

 

娘としては後者であることを祈るばかりである。

いや、後者であっても困ったもんだけど。

 

「トレーニングをサボろうとしたことより、つまらないウソをついたことが許せなかったんだよ。俺も若かった、ってこともある。怒鳴りつけて水着に着替えてこさせても、まだゴチャゴチャ言って泳ごうとしないから、もうキレ散らかして空き缶で大きな音を立ててプールに追い立ててやったもんだ」

「…………」

 

あ、その伝説は本当でしたか。

というか、そこまでされないとプールでトレーニングしなかったんだな、お母さん……。

 

「ようやくプールに追い落として泳ぎ始めるか、と思ったらあいつ、なんて言ったと思う? 『トレーナーさん、勘違いしないでください。わたしはプールが苦手なわけじゃない、大嫌いなだけです!』だとよ。どこのアーカードなんだ、あいつは。今思えばあのミラコーにニンニクでもぶつけてやればよかった」

 

そのアーカードさんがどなたさまかは知らないけど、いくらキレていても女の子にニンニクをぶつけるのは止めていてよかったと思うよ。

 

しかもなんでぶつけるのがニンニクなのか、わたしにはわからなかった。

ニンジンじゃダメだったんだろうか。

 

「……すまん、娘のお前に聞かせる話じゃなかったな」

「いや、面白かったから別にいいけど」

 

お母さんがGⅠを勝利するまでの道のりは、決して平坦ではなかったらしい。

というか、そんな練習嫌いでよくGⅠを3つも勝てたもんだ。

 

やっぱりお母さんは普通のウマ娘などではなく、生まれつきの天才ステイヤーだったんだろうな……。

 

それだけの練習嫌いなら、たとえかなり才能に恵まれたウマ娘であったとしても、まともな成績を残すことは難しいと思う。

 

どこかの漫画で読んだけど、やっぱりウマ娘の強い弱いは遺伝子が決めるのかねぇ……。

 

「さ、雑談はこの辺にしておいて練習だ。努力にまさる天才なし。まずはきれいな姿勢で浮くところから再開するぞ」

 

努力にまさる天才なし、ね。

なんともスポ根的な考え方だけど、一理あるのも間違いない。

 

しかし自分の出した成果というのは、どこまでが努力のおかげで、どこからが才能のおかげなんだろうね。

 

ここがブラックボックスなせいで、いろんなジャンルでどれだけの人が悩み、苦しんでいることか。

 

どんな天才だって努力なくして上達なし、は真理なんだろうけど、努力だけでは到達できない領域があるのも、また厳然とした事実である。

 

もっと科学や医学が発展したら、遺伝子を調べるだけであなたの才能なら努力でここまでいけますよ、って分かったりするのかなぁ。

 

それが人にとって幸せなことなのかは、わからないけど。

 

そんな哲学的なことを考えながら、わたしはふたたび真夏の太平洋の片隅に、ぷかりと浮いた。

 

*

 

福島レース場に来たのは、デビュー戦以来久しぶりだった。

 

わたしはお母さんと同じく仕上がりは結構早いタイプ(お母さんもジュニア級の8月デビューだ)だったので、7月にメイクデビューが開催されていて、トレセン学園から一番近いレース場である福島でデビューしたってわけだ。

 

結果は残念ながら、お母さんのデビュー戦と同じく7着だったけど。

 

障害レースへの再デビュー戦がここになったというのは、ちょっとした縁を感じる。

 

今日わたしが戦うレースは、障害クラシック級以上未勝利・2770Mだ。

 

「ま、お前もレースに出るのが初めてってわけじゃない。飛越のトレーニングもしっかり積んできたことだし、特に注意することもないな。気をつけていってこい」

 

トレーナーはそう言って、ぽん、とわたしの肩を叩いた。

トレーナーの言い方は、取り方によってはちょっと無関心すぎるように聞こえる。

でもこれはきっと、わたしに初めての障害戦ということをあまり意識させすぎないようにする、トレーナーの配慮なんだと思う。

 

「そうだね。じゃあ、行ってくるよ」

 

わたしも特にいつもと変わったような返事をすることもなく、軽く手を振って控室をあとにした。

 

*

 

パドックに来たわたしは、思わず驚きに目を見開いてしまった。

観客の多さやその賑いに驚いたわけじゃない。

 

