――たとえそれがどういった理由からでも、たとえ仕方ないものだとしても。
柔らかく煮込んだ牛肉にナイフをあてる。力を入れずとも刃が通り、肉汁があふれる。食べやすい大きさに切って、フォークで口へと運ぶ。口の中ですぐにほどけてしまうような柔らかさと、肉汁と繊維一つ一つにまで浸みこんだソースとが、とても美味しい。朝から牛肉の塊かと思ったが、よけいな脂は溶け出たこれなら、いくらでも食べられる。もとの肉が良いのか、料理人の腕が良いのか、たぶん両方だろう。
付け合せのポテトはと手を伸ばせば、主役ではないながら、こちらも十分以上に存在感がある。指先ほどの厚さにスライスしたジャガイモはこんがりと揚げてあり、表面のカリカリとした食感と、控えめの塩、これまた香ばしいスパイスとがとても合う。付け合せながら、これだけ先に食べてしまいそうだ。
朝食とは思えないほどの手の込みようは、本当に大したものだ。毎日こんな食事ができるというのは、本当に贅沢だ。
――それでも、贅沢には際限というものがないらしい。
「シキさん、どうかしました? あまり食事が進んでいないようですが。もしお口に合わないということでしたら、代えさせますが?」
手に持ったナイフをいったん皿へと戻し、エレオノールが問いかける。
そんなちょっとした動作も様になっている。ナイフを置くときにも全く音がしなかった。ここで食事をするにあたって、エレオノールやルイズ達からテーブルマナーの簡単な手ほどきを受けたのだが、全く持って及ばない。生まれながらの貴族とはそういうものなんだろう。努力は必要だが、どうしてもそう思ってしまう。いつも一緒に食事をとっている、エレオノール、ルイズ、マチルダともに皆、マナーというものが意図したものではない、ごく当然のものとしてそうしている。傍から見れば、自分だけが場違いに映ることだろう。
「とても美味しいから代える必要なんかないさ。そんなこと言っては罰があたる」
「――罰があたる、というのはよく分かりませんが、まあ、確かに我が家のものと比べても全く引けを取らないものですね。あなたもそう思うでしょう、ルイズ?」
エレオノールも美味しいとは認めているが、ただ、それは平均点と同じか、少し上といった程度らしい。生まれた時からそれが当然となると、評価はおのずと辛口になるようだ。
「まあ、そうですね。たぶん、美味しいと思います」
姉妹だけあって評価は同じらしいが、それにしてもルイズの返事はそっけない。この前のことをまだ根に持っているようだ。普段ならそんな態度を取ろうものならエレオノールの「教育」ものだが、少なくとも今はエレオノールはもちろん、自分も強気には出られない。
マチルダは唯一例外だが、いつも通りそんな様子をニコニコと見ている。ただ、たまに焚き付けたりもするのは止めて欲しい。もちろん、自業自得なのだからあまり強くは言えないが。
「でも、シキさん。あまり食が進んでいないですよね? 具合が悪い――なんてことはありえないと思いますが、何か考えてませんでした?」
カラカラと笑いながら、多少毒が入っていようと平気ですよね、と言葉の中に毒を混ぜるのはマチルダ。二人の時はと本名を話してくれてから、遠慮がなくなった。あることに関しては一歩引いたところがあるが、それは俺には言う資格がない。少なくとも、今のままでは。いずれははっきりしなくてはいけないが、それでも、今の関係が心地良くて、それを壊すようなことができない。だから、甘えてしまう。
「考え込んでいると言っても、贅沢な悩みさ。故郷の味が恋しくなっただけだからな。……と、別に帰りたいとかそういったことじゃない。ただ単に、食べたいと思っただけだ」
三人が表情を曇らせたことに、あわてて言い繕う。帰りたい、そんな感情が全くないとは言わないが、ただ純粋に食べたいと思っただけだ。本当の意味で平穏な生活に慣れて、ずいぶんと贅沢な悩みを持つようになったらしい。
「まあ、故郷の味って言うのは特別ですからね。離れていると、ふと食べたくなる。私も、時々我慢できなくなる時があります」
マチルダが時折国へと帰っているのは、妹がいるからというのは聞いている。だが、案外それも理由の一つなのかもしれない。どんなに嫌な出来事があっても、すべてがそうだったわけではないのだから。特に、子供のころから食べていたものというのは、やはり忘れられないものだ。離れてみて、それが分かってくる。
「――ねえ。シキの故郷の味って、どんなものなの?」
純粋に興味があるのか、ルイズが尋ねる。
「全く違うからイメージしづらいかもしれないな」
ふと、テーブルに載った料理を眺めてみても、先ほどの肉料理に、サラダ、スープなど、こちらの食事は、パンを主食とした洋食だ。米もあるにはあるが、野菜として使うこともあるぐらいかけ離れている。加えて、故郷の味となるとまずは味噌や醤油となるから、説明するとなると難しい。何かにたとえようにも、似たものというのは思いつかない。根本的なところで違ってきている。
