私の名は、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。はたから見れば仰々しいだろう私のフルネームはともかく、ヴァリエールの名を知らぬものは、少なくともここ、トリステインにはいない。
ヴァリエール家は、トリステインの中では名家中の名家。客観的な事実として、王家を除けば貴族の頂点であると言っても良い。当然、私はそれに見合う生活をしてきた。二つとないだろう珍品だって数限りなく見てきたから、驚きには耐性があるつもり。
でも、それを聞いた時は人生の中でも──いや、ここ最近は驚くことは多かったけれど、少なくとも、片手には入るぐらいには驚いた。両手かもしれないけれど、数の問題じゃない。とにかく、それだけ驚くべきことだったということだ。
私の部屋に、珍しくテファと一緒にやってきたシキの言葉。
「実は、テファも虚無の担い手というものだったらしい」
思わず、一緒にいたテファを凝視する。でも、テファはのんびりといつも通り。
「うん、本当。この指輪もお揃いだね」
左手を掲げ、嬉しそうにテファが言う。
確かに、その手の指輪は私が姫様から預かった水のルビーにそっくり。違うのはそこにある石、何より、二つあるということ。透明な石と赤い石の指輪、それらがテファの指で輝いている。
あれ? ということは……
トリステインの虚無が私で、ロマリアの教皇、ガリアのジョセフ王、そして残るアルビオンがテファで──虚無の担い手が揃ったということ? つまり……
いやいやいや、テファはエルフでしょう?
虚無と敵対するエルフが担い手なんてことがありえるの? そもそも、虚無の担い手は始祖の血がひいていることが必須条件のはず。
ああそうか、テファはハーフなんだっけ。だったら、テファの父親は……
「ねえ、テファ。一つ確認させて。テファの父親って口に出せない人?」
変わらずのんびりとした様子のテファ。
「もう地位はなくなったから大丈夫だよ。王様の弟で、モード大公って呼ばれていたのかな? あんまり、会えなかったけれどね……。でも、優しい人だったよ」
寂しそうではあっても、そういう問題じゃない。
「そんなさらっと言うことじゃないでしょう……。モード大公様といえば、亡くなられた時にも色々と噂があった……。あなた、本当に分かっているの? 事によっては第二のレコンキスタ騒ぎが起こりかねない話よ?」
不倶戴天の敵と言われるエルフと──それは王権の根幹にだって影響しかねない一大事。
「え、え? 分かっているつもりなんだけれど、おかしなこと言っているのかな?」
うろたえたテファは、隣のシキに問いかける。ただ、そのシキも困ったように眉根を寄せるだけ。
「テファのことは、時が来るまでは信用できる人間にしか話さないつもりだ。ただ、隠すにしても、……まあ、何だ。テファ自身が世間慣れしていないからな。ルイズから話して色々と教えてやって欲しい。同じ立場というのなら、互いに思うところはあるだろうから」
「そういうことは、まあ、理解できるけれど……。私も、同じ立場で考えられる人がいるって嬉しいし」
隠れ住んでいたテファが色々と疎いということは、男性に対しての反応だとか、これまでも実感してきている。私と同じ立場の人と話したかったというのも本当。
でも、それはそれ。いくらなんでも、急に過ぎる。
「──助かる。これからの事はおいおい話していくが、まずは頼む」
そう言って踵を返そうとする。まるで、後のことは私に任せたとばかりに。
「ねえ、シキも一緒にってことじゃないの? あと、服が破れたりしているけれど、何で?」
そう、力一杯引っ張られたように服はよれ、よくよく見れば袖なんて取れそうという有様だ。
「……そういうこともある。とにかく、あとは任せた」
それだけ言って、それこそ逃げるように去っていく。比喩でもなんでもなく風が流れるような動きで部屋を出て行き、扉が閉まる音で我に返るという有様。
私としては、何ともやるせない。
伸ばしかけて何も掴めなかった右手が、落ちる。前にもこんなことがあったような気がしないでもない。
「あの……」
おずおずとテファが言う。
「えっとね、私のせいなの……。それで今、ちょっと、大変なの」
「じゃあ、ミス・ロングビルが?」
「……うん」