出走するウマ娘たちを見て、驚いたのだ。

驚愕したのだ。

 

出走人数は、7人。

 

少ないように感じるかもしれないけど、障害を主戦場にしている娘自体が少数なのでこのことはある程度分かっていた。

 

びっくりしたのは、出走している娘達の仕上がりだ。

 

7人の内、4人は明らかにトレーニングが足りていない体をしている。

目に見えて太め残りというわけでもないのだけど、少なくとも戦うウマ娘の体つきではなかった。

 

4人の中には、もうベテランと言っていいシニア級のウマ娘も混じっている。

 

その4人は固まって、「レース終わったら何食べに行く?」「福島に来たらやっぱ喜多方ラーメンでしょ」「それも悪くないけど、今日は渋く川俣シャモでキメてみない?」「おっ、いいね~」みたいな緊張感の欠片もない会話を交わしている。

 

どんな会話を誰としようが勝手であるが、少なくともレース前のパドックでしなければならない話ではないことは、確かだろう。

 

他のふたりはきっちりと仕上がっていて、舞台でファンに挨拶したあとは呼吸を整えたり、軽く準備運動をしたりして、戦闘準備を整えている。

 

……あの4人の様子を見て、今日初めて障害を走るわたしが二番人気に押されている理由が、ようやくわかった。

出走するメンバーの全員の追い切り時計を見比べたわけではないが、わたしのタイムがあの4人より悪い、いうことはあるまい。

 

「お、ミラ子の娘は初めての障害だな!頑張れよ~」

「スタミナは母親譲りのものを持ってるだろうからな。いい勝負してくれるって期待してるぞ!」

 

わたしがパドックの舞台に立つと、そんな声援が観客席から飛んでくる。

 

応援してくれるオーディエンスに笑顔で手を振りながら、わたしはさっきの四人組のことを考えていた。

単に、レースまでに仕上げきれなかったウマ娘が4人いる、というだけなのだろうか。

 

平地もそれなりに走ってきたわたしだけど、そんなウマ娘が4人も出走していた、というレースにあたったことは一度もない。

 

それとも……なにか、そうなる理由があるのか。

 

気にはなったが、まさかレース前に『あんたたち4人ともまともに仕上がってないみたいだけど、なんかワケでもあるの?』と聞くわけにもいかない。

 

わたしはモヤッとしたものを抱えたまま、静かにパドックの舞台から降壇した。

 

*

 

福島の障害レースの2770Mは、障害専用のスタートラインからレースが始まるようだった。

慣れない位置に設置してあるゲートに入り、スタートを待つ。

例の4人も、特に問題なくゲートに収まったようだ。

 

全員、ゲートイン完了。

 

夏らしい蒸し暑い空気を切り裂いて、レースがスタートした。

 

先手を取ったのは、3番人気のカロアムーンさんという娘だった。

 

彼女が障害競走を走るのはこれが4戦目で、いわばわたしの先輩にあたるウマ娘だ。

 

障害経験者の彼女が未経験のわたしより人気が下回ってしまったのは、お母さんが短距離で活躍したウマ娘の上、追い切りタイムもあまり良くなかったせいだろう。

 

それから前々走3着、前走2着と好成績を収めている1番人気のソフィアリボンさんが続き、彼女をマークする形でわたしが控えている。

 

それから4バ身ほど離れて、例の四人組が固まっているようだ。

 

カロアムーンさんが、第一の障害・ハードル(両面竹柵)に差し掛かった。

彼女はそれを、軽いジャンプで難なく飛び越える。

 

ソフィアリボンさんも綺麗な飛越でそれを飛び越え、わたしも初めての実戦での障害物にドキドキしながらも、これをなんとかクリアした。

 

大きな順位の変動もなく、しばらく芝の平坦なコースを走っていると、今度はダートが見えてきた。

 

あれを横切るときには、注意しないといけない。

 

砂に足を取られて転ぶ、なんてことはさすがに稀だけど……。

でも進入直後にバランスを崩してしまって余計なスタミナやパワーを浪費してしまう、ということは十分に起こりうる。

 

今日のレースは2770Mという長丁場だ。

 

節約できるスタミナは、少しでも節約したい。

 

『ダートに進入するときは、なんとなく脚を踏み入れるんじゃないぞ。芝の切れ目を意識して、第一歩目でしっかり砂を踏み込むんだ』

 