「まず、米が主食だな。炊く――柔らかく煮たものだから、たまに食べるものと同じと思ってくれていい。ただ、主食が違うから、一緒に食べるものが変わってくる。材料は同じでも、調味料に変わったものを使ったりな。たとえば味噌や醤油、詳しい作り方は知らないが、大豆を発酵させるなりした調味料。しょっぱいのが基本の味なんだが、コクがあるというか何というか……。聞いたことはあるか?」
「ミソに、ショウユ? それに発酵って、チーズを作る時なんかの作り方ですよね。発酵で調味料を作るということはないですね」
マチルダがこめかみに指をあてて唸っているが、心当たりはないようだ。
「私も聞いたことはないですね。東方には高温多湿な気候の土地があるという話ですし、もしかしたらそういった手法を使っているのかもしれませんが」
エレオノールでも聞いたことがないらしい。専門ではないにしろ学者であるエレオノールが知らないとなると、少なくとも発酵食品というのは一般的ではないらしい。
「お姉さまが知らないのなら、本当に変わったものなのね。そういえば、前にお姉さまが見つけてきた、お米で作ったっていうお酒。あれって東方からって話でしたよね? シキも確か故郷でとか言っていたような」
「そういえばあったな。同じものかは分からないが、多分作り方は同じなんだとは思う。あれは東方からだったのか?」
この世界は魔法という根本的な常識が違うにしても、地球と地域的に大まかなところでは似通っているらしい。ここをヨーロッパとすると、東方はアジア。町を出歩く中でたまに見かけるアジアの雰囲気がある物。たいていはガラクタのようなものだが、よくよく由来を聞いてみれば東方かららしい。案外、魔法がある以外はほとんど同じなのかもしれない。
「ああ、あれね。確か、由来は東方だって言っていたわね。でも、あれは直接東方からの品じゃなくて……。ずっと昔に作り方が伝わって、細々と作っているらしいけれど。うーん、ああいうものかぁ。探せばあるかもしれないけれど、ちょっと分からないわね」
エレオノールが難しいと眉根を寄せている。まじめな顔で考えてはいるが
「――あれか。そういえば、飲んだ次の日は」
エレオノールを見て、クツクツと笑ってしまう。あの時のエレオノールは子供のようで可愛らしかった。もちろん、何のことかと顔を真っ赤にして誤魔化そうする今のエレオノールも、だが。
「まあ、可能性はあると分かった。のんびり探してみるさ」
今は、それで十分だ。なんなら自分で作るというのに挑戦してもいい。作り方にしても、全くヒントがないというわけじゃない。それはそれで、面白い。いっそ、それで商売をしてみるというのも面白そうだ。
「うーん、東方の食事……。文化研究の一環としてないかしら?」
本の表紙を指でなぞり、棚の端からのぞいていく。しかし、さすがの蔵書量を誇る学院の図書館とはいえ、文化、それも東方の文化の研究を行うということ自体が少ないだけに、いかにも心もとない。何冊がめぼしいものをピックアップしてみたが、ヒントになるようなものが見つかれば上出来といったところか。
部屋に戻り、さっそく広げてみる。ぱらぱらとめくってみるが、さっそく壁にぶつかる。東方と一概に言っているが、わずかながらの交流がある場所は一部で、そこから更に広がっているらしい。それだけ広いとなると、東方は東方でも、その中でもどこを指すのか難しい。かたっぱしからあたっていくつもりではあるが、さて、例え「東方の食事」とやらを見つけても、それがシキさんの故郷の味と重なるかは怪しい。もちろん、東方と異世界の住人であるシキさんの故郷と本当に重なるのかという根本的な問題もあるが。とにかく、これはと思うものを抜き出していくしかない。幸い、作り方はともかく、探せば本の中に数行とはいえ記載がある。
多種多様なスパイスで煮込んだ料理、具体的にどんな料理を指すかは分からないが高温の火力を利用するもの、更に変わったものでは生の魚を食すというもの。そしてこれは違って欲しいと心から願うが、虫を食材にするというものも。だが、全く別ものというわけでもなさそうだ。発酵を利用する文化があるということ。東方は気候が多様であり、高温多湿と発酵の条件が整った土地では、そういった手法を使うことがあるらしい。
らしいというだけで具体的な記載はなかったが、可能性を見つけることができただけでも収穫としては十分。貿易を行っているような人間から調査するにしてもヒントになるだろう。
「……あの」
控えめに声をかけられる。
「――お茶が入りました」
いつも通りの、質素ながらもきちんと洗濯して清潔感のあるメイド服に身を包んだシエスタが手持無沙汰に佇んでいる。いけないいけない。自分で呼んでおいて、すっかり忘れていた。
「ん、ありがとう」
シエスタが淹れた紅茶を受け取る。リクエスト通りはちみつをたっぷり入れた甘さが心地良い。満点はさすがにあげないが、きちんと基本を押さえた丁寧な淹れ方は評価できる。この真面目さと、そばかすのある、いかにも純朴な顔立ち、どこかシキさんを思わせる黒髪からなんとなくこの子を指名してしまう。控え目なところも高評価なのだが、今日は珍しく何か主張したげだ。
「……何? 気になるの?」
シエスタが、じっと書き散らかしたメモを見ている。