テファは、コクリと本当に申し訳なさそうに頷く。
「経緯は分からないけれど、修羅場?」
「……そんな感じ」
悲しそうに目を伏せる。
「テファに手を出そうとしたとか?」
「……ん? どういうこと?」
本当に分からないと首を傾げる。
「──いえ、ただ言ってみただけだけよ」
思うに、虚無の担い手であることを明かすのに、姉代わりとしては大反対ということだろうか。そして、テファとしては珍しく、姉に譲らなかった、と。
「まあ、いいわ。いつものことだし。取り敢えず、話せることだけで良いからあなたのことを教えてくれる? 人に言いふらしたりなんかは絶対にしないから。これは誓ってもいいわ」
「あんまり、面白い話じゃないけれど、それでも良い?」
「もちろん。──それと、改めてよろしくね。虚無の担い手ということもそうだけれど、私達、遠い所では血も繋がっているということよね」
「うん、よろしくね」
テファはとても嬉しそうに笑った。それこそ、宝物を見つけた子供のように。
テファの話は、ある一つを除けば良くあること。テファの父であるモード大公がとある女性を見初め、ひっそりと囲った上で子供をもうけた。そうして生まれたのがテファ。
どこにでもあることだし、感情は別として、場合によっては必要とされること。世継ぎが多すぎれば諍いの種でも、世継ぎがないということは、それは家が断絶するという、それ以前の話になってしまう。
問題は、そのとある女性というのがエルフだったということ。テファを見れば分かるように、とても美しい女性だったんだろう。非の打ち所のない、それこそ芸術品とも言える美しさと、そこに同居した柔らかな可愛らしさ。テファの母親なら、そんな人だったと断言できる。そして、大公は心から愛してしまった。人の天敵とも言うべきエルフと結び、子をなした。
せめて他の亜人であれば誤魔化しようはあったかもしれない。でも、よりにもよってエルフ。事が公になれば、国の存立基盤そのものが揺るぎかねない一大事。それなのに、大公は捨てられなかった。その結果が、モード大公とその周りの多くの人を死に追いやったということだろう。誰が間違っていたとは、言わない。
そして、ミス。ロングビル。
詳しくはテファも語らないけれど、本当の名はマチルダ。大公の重臣中の重臣の娘だったということは、かなりの名家。文字通り、身を捨ててテファを守ってきた。名を無くした貴族の、殊更、女の末路は悲惨なもの。それこそ、死ぬよりも辛いことだってあるというのに、彼女には死すらも選べなかった。
テファが虚無の担い手であることを明かすべきではないと考えるのは、ある意味では自然なこと。テファを守る為、その出自は決して明かせなかったはず。テファのことを想うのなら、これからもそうすべきかもしれない。それが間違いだとは、誰にも言えない。
──唯一の救いは、テファ自身は恨みを持たず、復讐などは決して考えていないということ。
テファは、本当に純粋なんだろう。真っ白な、一点の曇りのない純粋な心の持主。世間慣れしていないからか、そもそもそういった人なのか。ああ、テファの母親こそがそんな人だったのかもしれない。人がエルフを恐れ憎むように、エルフが人に持つ感情だって好ましいものではないのだから。
ただ、そんなテファだから、貴族としての知識や常識、価値観といったものからも距離をおいてしまったのかもしれない。貴族としては必須のものであっても、テファにとってはそうではなかった。そもそも、平民と同じように過ごしてきたのだから、価値観などが似通ったものとなっても仕方がない。それは、どんな環境で生きてきたのかが作っていくものだから。
もしテファが貴族となることを望むのなら、誰かが足りないものを教えてあげないといけない。
何気ない、テファからの質問。例えば、「王様ってどんなことをするのかな?」といったもの。
貴族というものを知るのに必要なことで、そしてなるほど、いざ説明しようとすると、少しだけ難しいかもしれない。王権は、権力と呼ぶべきものすべてを包括した内容と言えるから。私は、できるだけ丁寧に答えた。
「王としての仕事──国によって違うけれど、全ての権力のトップとして在る、ということかしらね?」
「国で一番偉くて、国のことを決めるのが王様だよね?」
間髪入れず返ってくる返事。
