自分を変えるために、リューリはまず勉強をすると決めた。
けれど、それ以外にも自分のできる範囲で変わろうとは決めていた。
その足掛かりとして。
「……リューリ、今日は早いね」
「ん? ああ、ヨウコ。おはよう」
「おはよ」
朝、登校してきたヨウコが珍しげに挨拶をしてきた。リューリは、ヨウコの姿にちょっとした心の昂ぶりを感じつつも、冷静を装って挨拶をする。姿を見るだけでどきりとしてしまうのは、恋愛特有の感覚だろうか。
それはさておいて、普段のリューリは健康優良児として、遅刻せずかつ朝食を食べられる程度の時間まで眠っていた。けれど、自分を変えるために早寝早起きを心がけた結果が、この時間の登校である。しかも驚いたことにリューリが一番乗りだった。
つまり今、教室にはヨウコと自分しかいない。
「今日はどうしてこんな早く?」
「あー……ちょっと目が冴えちゃって」
「ふうん……」
半分は本当のことを伝えると、ヨウコは頷きつつも自分の席に着く。疑われてはいないらしい。ヨウコに対する想いは、告白するその時まで悟られたくはない。
さて、リューリは今理科の予習をしている。今日の放課後の追試に向けてだが、これまで習った内容でも危うい。中間考査で平均以上を取るという目標を立ててしまったので、勉強は重ねておくに越したことはない。とはいえ、苦手分野に自分からぶつかっていくのは抵抗があるし、今も単語やら何やらを覚えるのに一苦労している。それでも、自分で決めた以上、文句を垂れてばかりではいられない。
そうして勉強をしていると、不意に視線を感じて横を見た。やはり、それはヨウコのものだった。
「どうかした?」
「ううん、今日の追試大変そうだなって」
「あー……まあ、苦手なりに頑張るよ。自業自得なんだし」
どうやら、リューリが勉強に熱心なのは追試を恐れているからと思っているようだ。恐れているのは確かだが、元はと言えば自分の不勉強が原因だ。ヨウコへの想いを抜きに考えても、頑張るのは当然の帰結。
だからそう答えると、ヨウコはふっと笑って。
「頑張って。応援してる」
シンプルに応援してくれた。
リューリは、走らせるシャープペンを一旦止める。感情が身体の奥で歓喜しているが、自分なりの笑顔でそれをカバーし、平静を装う。
「……ありがとう、頑張るよ」
ヨウコは、リューリの言葉に頷いてくれた。
今日の追試はなんとしてでもクリアする。あわよくば、自己ベストの点数を取ってみたい。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
「なーんか変わったよね、リューリ」
「え?」
昼休み、食堂でB定食(ハンバーグセット)を食べているとサイマがそう話しかけてくる。
「何が変わったって?」
「いやさ、こないだまで理数系がダメダメだって言ってたじゃん? なのに今日のは何さ」
思い当たる節は、あった。
今日の2時限目は理科。しかも運悪く教師に指名され、速度計算式を答えさせられた。ところが、昨日や今朝の予習が功を奏したのか、多少悩むところはあれどどうにか答えることができたのだ。つい最近まで理数科目を憎んでいた一男子としては、上々の結果である。
「まあ……追試対策のおかげかな」
「そっかあ、そういや今日だったね」
実際はそれだけではないのだが。サイマも深く疑ったりはせずに、A定食――野菜炒めセット――を頬張った。
リューリがヨウコに恋をしたことは、今のところ誰にも言っていない。噂や秘密は、どんな場所から流れてしまうか分からないから、迂闊に口にするのも憚られる。それに、誰かに話したらそれだけで満足してしまいそうになるから。
とにかく、以前と比べれば授業にも少しついていけるようになった。今日の追試は、今のところ大丈夫だろう。と言っても、昼食の後はまた予習の予定だが。
