混沌の使い魔   作:Freccia

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第46話 Humpty Dumpty had a great fall

 

 

 

 学院の片隅にある、忘れられたも同然の一室。

 

 ウリエル達が集めた、各国の情報。定期的に報告こそ受けるも、既にその意味は乏しい。事ここに至っては、ブリミルが予定通りに物事が進めているという事実の確認にしかならない。

 

 何か手を打つには既に手遅れ。数千年来の戦略という意味は、重い。当初の目論見とは別の道を辿ってはいても、それはより有利な条件を取り入れたという結果。決して驕らず、執拗なほどに注意を払って物事を進めていくその在り方に、隙はない。

 

 今は、あの世界に近づく時が訪れるまでの不安要素の排除に勤しんでいる。この世界において一大勢力であったエルフは、真っ先にその対象となった。ウリエルの報告も、既に終わった事と、その結末について。

 

「──襲撃を受けたエルフの首都についてですが、一先ず、最低限の秩序の確保はできました。残った首長の上にガルーダ、ジャターユ両名とその眷属が表に出て、状況の悪化は防いでいます。ですが、ブリミルの行為に目を瞑ったという事実がある手前、あくまで対症療法の域を出ません。辛うじて崩壊を免れたものの、国としての機能は停止しています。エルフとして気質か暴発こそ避けられていますが、種としてまとまることは、少なくとも数十年は不可能でしょう。一部には、エルフの国から流れ、ゲルマニアとガリアに向かった者達がいます。人を蛮族と見なしていた彼らですから、なりふり構わず人を利用しようということでしょう。しかし、所詮は価値観の混乱した烏合の衆、恐らくは使い潰されてお仕舞い。こちらとしても、利用価値はありません」

 

 エルフも、呆気ないものだった。ブリミルの復活に対する準備をしてきたはずが、それを活用することすら出来ずじまい。詰まる所は、平和が長く続き過ぎた。人に数倍する長寿の種ながら、皮肉なことに時に、ブリミルの執念に負けた。

 

 

 

「──ブリミルの本拠地になるロマリアは、エルフの国とは対照的に、かつてないほど強固なものとなっています。神の存在と、その名のもとに行われる改革。腐敗者を一層し、その財産をあるべきものへ返還するとの名目での施しは、救いとして誰にとっても分かりやすい。その場凌ぎの方策ではあっても、現況では一切の無駄のない方法です。他国の民もその信仰に惹かれる上に、支配層への抑止力にもなる。あの国に滞在するマザリーニの話では、国民全てが喜んで兵になるだろうとのことです。愚直に信仰を深めてきた彼が危機感を持つほどですから、狂信の域と言って良いでしょう。そうなっては、下手な小細工は通じません。事実、彼の手のものも、身動きが取れなくなっているようです。いずれは、他国でも同じ状態に至るでしょう」

 

 これが宗教を敵に回すことの厄介さ。だからこそ、ブリミルは宗教という形を選んだんだろう。一神教として他の神を弾圧してきた結果、他に並ぶ権威は既にない。復活した今は、自らの基盤となる信仰を万全のものとした。この地においては、一分の隙もない。

 

 

 

「──ガリアについては、全てを把握はできてはいません。表面上は大人しいものですが、裏では何かを企んでいるようですね。大した手腕で、これまでに蓄積した物資を元手に、生産を更に加速しています。表向きは商業生産ですが、軍事物資に流用できるものこそが優先されています。加えて、その豊富な物資を使い尽くす勢いで人形の大量生産を進めています。悪趣味ではありますが、数を揃えれば一大勢力。旧型に新型、合わせれば数百万の軍勢に匹敵するものとなるでしょう。全てを破綻させずに回す手腕は、私が調べたこの世界の歴史の中でも最優と言えます。それに、真っ当な調査では絶対に分からない紛れさせ方。人形であれば始祖の影響を受けないからだろうとは思われますが、それをどこで、何に使うつもりなのかが分かりません。恐らくは、かの王一人で全てを采配しているのでしょう。もちろん、既にブリミルの傀儡となっている可能性もありますが」

 

 あの王の動きは、読みきれない。ブリミルに首輪は付けられているだろうが、素直に従うようなものではない。常人の欲とは全く別の意志で動いている上に、その能力は随一。完全に支配されていないのであれば、何か事を起こすはずだ。

 

 

 