「そういうこと。で、権力は大きく分けると三つになるでしょう? つまり、国をどう運営するかを決める法律を作る立法、問題になった時のジャッジをする司法、そして、実際に運営する行政。行政っていうのは、立法と司法以外って考えてもあながち間違いじゃないわ。厳密には分かれてはいなかったりするんだけれど、理解の仕方としては分けた方が無難ね」
「え、ええと……。国のルールが法律で、有罪無罪を決めるのが司法。王様は一番偉いんだから、そこに命令するし、他のことも含めて全部決めるのが王様の仕事ってこと、かな?」
不安そうではあるけれど、間違ってはいない。王様の仕事なんていきなり言うからどうかと思ったけれど、案外大丈夫そうね。
「テファの、決めるのが仕事っていうのは良いわね。全ての権力のトップとして在るなんて言っても、それだけじゃピンと来ないもの。本質をついていると思うわ」
「そ、そうかな? 良かった」
テファが、少しだけ照れたようにはにかむ。
うんうん、やっぱり正解って言われると嬉しいものね。じゃあ、ちょっとだけ追加。
「王様の仕事が決めることって言うのはその通りよ。でも、いくら決めるだけといっても、その量が半端じゃないわ。だってそうでしょう? 例えば、この学院だって国の施設。だったら、全ての決定権は王様にあるの。でも、一々王様が決めてなんていられないわよね。じゃあ、どうすれば良いかしら?」
「え? 学院で一番偉いのは院長先生で、学院のことは院長先生が決めているんだよね? えっと、院長先生に任せているっていうこと、だよね?」
「そう、その通り。理解が早いと話し甲斐もあるわ。王様が決めるっていうのは、もちろん王様自身が決めるということでもあるけれど、それ以上に誰に任せるかっていうのが重要よ。そして、その任された人が更にその下を決めていく。ちなみに、任せる形にも色々あるわね。単純に上から下に順番に決めていく役所みたいなものから、地域そのものを任せちゃうという形。そうやって地域を任されたのが土地持ちの貴族。任された貴族は、ある意味ではそこの王様のようなものね。特に、重要な場所を任せるには、それこそ血を分けた存在にとなるわ。例えば……」
──テファの父親のことを言うのは、やめておくべきよね。
「私の実家のヴァリエール家は、公爵家として、何度も直接の刃を交えてきたゲルマニアに国境を接する要所を任されているわ。王家に代わって地域を治めるのはもちろん、防波堤としての役割も期待されているの。力のない貴族だと防波堤にならない、かといって、力を持ちすぎれば反乱の可能性がある。どうしても王都から離れて目が届かないしね。そんなわけで、王家とも深い血のつながりをもつ私の実家は公爵家として絶大な権限、それこそ、時には王家に匹敵する権限と、それに背かない忠誠を持ってあたるの。そして逆に、王はその忠誠を保つことが重要。そういう意味では、まあ、王に一番求められるのは人の上に立つものとして、家臣をうまく使えることが大切ってことかしら。どう、イメージとしてでも掴める?」
テファは唸りながら、自信はなさそうだけれどなんとかうなずく。
「……全部を自分でやるわけじゃなくて、皆と一緒にっていうこと、だよね?」
「使う」のと「一緒に」というのは違う。でも、これは実際その立場にならなければ難しい。貴族にとって大切なのは、自分で動くことより、どう人を上手く使えるか。それが人の上に立つということ。優しすぎるテファには、難しいかもしれない。それに、こればかりは言葉でどうこうというものじゃない。
「使うと、一緒にというのは違うわ。人の上に立ち、人を使う──まあ、おいおい理解してくれればいいわ。そういう判断が求められた時に初めて体で理解できるものだから。じゃあ、次はちょっとだけ応用編ね。どこまで理解できるかのテストと思えば良いから、理解しきれなかったらそれで良いわ」
「う、うん。お手柔らかに……」
あら、そんなに不安そうな顔をしなくても良いのに。さっきのだって、分からないのはある意味で仕方がないことなんだから。