水を一口飲んで、ハンバーグを箸で一口分切り取ったところで、「ぱん」と肌が当たる音が聞こえた。
「ご馳走様」
野菜炒めを食べ終えたサイマが、両手を合わせていた。リューリは目を丸くする。
「今日は早いな」
「ああ、ちょっとこの後用事があってね」
「サイマ~」
詳しく聞こうとしたところで、近くからサイマを呼ぶ声。そちらを見ると、片手を挙げながら近づいてくる女子がいた。白いベリーショートヘアがヨウコと似ているが、肌の色はそこまで白くないし、背も少し高い。
「お昼終わった?」
「ああ、ちょうどね」
「よし、それじゃあ行こうか」
その女子はサイマと親しいようで、言葉少なくとも意は通ったらしく、サイマはトレーを持って女子と一緒にその場を離れようとする。だがそこで、思い出したようにリューリの方を見た。
「ああ、彼女はアリ。偶然ペサパッロに誘われてね」
「へえ……リューリだ。よろしく」
「モイ、リューリ。よろしくね」
朗らかに笑うアリと、リューリは握手を交わす。
そういえば先日、サイマはペサパッロを始めたと言っていた。なるほど、その経緯はこのアリという女子から始まったらしい。
「せっかくならリューリもどう? ペサパッロ」
「お、いいねえ。人数が多いほど楽しいし」
サイマが誘ってきて、アリも同調する。しかしリューリは、首を横に振った。
「いやー、今日はちょっとすまん……追試とかで勉強しなきゃだし……」
「そっかー、残念」
「参加したくなったら、いつでも言ってくれていいからね!」
サイマはともかく、アリは特に気に障った様子もなく快活に告げた。しかも親指まで立ててくれる。気さくな性格らしい。
2人が食堂を出ていくのを見送り、リューリも残りのハンバーグ定食を食べ進める。
リューリ自身、身体を動かすのは嫌いではないが、進んで身体を鍛えようとも思わない。特に、午後からは選択科目だから、無駄に体力を消費するのは避けたかった。弓道は柔道や剣道と比べればまだ体力消耗は少ないとは思うが、集中力に関しては多大なものを必要とする。体力が減ればその分集中も減ってしまうのだ。それに今日は追試がある。
「ペサパッロねぇ……」
最後のハンバーグの一口を食べ終えて、ぽろっとつぶやく。
放課後の追試も、選択科目前の体力温存も、正当性があるとリューリ自身は思っている。だが、変わらなければならないと決意したのに、そうやって理由をつけて色々後回しにしてしまうのは如何なものだろうか。
味噌汁を飲み干して、息を吐く。
「……やるか」
流石に今日は難しい。
だけど、次に混ぜてもらえるのなら、そうしてみたい。
◇ ◆ ◇ ◇
昨日初めて命中させたことにより、今日から弓道での最低目標は「1発は命中させる」となった。
不思議なことに、命中した時は喜びのあまり身体が内側から弾け飛びそうになった。それほどだったのに、その時に自分がどうやって命中させたのかは身体が覚えている。時間をかけてじっくりと狙いを定めて、ヨウコのあの決意の言葉を思い出していた。
そうして今日は、同じように時間をかけ、そしてヨウコの姿を頭に思い浮かべて矢を射た結果、1発を当てられた。
「コツをつかんできた感じ?」
射場の雑巾がけをしていると、サイマが話しかけてきた。リューリは掃除の手を緩めずに頷く。
「1度当てたらまあ、って感じ」
「へー……意外と素質あるのかも?」
「それは分からん」
素質があったのなら嬉しいが、有無にかかわらず、このまま最低1発は当てられるのをキープする。弓道における目標は皆中だ。これも、ヨウコに告白するにふさわしくなるために、自ら決めた。
リューリは雑巾がけを終えて、視線を上げる。ちょうど、矢道の整備を終えたイルタが射場に上がってきたところだった。
「イルタ」
「ん?」
