「おはよー」
『おはよー』
建て付けの悪い扉を開けて挨拶をすると、クラスメイトの何人かが返事をしてくれた。リューリは別に、爽やか系で通っているわけではない。けれど、挨拶に関しては欠かしたことはほとんどなかった。
とはいえ、返さない人もいるにはいるし、そういう相手には無理強いはしない。
「おはよう」
「ん、おはよ」
席に着くと、ヨウコから挨拶をしてくれた。彼女は文庫本を読んでいて、リューリがクラスに入った直後は気づかなかったらしい。
そんなヨウコを見ると、昨日ヨウコに放ってしまった気障ったらしいセリフを思い出してしまう。
「……どうかしたの?」
「あ、いや……」
固まってしまったところにヨウコが声をかけてくる。よもや、昨日の自分の言葉に自分で恥ずかしがっているとは知らないだろう。一方のヨウコは、昨日のリューリの言葉にはさほど感慨はないらしい。関係性が崩壊しないかと不安だったので、その点は一安心だ。
鞄の中身を机に戻し、時間割を確認する。1時限目は数学、苦手科目とはいきなり自分の気力を削いできてくれる。思わずあくびが出てしまった。
「……寝不足?」
「ん? いや、まあ……確かに昨日は少し寝るのが遅かったけど、寝不足ってほどじゃあないよ」
今度は心配そうに声をかけてくるヨウコ。寝るのが遅かった理由は、昨日ヨウコに触発されて理科の追試対策に身が入りすぎた結果である。定期考査でもないのに、理科の勉強であれだけ集中したのは初めてかもしれなかった。
それにしても、今日はよく自分のことを見てくれていると思う。席が隣同士になり、心理的にも物理的にも距離が近くなったのは昨日からだが、ヨウコから朝に話しかけられることはなかったから。
もしかしたら、言い方が何であれ、リューリがヨウコの髪のことを褒めたから、少し心の距離を縮めてくれたのかもしれない。
そしてやはり、ヨウコを見ていると、今までの自分ではだめだという気持ちがまた浮かんでくる。
「……ヨウコ」
「何?」
「ヨウコってさ、数学も得意だったりする?」
「まあ、それなりには」
戦車道に役立つからと、ヨウコは理科が得意なのは分かっている。ではもしかしたら、砲手として計算も必要になるから数学も同じでは、と思って聞いてみたら案の定だった。
それを聞いてリューリは、数学の教科書を机から取り出す。予習のためだ。
「じゃ、俺も頑張りますか」
「え、急にどうしたの?」
「なんか、ヨウコを見てると頑張ろうって思えて」
「?」
ヨウコは首を傾げる。けれど、リューリ自身の言葉は本心からのものだ。ヨウコのことを知れば知るほど、自分も頑張らないとと思えてくる。
そう思う理由。それは今まで、自分が何かに熱中したりすることがなかったからだ。何かに真剣に取り組んだことがなかったからこそ、戦車道に真剣に取り組もうとしているヨウコを見て、自分はこのままではいられないと思うようになった。
だからこそ、少しずつでもいいから勉強はしておこうとなったわけである。
「……ふぁ」
そして数学の教科書を開いてほどなくすると、隣から空気の漏れる音が聞こえた。見れば、あくびをした直後と思しきヨウコが、目元にほんのわずかに涙を浮かべ、視線に気づいたのかリューリを見る。そしてぷいと、文庫本に視線を戻した。照れているのだろう。
「ヨウコも寝不足?」
「……ちょっと、考え事して」
「そっか」
考え事の内容については、聞かない方が吉だろう。そういうのはプライベートだし、掘り下げても問題ないと言えるほどに距離が縮まったわけでもない。
なのでリューリは、数学の教科書をまた読み始める。これで劇的に成績が上がるわけもないが、ヨウコがいる手前頑張らないとと思うのだ。
◆ ◇ ◇ ◇
ヨウコが今日乗るⅢ号突撃砲は、継続高校の保有する戦車の中で一番車高が低い。砲塔も回らないため、T-26やT-34/76などとはフォルムがだいぶ異なる。