「さっきまでの話は、その国の中の話。王様が一番偉いという前提よ。でも、国って一つじゃないわよね? 今いるトリステインがあれば、テファが生まれたアルビオン、そして、離れたところにエルフの国だってあるわ。国としての建前は対等なんだけれど、実際はそうじゃないわ。強い国があれば、そうでない国もある。前者が後者を支配するっていうことだってある。強い国は後者に対して影響力を増す為に行動して、後者はそれを防ぐために行動する。それが国と国との関係、外交よ。で、その手段には戦争も含まれるわ」
戦争という言葉に、テファは眉をひそめ、露骨に嫌な顔をする。テファなら、そうだろう。だからこそ、私は言葉を続ける。
「国として、その利益を最大化するというのは当然のことよ。それができない施政者は、施政者として問答無用で失格ね。国同士の利害がぶつかりあえば、戦争だって解決手段の一つになるの。でもね、なんでも戦争で解決しようとしたら、それこそ施政者失格よ?」
「……そう、なの?」
「当然じゃない。戦争になったら国民に犠牲が出るもの。それはそのまま国力が落ちるのとイコールよ。それに、必要となる費用は莫大、たとえ勝っても被害は出る。加えて、勝ったからと搾り取りすぎれば将来の禍根として残り続けるから、なんでもできるってわけじゃないのよ。必ずしも戦争が合理的選択になるとは限らない、だから、少しは安心できるかしら?」
「そうだと、いいけれど……」
テファは何と無く納得できていないみたい。それもまあ、仕方がない。実際、戦争なんて起こる時は起きてしまうものなのだから。プライドの問題から戦争が始まることだって、ないではない。
ああ、それこそ話すべきかもしれない。
「それ以上は理屈にしからないし、もう少し別のことも話しましょう。理屈とは別のもので、たぶん、テファに一番欠けているものだと思うわ」
はっきりと言い切る。
「えっと、何?」
「一言で表すなら、貴族としての誇りよ。時には法律より優先することだってあるわ」
「法律より優先って、それで良いの?」
何を馬鹿なと、テファの顔に書いてある。
「何、そんな顔をしているのよ。これからはあなたも貴族として生きるつもりがないわけじゃないんでしょう? 貴族の誇りってそんなに軽いものじゃないの。何年も、それこそ何百年、何千年と積み重ねてきたものなんだから。言ってしまえば国の歴史そのもの。先人の知恵の結晶でもある、とても重いものなのよ。時に応じて変わる法律とはそれこそ重みが違うわ。貴族は、貴族としての誇りを胸に、時には命だってかけるの。それをなくしたら貴族じゃないわ」
私がこれまで私としてあれたのは、その誇りがあったからこそ。そう、たとえ魔法が使えなくても、貴族としての誇りが私を支えてくれた。誇りは、例え何があろうとも蔑ろにして良いものではない。決して。
「貴族が貴族としてある為に一番大切なものは、土地やお金じゃないの。一番大切なのは誇り、誇りの為に時には命をかけるのが貴族よ! 分かる!?」
ピシリとテファに指を突きつける。
「え、え? う、うーん、分かるような分からないような……」
これは、よろしくない。
「ダメよ! 言ったでしょう、それが一番大切なことなのよ! ちょうど良いからしっかりレクチャーしてあげる。人の上に立つにあたってすっごく大切なんだから。──いいわ。さっきはおいおい理解してくれれば良いと言ったけれど、貴族としての心構え、しっかり叩き込んであげる!」
「えーと、また今度じゃ……ダメ?」
肩を引き、少しだけ怯えるような仕草。
「ダメ。大丈夫、ちゃーんと理解できまるまで付き合ってあげるから」
にっこりと笑いかけてあげたはずなのに、どうしてだかテファは頬を引きつらせている。あまつさえ、逃げようとまで。だから私は、両手でしっかりとテファの肩を掴む。
「ダメって、言ったでしょう?」
「う、うぅぅ……。あ、ありがとう……」
「──まず、ヴァリエール家の興りから話すべきよね」
「──言い伝えでしか残っていないんだけれど、初代はそうやってその名を轟かせたの」
「──でね、私が一番尊敬するのが……、あ、もちろん初代もとても尊敬すべき方よ?」
「──で、話は戻るんだけれどね?」
「──その時、こう言ったの。敵に背を向けない者を貴族と呼ぶと」
「──幼いながらも私の心は震えたわ。それこそが貴族として、私があるべき姿だと」
「──まあ、簡単だけれどこんなところかしら? 言葉だけじゃ分からないものだから、これから実感してもらえれば良いとは思うけれど」