「あ、いえ……」
しゅんと子犬のようおびえた様子を見せる。それはそれでこの子の魅力なのだが、そろそろ慣れてくれても良いと思う。これではまるで、私がいじめているようだ。私がいじめるのはルイズだけで、シキさんには、むしろいじめられている。もちろん、それはそれで良いのだけれど。
――いやいや、昼間から私は何を考えているんだか。そんなことじゃルイズに発情期と言われても言い返せなくなる。今はシエスタと話しているんだから、少なくとも貴族らしく振る舞わなければいけない。
「別に怒りはしないわよ。何が書いてあるか気になるんでしょう?」
「えっと、……はい。これって東方の食事のことですよね」
シエスタが書き散らかした紙片の一枚を指し示す。殴り書きの、文字だけなのだが。
「ああ、そういえばあなた文字が読めるのよね。ちょっと調べているんだけれど、あなたは何か聞いたことがあるかしら?」
別に何かを期待をしているわけではない。気まぐれのようなものだ。
「ほとんどは初めて聞くものばかりですけれど……。これなんかは私の故郷の料理に似ているなぁと」
そう言って、さっきじっと見ていたメモを持ち上げる。
料理としては、そこまで奇抜なものではない。山菜でベースを作ったスープを作り、それにいろいろな具材を入れて複雑な味を作るというもの。料理の方法自体はそう珍しいとは思わないが、山菜からというのが少し珍しい。
「ふうん……。あなたの故郷では何て呼んでいるの?」
「――シキさん。”ヨシェナベ”というものに聞き覚えはありますか? 山菜で作ったスープに肉でも魚でも、いろいろなものを入れるという煮込み料理なんですけれど」
興奮気味のエレオノールが尋ねてくる。
「ヨシェナベ……。ああ、寄せ鍋か! 懐かしいな。寒い時期にはあれが一番だな。具材は何でもいいが、魚介類でも何でも、いつも以上に美味しくなる」
鍋と聞くだけでも、ぐつぐつと煮立つ様子が浮かんでくる。故郷の鍋というものはないが、冬の風物詩。日本人でアレが嫌いだという人間はいないだろう。
しかし鍋か。まず味噌汁なんかを考えていたが、鍋も和食の代表。それに、味噌や醤油じゃなくても、昆布や椎茸の出汁だって和食の基本だ。それなら、案外簡単に手に入るかもしれない。
「――シキさん。どうやら故郷の味と同じみたいですね」
見れば、エレオノールが満面の笑みを浮かべている。きっと俺も同じだろう。手に入る可能性があるのなら、探してみてもいいかもしれない。とりあえず、市場にでも行ってみるか。せっかくなら一緒に。
「じゃあ、私はちょっとやることがあるので……」
誘おうと思ったのだが、足早に歩き去ってしまう。一度だけ笑顔で振り返って、そのままに。
まあ、探すだけなら一人でも良い。
さっそく出かける準備を――といっても、そう大したことはない。いつも通りの白のシャツに、まだ肌寒いらしいから周りに合わせるための皮のコート、探すものが「珍味」に分類されるものかもしれないから、少々手持ちを多目にする程度だ。あとは、できれば町の様子に詳しい人間が欲しいところか。
「――食材探し、ですか?」
普段着に、薄手のカーディガンを羽織ったマチルダが首をかしげる。その拍子に、珍しく結ばずにおろした髪が肩口をすべる。
「ああ、時間があればでいいんだが、珍しいという言われるようなものを扱っている店を知っていれば教えてくれないかと思ってな」
「ふふ。例え忙しくたって断ったりなんてしませんよ。珍しくシキさんからデートに誘ってくれたんですもの」
「デートと言えるほど大したことじゃないんだが……」
言葉の途中で、口元に指があてられる。
「そういう野暮なことは言うものじゃないですよ。女性がデートだって思ったらデートなんです。あ、デートだから二人きりじゃないと、嫌ですよ? すぐに着替えますから、待ってて下さいね。何なら部屋の中で待ってもらってもいいですけれど。……ふふ、嘘ですよ。結局出かけないなんてことになったら嫌ですもの」
二人、並んで歩く。手をつないだりはしないが、右手にマチルダが腕を絡ませて。女性にしては身長が高いから、引っ張るようなことにはならない。
まずは食材が並ぶ市から。スーパーのような品揃えはさすがに期待できないだろうが、周辺の地域から農産物が集まっていて、珍しいものもあるかもしれないとのことだ。
ただものが載せられれば良いとばかりに木の板を打ち付けただけの台があり、そのうえに自分で作った野菜やらどこかの山から探してきたらしい食材が並んでいる。並ぶものは知るものと同じ。ホウレンソウやカブ、形は不ぞろいだったり、虫食いがあったりもするが、たぶん同じものだろう。
さて、目的の一つ、キノコはどうだろうか? さすがに栽培はしていないだろうから、取ってきたものになるのか。右へ左へと視線をやりながら探していく。名前は知らなくとも見覚えある食材ばかりではあるが、どちらかというと洋食をイメージさせる食材ばかりのようだ。そんな中で見つけたキノコも、椎茸とはやはり違うようだ。
「――キノコも探している食材なんですよね?」
マチルダが手に持ったキノコをくるくるともてあそぶ。ずんぐりと丸い形で、たぶんマッシュルームのようなものだろう。