「──ゲルマニアは、これまでの魔法至上主義とは異なる、工業化の道筋を完成させたようです。他国とは異なる、独自の道への歩んでいます。自分に縁の遠いブリミルの存在を確信したことで、一層技術というものへの傾斜を強めたのでしょう。武力にしても、複製した武器の生産を進めています。最も普及した銃器では、生産の簡易化も完成されていますから。加えて、単なる模倣に止まらずに、この世界の技術である魔法を積極的に取り入れています。敵であったはずのエルフからもなりふりを構わずに技術を導入、その融合を持ってして確実な成果を上げています。創意工夫は人のあるべき姿とはいえ、この世界では異端。外法をも厭わず、自らの力をもって成し遂げようとする姿は、人として好ましいやもしれまえせん。この状況だからこその姿かもしれませんが、この世界の在り方の枠から自ら踏み出した、ガリア王とは別の意味での傑物でしょう」

 

 ゲルマニアは、ブリミルの血筋から外れていたからこそ歴史よりも結果を重視していた。だが、実際に復活したとなれば、単なる過去の歴史では無くなる。それは、自身の発言力の更なる低下につながる。だからこその、別の力。ブリミルに自らの有用性を示すためか、それとも自ら立つ為か。今は様子を見ながらも、可能な手は全て打ってくるだろう。

 

 

 

 

「──トリステインとアルビオンについては、表立っての変化はありません。ただ、既にブリミルの影響下にあるものと言って良いでしょう。どちらも船頭となるものが不在、加えて、施政の基盤が傷みきっています。トリステインは、長年の無責任な有様から、アルビオンは内戦の疲弊から。頼るべきものが無い民にとって、形を持つに至った宗教こそが確実なものに見えるというのは仕方の無いことでしょう。個別問題への対処は可能ですが、仮にブリミルが事を起こそうという意志が無くとも、影響力が増している事実があります。この状況では、テファ嬢が何かを行うということは不可能。そもそもの逆風、更に枷がある中での行動は得策ではありません。彼女の望みを叶えるには彼女自身の才覚を示す必要がありますが、難しいでしょう。そもそも、今は迷いもあります」

 

 テファの迷いは、確かにその通り。テファもルイズも、ブリミルに惹かれている。それは、子が親に向けるようもの。特にテファは、ブリミルの理想に惹かれている。ブリミルの理想が事実であるなら、それはテファの作りたい世界にもつながる。事実であるならば、否定はできない。

 

 

 

「──もう一つ、こちらは政情とは異なりますが」

 

 ウリエルと、視線が交差する。

 

「エレオノール嬢にマチルダ嬢、随分と思い悩んでいるようですね。妹のことだけでなく」

 

「……そう、だな」

 

 口だけでは話せても、まだ、心を開いての話はできていない。結局のところ、二人の不満に対しての答えは、返せていない。

 

「差し出がましい話ではありますが」

 

 ウリエルは、そう前置く。

 

「彼女達も、不安なのでしょう。何かしたくとも、恋人と妹に何もできずに。そして、はっきりとしない態度というのは、人を不安にさせるものです。分からないということは、良く取るよりも、悪く考えてしまうもの。その点では、いっそ、感情を表に出して分かりやすい方が良いと言えるでしょう。本物の愛情があるのなら、それを秘めることに何の意味があるでしょうか。それに、与えられるだけでなく、与えたい。それが望みとなることもあるのです。彼女達は、それを望んでいると思いますが」

 

 試すような眼差し、それは天使としての本質だろうか。言わんとすることは、分かる。

 

「説教染みたことも、言うんだな」

 

「それが、必要とあらば。天使の役割には、人を導くということもあります。人としての貴方を導くのはその本質に叶うこと。愛の形とは様々です。共にありたいというのもその一つ。あなたと共にある為、眷属とすることはその一つの解。今回のことが無くとも、命の時間が違ったのですから。もうすぐ、あの世界と境界。私が今言えるのは、ここまでです」

 

 ウリエルは、それきり口を噤む。それ以上は必要無いと。

 

 

 

 

 

 

 エレオノールとマチルダ、一晩かけて話した。

 

 二人に言われて気づいた、はっきりと言葉にしたのはこれが初めてだと。愛している、ずっと一緒にいて欲しいという本心を伝えたのは。

 

