レースに勝利して栄光に浴したウマ娘にも、僅差で敗れて慟哭したウマ娘にも、年明けは平等に訪れる。
お正月は今年も実家に帰っておせちお好み焼きを食し、例年通りダラダラ過ごして心身ともにリフレッシュした。
そうしてあっという間に三が日が過ぎ、学園に戻ってくれば変わらない日常が待っている。
レースに勝利するためのトレーニングに勤しみ、たまに息抜きをするような、そんないつもの愛すべき日常が。
「いや~、それにしても去年はお互い濃い一年でしたね」
ホットココアが入ったカップ片手に、ルームメイトのキョウコが感慨深げに振り返る。
「そうだねぇ。特にキョウコはトレセン学園に入学してデビュー戦を勝利して、それからすぐにGⅠ初挑戦と、けっこう波乱万丈だったんじゃない?」
後輩から去年の感想を聞きながら、わたしは食べていたカツサンドを皿の上に置いた。
去年の大目標だった中山大障害も終わり、食事制限のなくなったわたしは、しばらく控えていた脂質たっぷりのカツサンドと大好きな甘いカフェオレを、気のおけない後輩と一緒にカフェテリアで楽しんでいた。
わたしの質問に、キョウコは軽く頷く。
「環境が大きく変わったのは文字通り大変でしたけど、その分やりがいもあって充実してましたよ。今年はいよいよクラシック級ですし、もっと頑張らないといけませんねぇ」
「キョウコは確か、ティアラ路線に進むんだっけ?」
「そうですね。厳密に言うと、桜花賞・NHKマイルカップ・秋華賞が大目標になると思います。オークスの2400Mは、とてもじゃないけど距離が持つ気がしませんからね。その代わりっていうのも変ですが、疲れが少なければ安田記念への出走も視野に入れてますよ」
「なるほど~」
キョウコのクラシックでの予定ローテーションを聞いて、わたしはイマドキだなぁ、と思いつつ相槌を打った。
最近ではクラシック級のウマ娘も、三冠・ティアラ・シニア混合といった
「エルサ先輩の今年のローテはどんな感じなんですか?」
「ん? まぁトレーナーと相談してからになるけど、春はどこかの重賞でひと叩きしてから、中山グランドジャンプってローテになると思う」
去年は経験を積むために小倉ジャンプステークスと阪神スプリングジャンプの両方に出走したけど、今年は中山グランドジャンプが春の最大目標になるから、そこまでタイトなローテを走る必要もないだろう、とわたしもトレーナーも考えていた。
「おお、一流ジャンパーらしいローテーションですね」
「わたしが一流かどうかはともかく、わたしももうシニア2年めだしね。出るレースは厳選していかないと」
障害レースを走るウマ娘の競走寿命は比較的長くて、シニア2年めぐらいではまだまだ衰えを意識することもないけど、ウマ娘の脚が消耗品というのもまた事実。
長く走り続けるためにも、レースで良い結果を出し続けるためにも、どのレースに出走して目標としているレースにピークを持っていくか、というのは熟考したいところだ。
「前哨戦はパスして中山グランドジャンプに直行、ってプランもあるけど、わたしはレースを使ったほうが気合と体調、ついでに体重のコントロールがしやすい方だから……」
と、今年の展望を語っていると、いきなりスマホの着信音がバッグの中から聞こえてきた。
「……電話?」
珍しいこともあるもんだ。
家族や友人・知人への連絡はほとんどがLANEなのに。
間違い電話かあやしい勧誘か、それとも詐欺電話か……と訝しがりながらスマホをバッグから取り出して画面を確認すると、そこには懐かしい名前が表示されていた。
「ごめん、ちょっとだけ外すねっ!」
キョウコに断りを入れると、わたしは返事を待つことなく、急いでカフェテリアの外に飛び出した。
頬を切るような冷たい風が、わたしを直撃する。
あたりに人影がないのを確認してから、着信が切れないうちに慌てて応答をタップした。
「ルージュ!?」
「……エルサ。急にごめんね」
スマホから、お世辞にも元気いっぱいとは言えない少女の声が聞こえてくる。
「そんなことないよ! いったいどうしたの?」
わたしが用件を聞くと、ルージュの方から電話をかけてきたにもかかわらず、電話口の向こうで彼女は黙り込んでしまった。
ルージュの沈黙が、わたしの前から姿を消してからの彼女の苦悩と、わたしに対する葛藤を物語っているようだった。
どのぐらいの時間、彼女の声を待っていただろう。
辛抱強く、かじかんできた手でスマホを握りしめていると、か細い声でルージュは話し始めた。
「いや。元気かな、と思ってね。最近寒いけど、風邪とか引いてない?」
「うん。まぁなんとか元気にやってるよ。ルージュの方は元気?」
ルージュには聞きたいことや言いたいことはいっぱいあったはずなのに、いざ久しぶりに声を聞いてみると、それ以外に聞きたいことはすべて吹き飛んでしまった。
ルージュはまた一瞬黙り込み、どうしたのかと思えば、「ははっ」と、今度は乾いた
「身体の方はなんともないんだけどね。……なのにアタシね。今、なんにもしてないの」
「なんにも、って……」
「そのまんまの意味よ。学校に行ってないし、もちろんアルバイトとかもしてないわ」
「……そうなんだ」
近況を伝える沈んだ声を聞いただけで、彼女の現状が察せられて、胸が詰まる。
「俗にいう引きこもりってやつね。夜中にこっそりコンビニに行く以外は、部屋にずっとこもってスマホいじってる。こんなことしてちゃダメだ、こんな生活、いつまでも続けられるわけがない、って頭でわかっていっても、動けないの」
「……そう……」
夢破れてレースから身を引くことを誰にも伝えず、ひっそりと学園から消えていった友だちに、わたしはなにを伝えればいいのか、分からなかった。
お互いのスマホが、沈黙に落ちる。
「……でね、去年の中山大障害。昨日の夜、ウマチューブで見たの」
「えっ」
先に沈黙を破ったルージュが、いきなりレースのことを話し始めた。
どくんっ、と鼓動が高鳴る。
「学園やめてからずっと、レースに関係することはできるだけ目に入れないようにしてたんだけどね。たまたま、レコメンドに表示されちゃってさ。しかも、コメ欄みたらあなたの名前がいっぱい出てて。つい気になって、タップしてしちゃって」
「うん、うん……」
わたしの名前が、気になった。
友だちからその言葉を聞いただけで、涙腺が緩くなる。
「すごいレースだった。エルサが、あのグランアンネリーゼさんに敢然と立ち向かって……。最後の直線、夢中で叫んでた。頑張って、負けないで、最強のウマ娘を打ち負かして! って」