この戦車には昨日から乗り始めているのだが、何分昨日は風が強すぎたため、思うようにパフォーマンスを発揮することはできなかった。しかし今日の天候は至って快晴、何の問題もない。逆を言えば、失敗したところで自分の腕以外のせいにできないわけだ。
乗り込んだヨウコは、演習場までの道すがら、主砲の調子を確かめるためにグリップを握る。
「……しっくりくる」
呟く。戦車の中は決して静かではないため、この程度の声量はほかの乗員に届かない。
だけど、ヨウコは思わずそう口にしてしまうほどに、そう感じた。昨日は特に何とも思わなかったのだが、天候に気持ちが左右されていたからかもしれない。けれど、とにかくヨウコは、これまで乗ってきた戦車では感じなかった「相性」というものを実感した気がする。
やがて、操縦手のトニが戦車を停止させた。ここ最近では随分と世話になっている、演習地点に到着したらしい。そしてスピーカーから、カンテレの音色が流れてきた。誰がこの音を発しているかなど、わざわざ考えるまでもない。
「各車両、まずは2発ずつだって。昨日までと同じ」
「分かった」
通信手のエルノが言うと、ヨウコは応える。人と話すのは苦手だが、同じ戦車に乗る仲間とのコミュニケーションは流石に避けられない。端的でも答えた方が意思疎通はしやすいし、今のところ陰口を叩かれてもいないので、今まで通りの自分で接しようと決めている。
周知のことだが、継続高校は資金が乏しいため日々の戦車道の訓練も小規模だ。一度の訓練で撃てる弾の数は厳しく制限されており、模擬戦に関してもまだ片手の指で数えられる回数だ。今日撃ったのも4発だけで、訓練内容は近・中距離からの停止射撃を2発ずつ。走行訓練は、砲撃をする地点までの移動も兼ねて行う。実際の試合に出ることになれば、それ以上の弾を撃ち、それ以上の距離を走ることになるだろうが、こうした日々の積み重ねで継続高校は強くなるのだと言う。
それはともかくとして、装填手のサミが砲弾を装填した。後はいつでも砲を撃つことができる。
ヨウコはスコープを覗き込み、遥か前方にある的を注視し、慎重に主砲の角度を調整する。Ⅲ号突撃砲は、これまでお試しで乗った戦車と違い砲塔が回らない。なので、調整できるのは仰角・俯角と、多少程度の左右だけだ。
目を皿のようにし、狙いを定める。見える限りで、木々の葉がほんのわずかに揺れていた。少し風が吹いているようだが、狙いを大きく左右するほどではない。
――そんなヨウコのことを応援する。友達だからとかじゃなくて、応援したい
不意に、昨日告げてくれたリューリの言葉が頭の中でフラッシュバックする。
あの時ヨウコは、応援してくれたリューリの言葉と笑顔に、勇気づけられたような感じがした。今まで人と話す機会がそんなになかったから、そういう応援の言葉をもらったのは、戦車道のメンバー以外では皆無だ。
その同じ日に、自分の髪をリューリは褒めてくれた。それを思い出すと無性に顔が熱くなる。今日の寝不足は、それで寝付くのが遅れたせいだが、今は問題ない。
そして今、またその時のことを思い出した。顔がほのかに熱くなってきたのを自覚するが、同時に気持ちは冷静になれている。
「……ふー」
細い息を吐く。
そして、引き金を引いた。
「……っ」
これまで乗っていた戦車とも違う砲撃の音。そして衝撃。それらに耐えて、ヨウコはスコープから目を離さない。放たれた砲弾の行く末を見定める。
そしてヨウコの目は、砲弾が的に命中したのを確かに捉えた。
「あ――」
「当たった!」
自分で口にする前に、トニが嬉しそうに声を上げる。
的には黒ずんだ痕が刻まれ、土煙も上がっている。