話しかけると、イルタは応じてくれた。サウナで何度か話をしているし、継続高校特有の上下関係のなさゆえに、ため口で話しかけても嫌な顔はしない。
「ちょっと、相談したいことがあるんだけど……」
「なんだ? 俺が力になれるなら構わんが……」
前向きな姿勢を見せてくれるイルタに、少しだけ安心感を覚えてリューリは続ける。
「どうしたら、いつも皆中させられるのか、コツがあるなら教えてほしくて」
「あー、そういう話か……」
聞いてみると、イルタは腕を組む。同じようなことを聞かれたことが何度もあったような、そんな反応だ。とはいえ、イルタほど的に矢を当てられることができる人はほかにいないし、今日だってイルタは皆中させたのだ。頼らずにはいられない。
「こればっかりは、試行錯誤の繰り返しなんだよなあ。俺だって最初からポンポン当てられたわけじゃないし、感覚を覚えていくって言う意味もある」
「……やっぱり、そんな感じなんだ」
アドバイスを聞いてそう上手くいくとは思ってもいなかったが、やはり概念的な技術も必要らしい。そんなうまい話はないよね、とリューリも肩を落とす。
だが、そこでイルタは「あ」と口にした。
「そういえば、ひとつあったな。俺も先輩から貰った教わったこと」
「え?」
「まあ、アドバイスというか……」
そう言いながら、イルタはリューリを射場のすぐそばにある倉庫に案内する。中には、古い的や予備の弓矢が仕舞ってあり、さらに目を引くものもあった。
「これを使って、練習しろって」
その「目を引くもの」を手に取り、リューリへと差し出してくる。
リューリはそれを、迷わずに受け取った。
◇ ◇ ◆ ◇
休みの日に、ヨウコは学園艦の森を散歩していた。木々の合間から見える空は青かったが、気分もそれと同じく晴れやかと言うわけではない。
戦車道で、ヨウコは停止射撃なら安定して命中できるようになった。
しかし、行進間射撃となると命中率は大きく下がる。と言うか、走行間射撃では一発も当たらなくなってしまった。
戦車道において、戦車は動いてなんぼの代物だ。それに停まって撃つよりも、動きながら撃った方がより攻撃の幅が広がるし、相手からも狙われにくくなる。
けれどヨウコにとっては、それが中々難しかった。
先日から始まった走行間射撃の訓練で実感したが、動きながらだと振動は余計強まる。動きながら狙いを定める際は、彼我の距離が常に変化し続ける。それを頭で即座に考えて、計算し、攻撃するのはかなり難しかった。
要するに、ヨウコは動きながら戦うのが苦手だった。それを、ここ最近で強く痛感している。
「はぁ……」
溜息をつく。
命中させられるようになってから、同じ戦車に乗るトニたちは褒めてくれるようになったし、外れても励ましてくれる。打ち解けている感じはしているし、だからこそ彼女たちに恥じない戦いをしたい。だけれども、現状として動きながらだと当てられないのは、ちゃんと戦えてるとは言えないだろう。
――戦車の形からしても、ヨウコには待ち伏せや遠距離スナイプを任せた方がいいかもしれないな
このことは、親しい先輩のユリに話している。
ヨウコの乗るⅢ号突撃砲は、車高が低く射程も他の戦車より長いため、ユリの言うような運用は至極現実的だという。
――誰にでも向き不向きはある。苦手なものに挑戦する志は立派だけど、時には不向きなものを受け入れるのも人生には必要だよ
そして隊長のミカは、そうコメントした。迂遠な発言が目立つミカだが、この時ばかりは「無理して走行間射撃を極めようとしなくてもいい」と言っているのは分かった。
停止射撃であれば、命中率は継続戦車隊の中でもトップクラスと言えるほどに、ヨウコの腕は上がっている。だから、ユリやミカの言うように遠距離から狙うという戦い方が取れるのであれば、完全なお荷物にはならない。