「……うん」
「でも、現実って厳しいね。ハナ差でエルサが負けたってわかった時、夢を叶えて、栄光を掴むのは、やっぱりひとにぎりの選ばれたウマ娘だけなんだ、って、思い知らされた気がした」
「…………」
わたしは、ここでこの失礼な友人を怒鳴りつけるべきだったのかもしれない。
彼女の言いたいこと、伝えたいことが、わからない。
わからなかったから、わたしはもう少ししルージュの話に耳を傾けることにした。
「負けて、泣いて、トレーナーさんにしがみついて……そんなエルサを見てると、まるで今の自分を見てるみたいで辛くて、思わず持ってたスマホを投げ捨てそうになったわ。……でも、あなたはアタシと違って、泣いてへたり込んだままじゃなかった。身体も心も辛かったと思うのに、涙を拭いてまた立ち上がって、自分の力で歩き始めた」
ルージュはそこで一旦言葉を切った。
そして、少し明るい声で続けた。
「そんなエルサを見て、思ったの。ああ、アタシの友だちだったウマ娘が、アタシの憧れた場所で頑張ってる。あんな負け方をしても、また前を向いて歩き始めてる。アタシも、負けていられない。アタシも立ち上がらなくちゃ。全然勝てなかったけど、アタシもトゥインクルで戦っていたウマ娘なんだから! って」
ルージュの力強い声が、スマホを通じて聞こえてくる。
トゥインクルシリーズは、決してキラキラ輝いているだけの場所じゃない。
才能あるウマ娘たちが勝利を目指して苛烈な無限の闘争を繰り返す、血で血を洗うような地獄の戦場という一面も、確かにある。
ルージュのように、夢を叶えられなかったウマ娘がいる。
わたしのように、夢の進路を変更せざるを得なかったウマ娘もいる。
それでも。
トゥインクルシリーズを戦っている、トゥインクルシリーズで走っていたという事実は、わたし達ウマ娘の誇りなんだ。
「で、アタシも単純よね。今日の朝起きてすぐに、近場で通えそうなフリースクール探してさ。さっき電話したら、あちらの人が『じゃあ明日、見学に来てください』って言ってくれて」
「……そっか」
わたしのレースを見たことが、ルージュの決断にどれだけの影響を与えたのかは、わからない。
けれどそれはきっといいことで……わたしのレースを見て、友だちがなにか行動を起こせたということが、何よりも嬉しかった。
「うん。今日電話したのは、そのことを伝えたかったのと……どうしてもお礼をいいたかったからなの。エルサ、ありがとう。素晴らしいレースと、ありのままのあなたを見せてくれて」
「……うん」
ありのまま、か。
ルージュのその言葉を聞いて、ふと昔見た映画のワンシーンを思い出す。
ありのまま、という耳触りのいい言葉に甘えて、自分を良い方向へ変える努力をしないというのは褒められたものじゃないけれど。
自分の感じた気持ちを表現することぐらいのことは、きっとありのままでいい。
「じゃあ、そろそろ切るわね。エルサもトレーニング忙しいだろうし。今日は、急に電話してごめんね」
「あっ、ちょっと待って!」
「どうしたの?」
話は終わった、とばかりに電話を切ろうとしているルージュを、わたしは慌てて引き止める。
彼女が少しばかり勘違いしていることを、修正しておく必要があったから。
「あのね。ルージュは勝手にわたしのこと『友だちだった』なんて過去のことにしてるけど、わたしはルージュのこと、今でも友だちだと思ってるから」
「……ぁ……」
わたしのありのままの気持ちを聞いてルージュはどう思ったのか、小さく息を飲み込んだようだった。
「アタシ、エルサの友だちでいていいの……?」
電話の向こうから聞こえてくる声が、少し震えている。
「もちろんだよ」
「でもアタシ、あんなに励ましてくれていたエルサに冷たい態度取って……学校やめるときも、なにも言わずにやめちゃって……」
「うん。正直かなりそのことには腹立ってたけど……そんなことで怒っていたら、ルージュの友だちなんてやっていられないよ。ルージュが自分勝手なのって、今に始まったことじゃないし」
「……。はっ! なによ、言ってくれるじゃない」
短く笑ってそう言ったルージュの声は、わたしがよく知っている声だった。
不遜で、元気で、自分の気持ちに嘘のない、真っ直ぐな声。
「でもね」
「……うん」
「ルージュが本当は繊細で傷つきやすくて、不器用なだけだってのも、よく知ってる。不器用だから目一杯がんばることしかできないし、不器用だから、良くも悪くも感情を隠すことのできない子だってことも、よく知ってる」
ルージュは勝てない時期も、わたしのように現実から逃げたりしないで、トレーニングを頑張っていた。
わたしが平地で出走制限を食らったあの日、涙を流してお別れ会の準備までしてくれていた。
「ルージュは不器用だけど、強くて優しくて……わたしの大好きな親友だよ」
「……アタシも……あきらめが悪くて、お人好しなぐらい優しくて、フツーを自称してるくせにちょっと変わってるエルサが……大好きよ!」
きっとわたしたちは、はたから見れば小っ恥ずかしいようなやり方で、友情を交換しているんだと思う。
でも今は、これでいい。
わたしたちは、これでいいんだ。
……ところで、その言い回しはルージュらしいと思うんだけど。
ここは少し、ツッコミを入れておくべきだろう。
「それ、なにげにディスってない……?」
「なによ、せっかく褒めてあげてるのに。だいたい、あなたが先にアタシのこと不器用とか、感情的とかディスってきたんじゃない」
「いや、別に感情的、とまでは……」
たまにそう思うこともあったのは、言わないでおこう。
「エルサってばJ・GⅠに出られるようになったせいでちょっと性格悪くなって、人を疑うようになっちゃったんじゃない?」
「そうかなぁ」
「そうよ!」
「ふふっ、そうかもね」
言い切るルージュに、わたしは思わず笑ってしまった。
つられるように、ルージュも笑う。
それは二人が一緒にいた時の、いつものわたし達だった。
「ねぇ、エルサ。またこうして、連絡しても構わないかしら?」
ルージュにしては、しおらしい声色でそんなことを聞いてくる。
「当たり前じゃない。まぁわたしもJ・GⅠ出走経験者になったことだし? 取材とかファンサで忙しくなるだろうから、すぐに連絡返せないときもあるだろうけど」
「エルサやっぱり、ちょっと性格悪くなってる! アタシだってすぐに次の目標見つけて忙しくなるから、そうそう連絡できなくなるわよ!」
「そっか」
ルージュらしい負けず嫌いな言い方に、わたしは笑いを堪えるのが大変だった。