「ああ、出汁――味付けとはちょっと違うんだが、まあ、風味というか、香りというか、煮出してスープのもとのように使うものだ」
出汁、ヨーロッパでそんな風習はあっただろうか。どちらかというとコンソメだとか、タンパク質からスープを作るイメージがある。実際、学院で食べる食事もベースはやはりそうだった。
「ダシ――ですか? 私が知らないだけかもしれないですけれど、そういう使い方は知らないですね。そもそも、キノコ類というと触感を楽しむものだっていうイメージがありますし」
マチルダがキノコを並べている人に尋ねてみるが、そういったキノコの使い方というのは知らないらしい。食べられるものを適当に煮込むことはあるらしいが、それぞれがどんな味になるかは考えていないようだ。そもそも、調味料というのも普段は塩ぐらいしか使わないそうだ。
学院の食事、この世界の都市であるここが基準になっていたが、この世界での本当の平均というのは、そこからずいぶんと差があるのかもしれない。となると、食材自体はともかく、その使い方については料理人に聞いてみる必要があるかもしれない。そういった意味では学院の料理人というのは都合がいい。ああいった場所の料理人として選ばれたのだから、この世界の中でも相当知識があると思っていいだろう。
「んー、ここだとちょっと厳しいみたいですね。他にも探したい食材があるんですよね? だったら次に行ってみますか?」
腕を空に突き上げ、マチルダが猫のように軽くのびをする。
「そうだな。魚介類はこことは分かれているんだったか?」
「ええ。持ってくる人達が違いますからね。自然と別れちゃうんですよ。といっても、あくまで分かれているだけであって、この区画であることには違いがないんですけれどね」
マチルダが指さした先へ向かう。近づくにつれ、少しだけ生臭いに匂いがある。多分、その匂いも離れている理由の一つなんだろう。その匂いのもとを辿ると、海魚、川魚の区別はつかないが、木箱の中に魚が無造作に入れられている。鮮度といった意味では全く期待できないものだと思っていたが、案外そうでもないらしい。木箱と一緒に、氷が入っている。
「この氷は、メイジが作るのか?」
「ええ、メイジといってもすべてが裕福というわけではないですからね。ちょっとした副業みたいなものですよ。本当に遠くから運んでくるときには固定化を使ったりもしますね」
「なるほど。だからこれだけ集められるわけか」
魚などそれほど流通できないだろうと思っていたが、魔法のおかげか、ずいぶんと品揃えが豊かになるらしい。あとは、目的のものがあるかどうか。
「ぱっと見た感じは海藻だとかは見当たらないようだが、食べたりはしないのか?」
「ええっと、海藻って、あの海の中に生えていたりするっていう植物ですよね?」
怪訝そうに眉をひそめる。
「ああ、食べ方だとサラダにして生で食べたりもするんだが、俺が探しているのは乾燥させたものを――さっき言ったように出汁として使ったりするものだな」
「海藻ですよね? 私が生まれ育ったのは空の上にあるアルビオンなのでそもそも海のものには疎いんですけれど……。私が知る限り、海藻って肥料の材料になっていたりしますね」
「……肥料か。となると、食材として並ぶことはないな」
「ええ、探せば見つかるかもしれないですけれど、きっとここにはないですね。それに、もしあったとしても、なんとなく食材とするのは遠慮したいかなぁ」
少なくともこちらでそういう使い方をされているとなると、自分で探す方がいいかもしれない。海まで行けば、昆布のようなものはあるだろう。見つけさえすれば、適当に干せば使い物になると思う。ただ、この反応を見る限り、食材として使うというのは知られない方がいいのかもしれない。
しかし、となると椎茸、昆布をここで手に入れるのは難しいか。そもそも食材としての認識がないとなると、金を出せば手に入るというものでもなさそうだ。今日にでも食べられるかと思っていただけに、やはり残念だ。
「えっと、この国でここは大きい市場とは言っても、周辺からすべての食材が集まるってわけじゃないですからね? その地域だけで食べているものって知られていないだけで結構ありますし。そうだ、今度遠出して探しましょう。二人で――というのは怒られそうですから、みんなで旅行だと思って」
よほど、残念そうな顔をしていたらしい。マチルダがいつも以上に明るく振舞う。
「そうだな。旅行だと思えば、楽しいな」
「ええ、シキさんなら普通なら何日もかかるようなところでも、ぱっと行って戻ってくる手段はいくらでもあるんでしょう?」
「ああ。その時は一緒に行こうか。と、今日はすまなかったな。結局俺が行きたいところにだけ付き合わせてしまった」
「――ふふ、いいんですよ。一緒に回れて私も楽しかったですし。それに、覚えてます? 私たちが初めて会った時のこと」
ふわりとほほ笑む。そうして目を閉じる。
「シキさんが召喚されて、正体がわからないから私が監視するように言われて。隠れていたつもりがあっさり見破られちゃったから驚いちゃいましたよ。そういえば……」