昨日トレーニング中にトレーナーからもらったアドバイスを思い出しながら、わたしはその通りにダートコースに脚を踏み入れた。

 

それが功を奏したのか、砂の上でも特にフォームが崩れることも脚元が不安定になることもなく、ダートを横切ることができた。

 

次の障害は、グリーンウォールだ。

さっきの竹柵より少し幅が狭いので、あまり大きく飛びすぎないようにしないとならない。

 

先頭を行くカロアムーンさんが土台にちょっと脚を引っ掛けたが、中空ですぐに体勢を立て直して芝に着地する。

ソフィアリボンさんはこれも綺麗に飛び越えて、カロアムーンさんとの距離を縮めた。

 

ん……?

 

ソフィアリボンさんの飛越を見て、気づいたことがある。

 

彼女はグリーンフォールをジャンプする時、前の竹柵を飛び越えるときより膝の動きを小さめにして、障害物の少し後ろで踏み切っていた。

 

なるほど。

ああやって飛び越えると、幅の小さい障害でも無駄なく綺麗に飛越できるのかもしれない。

 

彼女の動作を見て、わたしもさっきの障害物を飛び越える時より少し早めに蹴り出して、ゆっくり飛ぶことを意識してみた。

 

おっ!

 

そうすると理想的な体勢で障害物を飛び越えられ、脚にほとんど衝撃を受けることなく着地することができた。

 

設置されている障害には、それぞれに理想の飛び方というものがある。

当然ある程度はトレーナーからコーチングされているし、飛越が上手なウマ娘のレース動画を見て研究したりもしている。

 

だがトレーニングコースでトレーナーに指導されながら飛ぶのと、実戦の中で障害物を飛越するのはプレッシャーに雲泥の差がある。

それに飛越の動作も、動画で見るのと実戦で見るのでは、視点も学べるものもまったく違ってくる。

 

ソフィアリボンさんのような、飛越のうまいウマ娘の走りを間近で観察できたのは幸運だった。

 

彼女の飛越に感心している間もなく、それからすぐにバンケットが見えてくる。

バンケットとは上り下りのある坂のことで、ウマ娘の体幹の良さが要求される場所である。

 

わたしはウマ娘の中でもトルクに自信がある方だったから、坂を一気に駆け上がり、そして一気に駆け下りた。

 

下り坂でスピードをつけることができたわたしは、勢いそのままに二番手のソフィアリボンさんに並びかける。

 

いきなり視界に入ってきたわたしが少し気になったのか、彼女はちらりとこちらを見たが、またすぐに視線を前に戻した。

 

しばらくは平地が続き、先頭はカロアムーンさん、二番手争いはソフィアリボンさんとわたしという隊列になった。

 

……後方からの足音はまったく聞こえない。

どうやら、あの4人とはかなり離れてしまったようだ。

 

最初の竹柵より少し背が低い可動式ハードルを飛び越えて着地したとき、わたしはほとんど同じ位置にいたソフィアリボンさんから、2・3歩遅れてしまった。

 

このあたりが、彼女と私の飛越技術の差なのだろう。

 

それだけじゃない。

 

そろそろ、脚の方にも疲れが溜まり始めてきた。

レースはまだ中盤を少し越えたぐらいなのに、大丈夫だろうか。

 

そしてすぐに、一番最初に飛んだのと同じ竹柵障害が見えてくる。

一度飛んでいるので、油断さえしなければ大丈夫……。

 

「!?」

 

なんて思っていると、踏み込みが浅かったのか、思ったほど高く飛ぶことができなかった。

飛び越えたというより、竹垣をかき分けるような感じで竹柵障害を突破してしまう。

 

いや、違う。

踏み込みが浅かったわけじゃない。

 

ここまで走ってきた疲労のせいで、一回目ほどうまく飛ぶことができなかったのだ。

 

どうやら自分で思っている以上に、スタミナを消費しているらしい。

 

レースはまだ中盤の終わりぐらいで、障害も3つ残っている。

 

ちょっと待って。

 

……勝ち負けどころか、わたしはこの未勝利戦を完走することすら、できないんじゃないか。

 

上がってきた息とともに、そんな弱気にメンタルが侵食されそうになる。

キツいレースであることは覚悟していたつもりだったが、障害競走というのは想像以上にタフなマラソンサバイバルのようだ。

 

