黄金世代の白雪姫   作:サリエリキキ

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1999/12/26 有馬記念 その名は── ~③~

 テイエムオペラオーの鞍上、和多隆二は、愛馬に対する誇らしさと愛情、そして申し訳なさで胸がいっぱいだった。

 

(あんまりな速さに面食らって、先生に言われた通りに前へ付けられなかった。ミスした、と悔やんだけど……)

 

 テイエムオペラオーは応えてくれた。皐月賞の時と同じように、いつものように、彼は応えてくれたのだ。 申し訳なさは、瞬く間に高揚へと変わる。

 

(やっぱりお前は凄いよ。G1を獲れる馬ってのは、こんなに凄いんだな。俺、最初のG1馬がお前で本当によかった)

 

 若い和多は、まだ理解していなかった。今自分が跨っている馬が、G1馬という上澄みの中でも、さらに天頂に輝く極星であるということを。

 

(そういえば……なんか、お前、強くなってないか? 気のせいか。レース中に強くなる馬なんて、先輩たちの笑い話だよな。漫画じゃあるまいし)

 

 調教師となった後年、「あの頃の自分を殴り倒したい時が、ほぼ毎日ある。その上で師匠とオーナーに『テイエムオペラオーに乗せてくださって、ありがとうございます』と泣きながら頭を下げさせたい」と漏らす程度には、彼はまだ何も理解していなかった。

 

 第4コーナー。勝負所前の一息を終え、熱狂的な大歓声を浴びる愛馬の鼓動を感じながら、和多は思考を辞めた。無心で、ただ愛馬を信じて追い始めた。

 

 

 

 

 

『あぁ! スペシャルウィーク!』

 

 だが、その熱狂が悲鳴に変わる。 コーナーで僅かに外に膨れた──ように見せかけたスペシャルウィークが、オペラオーの進路を物理的に塞いだ。

 自らを凌ぐ末脚を持つ新星を潰しつつ、自らは息を入れる。それは「強すぎる馬は完封する」という、非情なトップジョッキーの、勝利への執念が結実したド畜生な騎乗だった。

 

 そうしようとする前振りをみて見て直ぐに動かないなど、G1の大舞台で有力馬の鞍を任された騎手ではない。

 

『エルコンドルパサー再度上がる! テイエムの外から! グラスワンダーも内から! 完全に固まった!』

【本当に巧い。これこそがリーディングジョッキーの技術ですよ】

 

 内外から閉じ込められ、前を塞がれた黄金の壁。 観客の目から見れば「コーナーを曲がろうとして偶然包囲してしまった」ようにしか見えない、自然な包囲網。故に審議にも引っ掛からない。

 強すぎる馬に、経験不足の鞍上。黄金世代とその鞍上は、その組み合わせを巧みに潰しながら一息入れた。勝つために。

 ──逆に言えば、黄金世代をして「そうしなくては負ける!」と確信させる領域に、テイエムオペラオーはいた。

 

『──あぁっ! テイエム、テイエム万事休すか! 脚が伸びない! 直線入口で詰まった!』

 

 誰もが「終わった」と思った。

 若き和田竜二の手綱が、一瞬、迷ったかのように揺れた。

 

 しかし。

 

 ──ボクの道は、そこにある

 

 相棒の意志に呼応するように、和多は追った。G1の舞台において先輩たちに「人の心」が無いことを血肉としていた鞍上は、唯一信じられるテイエムオペラオーを信じてただ追った。

 

「「「……え?」」」

 

 実況が、観客が、そして並み居る黄金世代の怪物たちが、その背中に驚愕を感じた。

 一度死んだはずの脚が、死地から這いずるように、いや、王の凱旋のごとく再び地面を蹴り上げた。

 

 

 

 

【『……え?』】

 

 同じく驚愕する実況と解説の呟きがマイクに拾われる。

 一度死んだはずなのに当たり前のように伸びる。そんな常識外の光景に。

 

『伸びる……? 嘘だろ、一度止まったんだぞ!? そこから、抜けるのか? まだ、伸びるのか!?』

【そんな、こんな、馬が……】

 

 馬の限界を粉砕する、覇王の咆哮。

 絶望の底に沈んだはずの栗毛の馬体が、するりと包囲を抜けて再点火する。

 

『きた……きた! きた、きた、きたぁぁ! 二の脚! テイエムオペラオー、次元が違う! こじ開けた! 黄金の壁を、自らの力でこじ開けたぁ!』

 

 それは騎手の技術ではない。血統の力でもない。

 ただただ、目の前の敵をすべてなぎ倒そうとする、剥き出しの馬の闘志。

 

『エルコンドルパサーのリードがなくなる! スペシャルウィークより速い! グラスが置き去りにされる! 信じられない! これが、こんな新世代が出てくるなんて!』

 

 絶叫する実況の向こう側で、テイエムオペラオーはただ一点、ゴールの先にある王座だけを見据えていた。   

 

『先頭はホワイトグリント! 粘るセイウンスカイ! 