貴族の誇りは、言ってしまえばかくあるべしという在り方。言葉だけでなく、実践し自らの血肉としなければならない。単なる成り上がりと本物の貴族との違いはそこ。
「……うん」
「良かった、分かってもらえて」
テファに貴族の誇りを理解してもらえるというのは、貴族という在り方を、ひいては私という人間を理解してもらえたようで嬉しい。
「……うん」
何かおかしいと様子を見れば、テファの目はどこか虚ろ。
「……大丈夫?」
「……うん」
「……もう少し話したいことがあるんだけれど、続けて大丈夫?」
「……うん」
返事は、確かに返ってくる。
「……ごめん、嘘。宗教のこととか話したいことはあったんだけれど、今度の方が良いわよね?」
「……うん」
テファはただ、相槌だけを繰り返す。
「……本当に、ごめんね。何か、冷たいものでも持ってくるね?」
「……うん」
「……ごめんなさい。少しだけ待ってて」
──コクンと、テファの喉が鳴る。
コップを渡しても反応がなかったけれど、手を添えて口元に近づけたら飲んでくれた。三分の一ほど飲み干した所で、テーブルへと戻す。
テファの目はやっぱり虚ろ。
面倒になって軽く左、右と頬を叩いてみたら、寝起きのように目を白黒させている。
「目、覚めた?」
「え? なにが?」
「──もう一度最初から説明する?」
テファは首を傾げ、目を見開いて顔色を青ざめさせる。ちょっとだけ、悪いことをしたかもしれない。
「……ごめんなさい。一度に話しすぎたわね。えっと、一度に全部理解しろなんて言うつもりはないから。少しずつ理解すれば良いのよ。そんなに聞いてすぐに理解できるぐらいだったら、私の立場がないしね」
冗談めかして言ったつもりだったけれど、テファはブンブンと首を横に振る。苦手意識を持たれたんじゃないか、少しだけ心配。
「私としては、まだまだ話すことがあるんだけれど……」
「あ、あううぅ……」
テファはサアっと顔色を悪くする。
「一度に話すのもなんだし、またじっくり補習しましょうね?」
「……あ、あう」
テファもそう、涙ぐまなくても良いのに。上目遣いでそういう表情をされると、何て言うかこう、嗜虐心がくすぐられるというかなんというか。まあ、それはまた今度にしましょう。
びくり、とテファの体が大きく震える。
だからねテファ、そうやって体を震わせたら逆効果でしょう? 大きな胸を跳ねさせたりとか、ね。また今度にしようという決意がね、揺らいじゃうじゃない。ほら、体を抱えるように腕を寄せると胸が強調されてね……
──いけない。
大きく息を吸って、吐く。少しだけ落ち着いた。
「勉強は、無理に一度でやろうとしても逆効果よね」
テファはブンブンと何度も頷く。よっぽど、嫌なのかしら。
「じゃあ、勉強じゃないけれど、最後に一つだけ」
「う、うん……」
「テファは、虚無の担い手としてどうしたいの?」
「……私、が?」
テファがゆっくりと頭を傾ける。
「うん。かく言う私も分からないんだけれどね。シキから伝えたのか、テファから話したのかは別として、テファがこうしたいっていうものがあるんでしょう? 理屈じゃなくてね、こうしたいっていう、そう、想い」
テファは、やっぱり上目遣いにこちらを伺うように私を見ている。
いや、少しだけ違う。今度は、私のことを探るように。
「これは、正しいとか、正しくないとかじゃなくてね。私だと、そうね。国の役に立ちたいとか、貴族として正しくありたいとか──ううん、もっとシンプル。私は自分に自信が欲しい。シキがどんなにすごくても、私自信は魔法が使えなくて自分には何もできないと思っていた。だから、自分自信で誇れることを成し遂げて、皆に認められたい。ちょっと俗っぽいかもしれないけれどね。だから私は、虚無の担い手として誇れるようにありたい。私が虚無の担い手に選ばれたのにはきっと理由があるはずだから、それを見つけて成し遂げたい。テファも、何かあるんでしょう?」
テファはじっと私を見つめる。怯えず、まっすぐに。まっすぐな視線には、まっすぐに応える。
ポツリと、テファが言った。
「私、ハーフエルフでしょう」
「ええ、そうね」
「エルフと人間の合いの子。やっぱりね、どちらにも居場所がないの。あ、ルイズは友達だと思っているよ? でもね、やっぱり他の人には隠さないといけなくて、そういう時に私はなんなんだろうって。皆が仲良くできて、隠さずにいられればいいなって。そして、思うの。ルシードとサラサのことを……」