 二人には、思いっきりひっぱたかれて、説教をされて、泣かれた。不安だったこと、怖かったこと、寂しかったこと、ずっと言えなかったこと。そして、最後に釘を刺された。許すのは今回が最後だから、次は許さないから、と。

 

 

 

 

 

 時は、ただ過ぎた。

 

 ぎこちなく、噛み合わないものがあっても、それでも時間は過ぎる。

 

 ルイズは、テファが見たものを自らも知ることを望み、テファは、面倒を見る子供達とただ静かに過ごすことを望んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──夜、気付けばそこにいた。

 

 フードに隠されていた場所には、髑髏と紛うばかりの容貌。ただ、そこに見えるのは憐憫であろうか。

 

「……ふむ。ガリアの王たる余の部屋に約束も無く訪れるというのは宜しくない。が、それが偉大なる始祖であれば、喜ぶべきなのかな? まあ、喜べるような用向きではないと思うがね」

 

「君には、申し訳ないと思う」

 

 表情の変化というものは伺えない。返ってくるのは、ただ言葉のみ。

 

「出来そこないの余にそのように思っていただけるとは、これは喜ぶべきことかな」

 

「純粋な能力ではあれば、君が随一だった」

 

「まさか、まさか。始祖にそのような言葉を賜るとは、何ともこそばゆいものよ」

 

「死を前にしても変わらぬその胆力一つとっても、十分に誇れるものであろうよ」

 

「はは、覚悟があればこそ。しかし、余としては遅かったと見るが、どうだろう? エルフの次には、いや、その前にはと思っていたが」

 

「障害になるかもしれないという懸念だけで子を殺せば、それこそ、疑念に繋がる。だからこそ、全ての準備が整うまで待った」

 

「なるほど、始祖でもアレは恐れるか。なるほどなるほど、では、あれは本当の規格外か」

 

 であれば、仕込みにも期待出来る。この、偉大なる始祖に対しても。

 

「私は臆病者だ。だからこそ、できる手は全て打つ。私は、ずっとそうしてきた」

 

「それは、何があっても新しい世界を作るのを余に邪魔されるわけにはいかないということかね?」

 

 始祖に、はっきりと浮かぶ感情の揺らぎ。

 

「君には、あえて見せていないはずだったが……」

 

「見えてはいないとも。ただ、もっとも強い願望、いや、渇望に関しては、微かながらも感情が流れてきた。それに、私とてこれまで調べていくつかの仮説ぐらいはできていた。他者に無関心なはずのエルフとの確執、初代のガンダールブの裏切り、歴代教皇の聖地への妄執、大隆起。今回のことはイレギュラーが多く混ざったとはいえ、それでも、大元の方針は変わっていない。余はそう読んだが、どうだろう?」

 

「なるほど、そこまでは思い至らなかった、あえて接触を避けたが、それが失敗だったか。確かに、私の存在の中心は、根源は抑えられないか」

 

 ポツリと、始祖は呟く。

 

「……惜しい、な。愛する弟をその手にかけるなどということがなければ、賢王として名を残したろうに。我が後継としても、申し分の無い者となったろうに。狂い切ることもできぬとは、ただ、哀れだ」

 

「さて……。仮にそうだとすると、余は最初の一歩で取り返しのつかない失敗をしたということかね。全知全能の神となれば、後悔など知らぬだろうが」

 

「いいや、私は後悔し続けてきた。どれだけの時間、後悔し続けてきたことか。だからこそ、万が一にも失敗するわけにはいかない。我が子を手にかけるなど、どれほど罪深いことだろう。だが、それでもやらねばならない。いくら惜しくとも、君には退場してもらわねばならない」

 

 始祖はゆっくりと歩みを進める。

 

「覚悟はしているとも。しかし、少しだけ待って欲しい、一つだけ願いを聞いて欲しい。なに、すぐに終わることだ」

 

 踏み出した歩みが止まる。

 

「余というよりも、シェフィールドの望みなのだがね。どうせ死ぬのであれば、余の手にかかって死にたいとのことだ。献身に何も返せていない甲斐性無しでね。叶えられる願いならば叶えたい。罪滅ぼしがそんなことになるとは、皮肉だがね。余と一緒に始末するつもりだったというのなら、手間ではないと見るが? なに、呼べばすぐに来てくれる。献身的な、余には過ぎた女だからね」

 

 ──献身的で、才ある良い女だ。我らの後継は、きっと役目を果たしてくれるだろう。この俺が考えうる限り、最も悪辣なものになる。ああ、それをこの目で見ることが出来ないというのは、心残りではあるな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どうした? ついに壊れたか?」