幸い、次の障害までは少しばかり距離があった。

わたしは少しスピードを緩め、スタミナを温存することにする。

 

こんな小細工に、どれだけの効果があるかはわからない。

けど今の速度を維持したままでは、とてもじゃないがゴールまで走りきれる気がしなかった。

 

スピードを落とした分、前のふたりとの差が少しずつ開いてゆくが、またどこかで追いつけるタイミングがあると信じるしかない。

 

もしその機会がやってこなかったのなら、少なくともわたしにはこのレースで勝ち負けを競うだけの基礎体力がついていなかった、ということになる。

 

いや、大丈夫。

わたしだってそれなりに(大嫌いで苦手なプールも含めて)、トレーニングを重ねてきた。

それにトレーナーだって、レースで戦えるだけの基礎体力も身についていないウマ娘を、戦場に放り込むわけがない。

 

その二つを信じて、わたしは次の竹柵ハードルをなんとか飛び越える。

スタミナ温存作戦がうまくいったのか、さっきよりはマシなジャンプで飛越することができた。

 

残る障害は、あと2つ!

 

次の障害は、すぐに見えてきた。

先ほどと同じ、竹柵障害である。

 

もうちょっと頑張って、わたしの脚……!

 

障害物に視線を集中させて、柵の手前で……踏み切って、ジャンプ!

 

祈りが通じたのか、わたしはラス前の障害をなんとか乗り越えた。

 

視線を前に戻すと、5・6バ身あったはずのソフィアリボンさんとの距離が、3バ身ほどまでに縮まっている。

 

そのソフィアリボンさんとカロアムーンさんとの距離は、もう半バ身ほどまでに迫っていた。

 

ここまでレースを先導してきた彼女たちも、わずかにペースを落としたのだろう。

 

あとは、わたしがどこまで食らいつけるか、だ。

 

最後の障害物である竹柵ハードルまでは、少しばかり距離がある。

わたしは今のペースを守りつつ、少しでもスタミナを温存することに集中する。

 

いよいよ、最後の障害が見えてきた。

 

その手前で、一番人気のソフィアリボンさんが、とうとうカロアムーンさんを差し切って先頭に躍り出た。

 

そして持ち前の飛越センスで、最後の障害も楽々クリアする。

 

追い抜かれてしまったカロアムーンさんは、焦りを覚えたのだろうか。

もうスタミナも限界に近づいているはずなのに、彼女はもう一度先頭を奪い返そうと脚に力を込めて加速を試みる。

 

……が、それがまずかった。

 

疲労と焦りと加速に気を取られていたせいだろう。

彼女は竹柵への目測を見誤り、竹を支えている土塁に脚を引っ掛けて転倒してしまった。

 

「!!」

 

わたしの走っていた位置が、カロアムーンさんの真後ろでなかったのは幸いだった。

 

竹柵手前でうずくまって動かない彼女を誤って踏みつけたり、彼女に脚を引っ掛けてわたしも転んでしまう、なんてことにならずに済んだ。

 

転倒した彼女のことは心配だったが、まさかレース中に駆け寄るわけにもいかない。

わたしは一瞬だけ彼女の無事を祈り、目の前にある竹柵ハードルに意識を戻した。

 

もう、わたしの脚も限界寸前だ。

 

わたしは思い切りジャンプしたつもりだったが、またしても竹をかき分けるような、ブサイクな飛越になってしまった。

 

それでもなんとか、転倒することなく最後の竹柵ハードルをクリアする。

 

残り200M!

 

さぁ、最後の直線勝負である。

 

もう、わたしたちの行く手を阻む障害物は、存在しない。

 

先頭を走るソフィアリボンさんまでは、およそ1バ身ほど。

 

ここまで素晴らしいレース運びを見せてきた彼女だったが、さすがに限界が近いのか、脚色が悪く、体幹も右に左に揺れていて一定していない。

 

脚色はわたしも人のことを言えたものでなかったと思うが、母親譲りのスタミナと苦手な水泳で鍛え上げた持久力を信じて、必死に前のウマ娘を追う。

 

少しずつ、彼女の背中が迫ってくる。

 

あと、3/4バ身。

 

あと、1/2バ身。

 

残り、50M。

 

とうとうわたしは、一番人気の娘を差し切って、先頭に立った。

 

