その日の1時限目はロングホームルームだった。それ自体は、月に2~3回の頻度であるので珍しくない。
「全員くじは引いたな~? それじゃ、移動開始ー!」
教師の掛け声で、生徒たちは自分の机を持って、決められた場所へ移動を始める。
リューリのクラスでは、継続高校に入学して初めての席替えが行われた。
席替えは小・中学校で何度も経験している。担任によっては月に1回の頻度で行われた。その教師曰く、多くのクラスメイトと関りを持ってほしいとのことだったし、その理屈には納得もしている。
とはいえ、結果には当たりはずれが確かに存在していた。意中の相手と席が近くになるとか、逆に嫌いな奴の近くになってしまったり。憶えているのは、クラス一の不良と連続で隣になってしまったクラスメイトが嘆いた直後、先生が仲裁に入るレベルの喧嘩に発展したことだ。あの時は、そのクラスメイトに同情せざるを得なかった。
ともあれ、今のリューリのクラスにそんな不良みたいな生徒はいないし、憎たらしい人もいない。だから、誰が隣になっても特に文句はなかったが。
「よろしく」
「ああ」
公平なくじ引きの結果、ヨウコが隣になったのは少し驚きだ。リューリはイカサマをする度胸も器用さもないため、確実に運によるものである。それで、仲良くなれてきた(かもしれない)相手がこうして近くなったのは僥倖と言えよう。何より、ヨウコも隣同士になったことを嫌がっている素振りがない。
何にせよ、隣同士で気まずくならないのはとてもいい。次の席替えがいつになるかは知らないが、かなり過ごしやすくなるだろう。
◆ ◇ ◇ ◇
そんな風に嬉しさと期待を抱いてから、およそ2時間後。
「――というわけで、追試対象の人は答案用紙に付箋が貼ってあります。明後日の放課後、理科室に来るように」
教壇でそう告げる理科教師の言葉を、リューリは非常に憂鬱な気持ちで聞いていた。その手元にある小テスト用紙の右上には、「36」の数字と「追試」の付箋。ものの見事に赤点である。
サイマにも話したが、リューリは理系科目が大の苦手だ。それでもこれまでは、テストの日を知っていたら、頭をフル回転させて苦手科目の知識をどうにか詰め込み、付け焼刃でなんとか平均点をぎりぎりキープできていたのだ。けれど、この小テストは先週の理科の授業で抜き打ちに行われたもので、成す術もなかった。
「はあ……」
溜息をつく。定期考査でもなんでも、この手の追試は受けたことがなかったため、初めての事態に気が滅入る。社会に出ても役立つ機会なんてそうないだろうに、とありきたりな感想まで頭に浮かぶ。
しかし、取ってしまったものは仕方がない。苦手な科目はあっても、リューリは授業や試験をふけたりしない、至って普通の学生だ。この現実を受け入れて、少しずつ勉強をするしかない。
惨憺たる小テストを机に戻す。そこでふと、ヨウコはどんな塩梅なのかな、と思い視線を横にずらすと。
「……?」
ヨウコと視線がかち合った。ひどい有様のリューリに興味でも湧いたのだろうか、それでもヨウコはリューリから視線を逸らそうとはしない。一方のリューリも、ヨウコと目を合わせたままでいるのが少し恥ずかしくて、視線をヨウコが持っているテスト用紙に移す。
そして、驚いた。
ヨウコが持っている小テストの点数欄には、パーフェクトを表す「100」の数字が書かれていた。しかもご丁寧に教師直筆の花丸まである。
たまらず、ヨウコに視線を戻すと。
「……ふ」
少しだけ、ヨウコは笑っていた。
自分の小テストの結果を見てリューリが驚いたのは、視線で気づいているだろう。そのうえで笑ったということは、得意な気持ちなもかもしれない。まさに、ドヤ顔だ。