視線を俺の頭からつま先まで行ったり来たり、そうして朗らかに笑う。
「シキさんってば、最初は上半身裸で歩き回っていたんですよね。今だから言えますけど、あれじゃどこの変質者だって感じでしたよ」
「――まあ、それは、な」
どうせすぐに破れるからということもあったが、我ながら大した感性をしていたものだ。
「――でも」
「ん?」
「あの時はシキさんのことをこんなに好きになるとは思いませんでした。私、今すごく幸せです」
まっすぐに見つめ、口にする。たまに悪戯っぽく言われることはあっても、急にそんな風に言われると、さすがに気恥ずかしい。
「――俺も、今すごく幸せだ」
だったら、たまには俺も素直に言葉にしよう。そして、腕を組むのではなく、手をつなぐ。いつもとは違って、俺から。つないだ手を見て、マチルダも恥ずかしそうにはにかむ。
「さあ、俺に付き合ってもらってばかりじゃ悪い。どこか行きたいところはないか?」
「――じゃあ」
少しだけ考えて、口にする。
初めて案内してもらった洋品店に行き
「――こんなのはどうですか?」
抱え込むように、マチルダが選んだ服を自分の体に押し当てる。余計な飾りの一切ない、真っ白い一枚の布から仕立てたワンピースだ。シンプルなその仕立ては、よく似合っている。
「たまには、こういうものもどうだ?」
別の服を手渡す。
「こ、これはちょっと……。私の柄じゃないですし」
狼狽えるようにマチルダが後ずさる。
渡したものはそこかしこにフリルの付いた、いかにも深窓の令嬢然としたものだ。
「いや、もとがいいんだから絶対に似合う。それに、見てみたい」
「もしかして、恥ずかしがるのを見たいんじゃないですよね?」
「……着てくれないのか」
「着てもいいですけれど、そういう言い方はずるくないですか? ――だったら、代わりにシキさんも一緒にあの服を着てください」
そう言って、マチルダが指さす。指し示す先には、ちょうどさっきの服と対になるような、言ってみれば王子様然としたものが飾られている。
「いやなら私もいやです。……え? 着るんですか? そんなにしてまで、見たいんですか。うー、そこまで言うのなら……。でも、シキさんの前でしか着ないですからね?」
裏路地に入った、ちょっと怪しげな通りで
「相変わらず、変わったものばかりだな……」
前と変わらず、いろんなものが無秩序に積み上げられたりと、雑然としている。時折、「東方」から来たらしいものがあったりするのは面白いが、いつごろのものなのか、完全にガラクタになっているものも多い。
「ん?」
「何かありました?」
「いや、これは……」
そういったものの中に、古着を扱っている店があった。その中に、明らかに地球からのもだと分かるものがあった。
「変わったデザインの服ですね」
マチルダが覗き込む。確かに珍しいだろう。大きな襟が特徴で、ふわりと結んだスカーフがアクセントとなっている。
「――え、シキさんそれ買うんですか。……え、それも私に? 別にいいですけれど、変わった服ですよね。というか、スカートの丈、短くないですか?」
マチルダが体に押し当てる。サイズとしては問題はないが、スカートの丈が短い。太ももの半ばまで見せる形になるだろう。少しばかり対象年齢が違うかもしれないが――それが良い。
更に奥まった通りの武器屋で。
「そういえば、前にここでしゃべる剣を買っていたな。あれはどうしたんだ?」
「え、剣ですか? ……えっと、ああ、そうだ。学園長に売っちゃいました。結局私は使わないですしね」
「まあ、それもそうだな。飾るような剣でもないし、そもそも喋る剣の使い道というのもよく分からないしな」
「でしょう?」
「さて、せっかくだ。適当にお土産を買ったら、軽く何か食べて帰ろうか?」
「――シキさん、戻ってくるのを待っていたんですよ」
学院に戻ると、満面の笑みのエレオノールが待っていた。何かを期待しているようで、それこそ、しっぽがあればちぎれんばかりに振っていたことだろう。普段は気難しい表情をしていることが多い彼女だが、こういう時はいっそ少女のようですらある。返事を聞くのももどかしいとばかりに腕を引かれる。
マチルダを振り返るが、一瞬だけさびしそう表情を見せるだけで、今日は独り占めしましたからと、ひらひらと手を振っている。
「何を言っているんですか。せっかくシキさんの”故郷の味”を再現したんですから。一緒に食べましょう」
ああ、朝言っていた「ヨシェナベ」 純粋に喜ばせようと作ってくれたんだろう。その気持ちが何よりうれしい。それに、しばらくは無理だと諦めただけに、食べたいという意味でも尚更だ。マチルダとも目が合うが、苦笑いしている。そしてポツリと一言
――かなわないなぁ。だからこの人のことも、好きなんですよね。
そんなことを言った。
「”ヨシェナベ”です」
エレオノールの部屋に来ると、じっくりと煮込んだ、濃厚な鳥のうま味の香りが部屋中に漂っている。ここまで濃厚なものは今まで嗅いだことがない。そして、くつくつと心地良い音が聞こえる。さすがに土鍋までは調達できなかったようだが、それは些細な問題で、部屋の中央に位置するものは鍋だ。