そして継続高校の戦い方は、黒森峰女学園や
それでもやはり、ヨウコは戸惑っている。
だって自分は、他に向いているものがなくて戦車道の砲手の道を選んだのだ。そこでまたできないことがあるのなら、それは絶対に克服したい。「仕方ないよね」という理由で諦めてしまうことを、ヨウコは是とすることができなかった。
「ヨウコ」
明確に声を掛けられて、はっとする。
すぐ近くに、リューリがいた。着ているのは継続高校のジャージで、背中には筒のようなものを背負い、手には弓がある。
「リューリ……こんなとこで弓道の練習?」
「そんなところかな」
聞いてみると、リューリは近くにある気に視線をずらす。そちらをヨウコも見てみると、そこには木の枝に吊るされている的があった。しかしそれは、本で見たような白黒のものではなく、多くの色が使われたカラフルなものだ。
「弓道じゃないの?」
「アーチェリーだよ。弓道の練習にいいって、先輩に聞いたらこれが練習になるって」
ヨウコは弓道に疎いため、二つがどう違うのかがいまいちピンとこない。
「アーチェリーと弓道って、具体的に何が違うの? 私、そういうのは分からなくて……」
「まあ、俺もついこないだ知ったばかりなんだけど……」
リューリが説明するところによれば、矢を放つ弦の構造が違ったり、アーチェリーは的に矢を当てるだけでなく、どこに当たったかでポイントが変わる仕組みらしい。一方の弓道は、アーチェリーのように弦に補助器具がなく、矢を的に当てるのを目的としている。
「だからこんな感じで……」
説明したリューリが、矢筒から1本矢を取り出して弦に番えて引き絞る。ヨウコは安全な位置に下がって、リューリの様子を見守ることにした。
「……」
リューリが弓道を履修していることは知っていても、同じ選択科目の時間でやっている以上、彼が弓を射る姿を直接見たことは今までない。
今初めて見たその姿は、いつもの緩い感じからは想像もつかないほど、真剣だった。口を閉じ、穴のあくほど的を注視しているリューリは、正直言ってカッコいい。惚れた腫れたにまではいかないが、見ているこちらまで緊張してしまうほどに、集中している。
そう思った直後に、軽い音とともに矢が放たれて、次の瞬間には的に矢が刺さっていた。
「矢を撃つ」
「……なるほど」
言いながら的に歩み寄るリューリについていく。矢が当たっているのは、「6」と書かれた部分だった。
近くで的を見てみると、いくつも矢が刺さった痕がある。全てリューリによるものなのだろうか。
「ずっとここで練習してたの?」
「練習は今日からだ。この道具も先輩から貸してもらったやつ」
つまりこの的に空いた穴は、その先輩の積み重ねによるものなのだろう。そう思うと、時間の重みというものさえ感じてくる。
だがヨウコは、気になることを聞いてみた。
「なんでまた……練習を?」
聞くと、矢筒に矢を戻したリューリは照れくさそうに額を指で搔くが、口を開いた。
「こないだ、1本矢を当てたって話しただろ? それでちょっと、火がついたというか……。折角なら、もっと腕を上げたいって思うようになってさ」
以前に話を聞いたときは、肩肘張らない雰囲気のする話し方だったリューリだが、今のリューリからは一本芯が通っているような感じさえする。彼も人並みに、向上心というものがあったわけだ。
「それにヨウコが、戦車道を頑張ってるって聞くと、俺も負けてられないと思ったし」
そしてまた、自分のことを上げてくれる。
それはヨウコとしても悪い気はしないが、今は少しだけ申し訳なくも思う。
「……私なんて、そんな大した腕じゃないよ」
「またどうして」
つい自虐的なことを言ってしまうと、リューリは心配そうに問いかけてくる。
乙女の嗜みと言われる戦車道での悩みなど話しても、リューリは男子だから困らせるだけになってしまうだろう。