その瞬間、スタンドから大きな歓声が湧き上がる。

 

ソフィアリボンさんも根性を見せて差し返そうとしてくるが、少しずつ少しずつ、彼女との差が開いていくのを感じる。

 

わたしの前には、もう誰もいない。

 

それは、わたしがトゥインクルシリーズにデビューしてから、初めて見る光景だった。

 

これが、勝利するってことなのかな……。

 

妙に客観的になってそんなことを思ったとき、スタンドから聞こえる拍手とゴール板が、1着でゴールしたわたしを出迎えてくれたのだった。

 

*

 

「おつかれ。まずは初勝利、おめでとう。今日の仕上がりならそこそこやるだろうな、とは思っていたが、まさか障害初戦に勝ってしまうとは驚きだ。よくやった」

 

控室に戻ると、珍しくトレーナーが手放しに褒めてくれた。

まぁ、あんまり褒められた記憶がないのは、わたしが今まで褒められるような成績を残していなかった、ということもあるけど。

 

「あり、がと、う……」

 

わたしはまるで取組直後のお相撲さんへの勝利者インタビューのような息遣いで、とりあえず褒めてくれたことへのお礼をいう。

 

呼吸の乱れもひどいものだったが、真夏のレースであることを差し引いても、滴り落ちる汗の量が尋常じゃない。

このままだとわたし、汗のかきすぎで干からびて死んでしまうんじゃないか、と思ってしまうほどの発汗量である。

 

「うむ。まずは呼吸を少し落ち着けて、これを飲め」

 

わたしはトレーナーの差し出してくれたスポドリを受け取り、そして大きく息を吐きだす。

 

肺の中が空っぽになるまで息を吐き出して、それから数回深呼吸を繰り返すと、ちょっとずつ呼吸が楽になってきた。

 

それを自覚したわたしはスポドリの蓋をかしゅっと開けて、一気にそれを乾ききった体内へと思い切り流し込む。

 

ふぅっ。

うめー。

 

それでようやく、ひと心地つくことができた。

 

いや、障害競走って、マジでキツい。

 

平地のレースも決して楽ではなかったけど、今日のレースは消費する体力も精神力も、わたしには段違いに大きく感じた。

 

これから毎回、こんなレースを走ることになるのか。

わたし、こんな激しいレースをこれからも戦い続けることができるのかな……。

 

「お前の今日のレースを見ていると、スタミナはさすがにいいものを持っているみたいだな。そのスタミナも、これからどんどん鍛えることができる。飛越はまだまだだが、最低限のことはできていたし、トレーニングすればもう少し良くなってくるだろう。今日はよく頑張った。ライブでは胸を張ってセンターを務めてきなさい」

 

そうだ。

レースのあまりのハードさに、ウイニングライブのことをすっかり忘れていた。

 

って、ちょっと待って。

 

「せ、センター?」

「そりゃさっきのレースを勝ったのはお前なんだから、今日のウイニングライブはお前がセンターだぞ。嬉しくないのか?」

 

いや、嬉しくないわけじゃないんだけど、デビュー以来ずっとウイニングライブではバックダンサー、よくて準センター(平地でも2着が2回あった)だったから、ちょっとピンとこなかったのだ。

 

「決してそういうわけじゃないんだけどね。そっか~。センター……今日はわたしがセンターか」

 

センターという甘美な響きに、思わず頬が緩む。

 

トレセン学園に入学し、トゥインクルシリーズを走る以上、一度はウイニングライブで経験してみたいと願うポジションである。

 

「よ~し。初めてのセンターだし、いっちょ気合い入れていきますか。今日のわたしを応援してくれた人たちのためにも!」

 

気合を入れるわたしに、トレーナーはなぜか感慨深く頷いていた。

 

*

 

舞台袖には、すでに二着でゴールしたソフィアリボンさんが待機してくれていた。

 

「あっ、お疲れ様!今日は優勝、おめでとう!」

 

負けて悔しくないわけがないだろうに、ソフィアリボンさんは笑顔でわたしの勝利を祝福してくれた。

 

レースが終われば、ノーサイド。

この精神はトレセン学園の生徒たちが綿々と受け継いできた、美しい伝統である。

 

もちろんわたしも、できるかぎりこの伝統を尊重してきたつもりだ。

 