 

 アルブレヒト王の無遠慮な言葉、そして、侮蔑の表情。

 

「我が友、そうではないよ。──はは、そのように心底嫌だと言う表情、飽きないね」

 

 厳しく眉根を寄せた表情、実に王という立場に相応しい。しかし、ため息というのは宜しくない。王とは、常に鷹揚でなければ。

 

「諦めてはいるがな。擬きとはいえ、貴様に友などと言われて喜ぶものなど居らんだろうに」

 

「余とて、それは理解しているとも。だからこそ面白いのではないか」

 

「……もう良い。何かあったのだろう。早く言え」

 

「おお、忘れてはいかんな。この体ではないのだが、ある意味では同じようなものだ。悲しいことにな、私の本体が死んだようなのだ」

 

 ジョセフという、狂った男が。

 

「ますます、分からんな。もともと貴様のことは理解仕切れなかったが、どうして自らの死に笑っていられるのかね? まさか、その人形の体があれば十分だとでも? 確かに、私もスキルニルというもののに興味を持ったことがある。不老不死の望みのために生み出された、自らの血から生み出す記憶を持った複製。しかし、所詮は複製。不老不死の概念とはほど遠い。結局は玩具としての扱いに堕ちたというのは私も理解できる」

 

「いやいや、私とて、自らの死は残念であるとも。君の言う通り、所詮この体は人形だ。古代の王がどうして諦めたのか分かるよ。哲学的な問題かもしれないが、この体は所詮紛い物で、死んだものこそがジョセフという人間だ。ただね、余はそもそも不老不死といったものには興味が無くてね。それよりも、まあ、カンニングのようなものではあるが、答えを得られたというのが嬉しいのだよ。どうしても確証の持てなかった疑問だったからね。上手くいくかは分からないが、仕込みが無駄にならずに済むわけで、それが嬉しいのだよ」

 

「その仕込みとやらは、話す気はないのだろうな」

 

 興味を向けるも、それまで。無駄な労力を払う気がないというのは、互いに無駄が無くて良い。

 

「その方が面白いではないか。まあ、それはさておきだ、時間がない。偉大なる始祖ならば、紛い物とはいえ、ここにジョセフが存在することに気付くかもしれない。早々に勤めを果たして消えねば。まあ、それが果たせるかは、アルブレヒト王、君次第だ。ああいや、大したことではないよ。そう警戒しないでくれ」

 

「お前の言葉を警戒しない者などいない」

 

「しかり、しかり。だが、断る理由はないはずだ。単にね、私の遺産を受け取って欲しいというだけだよ」

 

「……条件は何だ?」

 

 眉根を寄せるだけで、間髪入れない受託。

 

「おや、やけに素直だね。少々の問答は覚悟していたというのに」

 

「お前のこと信用していないが、認めてはいる。書いた本一つとっても、役に立つ。新しい概念を幾つも生み出し、その実用化の手段まで考えてある。私が準備してきたものまで踏まえて、な。真の天才とは、お前のことを言うのだろう。だが、それでも足りん。私が作り出してきたもの全てと掛け合わせても足りん。エルフの知識を合わせてもだ。エルフ共が十全であればともかく、残滓だけでは、届かない」

 

 輝かしいほどの野心、それは、余には無いもの。だからこそ、良い。

 

「さすがは我が友。それでこそ真の王だ。条件などとけち臭いことは言わない。君が役立ててくれるのならば、それで十分だ。それこそが余の願いなのだから」

 

「貴様のことは信用できない。だが、お前の力は必要だ。だから、貰えるものは貰っておこう。どう転ぶにせよ、無駄にはならない。無駄にはしない」

 

「そうかそうか、それは良かった。君にそう言ってもらえなければ、心残りになるところだったよ。それと、ついでといってはなんだが……」

 

「なんだ?」

 

「いや、君さえ良ければなのだが、娘のことを頼みたい。王家の血、後の施政で何かの役には立つだろう。アンリエッタ王女に比べれば貧相な体だが、オツムの方は上等だ。我が娘ながら、なかなかに優秀だと思うよ」

 

「まさか、貴様がそのようなことを言うとはな。どういう風の吹き回しだ」

 

 この言葉にこそ驚くとはな。面白いものだ。

 