ルージュならきっと、またすぐに新しく目標を見つけて、不器用なぐらいにがんばれるに違いない。
「っと。こんな調子じゃ、いつまでも話してしまいそうだから……もう、ホントに切るわね。病気とかケガのないよう、がんばってね。アタシ、応援してるから」
「うん、ありがとう。ルージュもね。……今度会う時、置いていった赤ベコと、健康にご
彼女が退寮する時、わたしの机に放置していった小さな赤ベコ。
わたしが重賞に初めて挑戦する前、白玲神社で授かって渡しそこねていた、あの健康祈願のお守り。
どちらもルージュの無病息災と平穏無事を祈って購入したり、授かったものだった。
ルージュがこれからどんな目標に向かって頑張るのかはわからないけれど、ルージュにはいつまでも元気で、人生というレースを走り続けてほしい。
本当に心から、そう思う。
わたしの余計なお世話に彼女はどう思ったのか、少しの間口をつぐんでから。
「……お願いするわ。ありがとう。また会えるの、楽しみしてる」
そう言ってルージュは、電話を切った。
「わたしも、楽しみにしてる」
わたしのつぶやきが、冷たい真冬の風に溶け込んでいく。
中庭を吹き抜ける風は冷たいはずなのに、胸の中はほのかに暖かかった。
「さて」
けっこう長い時間、ルージュと話し込んでしまった。
現ルームメイトのキョウコが、待ちくたびれてしまっているかもしれない。
はやく戻らないと……と思って電話を切ったばかりのスマホを見ると、同室の後輩からLANEが届いていた。
「ん……? はぁっ!?」
その内容は、驚愕すべきものだった。
『エルサ先輩へ。しばらく待っていたのですが、帰ってきそうにないので先に部屋に戻ります。追伸:残っていたカツサンド、固くなって食べられなくなったらもったいないので、全部食べておきました。あ、私に二枚落ち(真剣モード)でエルサ先輩が勝ったら、カツサンドの代金、2倍にしてお返ししますよ。挑戦楽しみにしています♡』
「待たせたのは悪かったけど……ハート、じゃねぇよ! あのくいしんぼめ! まだカツサンド、2切れも残っていたのに~!」
キョウコの本気モードで、わたしが二枚落ちで勝てるわけない。
オッズは2倍でも、こんなの実質食い逃げにあったようなものだ。
「お前、お前……それでもウマ娘か! 将棋指しか!? 人の心とかないんか!?」
わたしの魂の叫びを聞いていたのは、噴水の前に静かに佇んでいる三女神像だけだった。
*
カツサンドを食い逃げされた(カツサンド代を取り返すべくわたしはキョウコに勇ましく戦いを挑んだが、武運拙く敗れ去った)翌日の午後。
理事長室に呼び出されたわたしは、秋川理事長から思いがけない要件を聞かされていた。
「去年中止になった中山大障害のウイニングライブを、学園のステージで開催したい、ということですか……」
わたしは複雑な気持ちを抱きながら、今伝えられたことを確認するように言う。
呼び出されたのはわたしだけじゃなかった。
去年の中山大障害に出走したすべてのウマ娘が理事長の呼び出しに応えて集合しており、彼女の提案に首を傾げたり、困惑したような表情を浮かべたりしている。
「うむっ! 実はあの中山大障害の翌日から『ウイニングライブをなんとか実施できないか』という、ファンからの電話やメッセージが相次いでいてな。去年の中山大障害は出走者全員が死力を尽くして戦った、本当に素晴らしいレースだった。ただ、その激闘がゆえに、優勝者のグランアンネリーゼがライブを辞退したことは大変残念なことだったが……」
「その節は、本当にご迷惑をおかけしました」
ザンバラ髪をきれいなセミショートに切りそろえてきたグランアンネリーゼさんが、恐縮しながら頭を下げる。
そんな彼女に、秋川理事長は首を横に振った。
「いや。つい、君に責任があるかのような言い方になってしまった……。そんな意図はなかった、申し訳ない。しかし、ここはどうかひとつ、ファンの声に応えてウイニングライブの開催を引き受けてくれないだろうか?」
理事長の再度の依頼に、わたしたちは顔を見合わせた。
今、障害レース界はかつてないほどの盛り上がりを見せている。
その盛り上がりを支えてくれているファンたちの声に応えたい、という気持ちはある。
でもウイニングライブをやるとなると、わたしたちは結局、勝者であるグランアンネリーゼさんの引き立て役になるわけで……。
レース直後なら負けた悔しさを抱えつつも、『次は絶対負けないぞ!』『今日は勝ったあの娘をもり立ててあげよう! 次は私の番なんだから!』という熱い思いのままにステージに駆け出すこともできる。
でも日が経つにつれてそんな気持ちは薄れてきて、記録と記憶に残るのは敗戦という客観的な事実と、それを見つめる冷めた感情だけだ。
そんな心の状態でファンを楽しませるパフォーマンスを発揮できるのか、正直言って疑問だった。
「……私は理事長の一存にお任せします」
当惑するわたしたちに先立って、勝者であるグランアンネリーゼさんが事務的な口調で理事長にそう伝えた。
眉間につくった薄いシワが、彼女の悩ましさを物語っている。
判断を理事長に丸投げしたグランアンネリーゼさんに少しびっくりしたけど……彼女が難しい立場に立たされていることは、人の機微に
『やります』と言えば、負けたわたし達が『嫌だ』とはなかなか言えたもんじゃない、ということを、彼女は十分すぎるぐらいに分かっている。
かといって、わたし達に気遣って『やめておきましょう』と言えば、グランアンネリーゼさんが心から大切にしているファンの願いと、学園の最高責任者である理事長の要望を拒否した形になってしまう。
優勝者という立ち位置からしても、障害レース界の第一人者という立場からしても、グランアンネリーゼさんは理事長にそう言うしかなかったのかもしれない。
「ふむ……。君たちは、どうかな?」
理事長の問いかけに、出走者みんなの視線が今度はわたしに集中した。
いきなり注目を浴びてちょっと戸惑ったけど、あのレースを2着でゴールしたわたしは、いわば敗者の代表のような立場にいるわけだ。
複雑な感情が絡まった、たくさんの視線を受け止めていると、いろんな思いが心の中を駆け巡る。
……ファンの人達の期待に応えたい、という気持ちは、もちろんある。
でもあの微差で負けた悔しさをまた思い出してしまうようなウイニングライブなんか、できればやりたくないなぁ……というのも、また本心だった。
う~ん……。
やっぱり、こんな気持ちでライブを行うのはむしろファンたちに失礼なんじゃないか。