 テイエムオペラオーが凄い脚で伸びている! 僅かに遅れてスペシャルウィーク! グラスワンダー! エルコンドルパサー! 

 黄金世代を超えるか! 新時代! テイエムオペラオー! 

 ああっ!』

【なんて、ついてないんだ】

 

 またも、中山競馬場が悲鳴で揺れた。 ホワイトグリントとの競り合いに消耗しきったセイウンスカイの身体が泳ぎ、テイエムオペラオーの進路をまたも塞いだのだ。

 

『セイウンスカイ! 立て直す! テイエム道を塞がれ! 同じくおくれ──えっ』

 

 だが、今度は和多は迷わない。相棒と息を合わせて外に出して追う。 二度。一流馬でも致命的な不利を二度受けてなお、テイエムオペラオーは駆けた。死力を尽くして駆けた。

 決して諦めないリュージと勝つ、と。

 

『またも持ち直す! テイエムオペラオー持ち直す! 闘士は闘う!』

 

 わああああああ! 

 

『ホワイトグリントに並ぶか! 抜かすか!』

 

 大歓声のなか、誰もがテイエムオペラオーが突き抜けて勝つと確信した。 二度。一度でも致命傷となる進路妨害を二度も受け、完全に行き場を無くした絶望の淵から。

 馬の常識すら粉砕したテイエムオペラオーの進撃を、もはや誰にも、何ものにも止められないはずだった。

 

 だが。唯一頭、その覇気にひるむことなく、死力を尽くせる黄金世代がそこにいた。

 

『……粘る! 粘る、ホワイトグリント!』

 

 更なる地鳴りのような大歓声が、冬の中山競馬場を震わせる。

 

 その白き影は、沈まなかった。 背後から迫るオペラオーの、周囲の空気さえも凍りつかせるような剥き出しの覇気。 黄金世代の猛者たちを次々と飲み込んだその絶望的な加速を、満面の笑顔を浮かべた白銀の馬体は、真っ向から受け止め、力ずくで押し返した。

 

「あなたは強いけど──まだだ」と吠えるように(※実際は「このレース!今までで一番気持ちいい!」と達している)

 

 これぞ、黄金世代。これぞ、最強世代。 世界を、時代を、その脚で切り拓いてきたホワイトグリントの、意地と誇りが火を噴く。

 

『テイエムが来る! テイエムが来ている! しかし、ホワイトグリント譲らない! 泥を跳ね上げ、白光が駆ける!』

 

 和多のなりふり構わぬ必死の鼓舞。若き鞍上の指先から伝わる執念を、テイエムオペラオーは一滴残らずその筋肉へ、その蹄へと注ぎ込んだ。 オペラオーの鼻面が、ホワイトグリントの腰に、腹に、そして肩に──。 一完歩ごとに、その白き壁を侵食していく。

 

『ホワイト! 有利! テイエム! どうか!』

 

 しかし、ホワイトグリントの笑顔は揺らがなかった。 その瞳は、狂気にも似た快楽で輝いている。限界を超え、骨が軋むような極限の状態をこそ、彼女は「気持ちいい」と笑って受け入れた。

 

(……っ、まだ……! 届かない……のか!)

 

 誰の耳にも届かない、魂の咆哮を上げたのは馬か人か。

 ホワイトグリントの脚が、ターフを毟り取り、泥を弾き飛ばして突き進む。 一完歩ごとに、その巨大な質量がぶつかり合う。

 食らいつく栗毛。凌ぐ白銀。

 そのわずかな、あまりにもわずかな際で、白き影は最後まで前を譲らなかった。

 

『テイエムか! ホワイトか! 並んだ! 並んでゴールイン!!』

 

 一瞬の静寂。

 

『ホワイトグリントだ! 僅かにホワイトグリント!』

 

 爆発的な歓声。

 