けれどリューリは、それを理解したうえで、ヨウコに対して抱いたのは不快感などではない。意外さだ。ヨウコが理科が得意だということと、そうやって得意げな表情を浮かべることが、少し考えにくくて。
◇ ◆ ◇ ◇
「残念無念、って感じだね」
食堂でサイマがにやにやと笑いながら告げる。リューリは、A定食(唐揚げ定食)をつつきながら溜息を吐くしかなかった。
数学が得意と自負しているサイマは、理科もそれなりに得意だったらしい。例の小テストも追試を逃れたとのことで、その頭脳が羨ましい。
「まあ、ほぼ同じ問題って言ってたし、教科書とノートを読みなおすしかないね」
「それぐらいしかできねえなあ……」
本当に他人事のように言うサイマは、B定食(焼きサバ定食)の味噌汁を啜る。暗記することはリューリも嫌いではないので、言った通りの対処をするしかなかろう。実のところ、今回の小テストも暗記系のものがメインだったのだが、苦手科目という点が最大の障害だった。
「そういや、今日の席替えアレだったね。ヨウコと隣同士になったじゃない」
「ああ、すごい偶然と思ったよ」
次なる話題は、今朝の席替えの話に移る。あの時も思ったが、サイマの言う通りヨウコの隣になったのは本当に嬉しい偶然だ。だって、やっと仲良くなれた友達と接する機会が増えたというのは、タイミングが良いと言うものだろう。これを機に、もう少し話す機会が増えたらなと思う。
「で、ヨウコって実際どんな感じなの?」
「……どう、とは」
「いやさ、何か斜に構えてる感じで、俺はどうも取っつきづらくてさ」
サイマの言い分は分からなくもない。リューリ自身、この間街で偶然会うまではそんな印象を抱いていたのだから。
かといって、リューリもヨウコのことを何でも知っているわけではない。友達宣言をして1週間も経っていないのだ。かといって、今知っている限りのことを全部話してしまうのも、ヨウコに申し訳ない。
「まあ確かに……雰囲気はちょっと近づきにくい感じもする。だけど、本当はいいやつだと思うよ」
「人は見かけによらないってことかあ」
「そうそう」
理解したように頷くサイマ。リューリも唐揚げを一口齧って同じように頷いた。未だ、リューリとヨウコが重ねた時間は、友達にしたってまだまだ短いだろう。けれど、サイマの言うような「とっつきにくい」印象だけでない。自らは口下手と言っていたが、お礼を言ったり昼食を奢ったりと律儀な面もある。本当に、見かけによらない性格をしていた。
その時、食堂の窓がカタカタと揺れる。
「今日風強いな」
「そうだねえ。おかげで外じゃ遊べないよ」
サイマの言葉にリューリは首を傾げる。
「そういえばサイマ、昼はいつも外に出てるよな」
「ああ、日光浴をするためにね。でも最近は、ペサパッロもやってるよ」
「ペサパッロ?」
フィンランドをイメージして造られた継続高校は、サウナだけでなくフィンランド由来のスポーツも流行っている。ペサパッロも確かフィンランドのスポーツだったと思うし、たまにグラウンドで遊んでいる姿が見えた。
とはいえ、サイマは理系科目が得意と聞いていたが、スポーツ方面は知らない。
「サイマ、スポーツとか得意だったっけ?」
「いや。こないだ偶然、助っ人に誘われてね。以来ちょっとハマってる」
「へえ……」
体育の授業はリューリも嫌いではないが、別段体を動かすのが好きというわけでもない。とはいえ、サイマがハマっているのであれば、いずれはやってみようと思う。
「でもこの風じゃ、午後の弓道は大変そうだね」
「そうだな……」
弓道場は半屋外のため、天候の影響は受けやすい。特に風は、放った矢の狙いを大きく狂わせる。ほんのわずかな風でも影響は出るのだから、これだけ強い風ならなおさらだ。恐らく、イルタでも今日は皆中が難しいだろう。