確かに当たったのだ。戦車道を初めて1か月以上経った今日、初めて一射目に当てることができた。その事実に、ヨウコの身体が震える。
嬉しいことは事実だ。しかし、ようやくの思いでそれを成した時、こうも身震いしてしまうのか。
だが、まだ練習は終わっていない。他の戦車は二射目に向けて準備を始めており、サミも2発目の砲弾を装填している。
装填が終わると、ヨウコはもう一度スコープで狙いを定める。砲弾の当たった痕は、中心からやや少し右にずれていた。なら次に狙うのは中心。主砲の向きと仰角を調整し、スコープから見える範囲で風を確かめる。
そしてヨウコは、タイミングを見て、一息を吐いてから、引き金を引く。
放たれた砲弾は――
◇ ◆ ◇ ◇
的に矢が当たり、リューリを含め見学していた他の履修生たちは拍手を贈る。今日もイルタは皆中を成功させていた。
「やっぱすごいな……」
「そうだな」
サイマが感嘆の息を洩らす傍らで、リューリも頷く。次は自分の番だ。恭しく礼をして射場を去るイルタを見届けてから、リューリも立ち上がる。
正座の痛みを感じつつ、礼をしてから射場に踏み入れて的を見据える。
――それしかできないから。私はそれをちゃんとやり切りたいと思う
ヨウコの言葉を思い出す。
自分と同じように、自分の感性でそれしかできないと戦車道を選んだヨウコ。彼女はこの時間にも、その戦車道に真剣に向き合っているのだろう。
であれば、それを知ったリューリには「うちはうち、よそはよそ」の精神でほどほどに頑張る、という生き方を良しとすることができない。
矢筒から矢を取り出し、弓に番えて狙う。
これまでは、狙いを定めるまでにかける時間はさほど長くなかった。けれど今は、じっくりと、今まで以上にじっくりと狙いを定めて、良いと思うまで矢を射ない。
風はない。弓を引き絞り、この位置だと一度決める。
「……ふー」
そこで一旦目を閉じて、息を吐き、目を見開いて再度狙いを確かめる。わずかにズレた狙いを、また定め直す。
そして、矢を放った。
ひゅん、と風を切る小気味よい音の後。
とん、と矢が突き刺さる音が鳴った。
しかしそれは、「あずち」に刺さる音ではなくて。
「……ぁ」
的に刺さっていた。中心から斜め下、的の外縁ギリギリだったけど、それでも矢は確かに的に当たっていた。
初めて、命中した。
この事態が初めてのことだと気づいたのは、他の履修生も同じらしい。空気が少し変わったのを肌で感じる。
今までは、よくて掠める程度しかできなかったリューリとしては、それだけでもうそこら辺をぴょんぴょん跳ねて回りたい気分だ。けれど、矢はまだあと3本残っている。何より、いくら授業の一環と言えど、ここでそんなふざけた真似は許されない。
だからリューリは、自分の心に落ち着けと言い聞かせ、2本目の矢をつがえる。
ここから3本連続で当たると思えるほどの楽天家ではない。だが、せめて後もう1本ぐらいは当てたいと思う。
もう一度、深呼吸をしてリューリは的を狙う。
◇ ◇ ◆ ◇
「それで1本しか当てられなかったんだ」
「ああ。やっぱり、そう上手くはいかないもんだよ」
帰り路で、ヨウコはリューリと今日の選択科目授業での話を交換した。
リューリは、弓道の授業で初めて的に矢を当てることができたのだという。今までは的に掠るのが精いっぱいだったとのことで、その時の喜びもさぞ大きかっただろう。
「でも、今まで当てられなかったのなら、大きな進歩だと思う」
「うん。それは我ながら、嬉しいよ」
だけどヨウコは、今日初めて命中させられたのを、素直に喜ぶべきだと思う。ヨウコ自身、初めて戦車で撃った弾が的に当たった時は、喜びのあまり夜眠れなかったぐらいだったから。良い結果を自分で成し遂げた時は、まずはその現実を受け入れる。それが、次につながるというものだ。