「ありがとう。ソフィアリボンさんにはいいレース運びされてたからもうダメかな、と思ったけど、展開が少しわたしの味方してくれたから」

 

お祝いの言葉に、わたしは謙遜と本音を半分ずつ織り交ぜてお礼をいう。

 

後ろにあの4人が固まってくれたおかげでペースが落ち着いたうえ、誰かにマークされたり、包まれたりすることがなかったのは、先行脚質のわたしにとってラッキーな展開だった。

 

それに、彼女の飛越を間近で見られたことは、本当に勉強になった。

 

「いやいや、あなたが勝ったのは実力だよ。あ~あ、それにしてもまた二着か。自分でもいいレースした、と思えただけに一番人気に応えたかったなぁ……」

 

負かされた本人を目の前にして、ソフィアリボンさんは心底残念そうにそうごちた。

 

現役を通じて、一番人気に推されることはそうそうあることじゃない。

たとえそれが未勝利戦であったとしても、一番人気に推されるというのはそれだけで名誉なことなのだ。

 

その期待に是が非でも応えたかったというのは、彼女の嘘偽りのない本当のところだろう。

 

「ソフィアリボンさんは飛越がとても綺麗だったし、最後の直線でもほとんどスピードが落ちてなかったから、次は絶対勝てるよ。わたし、応援してるから」

 

これは建前なしで、わたしが心の底から思ったことである。

 

「うん、ありがとう!」

「……それにしても、他の人たち遅いね。もうすぐライブ始まっちゃうよ」

 

時計を見ると、もう本番5分前である。

 

ウイニングライブのときは、いつも5分前にはみんな舞台袖に集まっていて、それぞれに歌詞や振り付けを確認しているものなんだけど……。

 

「あ。あ~……レース中転倒しちゃったカロアムーンさんだけどね、大きなケガじゃなさそうなんだけど、一応病院に行って検査してもらうんだって。残念だけど今日のライブは欠席だね」

「よかった。カロアムーンさん、とりあえずは無事だったんだ」

 

彼女のことは気になっていたので、それを聞いたわたしはほっと胸を撫で下ろす。

一緒にライブできないのは残念だけど、大事に至らなかったのは何よりだ。

 

「カロアムーンさんが来ないのは分かったけど……あとの四人はどうしたんだろう?何かあったのかな」

 

わたしが首を傾げると、ソフィアリボンさんはなにか言いにくそうにあさっての方を向いて……苦笑いを浮かべた。

 

「……あとの四人は、多分来ないよ」

「えっ!? なんで?」

「あ~……エルサミラクルさんは、障害未勝利戦のウイニングライブって見たことある?」

 

ソフィアリボンさんはこれまで何回も障害レースを走り、ここ数戦は必ず3着以内と好走を繰り返しているウマ娘である。

当然、障害競走というものにそれなりの思いを持っているはずだ。

そんな彼女からのその質問はちょっと答えづらかったけど、ウソを言うわけにもいかない。

 

「ごめん。今まで見る機会がなくて……」

 

わたしの返事にソフィアリボンさんはさして気を悪くしたふうもなく、そう、と言ってうなずく。

 

「そっか。あのね、未勝利の障害競争って、こういっちゃなんだけどもうレースに対して全然情熱のない娘も、結構出走していたりするんだ」

 

それは、初めて聞く話だった。

でもなんでそんな娘がレースに、しかもキツい障害競走なんかに出てくるんだろう。

 

もう情熱が残っていないならレースなんてやめて、トレセン学園を退学すればいいだけの話じゃないか。

 

普通の高校に転校するとか、専門学校に行って自分の興味のあることを勉強するとか、あるいは就職するとか、他に道はいくらでもあるはずである。

 

「それはまた、どうして?」

「平地の未勝利戦って、クラシックの5月後期までしかないでしょ。それまでに一度も勝てなかった娘は、もう中央の平地で走るレースがなくなってしまうってのは知ってるよね?」

「うん」

 

というか、わたしがその典型的な例である。

イヤミっぽく聞こえてもなんなので、わざわざ『わたしがそうだったよ』なんて言ったりしないけど。

 

「だからといってトレセン学園から叩き出されるわけじゃないし、みんながみんなそう、ってわけじゃないけど……勝てなかった娘の中には『もうレースに出られないのに、この学園に通っているのは肩身が狭い』って感じる娘もいるわけ」