そもそも、自分は本当にライブをやりたいのだろうか。
偉い人やファンたちに『ライブを開催してほしい』なんて言われて、何となくその気になっているだけなんじゃないだろうか。
ホントの本音は、引き立て役になるだけのウイニングライブなんて、まっぴらごめんだと思っているんじゃないのか。
思考が、堂々巡りを繰り返す。
J・GⅠとかの大きな舞台で戦うようになってメンタルも少しは成長かな? と思ったりもしたけれど、思い悩む性格はそうそう変わらないものらしい。
でもこんなに悩んでしまうということは、ライブをやりたいという思いも、やりたくないという抵抗感も、どちらもきっとわたしの本心なのだ。
だからこそ。
「わたしは、わたし達を応援してくれた人たちに、ウイニングライブを届けたいと思っています」
迷いながら出した結論を、わたしはこの場にいる全員に告げた。
少しでもライブの開催を引き受けたいという願いが心の中にあるのなら、応援してくれた人たちに感謝の気持ちを伝えよう。
勝利したグランアンネリーゼさんを、心から讃えよう。
まっぴらごめんだという悔しい気持ちを、次のレースにぶつけよう!
「みんなはどうかな?」
恐る恐るみんなの顔を見回すと、笑顔を浮かべている娘もいれば、少しばかり眉をひそめている娘もいた。
「私も、それがいいと思います!」
「まぁ2着の君がそう言うなら……」
それでもアクサナデイジーさんとリーチヨハンナさんが、まず同意を示してくれる。
「そうだね。あんなにたくさんのファンの前で走れたのって、やっぱりすごく嬉しかったし。その感謝の気持ちは伝えたいよね」
「そうそう。ファンの声は大切にしなきゃだよ」
「私は二桁順位だったから、ちょっと複雑な気持ちだけど……これからもファンの人達には、私達が走ってる障害レースを応援してほしいし」
積極的な賛成意見も、消極的な賛成意見も出たけれど、ライブの開催に反対する娘は一人も出なかった。
敗者の意見がまとまったところで、今度は勝者のグランアンネリーゼさんの方に顔を向ける。
わたしの視線を受けて、彼女は小さく頷いた。
「理事長。出走者のみなさんがこう言ってくださるのであれば、私も喜んでライブに出演させていただいて……あのレースの優勝者に恥じないよう、立派にセンターを務めたいと思います」
グランアンネリーゼさんの力強い答えを聞いて、理事長の顔がほころんだ。
「感謝っ! では今日から1週間後に、中止になった中山大障害のウイニングライブを学園のステージで開催する旨、各方面に告知を打とう! 君たちが見せてくれる、最高のウイニングライブを期待しているぞ!」
わーっはっはっはっはっ! という大きな笑い声が、それほど広くない理事長室の中に響き渡った。
*
「エルサミラクルさん」
みんなと一緒に一礼してから理事長室を辞してトレーニングに向かおうとしていたところに、グランアンネリーゼさんから声を掛けられた。
「あっ、お疲れさまです。どうしました?」
「一言お礼を申し上げたいと思いまして。理事長のお話に本当は『ぜひお願いします』とすぐお返事したかったのですが……いろいろなことを考えると、あんな玉虫色なことしか言えなくて。ウイニングライブの開催に賛成していただき、ありがとうございました」
一瞬、心苦しそうな顔をしながらも、グランアンネリーゼさんは丁寧に頭を下げてお礼を言ってくださった。
「いえいえ。グランアンネリーゼさんの立場を考えれば、あのシーンでは仕方なかったと思いますよ」
「そう言っていただけると、こちらとしても気持ちが楽になります」
そう言ってグランアンネリーゼさんは、小さく安堵の吐息らしいものをついた。
障害レース界のこと。
応援してくれるファンのこと。
それに、わたしたち障害レースの仲間たちのことを色々考えてくれているからこそ、グランアンネリーゼさんの気苦労が絶えないのだと思う。
もっとわたしたちもがんばって、障害レース仲間としてグランアンネリーゼさんを支えられるようにならないとなぁ……なんて殊勝なことを考えていると、彼女はにっこり微笑んでポンッと手を打った。
「そうだ。私これからちょっと出かけますので、付き合っていただけませんか? そこでぜひ、今日のお礼をさせてください」
「えっ、でも今からトレーニングがありまして……」
突然のお誘いに軽くパニックになっていると、今度はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「トレーナーさんには『強引な先輩に誘われて、どうしても断れなかった』と言えばいいじゃありませんか。なんなら私が、トレーナーさんに一言口添えしましょうか?」
*
あのあと結局、わたしは彼女からの気遣いを丁重に辞退して、『グランアンネリーゼさんのお出かけに誘ってもらったから、今日はトレーニングをお休みしたい』という連絡を自分で入れた。
もし休む理由が友だちからの遊びのお誘いとかだったら、『そんなことでトレーニングをサボるな』という叱責の一つでも飛んできたと思うんだけど、そこはさすがに第一人者からのお誘いだ。
トレーナーは『……そうか、分かった。気をつけて行ってこいよ』とだけ平坦な声で言うと、電話を切ってしまった。
お礼をしたい、なんて言ってくださっていたもんだから、なんか甘味でもおごってくれるのかな~、と期待していたんだけど、J・GⅠを7勝もしているウマ娘は【お礼】の感覚もちょっと人と違うらしい。
「気持ちいいですねぇ……」
あのレースの最後の直線で発していたような、殺気じみた声からはとても想像できない、とろけたような口調でグランアンネリーゼさんがささやく。
「……そうですね」
わたしはと言えば、頭の上に冷えたタオルを乗せ、愛想笑いを浮かべながら偉大な先輩のささやきに追随するよりない。
どういうわけか、わたしたち二人は露天の温泉に浸かっていた。
二人しかいないのは、いきなり連れてこられたここ【ゆこま旅館】が不人気だからというわけではなく、ここが部屋備え付けのプライベート温泉であるからだ。
*
グランアンネリーゼさんは、学園を出てすぐにタクシーを呼び寄せた。
そして「乗ってください」と彼女の言われるがままにその車の後部座席に乗り込み、連れてこられたのがURAの保養施設【ゆこま温泉郷】だったのだ。
何がなんだかわからないまま、彼女の後をついてくついてくしていると、格式がありそうな一軒の旅館の前にたどり着いた。
立派な木製の看板には【ゆこま旅館】という屋号が、凛とした筆文字で書かれている。
え?