『凌ぎ切ったぁぁ!! ホワイトグリント、死力を尽くした勝利! 闘士を! わずか数センチで! 白雪が阻みました!』

 

 熱狂の渦の中心で、勝者の白は激しく肩を揺らし、荒い息を吐きながら、隣を歩く栗毛をじっと見つめていた。 勝った。確かに勝った。だが、その瞳には、敗者を侮る色は微塵もない。

 あるのは、二度の妨害を乗り越えて自分を敗北の淵まで追い詰めた、年下の怪物に対する剥き出しの驚愕と、底知れぬ畏怖。

 そして──何よりも快楽。

 

『2着はテイエム! テイエムだ! エルコンドルパサーとスペシャルウィークとグラスワンダーとセイウンスカイを抜かした! とんでもない馬が出てきた! 

 二度! 二度の致命的な不利を受けてなお! この強さ! 闘士テイエムオペラオー!

 負けてなお強し! とはこの馬の事を言う!』

 

 実況の声が、通常とは異なり敗者の名を先に叫ぶ。

 それは中山にいた20万人の総意だった。

 黄金世代という歴史が辛うじて勝利を拾ったその隣で、誰も見たことのない未来が、その圧倒的な威光を放っていた。

 

『失礼しました。1着はホワイトグリント! ホワイトグリントです! 父娘2代有馬記念制覇の偉業です!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 有馬記念が終わり、引退式が始まるまでの間。 極寒の中山競馬場に残った20万人の観衆の多くは、ゲストとして登壇したドリフ〇ーズの巧みな司会に笑い、温かい飲み物を手に、今しがた目撃した世紀の一戦の余韻に浸っていた。

 

「やっぱり疲労かな、黄金世代。みんなずっと激戦だったしね」

「スカイもあのハイペースでよく頑張ったよ。最後ふらふらだったもん」

「エルコンドルパサーの6着は……まあ、距離が長すぎたんだな。仕方ないよ」

 

 ファンたちの会話は、どこまでも優しかった。 自分たちを熱狂させてくれたスターたちの敗因を「激戦の疲れ」や「衰え」という納得しやすい言葉で埋め合わせ、誰もが黄金世代の終焉を、美しく、穏やかな黄昏として受け入れようとしていた。

 

 だが。 そんなファンの温かな「熱」は、競馬関係者の間には微塵もなかった。 そこにあるのは、ただ──戦慄。 背筋を冷たい指でなぞられるような、言葉にできない戦慄だけだった。

 

 

 

 

 

「……あいつ、何なんだよ」

 

 検量室から引き揚げてきた一人の厩務員が、誰にともなく吐き捨てた。その視線は、誇らしげに引き揚げていく勝者の白馬ではなく、二着に敗れ、静かに息を整える一頭の栗毛に釘付けになっていた。

 

 関係者たちが戦慄していたのは、黄金世代のうち四頭に先着した結果ではない。 二度の致命的な不利を受け、完全に勢いを殺されたあの絶望の淵から、何事もなかったかのように加速を再開した栗毛の存在そのものにだ。

 

 普通なら、一度目の不利で馬の心は折れる。 二度目の不利で、どんな名馬も勝利を諦める。

 だが、栗毛の馬は違った。

 

(あの馬、諦めなかった……勝ちに行きやがった)

 

 鞍上の手綱に応えるというレベルではない。 前を塞ぐ壁を、自らの意志で叩き割り、強引に道をこじ開け、己から勝ちに行ったのだ。

 

「疲労? 距離適性? ……笑わせるな」

 

 あるベテラン調教師は、遠くで響くドリフ〇ーズの笑い声を聞きながら、震える手で双眼鏡を片付けた。

 ファンには見えていない。 あの最後の直線、栗毛の馬から放たれた圧力が、どれほど暴虐的に黄金世代を蘇らせ磨り潰したのかを。

 

 あいつは、疲れ切った世代にトドメを刺しかけたのではない。

 全盛期の、最強の力を振り絞った黄金世代を一人残らず引き摺り下ろし、その上で王座を奪い取りかけたのだ。

 

「黄金世代が疲れていたから、負けたんじゃない。アイツの熱が、黄金を全部溶かしちまったんだ。いや、溶かしかけたんだ」

 

 観客席の和やかな喧騒とは対照的に、プロたちの領域には、あまりにも桁の違う怪物を解き放ってしまったことへの後悔にも似た、重苦しい戦慄が広がっていた。

 