「一つぐらいは親らしいことを、などと言っても信じまいな?」

 

「……まあ、良い。邪魔にはならん。丁重に扱うことは、約束しよう」

 

「感謝する。娘を、頼むよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 始祖が復活されて、時は瞬く間に過ぎた。

 

 私の、教皇としての役目。かつて始祖に託された役目に従い、ロマリアを真の意味で一つにする。そこを起点に、人々の希望をまとめあげる。

 

 意思の力とは偉大だ。例え一つ一つは取るに足らないものであっても、まとまれば大きな力となる。集まった力は始祖の力となり、それを呼び水に、更なる力へと循環する。

 

 世界再編の要であったリーブスラシルこそ失った。しかし、作り出すべき結果が先にあるのであれば、それは問題ではない。ジュリオのヴィンダールブとしての力、ジョセフから回収したミョズニトニルンの力があればそれで事足りる。既に存在するカグツチを利用するのであれば、わざわざ器を準備する必要はない。

 

 そして、今ようやく聖地へと来た。いや、帰ってきたと言うべきだろうか。不確定要素を排除し、カグツチのある世界へと近づく、この時を待った。数千年の時に比べれば瞬きほどの間とは言え、それでも、長かった。始祖は、この時をどれだけ待ったことだろう。だからこその喜びは、格別。かつての面影などない場所であっても、この場所こそが始祖にとって、そして、私達にとって始まりの場所。

 

 この場所に、かつての面影は無いだろう。何も無かったとはいうが、何せ今は陸地ですら無い。ジュリオの愛竜から見下ろすそこには、海洋に申し訳程度に浮かぶ岩礁のみ。聖地だった場所は、既に海に沈んだ。有るのは息がつまる程の磯の匂い。小さな海の生き物が死んだ匂いだという生き物の気配だけ。だが、大切なのは座標としての点。別の世界と近づく特異点としての意味のみ。

 

 空に浮かび、ある一点を見下ろす始祖が何事かをつぶやく。

 

 変化は劇的。

 

 岩礁がどろりと形を崩す。そして、粘土のように海面に広がり、のっぺりとした陸地となっていく。地面が海を侵食するという、何とも不可思議な光景。

 

 始祖が降り立ち、それに続く。新たに生まれた地面は、竜の重さも確実に支えられるものだった。

 

「──懐かしい」

 

 始祖の呟き。

 

 その言葉には、どれだけの想いがあるのだろう。たかだか数十年の生しか知らない私には、決し

て計り知れない

 

「私が死んで、生まれ、そして、また死んだ場所。ここが全ての始まりで、終わった場所。私の全てはここにある。面影などないというのに、帰ってきたという想いが溢れてくる。私が人であれば、既に枯れ果てた涙すら流していただろう」

 

 これほどに雄弁に語る様子は、初めて目にするもの。それだけの喜びということだろう。始祖の喜びは、私にとっても喜び。悲願の成就は、待ち遠しい。失敗は、ない。

 

「──不安か?」

 

 私に向けられる、始祖の言葉。

 

 不安など、始祖が復活された以上は無い。万が一の失敗もない。そんなことはあり得ない。

 

 ……いや、始祖の前に心を偽る必要はない。私は確かに不安に思っている。

 

「エルフの妨害の可能性を排除し、身中の虫となる懸念のあったジョセフを排除しました。何より、あの者とも不干渉の約束を取り付けました。しかし、一つだけ思うのです。あれが本当に何も事を起こさないのかと、それだけが気がかりなのです」

 

「そうだな。あの者がここに来れば、それだけで失敗する可能性がある」

 

 始祖は、私の不安をあっさりと認めた。

 

「世界を隔てて漂うことになったカグツチ。カグツチは自らの存在意義である世界の再誕を阻んだあれを憎み、自らの全てを無にしたあれを呪った。自らの意思など単なる付属物でしかないカグツチが呪った。だからこそ、カグツチは眠りについた。世界の誕生だけを望むべきカグツチとして、あってはならない姿だからだ。カグツチの中には、世界を生み出すだけの無限の力がある。呪いは、その無色の力を暴走させる。もし仮に、あれが来れば、その時は何が起こるか分から無い。だからこそ、あれは近付けない。不本意な失敗は、あれの本意でもない。我々は、ただ役割を果たせば良い。私は、絶対に成し遂げる。ヴィットーリオ、そして、ジュリオ。お前達はそこにいて、私を信じてくれれば良い。ヴィンダールブとミョズニトニルン──カグツチを我がものとする為の力は、私が行使しよう」