こんなところに未成年が入って大丈夫なの?
あ、シニア4年めのグランアンネリーゼさんは法的にはもう大人だから大丈夫なのかな? などの疑問が頭の中をぐるぐるしているうちに、彼女は堂々と旅館の中に入っていった。
仕方がないのでわたしもグランアンネリーゼさんに付き従うようにして一緒に入ると、和服に身を包んだ妙齢のウマ娘と、同じく和装の、60歳前後であろう女性が三つ指を突いてわたしたち……というか、グランアンネリーゼさんを出迎えてくれていた。
「ようこそおいでくださいました、グランアンネリーゼ様。毎年のご愛顧、まことにありがとうございます」
「いえいえ、今年もお世話になります。今回は連れ添いがいますけど、どうぞよろしくお願いしますね」
女将ウマ娘(もう一人の女性はきっと大女将だろう)は丁寧すぎるぐらいの口上でグランアンネリーゼさんに歓迎の意を示すと、それを受けたグランアンネリーゼさんも、柔らかく微笑んで女将にバッグを預けた。
「はい。お二人様で予約いただいていた、エルサミラクル様ですね。お二人とも、どうぞこちらへ。お部屋にご案内いたします」
音もなく立ち上がっていた大女将が、上品に微笑みながらそう言って先導してくれる。
お父さんよりも年上の人から丁重な扱いをされることにむず痒さを覚えながらも、おっかなびっくり彼女の後をついてゆく。
グランアンネリーゼさんはそんなVIP扱いに動じることもなく、女将と「中山大障害4連覇、おめでとうございます」「ありがとうございます。あそこを勝った賞金がないと、ここに遊びに来れませんでしたからねぇ」「ほほほ、御冗談を……」みたいなやりとりを親しげに交換していた。
「こちらにございます」
大女将が案内してくれた部屋の入口には、書道の名人が書いたであろう達筆すぎる字で【
な、なんというか……。
眼前に広がっている神賛の間は、ここゼッタイ一般人が泊まるような部屋じゃないだろ、と突っ込まずにはいられないほど、高級感あふれる広くて美しい和室だった。
わたしの家の一階より明らかに広いであろう間取りに真新しい畳が敷かれていて、置いてある座卓テーブルはひとかたならぬ高級感を放っているし、あのソファーだってきっとウチにおいてあるどの家具よりもお高いに違いない。
「お食事は19時からと承っておりますので、その時間にお持ちいたします。それではごゆっくりおくつろぎくださいませ」
女将と大女将は廊下のフローリングに正座してから三つ指を突いてわたしたちにお辞儀すると、音も立てずに襖を閉めて、立ち去ってしまったようだ。
「グ、グランアンネリーゼさん。このお部屋は……」
「お気に召していただけましたか? がんばった自分へのご褒美、と言っては陳腐に聞こえるかもしれませんが、ここのゆこま旅館さんには私が最初に中山大障害を勝利した翌年から、お世話になっているんですよ」
「そうなんですか……」
こんな超高級旅館に毎年泊まりに来ているだなんて、さすがはJ・GⅠを7勝もしている名ウマ娘だ。
去年の中山大障害で二着だったわたしでも、『ホンマかいな』と驚いてしまうほどの賞金が口座に振り込まれていたのだから、このぐらいの出費は彼女からすれば大したものではないのかもしれないけど……。
それはともかく、突然の展開にわたしはテンプレみたいな返事をするよりない。
気に入ったか気に入らないかで言えばそりゃこんな部屋で過ごせるのなら最高だし、出てくるお料理もきっと今まで食べたことのないぐらい、美味しいものに違いない。
「えっと、その。今からくつろごうって時にカネの話するのもナンなんですけど。ここのお代金、わたしでも払えますかね……?」
ここって多分、一泊二日でもすごい値段するよね?
