ラジャラジャー
アビドスは戦場と化していた。
カイザーPMCの軍勢が幹線道路を埋め尽くし、装甲車列の後方からは巨大な陸上巡洋艦がゆっくりと進んでいる。
自衛火器しか持っていない住人は身ひとつで逃げるしかなかった。
一部のコミュニティが必死の抵抗を試みるも、数の暴力で次々とすり潰されていく。
それはアビドス東第三高等学校も例外ではない。
交戦開始からおよそ2時間。
既にシロコ達はボロボロだった。
半壊した教室の中、独り指揮を行なっていたアヤネのもとに、シロコが駆け込んでくる。
防爆用のヘルメットとアーマーリグは迫撃砲の破片で傷がつき、爆煙で大きく煤けていた。
「アヤネ、状況は?」
「カイザーの勢い、止まりません……先程、アビドス内のブラックマーケットが陥落したと……。」
アヤネの悲痛な報告にシロコは歯噛みする。
カイザーはアビドス侵攻にあたって、まずは武装勢力の跋扈するブラックマーケットへ戦力を集中していた。
違法なものばかりとはいえ、アビドス自治区の中で最も武器と兵士が揃っているからだ。
おかげで学校への攻撃はまだ控えめだったが、ブラックマーケットが落ちたとなれば、次はここだろう。
「シロコ先輩……先程、最後の自爆ドローンが敵車両を撃破しました。もし次に戦車が来たら……。」
「敵から鹵獲したRPGが残ってる。対戦車手榴弾も。」
「多勢に無勢です。このままでは私達は敵中に孤立することに……!」
「ダメ、学校を捨てるわけにはいかない。」
目の前の机には1枚の手紙が置かれていた。
内容はホシノからの別れの文。
自らを犠牲に借金を肩代わりしたことと、シロコ達それぞれへの言葉が記されていた。
もちろん、みんなはこれを認めなかった。
「学校が無くなれば、ホシノを戻すどころの話じゃなくなる。」
「ですが……もう、我々に継戦能力はありません……弾薬も手持ちのみです。」
「ん、弾が切れたら拳で戦うまで。それより先生に連絡は繋がった?」
シロコの質問に対し、アヤネは首を横に振る。
「電波妨害が激しく、依然シャーレに繋がらない状況です……。」
「そっか……。」
頼みの綱であったシャーレは別の自治区を挟んだ遥か彼方。
部屋に重苦しい空気が流れる。
だがその時、沈黙を破るように、アヤネの端末からアラート音が鳴り響いた。
「あっ、新たな敵部隊です!こっちに近付いてきます!」
画面に映ったのは残り僅かな偵察ドローンからの映像。
道路の向こう側から幾多もの車両が、随伴の歩兵を連れて、学校へ向かってきていた。
それも今までの軽装甲車や歩兵戦闘車ではなく、分厚い装甲と大口径の大砲を備えた主力戦車だ。
とても真正面から相手取れるものではない。
だがシロコはすぐに外へ足を向けた。
「シロコ先輩!」
「肉薄攻撃を仕掛ける。アヤネは引き続き状況の報告を。」
「ちょっと……まっ……!」
アヤネが手を伸ばそうとした時、敵戦車からの砲撃が校舎に直撃した。
ドッ!!と、轟音と共に粉塵が飛び散る。
次に彼女が身体を起こすと、既にシロコの姿は無かった。
そして当人は校舎の中を走り、窓の淵からそっと外を覗く。
「戦車は……3両、歩兵がたくさん……。」
シロコは姿勢を屈めると、肩に下げたバッグから手榴弾を取り出す。
複数の攻撃手榴弾を束ねた、即席の集束手榴弾。
装甲は抜けないが、履帯や転輪の破壊は可能だ。
完全撃破は無理でも、足さえ止めればいい。
「セリカ、ノノミ、まだ動ける?」
[え、ええ、私もセリカちゃんも大丈夫……けど、もう弾が無いです。ミニガンも撃ち尽くしちゃいましたし……。]
[シロコ先輩?何する気なの?]