そして、やはりリューリはそのことを嬉しがっているようだ。自分に近しい人が、友達がそんな気持ちになっているのを間近で見て、ヨウコもまた嬉しくなる。
「だけど、ヨウコも今日は全部命中できたんでしょ? それもすごいじゃん」
「全部って言っても、今日はたった4発だし……」
すると、お返しとばかりにリューリが褒めてきた。けれどヨウコからすれば、まだまだ褒められたものではないと思う。
確かに今日の練習では、戦車道を始めて以来初となる、全弾命中を決めた。けれど、たった4発、それも近・中距離の停止射撃を全て当てるのは、序の口に過ぎないだろう。実際の試合では、いつでも停まって撃てるとは思えないし、近いうちに走行間射撃の訓練も始まるとユリも言っていた。自分はまだ、成長の途中であることは否めない。
「でも、今日をきっかけにこれから先も当てられるといいな」
「ん、それはまあ……」
それでも今日、弾を命中させた時の感覚は、喜びと共にこの先ずっと覚えているだろう。だから、それを胸に抱えて、この先も砲手として成長しなければならない。
「でも、俺もヨウコも今日になって当てられたなんて、すごい偶然だな」
「……そうだね。そういう日なんじゃないかな」
言われてヨウコも、視線が逸れる。不十分すぎる答えしか返せない。
まさか、リューリの言葉のおかげで、自信を持ちつつ冷静にできたとは言えるはずもなかった。そういうことを口にするのは、まだ照れ臭い。
だから、それについて話を続けるよりも別のことを聞く。
「……リューリは」
「ん?」
「弓で射る時って、何かコツとかあるの?」
ヨウコは、弓道にも手を出してみよう、とはそこまで思っていない。ただ、戦車で弾を撃つのと、弓で矢を射るのは、どことなく似ている気がする。もしかしたら、リューリのやっていることはヨウコの戦車道に活かせるのではないだろうか。
そう思って尋ねてみたが、リューリは苦笑した。
「俺はまだ初心者だしな……そんな御大層なアドバイスなんてできないけど……。受け売りで良ければ」
リューリが弓道を始めた時期は、ヨウコが戦車道を始めたのと同じ。お互い初心者同士だ。受け売りでも全く問題はない。
「先輩からアドバイスされたのは、狙いを定めるのに時間をかけるってこと」
「時間を……?」
「今はまだ授業で時間もそこまで厳しくないから、自分が納得できるまで狙いを定めてる」
弓道のルールは詳しく知らないが、試合では一人当たりの制限時間があるという。そして弓道場は、基本的に静かなため、集中しやすい環境が作りやすいらしい。その与えられた場所と時間で、時間をかけてでも狙いを定めるよう、とアドバイスを受けたのだそうだ。
「後は、焦ったら終わりだって」
「ああ、それはあるかも」
何事も、焦ったら全部が滅茶苦茶になってしまう。どんな時も冷静に、それは戦車道にも通じるところがあった。
「まあ、そんなこと言ってる俺は今日まで全然当てられなかったから、信憑性なんてないもんだけど……」
「ううん、参考になった」
今日改めて乗ったⅢ号突撃砲は、ヨウコもしっくりくる乗り心地と感覚だった。きっと、継続高校にいる間は、あの戦車に乗ることになる。また、練習後にユリから聞いた話によれば、Ⅲ突は車高が低いため偵察や待ち伏せに向いており、長距離からの狙撃も可能とのことだ。リューリの「時間をかけて狙いを定める」というコツと組み合わせて、自分も命中率を上げていけば、スナイパーとして活躍できるかもしれない。
だから、リューリの言葉はとても参考になるものだった。
「でも、初めて当てられたのなら、皆から褒めてもらえたんじゃない?」
「ああ、サイマには『すごいな』って言ってもらえたし、先生からも『やっとか』って」
頬を掻くリューリ。本当に嬉しそうだ。その表情を見ていると、ヨウコも自然と頬が緩んでくる。