(戦車道も、風の影響とかあるのかな)
付け合わせのキャベツを食べて、ぽやんと考える。未だ戦車道のことは詳しくは知らないものの、戦車が弾を撃つのは知っている。だからもしかしたら、弓道ほどではないにしろ、風の影響を受けるのではないだろうか。
選択科目の授業後は、各科目ごとに解散となるため、帰りのホームルームは行われない。午後イチで選択科目が始まるので、今日ヨウコにまた会う可能性は少なかった。
だからもし、明日話をすることがあれば、戦車道のことを聞いてみたい。
せっかく友達、席も隣同士なのだから、雑談ぐらいの調子で聞いてみてもいいだろう。
すると。
「おい聞いたかよ、C組のエルヤがあのミカさんと会ったって」
「え、マジ? どこで?」
「なんか校舎裏とか言ってたな。したら、何か部活の悩みでアドバイスをもらったんだと」
「よっしゃ、放課後行ってみようぜ! 会えるかも!」
近くのテーブルで、楽しげな話をするクラスメイトの男児グループの声が聞こえた。
リューリたち1年生(特に男子)の間に流れている噂に、「めったに見かけないけど会えたら嬉しいすごい美人な先輩」というものがある。名前はミカと言うらしく、悩みなどを聞いてもらったらたちどころに解決するとか何とか。
「本当にいるのかねえ、ミカって人」
「さあ……」
リューリとサイマも、その噂は知っている。だが、学校七不思議の類と同様、実態がなく一人歩きしているホラ話、とリューリとサイマは考えていた。確かにここの生徒なのに、誰も見かけたことがないというのは少しおかしい気がする。多分、誰かの話に尾ひれがついたものだろう。
これも青春の一コマだなあ、とリューリは年寄りくさい事を考えて食事を続けた。
自分の間近に、そのミカと関わりがある人がいるとも知らずに。
◇ ◇ ◆ ◇
結局、強風は午後になっても収まることを知らず、弓道は苦戦を強いられることとなった。リューリの放った矢は的に掠りもせず、サイマも同様、イルタに関しては4本中2本が的に命中する結果に終わった。普段から皆中させるだけで十分すごいのに、この風の中で2本当てるというのもまたすごい。
そんな力量の差を痛感しつつも、弓道の時間は終わった。
「リューリ、サウナ行かない? 風で体冷えちゃってさ……」
「あー、悪い。今日はパスするわ、かえって追試対策しないと……」
「そっか、頑張れ~」
弓道の時間後にも設けられているサウナタイム。リューリもこれまで何度も参加していたが、今日は流石にやめておく。人生初めての追試ということで、それなりに心にダメージもある。それに、元々苦手だからこそ、対策は早いうちにしなければと思った。
なのでリューリは、更衣室で道着から制服に着替えた後、荷物を取りに教室へ戻る。
「あ、ヨウコ」
「……リューリ?」
そして教室には、帰り支度をしているらしきヨウコがいた。着ているのは継続高校の制服、ジャージなどではない。
「戦車道、終わったんだ」
「うん。リューリも?」
「ああ、今から帰るとこ」
答えながらリューリも荷物をまとめる。と言っても、そこまで大荷物ではない。教科書と筆記用具をまとめてリュックにしまえば、もう帰る準備は整う。そこで、ヨウコもまた肩に鞄を提げて、まるでリューリを待っているかのような体勢でいるのに気づいた。
「……どうかした?」
「何か、先に帰っちゃうのも何だと思って。友達、だし……」
所在なさげに帽子のつばに触れるヨウコ。「友達」の部分は、自分でも言うのが照れくさいのか、少しだけ声量が落ちていた。
しかしリューリは、改めてヨウコの方からリューリのことを「友達」と言ってくれたことが嬉しかった。そのせいで、気持ちがふわふわしてしまう。
「……じゃあさ、途中まで一緒に帰ろう?」