だから誤魔化そうとした。けれど、それよりも早くにリューリが近くの切り株に置いてあった水筒を手にし、カップに何かを注ぐ。そしてそれを、微笑みながらヨウコに差し出してきた。香りと温度で、温かい麦茶だと分かった。
そして、
「……戦車道で、弾が当たらなくなった」
そのぬくもりと、リューリの気遣いに絆されて、ヨウコは口を開く。近くの空いた切り株に腰かけると、向かい合うようにリューリも腰を下ろした。
「リューリは前、弾を安定して当てられるようになった私のことを褒めてくれた。だけど、それは停まって撃つ時だけで、動きながら撃つと全然ダメになった」
「……そっか。やっぱり動いてる時と停まってるときじゃ、勝手が違うんだな」
「私もそれは分かってるつもりだった。けど、実際は思っていた以上だった」
動いている時の戦車は当然揺れるし、彼我の距離は常に変わり続けて一定にならない。常に頭の中で計算しなければならず、かといって撃たないでいればチャンスを逃してしまう。だから概算で撃つことが多いのだが、それで当たれば苦労はしないというものだ。
「先輩たちは、『停まって撃つのに集中した方がいい』って言ってくれてる。だけど私は、それに甘んじるのは不本意というか……」
「それは、どうして?」
「だって私、他に何もできなくて砲手をやってるんだから……それさえもできなくなるっていうのが、自分で許せない」
未だ自分は不器用だと、ヨウコは思っている。だからこそ、自分にできる唯一のことで不安なことがあれば、それを確実に潰していきたかった。
温かいお茶を一口飲む。だが、そのお茶以上に自分の心の中には熱が籠っているのが自分で分かる。それも、プラスの方向とはいいがたい感情のものが。
「……ヨウコの気持ちも分かるよ」
リューリは、一応同意はしてくれた。分からないなりに、部外者なりに考えたのだろう。
だけど、その口ぶりはまだ何か言いたげでもあった。
「だけど、俺としての個人的な意見は……先輩たちの言葉も正しいんじゃないかと思う」
ヨウコは、言葉の代わりに視線を返す。理由が聞きたい。その気持ちを察したリューリは、鼻で一度息を吐き、続けた。
「動きながら撃つのができなくて努力するのは、勿論悪いことじゃない。むしろ良いことだと思う。だけど、戦車は『必ず動きながら撃たなきゃいけない』ってものじゃないんだろ?」
「それは、そうだけど」
「だったら、まずは先輩たちの意見に従っていいんじゃないかな。ヨウコはまだ戦車道を始めたばかりだし、停まって撃つのがほぼ命中するなら、それも立派なヨウコの持ち味のひとつだから。まあ、これはあくまで戦車道ができない男としての意見だけどさ」
リューリは男だ。その通り、戦車には乗れない。ヨウコの苦労も、直接体験したわけじゃないし、体験できない。
だけど、だからと言って、それでヨウコの心に響かないわけではない。
「それに、走りながら撃つのも練習してるんだろ? そうして努力しているんだったら、先輩たちだってきっとヨウコのことは認めてくれるよ」
「……」
「だからヨウコは、まずは停まって撃つのを極めて、それで動いて撃つのもできるようになるのを目標にすればいいんじゃないか? 両方を同じぐらい練習するんじゃなくて、先に停まって撃つのをマスターして、戦車道の仲間のサポートに徹するとか」
走行間射撃が不得手と自覚した時は、自分のことが情けないと思った。そして、それができるようにならないと、とすぐに考えた。「停まって撃つ」のができたなら、次は「動いて撃てる」ようにしないと、とヨウコは考えていた。義務感に満ちた感覚で、マスターしなければならないと思っていたのだ。
だから、リューリの「まずは停まって撃つのを
そこに気づかされて、目から鱗が落ちた気分だ。