「ここの宿泊料はもう支払済みなので、お金のことは心配なさらなくても大丈夫ですよ」
「えっ!?」
「今日のお礼をする、と言って私が誘ったんです。そんな相手にお金を出させるわけないじゃないですか」
言われてみれば、そういう話だった気がする。
いきなり非日常的な豪華空間に放り込まれたせいで、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。
「でも、女将さんたちは2人分の予約を前から聞いてるって……」
「ネタばらししてしまうと、実は最初からエルサミラクルさんをお誘いするつもりで、旅館の予約は去年のうちに済ませてしまっていたんですよ。今日のお礼にかこつけて、ここにお連れしたってわけです」
「そ、そうだったんですか……。ありがとうございます」
グランアンネリーゼさんが拠出した金額を考えると、『ありがとうございます』の一言で済ませていいものか迷ったけど、残念ながらわたしの語彙の中にそれ以上適切な感謝の言葉がなかった。
「どうしたしまして。まぁそのへんの話もお風呂でしましょうか。ここの温泉はウマ娘の脚の疲労にとてもいいんですよ」
そう言いながらグランアンネリーゼさんは、なぜかいきなり、着ていたスカートの裾に手を掛けた。
「えっ、あっ、ちょ。グランアンネリーゼさん、さすがにここで脱ぐのは早すぎません!? 浴場まで裸で行くつもりですか?」
慌てていうわたしに、彼女は小首を傾げる。
「別に見られて恥ずかしい身体はしてないつもりなので、私は一向に構わないのですが」
「格闘技マンガの登場人物のようなセリフで誤魔化さないでくださいっ! そりゃあそこまで絞っていれば恥ずかしいってことはないとは思いますけどねっ!?」
グランアンネリーゼさんの羞恥心はともかく、同じ部屋に泊まる彼女に裸で旅館内をうろつかれたら、わたしが露出狂の変態ウマ娘の仲間だと思われてしまうじゃないか。
それは大いに困る。
グランアンネリーゼさんは慌てふためくわたしをおかしそうに見つめると、冗談っぽくウインクをして部屋の奥を指さした。
「この部屋の奥にプライベートな露天温泉があるんです。ですからここで裸になっても何の問題もありませんよ」
「はぁ……そうなんですか」
例によって例のごとく、わたしはからかわれたらしい。
ってか、こういう温泉旅館のスイートルーム的な部屋には、プライベート温泉までついているものなのか。
それにしたって、別にここで脱がなくても浴場の近くに行ってから脱衣すればいいだろうに。
「そうなんですよ。では、行きましょうか」
そういってグランアンネリーゼさんはぽぽぽぽい、と、一瞬のうちに着ている制服を脱いでしまい、スッポンポンになってしまった。
ウマ娘に限らず、体育会系の女子は衣服の脱着がとにかく素早い。
幼い頃から、時間が差し迫っている本番前の着替えに慣れ親しんでいるからだ。
先輩が全裸なのに、後輩の自分がいつまでも制服に身を包んでいるわけにもいくまい。
小さくため息をつきつつ、わたしも制服のスカートの裾に手を掛けた。
*
温泉はさすがにグランアンネリーゼさんが太鼓判を押しているだけあって、温度といい湯質といい、本当に最高のお湯だった。
温泉でのひとときというのは、汗と汚れを落とすための日常のお風呂とはまったく違っていて、心身の芯から癒やされるような至福の時間だ。
「いや~、極楽ですねぇ。今日はこんな素敵なところにつれてきていただいて、本当にありがとうございます」
「いえいえ、喜んでいただけたのなら何よりです」
湯気の向こうで、グランアンネリーゼさんが優しく微笑む。
その微笑は、レース中に見せた鬼気迫る表情とまるで別人だった。
にしても……。
この人の肌、めちゃくちゃ綺麗だなぁ。
グランアンネリーゼさんの一糸まとわぬ姿を間近で見て、改めて思う。
湯のせいでほんのりピンク色に上気しているキメの細かい肌には、シミやデキモノなどの余計なものはひとつもない。
グランアンネリーゼさんの肌はどこまでも白く透き通っていて、
肌の美しさは、そのウマ娘の状態のバロメーターだ。
爆食や夜ふかしなどの不摂生をしていたり、健康状態に問題を抱えてしまったりしているウマ娘は、まず肌ツヤから悪くなる。
トレーナーによっては、ウマ娘の肌を見てスカウトするかを決めている人もいるぐらいだ。
肌が綺麗なウマ娘が必ず大成するわけではないけど、エイシンフラッシュさん(グッドルッキングウマ娘としても有名だ)、ゴールドシップさん(気性はともかくルックスは……以下略)、カルストンライトオさん、サイレンススズカさんなど、得意距離を問わず、偉大なウマ娘の肌はみんな美しい。
ちなみにうちのお母さんも、歳の割に肌はきれいな方だ。
「どうしました? 私の方をじっと見つめて。このデカパイを触ってみたくなりましたか?」
グランアンネリーゼさんはニヤッと笑うと、湯の中でご自慢のおっぱいをゆさゆさと揺らし始める。
あれぐらいのDKPIになると、お湯の中でも普通にたゆんたゆんするんだなぁ。
「いえ。前も言ったかもしれませんが、自前のものがあるので結構っす。いや、じっと見ていたのはすみません。すごくきれいな肌だなぁ、と思いまして」
わたしが正直に言うと、彼女はちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「そう言っていただけると、普段からスキンケアに気を配っている甲斐もあるというものですね」
「おっ、その美肌にはなにか秘訣が?」
そんなものがあるなら、ぜひ聞いておきたい。
わたしは大きな耳をさらにダンボにして、彼女の方へ向ける。
「と言っても、特別なことは何もしてませんよ。毎日しているのは保湿クリームと日焼け止めぐらいのものです。強いて言うなら、野菜をよく食べているおかげかもしれませんね」
「野菜ですか」
わたしも野菜は好きな方だから結構食べるんだけど、グランアンネリーゼさんほどの美肌をキープしているか、と言われればそんなことはない。
「ええ。野菜は肌にいいと聞きますので、いろんな種類の野菜をだいたい大皿に3~4杯ぐらいは摂ることを心がけていますね」
「ほうほう……。えっ!?」
大皿に3、4杯だって!?
草食動物じゃあるまいし、いくら美肌のためとは言え、それほどたくさん食べる必要もない気もするけど……。
「そんなに野菜ばっかり食べてると、それだけでお腹いっぱいになりません?」
「特にそんなことは……。朝食は野菜だけにしていますし、夜はお米を食べていませんから、野菜のせいで他のおかずが食べられない、ということはありませんね」
「……なるほど」
野菜は嫌いじゃないけど、さすがにその量は真似できそうにない。
美肌美人への道は、相当に険しいようである。
ご飯も甘いものも大好きなわたしは、早々に投了を決め込むことにした。
「まぁその食生活のおかげで、こうしてたまに褒めてもらえる肌質をキープできていますし、胃腸も丈夫になって今まで戦ってこられたのかもしれません。その戦いに明け暮れた生活も、もう去年の中山大障害でおしまいにしようと考えていたんですけどねぇ」
「そうなんですか」
……ん?
彼女、今、さらっとなにか重大なことを言わなかった?