「ん」
だから、ほんの少しだけ希望を示すと、ヨウコは頷いてくれた。今朝のテストの散々な結果を、リューリはこの時だけは忘れられたと思う。
そして2人で、昇降口まで行って靴を履き替えて、帰路に就く。
「何か、初めてじゃない? 選択科目の後でこうして会うのって」
「私はいつもこの時間なんだけど……リューリはどうして?」
帰りながら話をする。確かに、リューリがあの時間に教室に戻ることは全くと言っていいほどなかった。ヨウコがいつもそうだったのなら、本当に今日のことは偶然である。席替えのことと言い、今日はよく偶然が重なるものだ。
そして、早めに帰る理由について聞かれると、目を背けたい現実が脳内で再生される。
「……帰って、勉強しなきゃだし。追試対策の」
「……ああ、あれ」
ヨウコも思い出したようだが、リューリに向ける表情に軽蔑などの感情は見受けられない。
「理科、嫌いなんだ?」
「大っ嫌い。その点ヨウコはすごいじゃない、満点だなんて」
「……大したことじゃないよ」
忌憚のない感想を伝えると、ヨウコの視線がわずかに逸れる。
何度か話して分かってきたが、ヨウコは照れなどが生じると視線を逸らすことが多いと思う。反応が薄いわけではない。
その時風が吹いて、ヨウコが目を閉じて帽子のつばを抑える。リューリも目を閉じて、ゴミが入るのを防いだ。ここでリューリは、昼から気になっていたことを聞いてみる。
「こんな強い風だと、戦車道も大変じゃない?」
「ああ、そうだね……。風が強いと、狙いを定めて撃つのも難しいよ」
その言葉に、リューリの中で一つの予想が生まれる。
「ヨウコは、弾を撃つ係なのか?」
「係っていうか……そう。砲手をやってる」
「へー、いいじゃん。花形って感じで」
戦車道の醍醐味は、砲の撃ち合いと素人ながらに思う。その砲を撃つ砲手とは、戦車道に花を添えるポジションではないだろうか。それに、冷静に指示を出すコマンダーなどより、砲手の方がヨウコのイメージに合っている気がする。
けれどヨウコは、あまり嬉しそうな反応をしなかった。
「……私には、それしかできないから」
「?」
その呟きには、簡単には片付けられない感情が混じっているように聞こえた。ヨウコは、少し息を吐いてから口を開く。
「私って、人と話すのがあまり得意じゃないし、力もあるわけじゃなくて、地図を読むのだって苦手。人を導くのも性に合わない。だから結局、できるのは砲手しかなかった」
ヨウコの告げた自らの短所は、全て戦車道で必要なものらしい。そしてそれらを、ヨウコは持ち合わせていない。絶対口にはしないが、それらの短所を全部克服している、とはリューリも言い難い。現に、地図が読めないのと人と話すのが苦手なのは、この目で見てきた。
「それしか自分にできることがないから。だから花形をやってるイメージは、私にはない」
「……」
「どころか、それ以外ができない自分のことが恥ずかしく思う」
それきり、ヨウコは口を開かなくなった。
尖っている自分の特性を口にして、弱気になってしまっているのはリューリにも分かる。
けれど頭を働かせて、何か言葉をかけてやりたい。
自分は友達なんだから。
それから思いついたのは。
「……もしかして、ヨウコが理科が得意なのって戦車道に役に立つから?」
言われてヨウコは、頭を上げる。けれどまだ、その顔に明るさは戻っていない。
「砲手しかできないなら、せめてその役目をちゃんとできるようにしたいと思ってる。だから、計算とか物理とか、そういうのの勉強はやれるだけやってきた」
戦車の弾も、目標を自動で追尾するほど高機能ではないだろう。そこには自然界の法則や現象が当たり前に適用され、計算は必要不可欠で、感覚で当てられる人などごく僅かだろう。