 

 絶対の自信に満ちた、始祖の言葉。そう、わざわざ私が不安に思う必要はない。神は、救いはここにあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 始祖は、新たに出来た大地の中央に。そして、ゆっくり空を仰ぐ。背中越しには、その表情は伺えない。

 

 始祖の影が膨らみ──そこに、始祖へと寄り添うように佇む者がある。鮮やかな若草色の衣服、ほっそりと優美な曲線を持った体付きは女性で、その長く尖った耳はエルフ。その手には大仰な剣が握られているが、それは始祖を害する為のものではない。

 

 恐らくは、かつてのガンダールブ。始祖と共にあり、最後には始祖を裏切った者。始祖はガンダールブを愛していて、ガンダールブも始祖を愛していた。始祖を裏切ったことも、始祖を愛していたことも事実。私が知っているのはその事実のみ。それ以上の事は、始祖しか知らず、私が知る必要のない事。

 

 始祖が必要としたからこそ、そこにいるのだろう。これからの儀式は重要なもの。そうであるならば、守り手は必要。守り手であるガンダールブは、その為のもの。あれは、サーシャという始祖を裏切ったエルフでは無く、ただ、ガンダールブとしてある。かつての姿を残すその理由は、始祖にしか分からず、それは知る必要の無いこと。

 

 始祖の声、一定のリズムを持ったそれは、歌のようですらある。いや、確かにこれは歌だ。世界の誕生を祝福し、新たな世界を描く壮大な歌。その歌に、世界がさざめく。何かの軋むような響きは、世界の恭順。目に映る景色が、ゆらゆらと歪む。

 

 始祖の残した四つの秘宝、それ自体は単なるガラクタに過ぎない。大切なのは、それが内包する概念。それぞれが別個の方法で実現する、世界の描き方。全てを重ね合わせてようやく表現するものを、始祖の歌が実現する。

 

 風が、砂混じりの風が頬を撫でる。ここは、海洋。この砂は、とても遠くから運ばれてきたもの。しかし、既にこの場所でもある。現に、目の前に映るのは一面の砂漠。

 

 歌が、止んだ。

 

 聖地において、世界は繋がった。ここは、二つの世界が重なった場所。どちらでも世界でも無く、どちらの世界でもある。

 

 その証左こそ、始祖の前にある。城とも見紛うほどの巨大な、そして、淡く輝く球体。カグツチとは世界を照らす太陽のようなものだと聞いた。しかし、これは違う。寒々とした白い光は、凍りついた月のようにも思われる。自ら眠りにつき、自らを閉じた成れの果て。ただ、そこに在るだけのもの。

 

 始祖が、カグツチへと手を伸ばす。カグツチの巨大さに比べれば、偉大なる始祖ですらも小さな存在に見える。しかし、触れた場所からボロボロとカグツチの表面が崩れていく。漣のようにそれが広がっていく。

 

「孵らない卵とは哀れなもの。眠りについたその力をただ無に返すは、あまりに惜しい。その力は私がもらい受けよう。……ああ、哀れなのは、お前達もか」

 

 言葉は、カグツチにでは無い。振り返る視線の先、砂漠と海との境目に何かがいる。

 

 へばりつくように境目を登ってくるもの。ずんぐりとした塊に、ゴツゴツとフジツボやら貝やらがびっしりと張り付いている。人型のようなもの、竜のような形をしたものと様々だが、しかし、そのように見えるだけかもしれない。四肢のあるべき場所に欠損があるなど、形が歪に過ぎる。動きも緩慢で、登りきれずに落ちるもの、ようよう登っても、それから動けなくなるものすらあった。脅威よりもむしろ、哀れを誘う。とうに死を迎えていただろう体を無理やりに動かしているようにすら見えた。

 

 始祖の傍のガンダールブも、それらを見ていた。美しいのに、感情のない瞳は作り物めいている。とうに死を迎えたはずのものという意味では、彼女も同じかもしれない。いや、それならばカグツチすらも。

 

「──作った者にすら忘れられたもの達だろう。どのような願いであったとしても、今となっては呪いにも同じ。せめて、役目だけでも果たさせてやるべきか」

 