友達の嬉しいニュースは、こんなにも自分まで温かい気持ちになるものなんだ。人とのつながりがやや希薄だったヨウコにとっても、珍しい感覚だった。
「ヨウコだって、全部当てられたんだし、同じ感じじゃないか?」
「ん、そうだね……同じ戦車に乗ってる仲間とか、先輩の人にも褒めてもらえた」
練習が終わって、帰り道。
同じ戦車のトニ、エルノ、サミは喜んでいた。3人とも、ヨウコと同じ1年生とのことで、上下関係は一切ない。ヨウコが乗るまでは代替の先輩が搭乗して練習をしていたが、今回ヨウコが成果を上げたことで、3人も気合が入ったようだ。
そして、世話になっている身としてユリにも報告をしたところ、「やったじゃないか!」と笑って肩を叩いてくれた。それを聞いたミカも、「良い風が吹いたみたいだね」と、直接的な誉め言葉ではなかったがそう言ってくれた。
自分が戦車道を選んだ理由は、お世辞にも前向きとは言えない。今までの戦車道でも、どこかネガティブな感情や、義務感、焦りといったものが自分の中に燻ぶっていた。さらに結果が出せないことにより、余計にそれらの感情が不完全燃焼を起こしていたものだ。
けれど今日、弾を全て命中させることができて、仲間から褒めてもらって、そして友達にも褒めてもらえたことで。
自分の中の嬉しさは抑えられないほどになった。
「……よかった」
心から、そう言えた。
心から、笑うことができた。
「……そっか」
リューリもまた、嬉しそうに頷いて、微笑んでくれた。
ヨウコの成功を、祝ってくれているような笑顔だ。
◇ ◇ ◇ ◆
昨日と同じ場所でヨウコと別れ、リューリは一人帰路に就く。
けれど、今日はいつもよりやや遠回りをした。不安な時や、逆に気持ちが高ぶった時、心を少しでも落ち着かせるために敢えて回り道をして帰る。それがリューリのクールダウンの仕方だ。
学園艦の甲板部分の大半を占める森だが、リューリは大方制覇している。だから迷子にもならず、多少うろうろしても無事に自室に戻ることができた。
リューリが暮らしているのはバンガロー型の寮。同居人はいないが、ホームシックは中学校の学園艦で経験しているため、寂しさくはない。
そして帰ってきた今、ひとり暮らしでよかったと心の底から思っている。
「はー……」
靴を脱いで部屋に上がり、鞄を床に置いてから長く息を吐く。
そして、床に座り込んだ。
思い出すのは、ほんの数十分前のこと。
――よかった
今日初めて、ヨウコは自分の撃った弾が全て命中したという。
戦車で撃つのがどれだけ難しいなんて、所詮は男のリューリには分からない。だけど、リューリも弓道で四苦八苦してきたからこそ、簡単ではないとすぐ分かった。当たった時の喜びがどれほどかも、理解できた。
だからこその、あの時のヨウコの笑顔。昨日のドヤ顔とは違う、「ほんの少しだけ」でもない、純粋な笑顔。成長できたと実感し、それがたまらなく嬉しいという感情によるもの。
ヨウコがそんな顔で笑ったのを、リューリは初めて見た。知り合う前も、後も、そんな顔を見せたのは今日が初めてだ。
そしてその笑顔を見て、リューリの心はいとも簡単に射抜かれた。
「なんてこった……」
頭を掻く。
先ほどから頭の中に浮かんでいるのは、そのヨウコ。今日は自分も初めて的に矢を当てられたとか、明日の追試のこととか、そんなものは最早頭の彼方だ。そして、その空いてしまった脳のメモリーを埋めるように、ヨウコの姿がある。あの時の笑顔が鮮明に焼き付いて離れない。
まるで、ヨウコに彫れてしまったみたいだ。
いいや、「みたい」ではない。
リューリはヨウコに、恋をした。
我ながら単純だとは思う。
クラスメイトなのにまともに話したのはついこの間、友達になったのもほとんど同時期だ。