「……なるほど」

 

他人事のように答えたが、わたしだって最後の未勝利戦で負けた時は『これで自分のレース人生とトレセンでの学園生活は終わった』と覚悟を決めたぐらいである。

 

しかし彼女が言ったとおり、トゥインクルシリーズで未勝利で終わった娘全員が、そんな気持ちでトレセン学園に通い続けているわけじゃない。

 

レースで活躍できなかった分、学業に打ち込んでいい大学に進学したり、社会に出て立派にやっているウマ娘はたくさんいる。

 

学園卒の著名人だとハロー企画の社長で、イベントプロデューサーのライトハローさんなんかがいい例だ。

 

「そういう娘たちのほとんどは普通の高校に転校したり、地方へ移籍したりするんだけどね。でもさ、特待生としてここに来ている娘とか、親や地元の期待を背負ってトレセン学園に入学した娘たちは『レースで一回も勝てなかったんで、トレセン辞めて他の進路に舵を切ります』とか『レースはダメでしたけど、高卒の学歴がもらえる高等部3年間が終わるまでは、ここで勉強頑張ります!』ってわけには、なかなかいかないでしょ」

「あ~……それは、そうかもね」

 

そこまで話してもらえれば鈍感なわたしにも、彼女の言いたいことが分かってきた。

 

「で、結果的に出走制限がない障害競走の未勝利戦が、平地で勝てなかったけどレースとトレセン学園は辞めるに辞められない、って娘たちの受け皿になってしまっているの。当たり前っていえば当たり前だけど、そんな娘たちにレースに勝とう、ウイニングライブを盛り上げよう、なんてモチベーションがあるわけないよね。だから……」

 

そこから先は、陰口になると思ったのだろう。

彼女は口を(つぐ)んだが、あの四人組みたいにまともにトレーニングしていなかったり、平気でライブをすっぽかしたりするようなウマ娘も出てくる、と言いたかったのだと思う。

 

「ま、人それぞれ事情はあるよね」

 

彼女の話を聞いて思うところがなかったわけではないが、例の四人組のことを悪く言う気にはとてもなれなかった。

わたしだって彼女たちのような境遇に置かれていたら、きっと同じようなことをしていたと思う。

 

「あの人たちのことはもう置いておいて……。そうだ、あんまり時間ないけど、ライブ前にちょっとだけでもリハしておかない?」

「そうしよっか」

 

わたしの提案に、ソフィアリボンさんはうなずいてくれる。

 

本番が間近に迫っていたわたしたちはお互いに振り付けが難しい箇所や、自分のパフォーマンスにあまり自信のない箇所だけをチェックし合った。

 

ちなみにウマ娘たちは出走するレースが決まると、ウイニングライブで披露するダンスの振り付けをセンターからバックダンサーのものまで、一通りレッスンを受けてしっかり覚える。

 

だって自分がどこで踊ることになるのか、着順掲示板の確定ランプが点くまではわからないのだから。

 

たまに頭から『今日は自分が勝つに決まってる』と決めつけて、センターの振り付けしかまともに覚えずに出走して惨敗してしまい、バックダンサーの振り付けがうろ覚えって娘もいるけどね。

 

昔、伝説の名トレーナーが言ったように、レースに絶対はないのだ。

 

「っと、こんな感じかな?」

 

わたしがキメのポーズを取ると、ソフィアリボンさんは拍手を送ってくれた。

 

「お、いい感じ。ひょっとして今日は勝つつもりでセンターの練習、やりこんできたとか?」

「いや、まさか。でも、普段のダンスレッスンも、センターのパート練習はやっぱ気合入るよね」

「あ~、わかる! 私も今日こそは、と思ってセンターパートの練習、思いっきりしてきたんだけどなぁ」

 

彼女はいたずらっぽい笑みと冗談めいた口調で誤魔化したが、それはきっと本当のことだっただろう。

ウマ娘がウイニングライブのセンターに懸ける強い思いは、みんな同じなのだ。

 

「う~、それにしたってセンター……初めてのセンターか。やっぱ緊張するなぁ。わたしのパフォーマンスに今日のライブの盛り上がりがかかってるんだもんね……」

 

わたしがそんなことを言うと、ソフィアリボンさんはちょっと困ったような顔をした。

 