「それに超個人的な意見として、そういうピーキーな腕も俺としては嫌いじゃないし」
「……何それ」
さらに付け足された意見に、ヨウコは思わず吹き出す。折角真面目な意見を聞いて感心していたのに、急に緊張感を解いてくる。なんというか、それは男の子の感性なのではないだろうか。
だけどヨウコは、お茶を飲み切ってコップを返すと、小さく頷いた。
「……そうだね、そうしてみるのもいいかも」
ヨウコが抱えている悩みに、どうするのが100%正解かというものは存在しないだろう。だから、リューリのアドバイスを聞き入れて、そうしてみたいと思う。何せ自分だけでは、ひとつだけの凝り固まった答えしか導けなかったのだから。
そこでヨウコは、ひとつだけお願いをしてみることにした。
「ねえ、リューリ」
「?」
「それ、ちょっとやってみてもいい?」
そう言ってヨウコは、リューリの背にある矢筒、そして手元の弓を指さす。急にどうしたのか、と言いたげなリューリだが、理由はちゃんと説明しておく。
「停まって撃つのを極めるんなら、立ったまま撃つアーチェリーは、練習になるんじゃないかと思って」
「ああ、そういうことね」
納得したリューリは、「人に向かって撃つな」と言いながら渡してくる。
さて、この渡された弓は、アーチェリー用のものの中でも簡単な構造だという。一番パーツが多いものだと照準器などもついているらしいが、ごてごてしていないおかげで軽いらしい。始めたばかり、とリューリは言っていたが、多分このあたりの部品などについては勉強したのだろう。意外と、勉強熱心なところはあるらしい。
ヨウコは、とりあえず見様見真似で矢を番えて、糸――ストリングと言うらしい――を引こうとする。だが、思うように引くことができない。思っていた以上に力が要るらしい。そしてどうにか糸を引き絞っても、それを保つのが精いっぱいで、的を狙うことなどできやしない。力があまりないからこそ装填手を諦めたのだが、その揺り戻しがここで来るとは。
「手を貸そうか?」
「うん、お願い……」
見かねたリューリが助力を申し出てきた。願ってもないそれに、ヨウコは迷わず頷く。
だがここで、力を貸すってどうやってだろうと思ったが、その答えはリューリが真横に立ったことですぐに分かった。
「ちょっと手を借りるけどいい?」
「うん……」
確認を取られて頷くと、糸と矢を掴むヨウコの右手に、リューリの右手が重ねられた。
さっき飲んだお茶よりも高くないはずのその手の温かさを認識した瞬間に、思わず手を離してしまう。矢はぽとりと落ちてしまった。
「ごめん。いきなりすぎた」
「……本当、いきなり」
両手を離し、まるでテロリストに銃で脅される一般市民よろしく両手を上げるリューリ。表情も言葉も申し訳なさそうなので、不純な目的をもってのことではないのだろう。もしそうだったのなら1、2回ぐらい小突いている。
ヨウコは、落としてしまった矢をもう一度糸に番えて、リューリを見る。
「……お願い、もう一度手を貸して」
「……いいのか?」
「私だけの力じゃ、撃てないし」
やってみたいと自分で言ったからには、せめて一度ぐらい矢を撃ちたい。だが自分だけでそれはできないから、リューリに力を借りる。それだけだ。リューリは今のことで罪悪感を抱いているらしいが、ヨウコは驚きこそすれど不快感は抱いていない。むしろ――
「……嫌だったら、すぐに言ってくれ」
そう告げてリューリが、今度はゆっくりと、矢を持つヨウコの右手を包むように握る。
さっきは急だったから、温度ぐらいしか分からなかった。けれど今は、温もりに加えて、その手の大きさも少し分かる。自分よりも大きくて、あと少しだけゴツゴツしているような。
そして、リューリがヨウコの手ごと右手を引く。糸が引き絞られて、矢が安定した。自分では引っ張るだけで限界だったのに、リューリはつらそうにしている感じではない。