そしてヨウコは、砲手しか自分にはできないことを悔いている。だから、そこで使える知識や技術を身につけ、努力を欠かさない。その結果が、今日返ってきた理科の小テストのあの満点だろう。
「それでも、戦車に乗って砲を構えると、その学んできたことが頭の中で薄れて。的に当てるのもままならない」
「それは、緊張しているから?」
「……それが一番近いかも。戦車道を初めてもう1か月以上は経っているのに、慣れないよ」
「……そもそも、ヨウコはどうして戦車道を?」
もしもリューリ自身がヨウコと同じ立場で、同じ状況になってしまったら。きっと、戦車道を続けられる自信も失って背を向けていたかもしれない。それでもヨウコは、現状に悩んでいても、不器用な自分を責めていても、戦車道をやめたいという雰囲気が無い。何か、戦車道を続ける理由があるのだろうか。
「この学校、戦車道以外は女子の選択科目が茶道と書道しかなくて。どっちも私には向いてなさそうだと思ったから、戦車道を選んだ」
「……そっか」
以前リューリがヨウコに抱いていた、静的なものより動的な戦車道の方がイメージに合っている、という印象は間違っていなかったらしい。
「そうして仕方なく選んだものだから。それしかできないから。私はそれをちゃんとやり切りたいと思う」
その言葉には、力強さを感じる。
その言葉は、痛いほどにリューリに響いた。
「だから私は、戦車道をやめる気はない」
ヨウコを見ていると、共感を抱く。
リューリが弓道を選んだのは、柔道や剣道のように人を叩いたり投げたりするのが嫌だから、という消去法だ。だから、ヨウコが同じように戦車道を選んだことには、親近感を抱いていた。
しかし同時に、無力感にも苛まれる。
そうして選んだ弓道で、リューリはほどほどに頑張ればよいという気軽さで挑んでいた。けれどヨウコは、自分にできることが限られているからこそ、それをちゃんとしようと努力を積み重ねている。自分とはまるで全然違う。
ヨウコの言葉に、ちゃらんぽらんに生きてきたリューリの心が、引っぱたかれたような感覚だ。
「……すごいな、ヨウコは」
「え?」
思わず口にすると、ヨウコは意外そうな顔をこちらに向けた。
「自分でできることにひたむきで、できる限りの努力をして、その結果が出せているなんて」
「いや、でもまだ戦車も的に命中できるのはそんなでもないし……」
「だけど、小テストで知識は証明できてる。決して無駄なんかじゃないよ」
ヨウコは、戦車道のために学んだことがちゃんと活かせていないのを悩んでいる。だけどリューリからしてみれば、あの小テストの結果を考えると、その努力は決して無駄ではないと言えた。
「俺はまだ、戦車道のこととか全然知らないから勝手なことは言えないけど、ヨウコがそうやって努力し続けているのなら、結果はいつか出ると思うよ」
「……」
「そして俺は、そんなヨウコのことを応援する。友達だからとかじゃなくて、応援したい」
できないからと、上手くいかないからと匙を投げず、自分を奮い立たせて今できる最低限のことをやり遂げる。そのために努力を厭わない。
そういうヨウコの姿を見ていると、自然と応援したくなってしまう。リューリとは全く違うからこそ、惹かれるものがあった。
そんなリューリの言葉を聞いて、ヨウコは反応を示さない。真っ直ぐに応援されることに慣れていないのかもしれないが、妙な沈黙が訪れたことでリューリも少しばかり気まずくなる。
そこで、強い風が吹いた。これまでよりもずっと強い。
「……っ!」
「あっ」
そしてヨウコが押さえるよりも早く、帽子が風に飛ばされてしまった。幸いなことに、帽子は天高くに舞い上がったりせず、程近くにある林の木の枝に引っかかった。こういう時は、自然豊かな学園艦でよかったと思う。