「あの子たち、仲が良いみたいね」
ルシードは人間、そして、サラサは翼人。根本的な生い立ち、種族から違うのに、それを感じさせない二人。兄妹か、あるいは──恋人のように。
「うん、二人ともとても仲がいいの。でも、もし将来子供ができたら、私と同じ思いをすることになるわ。そんなこと気にせずに仲良く暮らせるようになれば……。ルイズは、無理だと思う?」
テファはじっと、私を見つめる。
そんなこと、私よりテファの方がよほど知っている。でも、言葉を求めている。だから、隠さずに答える。
「難しいわね。私も、ずっと教えられてきたの。人と亜人は違うって。エルフのことだって、とても恐ろしい敵だって教えられてきたわ。それは、簡単には変えられない」
「そうだよね……。簡単じゃ、ないよね……」
テファは、残念そうではあっても、それ以上は言わない。きっと、テファにとっても分かり切ったことだから。私が言うまでもなく、それは客観的な事実。
「でも、絶対に不可能だと思わないわ。だって、私自信、それは間違いだったって分かったもの。それこそ、テファのおかげでね。テファは私達と同じような価値観を持っている、むしろ、優しすぎるぐらい」
私はテファの手を取る。
私ともそう変わらない、小さな手。少しだけ荒れてはいても、子供達を世話する優しさ。そして、人と変わらず温かい。
「こうやって、友達にもなれたでしょう? だから、私はテファが虚無の担い手で良かったと思うの」
テファは、不思議そうに私を見ている。
「だってそうでしょう? 始祖が求め続けた聖地と、エルフとの確執。私は、虚無の担い手として聖地奪還を求められるかもしれないと怖かったわ。エルフと、テファの親戚とも戦わないといけないかもしれないって。そして、本当にそれが始祖の御心なのかという疑問もあった。でも、テファが虚無の担い手であれば、それが私の、ううん、人の勝手な思い込みだったという証明になる」
私はテファから目を逸らさず、続ける。
「ハーフエルフのテファが虚無の担い手に選ばれた。それが単なる偶然じゃなければ、始祖がそれを望んだということ。それはきっと、テファにエルフとの橋渡しになって欲しいということよ。だってそうでしょう? 他の誰でもなく、人とエルフの両方の血をひいたテファが選ばれたんだもの。始祖がエルフとの平和を望むのなら、他の亜人とだって一緒よ」
「……ルイズは、本当にそう思う?」
おずおずとテファが問いかける。不安げなテファには、はっきりと言葉にしてあげなければいけない。
「当然でしょう。これまで揃わなかった虚無の担い手が今この時代に揃ったのよ。もちろん、私達だけじゃ何もできないわ。でも、シキは私達の味方をしてくれる。人の考え方はすぐには変わらないから、手伝って欲しいってお願いすれば良いの。可愛いテファの頼みなら、力づくでもなんでもやって、きっとなんとかしてくれるわよ」
「……ルイズも、そう思う?」
「もちろんよ」
「──そっか。実はね、もうお願いしたの。姉さんはそれに反対で、シキさんにもまだ早いって言われたから不安だったんだけれど」
「反対って、どういうお願いをしたの?」
「えっと……、その、なんて言うか……」
テファは、一度は口を開いて、でも、言い淀む。
「言いづらいことなの?」
「う、うん……。でも、ルイズなら……」
言おうとしながらも、おどおどと不安そう。不安があるというのなら、それは私のせい。
「いいわ。まだ言えないのなら、無理をしないで。──ほら、そんな顔をしないの」
テファは、今にも泣き出しそうな表情。そんなテファの頬を両手で包む。
「ね、気にしないで。いつかはちゃんと教えてくれるんでしょう? そりゃあ、気になるけれど、そんな顔される方が嫌だもの」
「……ごめんね、友達なのに。ルイズに言って良いことなのか、まだ分からないから」
「いいの。何も悪いことをしようってわけじゃないんでしょうから。テファの為にならないのなら、シキだって止めないはずがないもの。はたから見たら私達には甘すぎるぐらい甘いかもしれないけれど、本当にだめなことは、だめだって言うから」
少しだけ戯けて言ってみせたら、ようやくテファはクスリと微笑んだ。