 これから始まる、あまりにも長く、あまりにも理不尽な「王者による独裁」の予感に、彼らはただ立ち尽くすしかなかった。

 

 

 

 

 

「大里、どうだった?」

 

 検量室に戻ってきた大里に、メイショウドトウの調教師が声をかけた。

 大里は泥にまみれた勝負服のまま、吐息を一つすると答えた。

 

「オーナーに進言してください」

「うん」

「あいつと同じレースで走ったら、余程のことが無い限り最高で二着です。桁が違います」

 

 お前、そんな風に営業下手だから、ちょっと前まで腕は良いのに依頼が無かったんだぞ。もっと遠回しに言えよ──そう言いたくなる調教師だったが、それは言葉にならず腹に収まった。

 そんなことはどうでもいいのだ。

 ダービーを二度も制した名ジョッキー大里の見立ては、残酷なまでに正確であることを今や誰もが知っている。

 

「……それほどか」

「春に『リュージの馬』なんて、言わなければ良かったですよ。とんでもない馬になりました。そして、恐ろしいことに──あいつはまだ、強くなります」

 

 大里の言葉には、ライバルへの戦意すら失わせるような、乾いた諦観が混じっていた。

 自分が跨るドトウもまた、現役屈指の力を示したはずだ。

 黄金世代の厚い壁に、あと一歩で手が届くところまで。

 だが、その視界を後ろから横切っていったあの栗毛は、次元そのものが違っていた。

 

 二度の不利。並の馬なら、掲示板に載るのが精一杯の展開。

 それを力ずくでねじ伏せ、結果は王者とハナ差。もはや強豪馬の枠を越えている。

 

「そうか。はあああっ、そうかぁ……。とんでもない奴だなあ、アイツは──」

 

 調教師は、吐き出した吐息が白くなるのを見つめた。

 大里が「最高で二着」と断言した。それはつまり、これからの日本競馬において、一着という席はあらかじめ予約されてしまったということだ。

 自分たちがどれほど血を吐くような努力を重ねても、あいつがそこにいる限り、普通では届かないのだ。

 

 

 

 

 

 

「ピークなら、戦えたんですが」

 

 海老名の手綱へ伝わってきていたのは、かつて凱旋門賞で世界を震撼させたあの全能感ではなかった。しかし、エルコンドルパサーはエルコンドルパサーなのだ。

 距離の壁、そして激戦の果ての衰え。それらを差し引いてもなお、喉元に突きつけられた刃のような鋭い覇気を、彼は感じ取っていた。

 

「そうか」

 

 エルコンドルパサーの調教師が返した声音は、冬の空気に吸い込まれるように乾いていた。

 

「戦えた」であって「勝てた」ではない。

 

 その言葉に、世界を獲りかけた陣営の誇りと、それ故の抗いようのない戦慄が滲んでいた。

 もし、エルコンドルパサーが最も輝いていた瞬間に、今日のあの栗毛と対峙していたとしても、二度の不利を撥ね退け、ホワイトグリントのハナ差に食らい付いたあの栗毛を、自分たちは完封できていただろうか。

 

「あいつは、俺たちの積み上げてきた『最強』という概念そのものを、過去へ追いやりやがった、な。あいつは──」

 

 調教師の視線の先では、栗色の馬体が静かに湯気を立てていた。 それは一頭のサラブレッドというよりも、すべてを統べるために現れた「王」のように、彼らの目には映っていた。

 

 

 

 

 

 

「まいったなあ。アイツに勝てる馬はお手馬にいないぞ。お手馬の中でスペシャルウィークが最強なんだから」

 

 竹優は呆然と呟いた。 その瞳には、さきほどまで共に死線を潜り抜けていたスペシャルウィークの背中ではなく、悠然と引き揚げていった栗毛の姿が焼き付いていた。

 これまで数多の名馬に跨り、天才と呼ばれ、どんな窮地も技術と勘でねじ伏せてきた。

 だが、さきほど目の当たりにした光景は、そんな技術や勘の介在する余地など微塵もない、力があった

 

 二度の致命的な不利。 あれを受けてなお、鼻差まで詰め寄るなど、今まで経験してきた競馬のセオリーでは説明がつかない。

 

「儂の所にも、そんな馬は預託されとらんぞ」

 

 臼井調教師の声には、悔しさよりも深い諦観が混じっていた。 馬房を預かり、素晴らしい馬たちを仕上げてきた自負がある。

 しかし、血統の配合や調教の理論で作り上げられる範疇を超えた、天からの授かりもの──あの栗毛に粉砕された。

 