そして狙いを定めるのは、ヨウコ自身の役目だ。それはすぐに分かったので、戦車道の時のように、自分の目で、集中して、的を狙う。そして、ヨウコが狙いを定めるのに合わせて、リューリも立ち位置をさりげなく調整している。邪魔にならないように、舞台の黒子の如く、全面的なサポートをしてくれていた。
きっとリューリは、この矢を当てられなくても責めないし、揶揄ったりもしないだろう。けれど、ここまでしてくれているリューリに報いたいから、中てたい。
「撃つよ」
「おう」
事前に伝える。ほんの少しだけ、ヨウコの右手を包むリューリの手の力が緩められた。
そしてヨウコは、一呼吸おいてから、矢を持つ手を離した。
「……っ」
耳のすぐそばで風を切る音が鳴り、気づけば矢は的に当たっていた。そこに書かれている数字は、3だった。
当てられた。初めてで。中心からは程遠いけれど、当たったことに変わりはない。
それを認識した直後に、心の中で何かが風船玉のように膨らんでくるのが感じられる。
「すごいじゃん、初めてで当てられるなんて」
後ろでリューリが拍手を贈ってくれる。嬉しさは同じなのか、笑ってくれていた。
それに対してヨウコは、少しだけ笑う。
すると、リューリは右手を掲げる。
行動の意味を理解して、ヨウコも同じように右手を掲げて、ハイタッチを交わす。
継続高校学園艦の林に、手を叩き合う音が響いた。
◇ ◇ ◇ ◆
昼休みのグラウンド。ドッジボールやらキャッチボールやらで賑わう一角に、木製の何かがぶつかる音が響いた。
「走れリューリ!」
いつになく緊迫したサイマの声に押されて、リューリは走り出す。飛んだボールは目で追う余裕がないが、落ちることを願って走る。途中でサイマがすれ違ったがその表情は必死そのものだった。
ボールを拾った野手が、ボールを投げてきた。リューリは最初のプレートで立ち止まる。
「やったー!」
そして背後のホームプレートからは歓声が上がった。どうやらサイマは無事に帰ることができたらしい。同じチームとして、リューリはひとまず安心した。一方で、塁に立っている相手チームのメンバーは、残念そうにしながらも拍手を送っている。
今プレイしているのは、ペサパッロというフィンランド発祥のスポーツだ。前にサイマから話に聞いて、ちょっとだけ興味が湧いたので参加してみた。特定のサークルがやっているわけではなく、飛び入り参加でもオーケーとのことで、リューリは歓迎された。
ルールは最初に簡単に聞いたが、「点を取りにくい野球」と例えられたのがよく分かる。基本的なルールは野球と同じだが、アウトとセーフの判定とか、ヒットの範囲とかかなりシビアだ。そして進塁の向きも違うため、野球に慣れているとかなり混乱しそうだ。
けれど、体育の授業以外でこうして運動することがあまりない――休日のアーチェリーはともかく――ので、新鮮な気持ちになれる。運動不足な自分を少しでも変えようと興味本位で参加してみたが、これは結構面白い。
それにしても。
「やったじゃんサイマ!」
「いやー、間に合ってよかった~!」
ホームプレートに戻って点を取ったサイマとアリは、喜びを分かち合っている。
なんというか、普段見るサイマの様子とは少し違う気がした。
「……サイマっていつもあんな感じなのか?」
「うーん、まああれだけはしゃぐのは珍しいかも。っていうか、アリと話すときって大体サイマはかなりふにゃっとしている感じかな」
一塁の守備についていた、普段もペサパッロをやっているというレイヤに聞いてみる。点を取れたことで興奮しているわけではなく、アリとは普段からああして仲がいいらしい。
まさか、とリューリは思わなくもないが、今はひとまずペサパッロに集中することにした。