「うん、そうだね。ルイズはシキさんのこと、心から信じているんだね。私もその気持ち、分かるよ」
「うーん、そういう風に言われるとなんかくすぐったいんだけれど……。うん、信じているわ。当の本人は爛れた生活をしているけれど、最低限の節度は……」
節度については、どうだろう。そこはだめかもしれない。前にテファの胸を思いっきり凝視していたことがあったような……。
「ん? 何?」
テファは可愛らしく首を傾げて見せるけれど、その大きな胸は、それこそメロンのように大きな胸は凶悪。少なくともそれには、私は血のつながりを感じない。むしろ、絶対の敵とさえ思う。
こうやって両手で持ち上げればずっしりと重い、というか、手に収まり切らない。私の胸は掴むことすらできないというのに。
「あ、あの……ルイズ? どうしたの、目が怖いよ? 何で持ち上げるの?」
「……さっきの話じゃないけれど、胸ばっかり大きくたって、誇りがないんじゃだめなんだからね」
「好きで大きくなったわけじゃないよ。邪魔になることだって……、い、いたっ、痛いよ!? 千切れるよ!?」
「うん、千切れるものなら千切りたいわね。いらないなら私によこしなさい。その胸もどき、あったって邪魔なんでしょう?」
「る、ルイズ酷いよ。自分の胸が小さいからって…… い、いた 、 ご、ごめんなさい、やめて……」
「これから一緒に頑張っていくんだから──そうね、半分よこしなさい。じゃないと、不公平でしょう。ね、私達、友達でしょう? なら、分かち合わないと。そういうのって、私は大切だと思うなぁ」
「あ、ああう……」
──腕にギリギリとかかっていた力が、ようやくなくなった。
後ろから抱きしめていたマチルダが、ようやく歯を立てるのをやめた。子供のように癇癪を起こして、動けないとなると今度は噛み付いた。散々に泣きじゃくって、噛み付いて、どれだけ時間が経ったか。
強張っていたマチルダの体からも力が抜ける。
「……そろそろ、離してください。私も、疲れちゃいました」
いつもの声色に腕を緩めると、するりと抜けだし、向き合う。泣き腫らして、赤い目。凝り固まった体をほぐすように伸びをして、そして、ため息。
「……私だって、テファが言っていることが分からなくは、ないんです。テファが安心して暮らすには、そういう国が必要だって」
マチルダも、テファが間違ったことを言っていないことはよく分かっている。心配しているのは、別のこと。
「でも、テファが苦労しなくたって良いじゃないですか。テファばっかりが辛い思いをしなくたっていいじゃないですか。王様なんて、優しすぎるテファには向いてない。そんなことをするぐらいなら、いっそシキさんが世界征服でも何でもしちゃえば良いじゃないですか」
それが、マチルダの正直な気持ち。
「部外者の俺には、大義も何もない。力で押さえつけた世界、それはテファが望むものじゃない。力で抑えつければ、誰かが不幸になる」
「いつだって、不幸になる人はいるじゃないですか。私達だって、そうでしたよ。私達ばっかり、我慢しないといけないんですか?」
縋るように見上げ、ため息と共に伏せる。
「ずるいですよ、そんなの。もっと楽な生き方をするぐらい、良いじゃないですか。だから、嫌だったのに。だから、隠していたのに」
マチルダが睨む。嘘は許さないと。
「それとも、アルビオンの王子達が何を考えているのか、知っていたんですか?」
「単なる推測だ。テファがルイズと同じ、虚無の担い手だろうということは分かっていた。そして、彼らが国を守ろうとすること。もしもテファが望むことがあれば、それも一つの答えだと思っていた」
「……そうですか。いいです。確かに私も、隠してましたしね。あいつらが、国を渡すと言ってきたこと、その権利だって十分にあるってこと。でも、テファにそんなこと、できるわけがないじゃないですか。あんなに優しい子が、今だって壊れてしまいそうなのに……」
「テファは、弱いばかりの子供じゃない。もしそうなら、絶対にやらせない」
「でも……」
なおも不安げなマチルダ。
「だから、確かめる。本当にそんなことができるのか」
「もし……。もしも、だめだったら?」
「その時は、テファでない誰かが王になるだけだ。可愛い妹に、そんなことはさせない」
何かを言いたげなマチルダは、ただ、不機嫌そうに目を逸らした。