そして、寄せ鍋は汁を入れた鍋に野菜や魚介類、好きな材料を入れて煮込むものだ。特に具材に決まりはなくて、地方毎にその特色が出るのだから、そういった意味では目の前のものは間違いなく「寄せ鍋」だ。
「”ヨシェナベ”というのは特に材料に決まりはなくて、それぞれの地域の食材を入れて楽しむものらしいですね」
エレオノールが腰に手をあて、どうだとばかりに笑う。
確かに、最高の食材を集めてくれたんだろう。この濃厚な鳥の匂い。鍋にプカリと浮かんでいる滑らかな表面を見せているものはきっとフォアグラだろう。となると、時折見える黒い粒はトリュフか? キノコに鳥、ああ、まさしく鍋だ。目の前に置かれたものは、確かに鍋だ。
――しかし、何かが違う。
少なくとも、寄せ鍋ではない。ああ、いや、具材の特定はないのだから寄せ鍋ではあるのだろう。フォアグラや、トリュフがこれでもかと入った鍋など聞いたことはないが。ああ、闇鍋というのものがあったか。
「――すごいな。材料も、なんというかすごい」
「ええ、シエスタの故郷で”ヨシェナベ”というものが名物になっているらしいんですけれど、最高の食材を集めて作らせました。さ、シエスタ」
エレオノールが促し、シエスタが器によそう。表情はうかがえない。とりあえず、あとで、本当のヨシェナベというものはどんなものなのか聞いてみなければいけない。田舎でこんな豪勢な鍋をというのはさすがにありえない。
「さ、シキさん」
エレオノールに促され、手に取った器を見つめる。匂いについては鳥のうま味が立ち上り、悪くない。見た目もまさしく鍋だ。ただ、入っているものがおかしい。一部高級鍋というものはあるが、俺が思うに、鍋はもっと庶民的なものだ。
ひとまず、よそわれたスープを一口啜る。
「――うまいな」
――意外に、本当に意外に悪くはない。
「さあ、思う存分食べてください」
「ああ、ありがとう。――すごく、濃厚な味だな。こんな鍋は食べたことがない」
フォアグラは鳥のうま味はもちろんのこと、鍋に入ると、アンキモを思わせる触感がいっそ鍋らしい。出汁のなかにもそのうま味が出ていて、濃厚だ。トリュフのサクサクとした触感に鼻に抜ける香り。フォアグラやトリュフというのは世界三大珍味といわれるだけの食材で、鍋のなかでこれでもかと主張している。
が、量を食べる食材では決してない。もちろん、数えるほどしか食べたことはないが、カニやフグ、高級食材の鍋というのもいいものだ。だが、なんというか……フォアグラとかはちょっと違う気がする。
いや、確かに悪くない……と思う。これはこれで美味しいのかもしれない。ただ、これだけは言える。これは絶対に和食じゃない。
「良かった、喜んでもらえて」
エレオノールが本当に嬉しそうに笑う。ちょっと違うというのは、言う必要はないだろう。
「――シキさんの故郷の味って、本当に高級なんですね。びっくりしました」
マチルダが言うが、その誤解はあとで解くことにしよう。少なくとも自分はこんな高級食材とは全く縁のない生活をしていたのだから。
寄せ鍋、食べたかったな。しんなりとして甘い白菜、くせのない白身魚、次の日のおじやなんて、朝からいくらでも食べられた。
「鍋は皆でにぎやかに食べるものらしいですね。せっかくだから、ルイズも呼んで、皆で食べましょう」
エレオノールが張り切っている。まあ、皆でにぎやかに食べるのが鍋で一番大切なことだ。だったら、目の前のものは鍋だ。誰が何と言おうと寄せ鍋だ。材料だって、多少アレンジしただけだ。浮いた脂がちょっとすごいことになっているが、味は悪くはないのだから。
そうして急遽作られた賑やかな食卓。どこから嗅ぎつけたのかタバサとシルフィ。珍しさもあいまって皆で楽しんだ。
ただ、そんな中、一瞬だけマチルダが寂しげな表情を見せた。
「――ああ、大したことじゃないです。ここに妹もいたら良かったなって」
にぎやかな舞台から離れて、学院から遠く遠く、さらに空の上へと。しかしながら、舞台としてはすでに幕が下りた場所。ただ、更に小さな、取るに足りない舞台の幕が下りるまで。
鬱蒼と生い茂る森。細いながらも踏み固められた跡があるから、まったく人が入らないということはないのだろう。それでも、身を隠して逃げるには十分だ。走って走って、ようやくここまでたどり着いた。
多少は考える余裕が出てきて、結局戦争なんてろくなことにならないのかもしれない、そう思った。最期まで見届けて、出てきた答えはそれだった。
いや、最期まで見届けた――そういえば様になるが、なんのことはない。ただ逃げ遅れただけだ。それでも少しばかり悪運が強かったから、そんな風に他人事のように言える。もっとも、少しばかりだが。なにせ、ガリアがついた時点で逃げればもう少しましだったかもしれないのだから。
負けるはずがなかったはずの戦争は、戻ってきた王子とガリアを含んだ大勢力の前にあっさりと終わった。
周辺の貴族たちはすぐに抵抗をあきらめた。勝ち目などない。言ってしまえば、この世界すべてを敵にまわすということなのだから。レコンキスタを良しとしなかった者達はもちろん、たとえ組していたにしろ、まだ助かる芽のあるもの達はこぞって降伏した。