「……。ええっ!? おしまいにしようって、それって……」
思わず大きな声で聞き返したわたしに、偉大なジャンパーは苦笑をもらす。
「そのまんまの意味ですよ。勝っても負けてもあのレースを最後にして、引退するつもりだったんです」
いつもの穏やかなトーンの声で、グランアンネリーゼさんは続けた。
「走ったのは4年ほどで、障害レースを走っているウマ娘としては大したキャリアではありませんけどね。たくさん重賞に出させてもらって濃密な選手生活を送れましたし、幸いにもデビュー前から目標にしていたJ・GⅠをいくつか勝つこともできました。憧れの先輩だったクリスタルソナーさんにも何度か勝利しましたし……あなたのような、立派な後輩も育ち始めている」
グランアンネリーゼさんがわたしを見つめる瞳は、お父さんやお母さんがわたしを見つめるそれと、同じようなものに感じられた。
「素晴らしい先輩や頼もしい後輩たちのおかげで、障害レース界は私のデビュー当初からは考えられないぐらいの盛り上がりを見せています。それは、とても嬉しいこと。障害レースをたくさんの人に見てもらいたい。私の愛する競技の魅力を、たくさんの人に知ってほしい。それは私のデビュー前からの願い……悲願と言っていいものでしたから」
そう言うとグランアンネリーゼさんは、晴れ渡った冬の空に遠い視線を向けた。
今の障害レース界の盛り上がりは、グランアンネリーゼさんの人気によるところが大きいのは言うまでもない。
その大立役者の瞳の先には、一体何が映っているのだろう。
「今の障害レース界を見ていると、もう私はやるべきことをやり尽くしたんじゃないか、あとは後続の人たちに障害レース界を託して、私は身を引いて自分の愛した世界を見守る側になってもいいんじゃないか。そんなふうに思っていたんですけどね」
グランアンネリーゼさんは空へ向けていた視線をわたしの方へ戻すと、挑戦的な笑顔を浮かべた。
「ですが、あなたとの戦いを通して改めて思ったんです。確かに障害レース界は私が思い描いたような……いや、それ以上に素晴らしい世界になった。たくさんのファンたちが障害レースを見るためにレース場に足を運ぶようになって、熱狂を生み出すに至った。リーチヨハンナさん、アクサナデイジーさん、それにエルサミラクルさんのような、有望なジャンパーウマ娘もたくさん出てきた」
障害レースのことを語るグランアンネリーゼさんの瞳は、夢を語る少女のように輝いていた。
彼女は一度短く息を吸い込むと、そっと瞳を閉じる。
そして。
「……でも、その中に私がいない。そんなさみしいことはないって!」
そう言い切って開かれた彼女の瞳が、いっそう煌めく。
「グランアンネリーゼさん……」
「ということで老兵はもう少し障害レース界に居座ることにした、というわけです。そのことをエルサミラクルさん。あなたに……消えかけていた私の闘志に火を付けてくれた私のライバルに、どうしても伝えたかった。そして、そのお礼をしたかった。だから今日、こうしてお誘いしたんですよ」
グランアンネリーゼさんはザバッ! と大きな音を立てて湯の中から腕を出すと、わたしの眼の前に拳を突き出した。
「前走ではハナ差まで追い詰められましたが、まだまだ負けるつもりはありませんよ。私の王位を
「望むところです」
わたしは力強く応えて握りこぶしを作ると、コツン、とそれを絶対王者の拳に当て重ねる。
「ふふっ……なんだか
「ははっ、そうですね」
お互いに顔を見合わせ、わたしたちは照れ笑いを浮かべた。
「ふぅっ……。そろそろ、のぼせてしまいそうですね。上がってなにか冷たいものでも食べましょうか。ここのしぼりたて牛乳から作られたバニラアイスは絶品なんですよ」
「そうなんですか。それはぜひ食べてみたいですね」
わたしたちはそんなことを話しながら、岩の露天風呂から立ち上がった。
あのグランアンネリーゼさんが、わたしをライバルだって言ってくれた。
わたしがグランアンネリーゼさんのライバルだなんて、今は正直恐れ多いけど。
いつか胸を張って、『わたしのライバルはグランアンネリーゼさんです』と言えるようになりますから。
彼女の白くて細い背中を追いながら、より一層の努力をその背に誓った。
*
「お待たせいたしました。しぼりたて牛乳のバニラアイスです」
プライベート温泉から神賛の間に戻り、浴衣に着替え終わって数分もしないうちに、女将ウマ娘が
「ありがとうございます。テーブルの上に置いておいてくださいますか?」
「はい」
女将は丁寧にアイスを座卓テーブルの上に置くと、それでは失礼いたします、とこちらが恐縮するぐらい深々と頭を下げて退出していった。
「あれ? いつのまにルームサービス頼んでいたんですか?」
「ああ。毎年ここに着いてからすぐにお風呂に入ってアイスを食べる、というのが恒例になっていますからねぇ。気を利かせて持ってきてくださったんだと思いますよ」
「はぁ……」
なんともすごいサービス精神だ。
超一流が宿泊する部屋は、提供されるサービスも超一流ということなんだろうか。
「さっそく、いただきましょうか」
「そうですね」
わたしたちは向かい合うようにして座椅子に腰掛けると、いただきます、と声を揃えてスプーンを手に取った。
「うん、やっぱり『分かって』くれていますねぇ。私、冷凍庫からすぐ出したカチカチのアイスより、ちょっと溶けかけて柔らかくなった感じのほうが好きなんですよ」
グランアンネリーゼさんはオシャレな形のスプーンで一口すくい、パクっとそれを口にして感想を述べる。
「あ、グランアンネリーゼさんもですか。わたしもアイスは歯に抵抗がないぐらいの固さのものが好みですね」
「エルサミラクルさんも、わかっていらっしゃいますねぇ」
わたしが同意を示すと、グランアンネリーゼは明るい表情でウンウンとうなずく。
先輩との意外な共通点に、わたしもちょっと嬉しくなった。
ご相伴に預かろうとわたしも彼女の前に座り込んで、さっそくスプーンにすくって一口食べると……。
「うっま! 甘くて濃厚なのにしつこくない! スプーンがさっくり入るぐらいの固さも最高ですね」
「気に入ってもらえたようで何よりです。これぐらいの固さのほうが、アイスの食感と甘さの両方をしっかり味わえるような気がするんですよね」
そう言ってグランアンネリーゼさんは、上品に二口目を口に運ぶ。
……本来こういう目上との食事は、相手の食事スピードに合わせたほうがいい、ぐらいの常識は、実はわたしも持ち合わせていた。
だがアイスがあまりにも美味すぎたせいで、グランアンネリーゼさんがまだ半分ぐらいまでしか食べていないのに、わたしはすっかり完食してしまった。
「うふふっ、お口にあったようですね。おかわりはどうしますか?」