 気付けば、ガンダールブがそれらの前にいた。人型が両断されている。大剣が振るわれ、刈られた草のように残骸が舞っている。剣を振るい黙々と破壊していく様は、単純作業の繰り返し。どれだけの数があるのかは分からないが、それこそ時間の問題。規則正しい破壊音など、何たる言葉の矛盾であろうか。

 

 始祖は、それきり興味を無くしたようだった。始祖は、始祖の務めへと向かう。カグツチへの侵食は進んで、そこにはつるりとした表面がある。そして、それはどんどん広がっていく。

 

 全体の四分の一ほどであろうか、目に映る場所が変化したところで、カグツチの表面が泡立つ。どろりと形を変え、球体が歪に盛り上がる。粘土のように、しかし、自らこねくり回されるように蠢くと、そこには不可思議な、それでいて巨大な顔が生まれた。

 

 呆けたような、間抜け面は何とも言い難い。焦点のあっていないような目は、何かを探すように緩慢に巡らされる。奇妙な顔に、奇妙な所作、なまじ人と同じだけに気味が悪い。例えこの世界の救い手になるにしても、気味が悪いという感情は拭いがたい。それと目が合うと、なお一層嫌悪感が募る。よりによって、なぜ私を見てそこで止めるのか。ああ、いや、見ているのは私ではない。もっと遠くを、丁度、ガンダールブを。

 

 違う、ガンダールブでも無い。

 

「なぜ、ここに……」

 

 不可思議な刺青の顔は、あれしかいない。胸元を貫かれたガンダールブ、素手で貫いた混沌王。混沌王は、鬱陶しげに投げ捨てる。嗤う混沌王の手には、ガンダールブの大剣。

 

 体に衝撃が、何かに、押し倒された。ジュリオだった。赤い、ジュリオ。誰かの腕が落ちていて、地面には剣が刺さっている。

 

「──残念、力加減が分からんな」

 

 どこか聞き覚えのある声に遅れて、巨大なものがぶつかる音。始祖の不可視の障壁の前に、混沌王がいた。殴りつけ、殴りつけ、殴りつける。障壁は軋みをあげ、混沌王はやはり狂ったように笑っている。その体には亀裂が走り、大きくなっていく。腕がひしゃげていくのも、気にも止めないように。

 

「さすがは、偉大なる始祖。だが、女が気になるか?」

 

 違和感。馬鹿にしたような声は、誰かに重なる。自らが壊れていくのを気にもしないその姿と。

 

「──お前は、ジョセフ。……そうか、あの時の血を」

 

 混沌王は、ただ狂ったように嗤う。狂ったように、腕だったものを叩きつける。

 

「さすが、さすが、さすが。もう見抜いたか。だが、遅い。余は、消える。もう、終わりだ。それでも、この体は、止まらない。カグツチの呪いは、止まらない」

 

 始祖の背後、広がる、黒。カグツチが、カグツチだったものが変質している。白かったそれは黒々と染まり、呆けた顔は、明確な感情を、憤怒の表情を。引き裂けた口には、更なる闇。

 

 混沌王の姿をしたジョセフだったもの、ひしゃげた腕は、それでも始祖の障壁に食らいつく。腕が千切れても、喰らいつく。

 

「狂人が……」

 

 カグツチの巨大な口が二人を飲み込む。

 

 二人は、カグツチに食われた。それでも、笑い声が聞こえる。

 

 カグツチに亀裂が入り、巨大なブロックとして形を変える。何かを砕くような、怖気の走る音。巨大なパズルが組み合わさっていく。バラバラになって、また、組み上がる。

 

 笑い声は、消えた。

 

 音も止んだ。

 

 あるのは、歪な形を取った黒いカグツチ。

 

 黒い光という、矛盾する在り方。

 

 腐った傷跡のように、泡立つ。瘧のようにボコボコと弾ける。

 

 顔が浮かぶ、喜びの表情

 

 顔が浮かぶ、憤怒の表情

 

 顔が浮かぶ、哀しみの表情

 

 顔が浮かぶ、恐れの表情

 

 弾けては繋がり、混ざり合う。

 

 一つの巨大な顔が浮かぶ。感情の無い、気味の悪い顔。

 

 口元から、粘つくような音、金属のこすれ合うような音。不快な音積み重なって、それを声になる。

 

「……何たる、何たること。紛い物では、満たされぬ。ああ、もはや、呪いは、止まらぬ、止められぬ。我が光は、腐り果てた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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