王党派と貴族派、後者が大多数を占めるようになっていたのだから、すべてが切り捨てられるということはない。もちろん、これだけ大きな借りを作ったのだから、その見返りのために大半の貴族は綺麗さっぱりつぶされるだろう。それでもまだ助かる可能性があるのならと、それに賭けるというのもわからなくはない。
そして、本陣の方はこれまたあっさりしたものだった。いきなりまわりがすべて敵に、しかもこの国は空の上。自分たちで火を放つところも出てくる有様で、あっという間に壊滅した。ガリアが出張ってきた時点でもう詰んでいた。
結局、始祖の奇跡とやらはなんだったのか、しょせんは皆、舞い上がっていただけなんだろう。おこぼれにあずかろうとした俺らも含めて。その奇跡の代行者とやらはちゃっかり生きているんだろうが、大したペテン師だ。
――ああ、そうそう、まだ後始末といったものもあった。
まずは亜人共の掃討。そもそもなぜあれほど大量に加わっていたのかわからないものが、なぜか暴れまわっていた。敵も味方も関係なしに。しょせんは亜人、人と相いれないのか、そもそも、無理に引き入れたのが今の結果か。まあ、最期まで抵抗した、そういう意味じゃ大した忠臣だろうよ。
そして、俺を含めた、厄介者でしかない傭兵狩り。寝返った側にとっても、攻めてきたやつらにとっても後々の厄介の種にしかならない。だから、亜人と一緒に積極的に狩り出された。
こうやって逃げてくるまでにも、一人の死体を見かけた。その時には思わず足を止めた。知っている顔だからではない。正確には、知っているやつの、その死に様に、だ。
背中に突き刺さった矢と、とどめらしい刺し傷、そしてわざわざ切り落とされた手首。俺は頭がいい方ではないが、なまじ知っているだけに、どういう風に死んだかありありと頭に浮かぶ。
手癖が悪いやつだったから、駄賃代わりにちょろまかしてきたものを持って逃げるつもりだったんだろう。そこを見つかった。相手にしてみりゃ、これ以上ない獲物だ。当然殺す。そして感心するぐらいの業突く張りだったから死んでも離さなかったんだろう。
本当に、傭兵らしい傭兵だった。傭兵というのはしょせんはくいっぱぐれ。いつ死ぬかも分からないのだから、とにかく動けるうちに金を貯める。火事場泥棒みたいな真似も、野盗まがいのことだって、当然やるし、やらないやつもなんだかんだで理解している。そんなやつらだ。そんなやつらは、戦争が終われば結局厄介者でしかない。
そして、それは今の俺も同じだ。金も食い物も、なんとか手に入れなければ結局野垂れ死にだ。特に食い物は、ここまでとにかく逃げてきたが、もう腹の音も鳴りはしない。森の中でウサギも見つけたが、すばっしっこ過ぎてつかまりゃしない。まだ死にはしないが、なんとかしなくちゃならない。
――がらん がらんと、何か硬いものがぶつかり合う音が聞こえた。あわてて振り返れば、なんのことはない、せいぜい5,6才の子供だ。あまり身なりは良くないが、髪形からすれば女か。周りに散らばったものを見るに、俺を見てマキを落としたらしい。子供がいるのすら気づかないとは、どうやら本格的に参ってしまっているらしい。
ただの子供で良かった。ああ、そうだ、確かに悪運だけはある。こんな子供がということは、家が近くにあるはずだ。粗末な身なりだから金は期待できないが、食糧ぐらいは期待できる。
「――なあ、嬢ちゃん」
言い終わる前に、マキも放りだし、駆け出した。当然だ。子供だからと、この世界は優しいわけじゃない。むしろ甘いのは、なだめてどうにかなると思った俺の方だ。
だが、それでもしょせんは子供の足。たとえ今の俺でも、すぐに捕まえられる。覆いかぶさるように押し倒し、地面に押さえつける。泣きわめき、暴れるが、いくら子供が暴れてもどうということはない。顔を土で汚し、鼻血と涙とでぐしゃぐしゃにした様に罪悪感を感じなくもないが、食糧さえ手に入ればいいのだから殺すつもりはない。その分だけ、見境のないやつらよりはずっとましだ。
「――その子を離して」
女の声が、聞こえた。自分の無防備さかげんに思わず舌打ちする。声の先には女が、いや、まだ少女というべきだろう、小さな杖を突きつけていた。メイジかと焦ったが、震える杖を見て落ち着いた。それなら、もしメイジだとしても何とかなる。
押さえつけた子供を力まかせに抱き上げる。小さく呻き声をあげるが、それぐらいが丁度よい。杖を突きつけてきた少女も子供しか見ていない。
「食糧さえもらえれば離してもいいが――金もなくてな」
「食糧ならあげます。でも、お金なんてありません」
気弱そうに見えて、気丈に答える。綺麗な顔をして大したものだ。本当に、張りつめた表情ながら、それ以上に綺麗な顔立ちだ。改めて見て、思わずうめき声をあげてしまう。