先んじて、小走りにリューリがその帽子を元へ向かい、木の枝から外してヨウコの方を振り返る。
すると。
「……」
「……あー……ええと」
ヨウコは、髪の毛を右手で、スカートを左手で押さえていた。
スカートは分かる。ヨウコだって一人の女の子だ。中を見られるのは相当に恥ずかしいものだろう。
そして、髪を押さえているのも理解できた。心無い言葉を以前浴びせられたというヨウコは、自分の髪を極力見られまいと帽子を被ってきたのだ。友達になれリューリに見せるのも抵抗があると言うほどに、コンプレックスを抱いている。
だけど今、その髪を隠す帽子は、リューリの手の中だ。髪を隠すのは、空いた右手でどうにかするしかない。それでも、髪を隠しきることはできていなかった。
「……」
今まで隠されていた、クリーム色のベリーショートヘアがほぼ明らかになっている。
そしてヨウコは、スカートのこともあるだろうが、やはり髪を見られるのに思うところがあるらしく、白い頬がわずかに赤らんでいた。
そしてリューリの目は、そんなヨウコの髪と表情に釘付けになってしまっていた。
「……あの、帽子返してくれる……?」
「あ、ごめん」
だが、呆けていて帽子を返すのを忘れてしまった。風が収まったところでヨウコが左手を伸ばしてきたので、リューリは帽子をその手に渡す。そして、ヨウコはさっきよりも少し目深に帽子を被った。
「……」
「……」
お互いに、沈黙してしまう。ヨウコとしては、ずっと隠してきた髪を露わにしてしまい、リューリにどう思われているか不安なのだろう。
リューリは、ヨウコの髪を確かに目撃した。かと言って、かつてヨウコが言われたような不当な印象は少しも抱いていない。けれど、素直に感じたことを素直に伝えてしまっては、ようやく繋がったこの関係も終わってしまうかもしれない。それが怖かった。
「……」
ちら、とヨウコの様子を窺う。
目元はあまり見えないが、顔はまだほんの少し紅い。
具体的に何を思っているのだろうかは、何となくこちらの言葉を待っているのは分かった。このまま黙っていると、適当な場所でお別れになってしまう。そして明日以降、どんな顔をすればいいのか分からない。隣同士の席になってしまったので、気まずさが4割は増すだろう。
であれば、リューリがやることはひとつだ。
「あのさ、ヨウコ」
「……何?」
「その、ヨウコの髪だけど」
足を止めたヨウコ。リューリも同じように立ち止まり、向かい合う。
視線を上げたヨウコの瞳は、揺れていた。リューリがどんな言葉を投げてくるのか、期待しているのではなく不安なのだろう。
だけどリューリは、この気まずい空気を打破するためには、自分が恥を忍んで正直に感想を述べるしかないと、分かっていた。
「……すごく、綺麗だったよ。全然変じゃない」
「……っ」
「少なくとも俺の目にはそう見えた。だから自信もっていい」
だからこそ、嘘偽りない感想を伝える。
瞬間、ヨウコの目は見開かれて、瞳は潤んで、唇は少し歪んだ。
それからすぐに顔が下を向いて。
「……ありがと」
消え入りそうな、ともすれば風の音に遮られてしまいそうな声で、告げてくれた。
正直、歯の浮くようなセリフはリューリとは縁遠くて、口にするのも恥ずかしい。
それでも、そのヨウコの言葉を聞けただけで、その甲斐はあったと言えるだろう。
◇ ◇ ◇ ◆
「いや、無理……」
自分の部屋で、理科の教科書とノートを目の前にリューリは独り言つ。
帰ってから夕食までに少し勉強し、艦の大浴場で疲れを癒す。そしてまた寝る前に、勉強しようとしたわけだが、集中は1時間ともたなかった。やはり苦手科目とは、気力を削るペースが速すぎる。得意科目の社会や国語の勉強や、地図帳を眺める時の集中力はこの程度ではないのに。