先輩のそのご厚意に、少し頬が熱くなってしまう。
「えっ。あ~、そうですね……」
どうしたもんか迷ったけど、お互いの裸まで見ておいて遠慮することもないか。
「じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「もちろんです。ちょっとカロリーオーバーしちゃいますけど、私の分も電話して持ってきてもらいましょうか」
冗談っぽく言ってグランアンネリーゼさんは備え付けの電話の受話器を手に取ると、「同じアイスクリームを2つ追加でお願いします」と注文してくださった。
「……グランアンネリーゼさんも甘いもの、お好きなんですね。なんだかちょっと意外です」
「そうですか?」
「はい。野菜のこともそうですけど、グランアンネリーゼさんみたいなトップランナーって、すごくストイックにレースに役に立つこと以外は全部節制してるものって思っていました」
わたしの勝手な想像を聞いてどう思ったのか、グランアンネリーゼさんはクスクスと楽しそうに笑った。
「そんなことありませんよ。レース前は確かに食事を制限しますが、普段は甘いお菓子とかも食べてますし、たまには友人との商店街の食べ歩きなんかも楽しんでいますよ」
「そうなんですね」
「ちょっと、がっかりしましたか?」
少し探るように言う先輩に、一瞬言葉を詰まらせてしまう。
「いえ、そんなことは……」
絶対王者のフツーな一面を聞いて、わたしはがっかりしたのだろうか。
……わたしと同じようにフツーなところもあるのに、あんなに強いなんてずるい、なんて思ってしまったのだろうか。
「まぁ私もちょっと飛んだり跳ねたりするのが得意なだけで、中身はふつーのウマ娘ってことですよ。レース前でも美味しいものお腹いっぱい食べたいなーと思うこともありますし、トレーニングをサボりたくなることだってあります」
わたしの心の内を知ってか知らずか、グランアンネリーゼさんはほがらかに話を続ける。
「えっ! グランアンネリーゼさんでもそんなことがあるんですか?」
「もちろんです。私のトレーナーはあのミホノブルボンさんを担当していた方ですからねぇ。練習量も半端じゃないですよ。実際、『キツイのでもう少しこう、手心というものを……』と訴えたこともあります」
「で、それに対するトレーナーさんのお答えは……?」
「『二度は言わん。坂路もう一本だ』でおしまいでした。あの強面にそう言われては、こちらとしても従うしかありませんでしたよ」
「ですよね~。わたしもプールトレーニングの時はそんな感じですね……」
でも、そんなウマ娘だったら誰でも体験する悩みを話しているうちに、偉大な先輩に対する妬みのような感情は自然と消えていった。
絶対王者と称えられるグランアンネリーゼさんも、完全無欠のウマ娘なんかじゃない。
彼女もふつーなわたしと同じように美味しいもの、甘いものが好きで、厳しいトレーニングはやっぱりふつーに辛いのだ。
それからわたしたちは、夜が更けるのも忘れて色々なことを語り合った。
レースやトレーニングのこと。
それ以外の、学校生活のこと。
美味しい食べ物のこと。
そしてお互いの恋愛観のようなこと。
今この時間だけは、レースを戦うウマ娘としてでも、勝利を奪い合うライバルとしてでもなく。
わたしたちはフツーの仲の良い部活の先輩後輩のような間柄に戻って、フツーの学園生活の会話を思う存分楽しんだ。
*
オーディエンスのざわめきが、舞台袖まで聞こえてくる。
観客席の静かな熱狂と期待感が、ここまで伝わってきている。
「ふぅっ……」
ファンたちの要望で実現した、トレセン学園のステージで行われる異例のウイニングライブの開演まで、あと少し。
胸の高鳴りとどうしようもない緊張感を落ち着かせるように、わたしは勝負服の紐タイを握りしめながら、意識的にゆっくりと息を吐いた。
「エルサさん。緊張しますか?」
わたしと同じように勝負服に身を包んだグランアンネリーゼさんが、そう声を掛けてきてくれる。
「いえ、それほどでも……と言いたいところですが、めっちゃ緊張してます。なんせ初めてのJ・GⅠウイニングライブなのに、準センターという重要なポジションですし……。うまくやれるか、正直不安です」
吐露した本音を聞いたグランアンネリーゼさんは、わたしを安心させるように優しく微笑んだ。
「そうですよね。でもきっと大丈夫ですよ。リハではびっくりするぐらい、みんなで息をピッタリ合わせられたじゃないですか。それに万一失敗しても、私達が全力でフォローしますから」
「あはは……。そうならないよう、がんばります」
力なく苦笑するわたしを見て心配になったのか、ステージを共にする出走者たちが集まって来てくれた。
「初めてのJ・GⅠのウイニングライブって本当に緊張しますよね! 私もJ・GⅠでの初ライブは準センターだったんですけど、ちょっと失敗しちゃって……でもみなさんがフォローしてくださって、事なきを得たんです」
アクサナデイジーさんが自分の失敗談を披露することで、わたしの緊張を和らげようとしてくれている。
「うん、特にグランアンネリーゼさんのフォローケアは素晴らしいものがあるよ。ボクも何回、彼女のフォローに救われたかわからない。いつかお返しをしたいと思ってるんだが……困ったことに彼女はジャンプだけでなく、歌もダンスも上手なもんだから、なかなかその機会も巡ってこなくてね」
リーチヨハンナさんも負けん気を交えた楽屋ジョークで、出演者たちの笑いを誘う。
「大丈夫だよ、エルサミラクルさん」
「もし失敗しても、私達だって全力でフォローするからさ!」
「私、バックダンサーだから準センターのエルサミラクルさんとは全然立場の重さが違うけど……私もJ・GⅠのウイニングライブ初めてだし、お互いがんばろ!」
みんな次々に、わたしに暖かい励ましの言葉をかけてくれる。
「みんな……ありがとう」
本当に素晴らしい仲間に、わたしは恵まれた。
レースを戦うウマ娘として、こんな幸せなことはない。
恵まれたのは、厳しい道程を歩むレース仲間たちだけじゃない。
わたしは本当に、たくさんの人たちに支えられてここまで来た。
応援してくれる、ファンの人たち。
お父さん。
ルージュ。
イングリッド。
ミサさん。
キョウコ。
それに、お母さん。
今日のライブを見に来てくれているわたしの大切な人たちに、今までの感謝を伝えよう。
今回のJ・GⅠへの……絶対王者への挑戦は2着という結果に終わったけど。
わたしは、勝利を諦めずに走り続ける。
そうしていつか、フツーなわたしがセンターに立った時。
わたしを支えてくれた人たちにとって、そのことがささやかな幸せであればいい!
そんな想いを胸にいだいて。
わたしはまばゆい光あふれるステージの向こう側へ、駆け出した。