「ん、戦車を潰す。そっちで敵の目を引いてほしい。」
[えっ?何言って……!?]
通信を途中で切り、移動を開始する。
ノノミとセリカは敵部隊の正面に位置している。
敵が2人を攻撃する間に、側面から奇襲をかける作戦だ。
「……来た!」
1階の教室の窓から外を覗く。
キュラキュラと履帯の音を鳴らしながら、敵の戦車が校庭へと入ってくる。
その後ろからは歩兵の列が続いていた。
直後、敵部隊の正面、校舎の上階にマズルフラッシュが光った。
ほぼ同時に、ドォン!と、重い銃声が響き渡る。
鉄のひしゃげる音と共に、カイザーPMCのロボット兵が撃ち抜かれた。
いや、消し飛んだといった方が正しいだろうか。
「ギャアッ!?」
「狙撃ダ!正面ノ建物カラダ!撃テ!」
「敵ハ対物ライフルヲ使ッテル!戦車ヲ盾ニシロ!」
ロボット兵と戦車の意識が正面の校舎へと向く。
すると続いて狙撃地点とはまた別の窓から、ドッ!っと、ロケット弾が撃ち出された。
それは戦車の砲塔を掠めて、歩兵の列へと突っ込んだ。
ロボットの部品が宙を舞い、爆発が砂塵を巻き上げる。
視界が悪くなったところでシロコは動き出した。
「ん……!」
下手に発砲はしない。
校庭の水飲み場に背を預けると、集束手榴弾のピンを抜く。
そしてすぐそこを進んでいる敵戦車へ、履帯を狙って投げ付けた。
手榴弾は放物線を描いて飛び、履帯の付近に落ちる。
「ン?何ダコレ?」
「オイ!ソレハ爆弾……!」
次の瞬間、轟音が響き、周囲のロボット兵が吹き飛ばされた。
爆風は履帯の留め具を断ち切り、敵戦車は動きながら自ら履帯を脱いでいく。
そして車体の片側を校庭に埋めてしまった。
「セリカ!」
[わ、分かってる!]
シロコは水飲み場の影で身を伏せる。
次の瞬間、校舎の一角から再びロケット弾が撃ち出された。
向かう先は碌に動けず、巨大な的となった敵戦車。
ロケット弾は砲塔の斜め上から食い込んだ。
一拍置いて、炎の柱がキューポラから立ち昇る。
[やったわ!]
「まだ。あと2両残ってる。それより早く……!」
逃げろと、シロコが言う前に耳をつんざく砲声が響き渡った。
校舎の一角が吹き飛び、粉塵が撒き散らされる。
2両の敵戦車は続けざまに爆煙の中へ戦車砲を撃ち放っていく。
まさにしらみつぶしといった風に、校舎を制圧し始めた。
「セリカ!ノノミ!このっ……!」
通信機の奥から雑音しか聞こえてこないことに歯噛みしながら、シロコは次の集束手榴弾を手に取る。
しかし今回は敵兵に見つかってしまった。
「オイ!敵ダ!撃テ!」
「アッチニ居ルゾ!」
大量の火線がシロコ1人に迫ってきた。
たまらず水飲み場に身体を引っ込める。
「集中攻撃を受けてる。動けないから援護を……だ、誰か聞こえる?」
しかし通信機からは何も返ってこない。
シロコは息が詰まった。
「そんな……。」
シロコは壁を背にうずくまる。
いつの間にか銃声が止み、背後から敵兵の足音が迫ってきていた。
彼女は顔を上げた。
「いや……まだ……!」
こうなれば、差し違えても戦車を止めるしかない。
幸いにもキヴォトス人は爆風に巻き込まれようが、踏み潰されようが死ぬことはない。
気絶し、自閉状態になるだけだ。
そして時間が経てば、何事も無かったように蘇生する。
だから特攻をしても、敵を全滅させればこちらの勝ちとなる。
ホシノの帰る場所を失うより、遥かにマシだ。
「この学校は渡さない……絶対に……!」
集束手榴弾を腰に下げ、ライフルを構える。
敵兵の影が遮蔽の外に見えると、シロコは動いた。
「……っ!!」
腰だめにライフルを乱射し、続けざまにロボット兵を薙ぎ倒す。
遮蔽から飛び出すと、目の前の敵兵にライフルを押し当て、即座に鉄屑へと変えた。