「はあ……」
溜息をつき、立ち上がる。こうなってはそう簡単に集中力は戻らないし、意欲も回復しない。追試を控えているとはいえ、集中力が途絶えた今、すぐに勉強に戻っても知識は碌に入ってこないだろう。
だからリューリは、小さな本棚に収めてあるお気に入りの漫画に手を伸ばす。
そして表紙に写っている、白い髪のキャラクターが目に入った。
――そうして仕方なく選んだものだから。それしかできないから。私はそれをちゃんとやり切りたいと思う
そのキャラクターは、ヨウコとは似ても似つかない。
だけど、白い髪を見ると、今日のヨウコの姿を想起させる。
今まで知ることのなかった、ヨウコの本音を表した言葉が頭を過る。
「……もう少し、頑張ろう」
マンガを本棚に戻し、再び勉強道具に向き合う。
ヨウコのことを考えると、今の自分のままではいられないと思わせられる。
仕方なく選んだ場所でやれるだけの努力をしていると知って、立ち位置が似たリューリは、停滞していることに後ろめたさを感じた。
だからこそリューリは、苦手科目であっても、少しずつ勉強していこうと思い、そして行動に移した。
継続高校で生徒たちが暮らす場所は、他の学校とは全然違う形式をとっている。
他の学校でもよくあるオーソドックスなアパートメント型の学生寮は、全校生徒分用意されていない。次に多いのは、継続高校の甲板部分の大半を占める森の中に点在するバンガロー式、そしてテントと寝袋だけ支給される野宿だ。これらの形態は、後腐れなく入学時にくじ引きで決められており、野宿に関しては「ハズレ」とも言える。なお、学園艦の航行や運営に携わっている機関科や生徒会は、特例として専用の寮が用意されていた。
そしてヨウコが暮らしているのは、バンガロー型寮の一人部屋だ。
「……はぁ」
学園艦の大浴場から戻り、後は寝るだけだった。
その前に、玄関にかけてある鏡で自分の姿を確かめる。これは、学園艦でひとり暮らしを始める際に親から持たされたものだ。
その鏡に映るのは、見慣れた白い肌に白い髪、そして青い寝間着を着る自分自身。
風呂上がりで、ほんのわずかに湿った自分の白い髪に手をやる。
――なんか白すぎてこえーなー
――お化けみたいじゃね?
――おっかねー、幽霊なら祟られないようにしないと
中学の時、男子からそんな陰口を叩かれたのを思い出す。何度その言葉を忘れようとしても、他のことに集中していても、その記憶はある時ふと突然蘇り、ヨウコの心を押しつぶそうとした。
悪気はあったかどうか知らないし、今更確かめる気も起きない。それでもその言葉は、確実にヨウコの心を傷つけた。
だからこそ、アクシデントとはいえリューリに髪を見られたのが、本当に怖かった。
こんな自分でも、友達になりたいと言ってくれたのは嬉しかった。ほとんど話したこともない自分を街で案内してくれるほどに優しいリューリが、自分の髪を見て馬鹿にするとは思っていなかった。それでも、あの時の言葉がトラウマになっていて、いざ見られた時は消えてなくなりたかった。
だけど。
――すごく、綺麗だったよ。全然変じゃない
リューリは、褒めてくれた。
それを聞いた途端に、怖がっていた自分の心が、温まったような感じがした。
多分、自分の髪を褒めてくれた男子は、リューリが初めてだと思う。
「……っ」
顔が熱くなってくる。風呂上がりだから、ではない。
すぐに電気を消して、布団に入る。顔は熱くて、だけど体の不調はなくて、心臓は高鳴っている。
こうなったことは今までにない。初めての事態にどうすればいいか分からない。だから、こういう時はまず寝るに限る。
だけど少しの間、ヨウコは眠りに就けなかった。