「……アイツは、何なんです?」

「知らん。だが一つだけ確かなのは、儂らがこれまで『最強』と呼んできた定規では、もうあいつを測ることは出来んな。アイツは──」

 

 

 

 

 

「先生。……スカイの引退、考え直してくれませんか」

 

 横田の声は、冬の冷たい空気の中で震えていた。 ピークの、あの宝塚記念の時のように冴え渡ったセイウンスカイであれば、たとえ相手があの栗毛であってもチャンスはある──と。

 

「気持ちは分かるが──無理だ。もう限界だよ」

 

 調教師は、静かに、しかし断固として首を振った。 その目は、騎手の熱意を否定しているのではなく、さきほど戻ってきた愛馬の、激戦で削り取られ、枯れ果てた肉体の深淵を見つめていた。

 

「そうですよね」

 

 横田は、それ以上言葉を続けることができなかった。 分かっていたのだ。手綱を通して伝わってくる、セイウンスカイの限界を。

 今日の逃げは、残った競争寿命を全て前借して振り絞った、奇跡のようなラストランだったのだと。

 

「……あいつ、あの栗毛。それでも、スカイなら、思っちまう」

 

 横田の自嘲気味な呟きに、調教師は優しく、愛馬の首筋を撫でた。

 

「ああ、そうだな。アイツに──。でも、な──」

 

 感謝の吐息を吐く調教師に合わせるように横田の小さな声が、響く。

 

「……お疲れ様、セイウンスカイ」

 

 ひんっ

 

 芦毛の逃亡者は、主戦騎手の諦め混じりの感謝を聞き届けたのか、静かに、一度だけ、鳴いた。

 

 

 

 

 

 

「なあ、無理か。あの馬の鞍上」

 

 計量を終えた丘部は、馬主たちへ形式的な挨拶を済ませるなり、険しい表情でエージェントの元へ詰め寄った。鋭い勝負師の光のまま。

 

「いや、丘部さん、あの馬は無理ですよ……。すでにG1馬ですし、自厩舎の若手を乗せる方針だって有名じゃないですか」

「そこをなんとか! あの馬を凱旋門に連れていきたいんだ!」

 

 周囲がぎょっとしたように振り返るほどの熱量。 普段、沈着冷静を地で行く丘部が、他人の馬を、それもまだ一介のG1馬に過ぎない若駒の鞍上をこれほど剥き出しに欲しがるなど、トウカイテイオーくらいだった。

 

「……それほどですか。アイツは」

「エルコンドルパサーは門に届いた。だが、アイツは違う。アイツは──」

 

 丘部は言葉を切ると、遠くで湯気を立てている栗毛の馬体を見据えた。

 自らの技術で、戦術で、共にあった「絶対」のシンボリルドルフ。

 だが、あの馬から放たれているのは、もっと根源的な「覇道」の気配だ。

 

「アイツは、まだピークになっていない今でさえ、門を開くことができる。それほどなんだよ。アイツは──」

 

 

 

 

 

 

「先生、オーナー、負けてました。実力で負けてました。グリントが」

 

 検量室から引き揚げてきた沙藤の声は、勝利の喜びなど微塵もなく、ただ冷たい事実に凍りついていた。

 

「──おう、それをグリントの前でよく出さんかったな。言葉にも動作にもよく出さんかった」

 

 瀬戸内調教師が低く応える。愛馬のプライドを慮った騎手への優しさと、隠しきれない戦慄が入り混じっていた。

 

「グリントはホワイトグリントなのに、負けてました。運が良かっただけです。アイツが、あのバケモノが二度も妨害されていなければ、確実に負けてました」

 

 呆然とする沙藤。その顔には、二度の絶望から蘇り、自分たちを差さんとした栗毛の熱が、今も焼き付いて離れない。

 

「……それほどですか」

 

 オーナーの言葉にも無言で何度も頷くしかない騎手の代わりに調教師が声を出した。

 

「まえ、オーナーに言いましたな。私の中の、強い馬の序列を」

「ええ」

「そのトップです。今のアイツは」

「クリフジよりも、そのクリフジよりも強いシロより、うえだと……?」

 

 信じ難いと願うオーナーに、調教師はプロとして、残酷なまでの真実を突きつけた。

 