「グギャア!?」
「ナ、ナンダコイツ!?」
「撃テ!戦車ニ近付ケルナ!」
弾が切れると、すぐにサイドアームの拳銃に持ち変えた。
そしてロボット兵の残骸を盾にしながら戦車へと進み続ける。
だがその時、シロコの犬耳がとある音をかすかに捉えた。
それは風切り音のような、甲高いもの。
反射的に地面へ身を伏せていた。
「ン?味方二爆撃ノ要請ナンカ出シ……。」
次の瞬間、シロコの目の前で戦車が吹き飛んだ。
続いて、細長い黒い影が次々と降り注いできた。
まるで地面へ線を引くように、爆発の列が伸びていく。
戦車もロボット兵も、まとめて爆炎に飲み込まれていく。
ふわりと、身体が浮き上がった。
「うっ!?」
爆風に吹き飛ばされ、シロコは背中を建物に打ち付けた。
自閉状態にならない程度の、ジンジンとした痛みが走る。
すると、ぼやけた視界の中、校舎の頭上を複数の黒い影が飛び去っていった。
続いてまた別の黒い影が現れると、それは風を吹き荒らしながら校庭へ着陸してくる。
真っ白な機体と、そこに描かれた何かのロゴ。
左右のスライドドアが開き、中から数人の武装した人間が降りてくる。
何かの指示を出しているようだが、よく聞こえない。
「先生……こっちに……!」
その時、人影のひとつがこちらを指さしてくる。
急いで銃を取ろうとしたが、身体は上手く動いてくれない。
そうこうしているうちに相手は目の前まで迫ってきていた。
撃たれるかと思ったが、気付けば身体を持ち上げられていた。
抱き抱えられていると理解した時、覚えのある匂いと温かさを感じた。
「せん……せい……?」
「よく頑張ったな。今は寝ていろ。」
「ん……。」
その声を聞いて、胸の奥に張り詰めていたものがほどけていく。
不思議と安堵が広がって、重くなった瞼に逆らえなくなった。
⬛︎
ハッと目が覚める。
最初に目に入ってきたのはどこかの天井だった。
薄暗い室内に夕焼けの赤い光が差し込んできている。
そして今朝の出来事が一斉にフラッシュバックした。
「っ……みんなは……!」
急いで身体を起こし、周囲を見渡す。
すると別のベッドに眠るセリカとノノミ、アヤネの姿があった。
腕や頭に包帯が巻かれており、アヤネに至っては割れたメガネが傍らに置かれていた。
ヘイローが消えていたが、彼女たちの胸は呼吸に合わせて上下している。
格好も煤けた制服ではなく、清潔な病院服となっていた。
もちろん自分も含めて。
「はぁ……。」
安堵から肩の力が抜けた。
しかし遅れてここが学校ではないことにも気付く。
「カイザーは……学校は……!?」
手首に刺さっていた点滴を抜き、ベッドから降りようとする。
その時、部屋のドアが開く。
現れたのはピンク色のナース服を着た生徒だった。
彼女は立ち上がろうとするシロコを見つけると、慌てたように駆け寄ってくる。
「だ、ダメです!まだ寝ていてください!安静にしないと……!」
「貴女は……ここは……!?」
ガシリと、目の前の少女の肩を掴む。
相手はシロコの圧を前に、大人しく口を開いた。
「わ、私はセリナって言います。トリニティの救護騎士団に所属してて……。」
「ここはどこなの?」
「えと……シャーレの医務室です。」
「シャーレ……なら先生は?居るの?」
「せ、先生なら、隣のオフィスに……。」
シロコはセリナの制止を振り切り、ふらつく足で部屋を出る。
通路を抜けた先に見慣れた空間があった。
そして、今自分が最も頼りにしていた人物の姿も。
「起きたか。」
「先生……。」
シロコはグッと歯を食い縛った。
本当は先生に追求したかった。
なぜ学校を離れたのかと、なぜもっと早く来てくれなかったのかと。