ろくに手入れできないだろうに、それでも腰まで伸びた艶やかなブロンド。目も鼻も口も、すべてが完璧に整っている。緑の、あまり上等とは言い難いワンピース姿、それでもはっきりと分かる、顔に似合わず豊かな胸、そして覗く太ももの白さ。とてもこんなところで暮らしているとは思えない。きちんと着飾りさえすれば、いや、今のままでもそこらの貴族の令嬢など足元にも及ばないだろう。人の売り買いなどしたことはないが、金貨で何百枚になるか分からない。それだけあれば、しばらくはこんな場所ともおさらばできる。死ぬような目に合わなくて済む。
「お前が来てくれればいい。そうしたら、この子供も離していい」
「――私を、どうするんですか」
気丈に振る舞っても、やはり怯えは隠せない。声にはそれが表れていた。
「人買いに売るんだよ。なに、心配しなくてもいい。お前さんほどの器量良しだ。使いつぶすようなそんなもったいない真似はされない。どこかの貴族にでも高値で売られて妾にされるさ。案外、今より良い暮らしができるかもしれないだろうよ」
嘘ではない。娼館ではなく、どこかの貴族に売られるだろう。そいつがまともなやつなら、妾に。そうでなければ――なんにしても、死ぬことはない。
「……妾、ですか。私が行けば、その子は離してくれるんですか?」
妾という言葉に顔を曇らせる。当然、意味を知っていればよい気はしないだろう。
「ああ、子供に用はないからな」
「だったら、私が行きます。だから、その子を離してください」
意思のこもった目で見つめる。きっとそう言うと思った。自分が言わせたことながら、大した自己犠牲の精神だ。俺とは違う。いや、むしろ、こんな時代にそんなことが言えるというのは、それこそが間違っているのかもしれないが。
「まずは杖を捨てな」
「……はい」
一瞬だけ戸惑ったようだが、素直に従おうとする。だから、ついガキを押さえつける腕を緩めてしまった。それがいけなかった。思わず呻くほど、指に痛みがはしった。
指に何かが突きたてられる。子供が噛みついていた。思わず殴りつけていた。体重の軽い子供がそのまま宙を舞う。やけにゆっくりと見えた。
地面に落ちて、一度だけつぶれたカエルのような声をあげる。脈打つように地面を赤く染めていく。びくりびくりと震えて、そのまま動かなくなった。少女が駆け寄り、抱きかかえる。抱きあげた腕も血で染まっていく。あの小さな体のどこにそれだけの血が入っていたんだろう、ふとそんなつまらないことを考えた。
頭があった場所に、血に塗れた石があった。あれに頭をぶつけたんだろう。ずいぶんと運が悪い。なぐりつけた姿のまま、眉をひそめる。いくらなんでも、子供を殺すというのは胸糞悪い。殺すつもりがなかっただけに、なおさら。
「待って、て。すぐに、治すから。だから……死なないで」
少女が、指を傷口に押し付ける。正確には、指輪のようだ。ああ、本当にメイジならなんとかしようとするか。だが、死んだあとにはどうしようもないだろう。
「――な、なんで? お母さんと同じなの? なんで、駄目なの。なんで、私の大切な人だけ……」
そんな少女を見て、大きく、息を吐き出す。
――こんなはずじゃ、なかったんだが。そもそも俺は食糧さえ手に入れば、あの子供だってどうでもよかったんだ。俺だって、余裕さえあれば脅して食糧を得ようとしたり、人を売ろうなんて考えもしないんだから。
どうしたものかと少女を見て、ぞわりと全身に寒気が走った。いつの間にか血濡れの少女が、亡骸を片手に俺をじっと見ていた。大きな目が、まばたきもせずにじいっと俺を見ている。
「――何で、こんなことをするの?」
もともとサファイアのようだった大きな目が、まるで本当にそうであるかのように無機質な光を向けている。思わず、一歩下がってしまう。それでもじいっと見ている。どうしてか、悪寒が止まらない。
「私が……」
そういって赤く染まった腕で髪をかきあげる。赤く塗られた髪の合間からとがった、ただの人ではありえない耳が覗く。
「――エルフだから?」
その耳を見たとき、体はすでに逃げ出していた。妙な迫力の理由をようやく理解した。だから、とにかく逃げなくてはいけない。誰だって知っている。ハルキゲニア最高の先住魔法の使い手。人間の敵。
――本当の化け物
「――あなたは許さない。あなたなんか、消えてしまえばいい」
力の限り走った。
耳元で声が聞こえるから。
だから、聞こえなくなるまで遠くへ。
足を捻っても走った。
まだ、声が聞こえるから。
だから逃げなくてはいけない。
走って、走って、倒れた。
でも、起き上がろうとは思わない。
なぜ走るか、分からないから。
頭にいろんなことが浮かんで、それと同時に消えていく。
どんどん、どんどん消えていく。
消えて、溶けて、なくなる。
最期に、体が忘れた。
生きるということを。
ただ心臓だけが動いていて、それも消えるように止まった。
悪運だけは、強かった。苦しみも知らずにというのは、見方を変えれば幸運だった。
苦しまずに――あの男に比べれば、一度は王になったあの男に比べればずっと運が良かった。暗闇の中、死にたくとも死ねないあの男に比べれば。
もっとも、その男自身、そんなことはすでに忘れてしまっているかもしれないが。
なんにせよ、この小さな舞台もこれでおしまい。少なくとも、この場所、この世界では。桃色の髪の少女が呼んだのがただの少年だったなら――そんなことを考えるのは意味のないこと。