「ライブの盛り上がりは、あまり期待しないほうがいいかも……」

「ん? それは二人だけだからってこと?」

「それもあるけど……」

 

彼女がなにか言いかけたのと同時に、ライブシアターのスタッフさんの声が飛んできた。

 

「エルサミラクルさん、ソフィアリボンさん。本番1分前です! 準備の方お願いします!」

 

ちょっと話し込んでいるうちに、もう時間が来たらしい。

 

ああ、心臓がバクバクしてきた。

 

披露する曲は、もちろん【make debut!】。

何度も何度もセンターで踊り歌う娘を見ながら、次は絶対、そこでわたしが歌うんだと誓った曲だ。

 

その誓いが、夢が今日ようやく叶う。

 

感謝の気持ちを歌とダンスに乗せて、精一杯伝えたい。

 

「本番5秒前!4……」

 

スタッフさんの声がなくなった代わりに、彼の指が、3・2・1と折れてゆく。

 

その指が舞台をさした瞬間、逸る気持ちを抑えて、わたしはステージへと飛び出していった。

 

*

 

ステージからライブシアターの観客席を見た瞬間、わたしは思わず声を上げそうになった。

 

たくさんの人が振る、きらめくペンライトの眩しさに驚いたからではない。

 

お客さんが、わずか3人しかいなかったからだ。

 

わたしは平地での未勝利戦のウイニングライブをバックダンサーとはいえ、それなりにこなしてきたけど……こんなに少ない客入りは初めて見た。

 

売れっ子アーティストが語るよくある伝説に、最初のライブは演者より客のほうが少なかった、なんてものがある。

 

幸いにしてそんなことは避けられたわけだが、デュオのわたしたちにとって、そのことはなんの慰めにもならなかった。

 

「響けファンファーレ……」

 

歌おうとする声が、踊ろうとする脚が、震える。

視界が、ぼやけてくる。

 

あれだけ必死に走って、苦しいレースをして勝利を収めて、その感謝を伝えるためのウイニングライブに来てくれた人が、わずかに3人。

 

こんなウイニングライブに、なんの意味があるんだろう。

たとえわたしがこの場でマイクを投げ捨ててステージ袖に引っ込んだとしても、誰もわたしを責めないんじゃないだろうか。

 

わかった。

わたしは、わかってしまった。

 

障害競争なんてマイナーなレースは、誰も見てくれないんだ。

その勝利になんか、なんの意味もないんだ。

 

障害競走なんて、ウイニングライブなんて、もう辞めてやる!

 

「届け ゴールまで 輝く未来を 君と見たいから」

 

せり上がってきた感情のままマイクを放り投げようとしたわたしに、力強い歌声が耳に届いた。

隣で歌っているソフィアリボンさんは、何かを訴えるような眼でわたしを見つめている。

 

「……!」

 

そうだ。

 

彼女も、命懸けで今日のレースを走ったはずだ。

その彼女を打ち負かして、わたしはセンターの座を手に入れたのだ。

 

それにたった3人だけとしても、わたしが主役のウイニングライブを見るために、ここに足を運んでくれた人がいる。

 

それを、見てくれる人が少ないからと()ねて放棄してしまうのは、ソフィアリボンさんと来てくれたお客さんに対する、絶対にしてはならない冒涜なのではないか。

 

そう思い直したわたしはマイクをぎゅっと握り直し、声帯にありったけの魂を込めた。

 

「駆け出したら きっと始まるstory いつでも近くにあるから」

 

歌っているうちに声は伸び始め、脚の震えがぴたりと止まる。

 

涙で(にじ)んでいた視界もクリアになり、ペンライトを振ってくれているファンの顔が、はっきりと見えた。

 

……きっとわたしは一生、彼らの笑顔を忘れないだろう。

 

この人たちのために、精一杯歌おう。

伝えよう、ありがとうの気持ちを。

今のわたしの思いを。

 

わたしのレースを見てくれて、わたしのライブを見に来てくれて、本当にありがとう!

駆け出したばかりのわたしのストーリーを、これからも見守ってくれると嬉しい!

 

「I believe 夢の先まで」

 

曲が終わると、客席の三人からささやかな拍手が起こる。

 

ちょっとビターなウイニングライブを、わたしはセンターで最後まで歌い切った。

 

わたしの夢は、今始まったばかりだ。

 

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