しかし、理性がそれを抑える。
あれだけの軍勢を前に、シャーレが太刀打ち出来る筈がない。
ヘリを数分間着陸させるだけの余裕を作ることが精一杯だろう。
そんなシロコの意図を読んだかのように、先生は謝罪の言葉を発してくる
「すまない。カイザーの侵攻に気付くのが遅れた。救援に向かうにも、手数を揃えるのに時間がかかった。」
「そう……。」
シロコは感情と理性の板挟みに合いながら先生へと近付いていく。
そして弱々しく、ぽすんと、頭を押し当てた。
悔しさからか、涙が溢れ出していた。
「学校……守れなかった……。」
シロコの両肩に手が置かれる。
彼女が見上げると、そこにはいつにもなく闘志に満ちた双眸があった。
「勘違いするな。これは一時的な撤退に過ぎない。学校にはすぐに帰ることになる。」
「でも……学校どころか、アビドス全体まで……。」
「まだ終わっちゃいない。連中はアビドスを不法に占拠しているだけだ。」
先生は1枚の紙を取り出すと、シロコに突き出した。
それはホシノの字で書かれた退部届。
その一角へ先生は指をさす。
「顧問の欄が空欄……先生がサインをしていないから、これは無効……?」
「そうだ。ホシノの退部は認められていない。」
「……つまり、アビドス生徒会も消えていない?」
「そうだ。生徒会が残っている限り、アビドスという学校は消えていない。カイザーが今やっているのは、ただの不法占拠だ。」
「なら、ホシノを取り戻せば……。」
「アビドスも取り戻せる。連中も連邦生徒会を敵に回してまで、実効支配はしない筈だ。」
先生の言葉にシロコの目は輝きを取り戻していく。
しかしすぐに壁にぶつかった。
「ん……けど、ホシノの位置が分からない。」
「それについても問題は無い。これから対応するところだ。」
その時、ロッカールームから複数の人影が現れた。
軽量アーマーや暗視装置などを身に付けた便利屋の面々だった。
「先生、待たせたわね!出動準備完了よ!」
アルは得意げに胸を張る。
自慢のコートを脱ぐ気は無いようで、無理矢理アーマーの上から肩にかけていた。
「アル様カッコいいです!」
「くふふ……アルちゃんテンション爆上げだね〜。」
「まあ、久々の依頼だからでしょ。というか初めてマトモな。」
アルの後ろからは同じく装備を整えたムツキとカヨコ、ハルカが続く。
「先生、何でコイツらが居るの?」
シロコが懐疑的な視線を向けると、すぐにカヨコが答えた。
「私達は先生から傭兵としての依頼を受けたの。一応、貴女のお友達を瓦礫の中から掘り出したのも、私達なんだけど?」
「シロコ、彼女らには手伝ってもらっているだけだ。」
「そうだったんだ……ありがとう。私の仲間を助けてくれて。」
シロコは頭を下げる。
それにカヨコは冷めた顔のまま、ふいと顔を逸らすが、彼女の片翼の羽は少し活発に動いていた。
「それで、先生。どこか行くの?」
「ああ、ホシノの位置を聞き出してくる。」
「ホント?なら私も行く。」
シロコは近くのガンラックにかけてあったAKを手に取る。
しかしすぐに先生の手がそれを取り上げた。
「待て。今は安静にしているんだ。」
「兵士は1人でも多い方がいい。」
「戦いに行くわけじゃない。いいから寝てろ。」
「でも……。」
「決戦の時は嫌でも前に出てもらう。だから今は英気を養ってくれ。」
「……分かった。先生がそう言うなら。」
先生は通路から顔を覗かせていたセリナへ視線を送る。
彼女がシロコを連れて行くのを見届けると、先生は腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。
弾倉と薬室を確認し、再び元の位置へ戻す。
「さて、行こうか。」