「はい、上です。今のアイツが、未だ成長の余地を残しているアイツが、私が見てきた中で──日本競馬史上、最強の馬です」

「成長、するのですか。まだ……彼は」

「します。あともう一回り強くなります。ホワイトグリントたちと戦い、この極限の死闘を咀嚼して、さらに強くなります。おそらく……いえ、次は真っ向勝負では、もう敵わないでしょう。此方が優位な場面でだけ戦うべきです。それ以外に道はない」

 

 あまりのショックに沈黙してしまったオーナーを前に、瀬戸内調教師はプロの姿勢に逃げ込んだ。そうしなければ、戦慄に飲み込まれてしまいそうだったからだ。

 

「騎手もこれからでしょう。デビューから共に戦ってきて、馬の反応と力を信じる事のできる、そんな真の相棒になるでしょう。……そして、馬の方は──成長しきったならば」

 

 言葉を切ると、瀬戸内調教師は、「ああ」と、深く重い吐息を吐いた。

 そこには嫉妬、歓喜、恐怖、羨望、そして調教師としての幻想……ありとあらゆる感情が、震える吐息に凝縮されていた。

 

「まさか、生きているうちに見れるとは思っていませんでした。──『絶対』の馬を。あのシンボリルドルフでさえ、そこまでとは思わなかったのに」

「絶対?」

「絶対に勝つ馬です。全盛期のアイツは、絶対に勝つ馬になるでしょう。周り全てを敵に回して、全頭に囲まれて、たとえ騎手が諦めたとしても──勝つ。勝ってのける。そんな馬に」

 

 咀嚼しきれない感情に震える瀬戸内調教師の言葉に、北野オーナーは息を呑んだ。

 

「生きてるうちに、調教師の妄想の中にしかいなかった馬が見れるとは。ああ、手が未だ震えとりますわ。アイツの走りに、震えてます。アイツの──」

 

 その震えは、勝者の誇りを打ち砕くほどの、圧倒的な「覇王」の胎動によるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──戦慄に満ちた空間でただ一つの陣営だけが、確信を得ていた。

 

「残念だったな。しかし、やっぱりオペは凄い。和多くんもよく乗ってく──」

「なあ、マサ。来年、競馬場に全部来れるか」

 

 慰めようとしたオーナーの声は、幼馴染の熱に浮かされた声で遮られた。

 珍しいことだった。今のような他人に声が聞こえる場では、調教師とオーナーとしての分を弁え、幼馴染の顔を見せない彼が。

 疑問に思いながらも、オーナーは幼馴染へのざっくばらんな声で答えた。

 

「ん? ああ、そりゃ、もちろん」

「全部見に来てくれ」

 

 あまりの情感に焼け切った幼馴染は、最後まで言わせてくれなかった。

 

「おう?」

「こいつのレースは、全部見に来てくれ。──全部勝つから。全部、その眼で見てくれ」

 

 お前さんがそれを言うのかよ。 一瞬、そんな言葉がよぎったが、幼馴染が撫でている馬の瞳を見た瞬間、すべてを察した。

 あの日、キラキラと輝いているように見えたから買った馬が、今、あの時と同じ──いや、それ以上の輝きを放っている。

 

 勝てる。いや、全部勝つのだ。と。

 

「──もちろんだ。見に行くよ。絶対に見に行くよ、イチ。這ってでもオペの勝利をこの目で見届ける」

 

 愛馬のあまりの強さに、心の底から惚れ込んだ勝利への確信。 敗北を喫したはずのテイエムオペラオー陣営だけが、その熱に冒されていた。

 

 脳焼けのあまり言葉が出てこないからずっと無言で撫でてくれる相棒と、熱に浮かされたまま自分を愛でる調教師と、今撫で始めたオーナー。

 三人の手の温もりを感じながら。

 

 ひんっ。

 

 テイエムオペラオーは、誇らしげに「任せろ」と鳴いた。

 自分が何者であるか、これから何を成すべきかを、その聡明な頭脳で理解しているかのように。

 

 

 

 

 

 

 テイエムオペラオー

 

 

 

 

 

 1999年、年末。有馬記念終了後において。その名は──

 ファンも競馬関係者も、そのあまりの強さを認めた名は──

 偉大なる先達、黄金世代との死闘により、真の覚醒を果たしたその名は──

 一年以上もの間、日本馬の誰にも先着を許さなかった怪物たちのうち、四頭を完封してのけたその名は──

 

 

 

 

 

 

 ──公式記録において、未だG1·1勝馬と刻まれていた。

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