けれど、恋心とは神出鬼没らしい、ふとした瞬間に突然襲い掛かってくる。さっき見せたヨウコの素直な笑顔が、リューリの心を奪った。
しかし一度、首を振って冷静になろうと努める。
誰かに恋をしたのは初めてだが、これは本当に恋なのか。確かにヨウコの笑顔はとても可愛らしかったが、その感情を恋と直結させてしまうのは早計ではないか。そう思って、今一度ヨウコがどういう人なのかを自分の知っている限りで思い返す。
クラスでは近寄りがたい雰囲気だが、それは彼女自身が人と話すのを苦手としているから。帽子を被っているのも決して反抗的な態度の表れでなく、傷ついた過去の経験から来るもの。そうして隠していたクリーム色の髪は、とても美しくてて綺麗だった。あの時リューリが告げた感想に、嘘はない。そして戦車道は、他に自分にできることがなかったから選んだけれど、そこでやれるだけのことをやろうと心に決めている。
実に実に、真っ当な少女だ。
「……うん」
頷く。
やっぱり自分はヨウコのことが好きだ。疑いの余地はない。現に今、ヨウコのことを考えていると、自分の心臓がそれを認めろと言わんばかりに脈動している。ジッとして考えているだけなのに、体中の細胞が熱を帯び始めていた。これが恋でなければ、重大疾患としか言えない。
一目惚れなのか、と思ったけれど少し違う。最初にヨウコと話したときはそんな感情が起きなかった。ヨウコのことを少しずつでも知れたことで、徐々にヨウコに気持ちが傾きだした。そして今日、あの笑顔を見たことで、落ちてしまったのだ。
そもそも、人に恋をするのに「これだけの時間をかけねばならない」等ルールもテンプレートも存在しないだろう。どのような経緯であれ、恋をしたのは事実だ。
そして、想いが分かったところで、後は告白する以外にない。このまま想いを墓まで持って行ったところで、待っているのは後悔しかないと流石に分かる。
だがここでひとつ、絶対的な問題があった。
すぐにヨウコに告白したところで、OKしてもらえる確率は限りなくゼロに近い。
仲良くなれたのは本当に最近のことだし、友達になっていくらか話す機会が増えたとはいえ、関係が氷解したとも言い切れない。告白しようものなら、「そんなつもりで近づいたのか」と、逆に縁を切られる可能性だって考えられる。
何より、自分には「何もない」。
学業に関しては平々凡々でいいと思っているし、何かに真剣に打ち込んだ経験がとんとない。せいぜいが趣味の散歩ぐらいだ。今日、弓道で初めて的に命中できたのは確かに喜ばしいが、その程度では最早何の足しにもならない。
一方のヨウコは、砲手としての腕を着実に伸ばしつつある。学力に関しても申し分ない方だろう。小テスト程度で追試になってしまう自分とは大きな違いだ。
「……やるしかない」
だからこそ、リューリは鞄から勉強道具を取り出して、教科書とノートを開き、ペンを片手に勉強を始める。明日の追試のためだけではない、純粋に勉強をしようと思ってのことだ。
宿題でも定期考査でもないのに、自ら進んで勉強するなど人生で初めてだ。しかしながら、現状維持はもう許されないと考えて、こうして勉強し始めている。
自分は熱血系のヒーローではなく、陽キャとも言えない。それでも、今の状態での告白が玉砕必須であるならば、変わらなければとと思えるほどには正の感情を持っている。
ヨウコにちゃんと告白できるように、まずは勉強をして学力を身に着ける。ドラマや小説の主人公みたいに、全てがトントン拍子に進むなどとは思わない。ちょっとずつでも身に着けていこう。
まずは、1か月後の中間考査。得意科目はともかくとして、苦手科目の数学と理科で平均点以上を取ること。それが第一目標だ。
それがどれだけ難しいかは、リューリ自身がよく理解している。
それでも、ヨウコと言う目標が見つかった今、そこへ辿り着くために、と自らを奮い立たせた。