先生と便利屋の一行はシャーレを後にした。
⬛︎
車で向かったのは同じ区内の某所、ビル街の一角。
既に日は落ち、交差点を往来する車は少ない。
先生が車内で住所を確認していると、アルが心配そうに声をかける。
「先生、本当に大丈夫なの?」
「何がだ?」
「知らない奴から送られてきたんでしょう?小鳥遊ホシノについて知ってるって。」
「ああ、だが俺たちの一件に関わっている人間は少ない。というか、このタイミングでこんなメールを送ってくる時点で、十中八九関係者だ。」
「罠かもしれないのよ?」
「だからお前さんらを連れてきた。行くぞ。このあとは説明した通りだ。」
先生が車を降りると、便利屋の4人もそれに続く。
しかし便利屋は2組に分かれ、別の方向へと歩いていく。
先生はとあるビルの前に立った。
「おい、来てやったぞ。」
監視カメラに向かってそう言うと、勝手に目の前のガラス戸が開いた。
まるで誘導するように、数あるセキュリティゲートのひとつが開き、暗闇の中、エレベーターホールの電気だけが点く。
エレベーターに乗って向かったのはビルの上階。
広いフロアの一角にその人物の姿はあった。
「わざわざ敵を呼び出すなんて、変な奴だ。」
「その誘いにわざわざ乗ってくる貴方も、おかしな人なのでは?」
「そうだな。男ってのは変なヤツしか居ないのかね。」
「少し訂正すると、特区の外に居る男と言ったところでしょう。安心安全な場所を抜け出すような命知らずですから。」
黒いスーツに包まれた、人ならざる身体と顔。
ホシノを連れて行った『黒服』だった。
彼は応接室へ手を伸ばす。
中にあったソファーに腰掛けると、先生は話を切り出そうとした。
しかし、すぐに黒服がそれを手で制する。
彼はスーツの内側を見えるように開いてきた。
「この通り、私は丸腰です。貴方を攻撃する意思はありません。お仲間にもそう伝えてもらえると。」
「……アル、トリガーから指は離しておけ。追って連絡するまでは待機しろ。」
先生はインカムを外すと、腰のホルスターから拳銃を取り出し、弾倉も引き抜く。
薬室の弾を抜き、スライドを後退させた状態で、黒服の前に置いた。
「これでいいか?」
「ええ、では話を始めるとしましょう……単刀直入に言います。先生、ホシノさんからは手を引いていただけませんか?」
「断る。」
「即答ですか……まあ、予想の範疇です。むしろ貴方ならそう言うと思っていましたよ。」
「そうかい。なら帰っていいか?」
「もう少しお付き合いください。貴方に法的正当性を説いても、どうせ拳と弾丸が飛んでくるのがオチですので……では、これならどうでしょうか。」
黒服は懐から端末を取り出すと、先生の前へ滑らせた。
そこに映っていたのはアビドスが抱えている負債の額面。
——ではなく、借金と同じ額のお金だった。
正確には、ホシノの身売りによって減額した借金の、更に残りの分だ。
「随分と気前がいいじゃないか。さっきも払ったばかりだってのに。」
「それだけ、ホシノさんが我々『ゲマトリア』にとって有用な存在なのです。お金なんて些末なことですよ。」
「ほう……だがこれだけじゃあダメだな。借金が消えても、ホシノ本人が居なければ、アビドス生徒会の正当性が無くなる。またカイザーに攻められるだけだ。」
「それについても問題ありません。カイザーにも我々が取り計らいましょう。アビドスは無事存続し、生徒さんは学校へ通えます。なに、送金の額が2、3桁増えるだけです。」
「……本当に気前がいいな。」
黒服からの提案は非常に魅力的なものだった。
誘惑に釣られ、先生は押し黙る。
何のリスクもなく、ただホシノを犠牲にさえすれば、アビドスの問題は解決されるのだ。
「先生、戦争だって同じです。戦史において完全な勝利なんてほとんど無い。大抵は妥協を重ねて、講和という形で折り合いをつけるものです。ここは、手打ちと行くべきなのでは?」
「確かに……そうだな。それは正しい。」
「ご理解いただけて幸いです。では、ここにサインを。」
黒服は1枚の書類と万年筆を先生の前に置く。
それは、シャーレがホシノの件に介入しないことを認める同意書だった。
先生は万年筆を手に取り、書面の欄にペン先をつける。
「正しい……か。」
状況は違えど、同じような場面に直面したことはある。
戦場から撤退する時、4人の小隊の為に1人を置き去りにした。
負傷者をテントに運び込んだ時、まだ生きてはいるが、傷の深い兵士を見捨てた。
全ては合理的で正しい。
しかし、今は違うとも思えた。
黒服が怪訝に思った時、先生は万年筆を卓上に置いた。
「……今までの俺だったら、書いてただろうな。」
「利益よりも優先すべきことがあると?」
「ああ、こんなんでも俺は教師なんでね。そして、生徒の為に動く義務がある。利確の為に切り捨てるなんてもっての他だ。」
「それによって、自らの命を危険に晒すとしても?」
「信じちゃくれんだろうが、既に一度落とした命だ。今回は、もっと清廉な生き方をしたい。裏切りや暗躍はもう御免なのさ。」
「なるほど……リアリストの貴方が理想を語るとは。」
「ああ、自分でも信じられんよ。多分、光に晒され過ぎたな。」
先生は拳銃を手に取ると、弾倉を差し込み、スライドを戻して初弾を薬室へ送った。
引き金に人さし指はかかっている。
「さて、話し合いが決裂すれば、残った解決手段は暴力だけだ。ホシノの居場所を教えてもらおう。」
先生は、教師から兵士への目付きへと戻る。
対して黒服は大人しく手を上げた。
「残念です。数少ない男同士、貴方とは仲良くしたかったのですが。」
「個人的にアンタは悪くないと思ってるよ。アンタの組織とは上手く出来そうにはないが。」
「……そうですか。それはせめてもの慰めです。」
黒服は端末を手に取ると、ホログラムを空中に映し出す。
どこかの砂漠を映した三次元マップだった。
一見して何も無いように見えたが、目を凝らすと、地下への入り口らしきものが小さく確認出来る。
「ここにホシノが居ると?」
「はい、彼女に対して『神秘』の実験を行う予定です。ただ、地下実験場には容易に行けないものかと。」
ホログラムの地図が大きくズームアウトする。
地下実験場を指した赤いピンから少し離れた位置に、見覚えのある巨大な施設があった。
中央には大きなドームが位置している。
「カイザーPMCのお膝元ってわけか。」
「実験場に行くには、彼らの巨大な軍勢を突破する必要があります。少なくとも、貴方の生徒たちとシャーレの戦力だけでは不可能でしょう。」
「そんなこと、素人でも分かりきったことだよ。」
先生は腰を上げると、拳銃をホルスターに戻した。
しかし彼の動きに恐れや不安はない。
黒服は不思議に思った。
「自信がおありのようですね。貴方のことですから、良い案があるのでしょう。」
「もちろん……と、言いたいところだが、あいにくと無い。これから考える。」
清々しいまでに開き直った先生の態度に、黒服は肩をすくめた。
「呆れました……まあ、微力ながら幸運を願っています。」
「おう。」
先生は応接室を出ると、そのままビルから出て行った。
黒服は窓から外を見下ろすと、便利屋の4人と合流し、車に乗り込む先生の姿が見えた。
「先生……ゲマトリアは、貴方のことをずっと見ていますよ。」
よろしければお気に入り登録や高評価などをお願いします。作者のモチベが爆上がりするので。