北海道の初夏、サラブレッドたちの故郷である北海道の空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
ドバイの、あの昼の熱さと、夜の冷たい砂と、喉が焼けるような乾きから帰国したホワイトグリントを待っていたのは、すべてを優しく包み込むような緑の風だった。
ひん(……あれは、なんだったんだろう。あの、なんか熱い所の夜……あれは、本当によかったなぁ。肺が焼けて、脚がバラバラになりそうで、でも意識だけが水晶みたいに透き通って、ごしゅじんの鞭っ……最高に気持ちよかった)
ホワイトグリントは、北海道の涼しい風に吹かれながら、うっとりと目を細めていた。
周りの人間が喜んでくれたのも嬉しかったけど、何よりあの極限の苦痛が快楽さえ超えた透明になった瞬間が忘れられない。
今までで一番速く走れたことよりもマゾヒズムの到達点(と思われる)ものが忘れられない。
ひん(なら……誰かに教えるべきじゃない。コレを)
到達点(と思い込んでいる)を知ったホワイトグリントの特異な感性が、一段上のステージへと跳ね上がろうとしていた。
これまでは「与えられる快楽」に耽って愛を貪ってきた。だが、真の愛とは、この至上の悦びを他者にも教えてあげることではないのか。と
ひん(私一人で満足してていいのかな? この至上の悦びを、誰かに『与える』ことこそが、真の愛なんじゃないかな……っ!? いや、そうだよ! 間違いない)
哲学的なのか変態的なのか分からないが、たどり着いてはいけない新境地にドマゾは達しようとしていた。
世紀の美貌馬という、その発言をどの馬も無視しないというか積極的(特に牡)に受け入れようとする存在が、遂にドマゾとして一歩踏み込もうとしていた!
ノーマルをマゾへと引きずり込まんとする決意を!
ひんっ! (今こそ……与える存在となるときなんだっ!)
そんな、競馬界が震え上がるような物騒な決意を抱いた瞬間
ひんっ(ねーちゃん)
足元から響いた、鈴を転がすような、しかし力強い鳴き声にドマゾは消え去った。
悪しき決意は、その一声で完膚なきまでに蕩け落ちブラコンが現れた。
ひんっ♡(なにぃぃぃ♡)
そこには、生後わずか三ヶ月、3月1日に生まれたばかりの「天使」──弟が立っていた
まだ頼りないはずの細い足取りだが、その一歩一歩の踏み込みは、同年代の幼駒とは比較にならないほど力強く、しなやかだった
ひんっ(ねーちゃん、あそぼー)
ひんっ♡(わかったぁ♡ ねーちゃん、今いくよぉ♡)
蕩け度1000%。先の悪しき決意を心の中の別の棚の隅に押しやり、ホワイトグリントは鼻面を可愛い可愛い弟にすり寄せる。
同母と言えど仲良くなるとは限らないのが馬の姉弟。そんな常識を蹂躙するドの付くブラコンがそこに居た。
そんな姉に対してカーくん(後のウォリック)は大好きと擦り寄り、ブラコン姉を更に蕩けさせる。
トコトコと、まだ頼りない足取りで寄ってきてから擦り寄ってくる弟。
普段はお母さんのオッパイに常に吸い付いているが、今日はお腹一杯らしい。
そういう時は、こうやって、父の所か、自分の所に来てくれる弟が
何時も何時もお母さんのオッパイに吸い付いてごくごく喉を鳴らしている姿も愛らしいが、トコトコ歩いてくる姿もたまらない。
こんな弟と引き離されて熱い所に行った時は辛くて泣きとおしだったが、帰って来れて良かったぁ♡
それもあったからか、哀しみと苦痛が溶け合って、世界の音や景色が消えたみたいに澄みきっていたんだよね。
今までで一番速く走れたよビックリ──まあ、そんなことどうでも良いんだけど、ね。
スリスリと大好きな弟に擦り寄ると弟はスリスリと返してくれる。
幸せだ。
苦痛の欠片も無いのに幸せ。
ああ、こんな幸せがとても良い。
レースの快楽よりも、こっちの方が好きかも。
そんな仲の良い姉弟の少し離れた場所では、母・ホーリックスが一心不乱に食事をこなしていた。
ひんっ(ごめんな苦労かけて)
ひんっ(いいから次もってきて次っ)
母の愛は壮絶だった。まだ幼いカーくんの尋常ではない食欲を自らの乳で解消せんと、顎が疲れても食べれるようにと場長たちが用意した特製のおかゆ(湯飼い)を、疲れた顎で咀嚼し続けていた。
野菜、果物、雑穀。それらを己の血肉に変え、母乳として子に与える。母の愛。
その姿は、神々しさすら漂っていた。
その愛に場長やオグリキャップたちも感動していた。
「シロの時と同じか。大食いの子供相手に嫁さん頑張ってるな。オグリ」
ひんっ(乳飲ませるのって大変だな)
荷馬車引いておかゆ(湯飼い)を引っ張ってきた父オグリキャップが(妻は普段から小食とはいえ、こんなに大変なんだな……年とったら絶対に交配しないようにしよう。命に関わる)と本能的な恐怖により決意する母の愛があった。
こんな事になっているのは、弟が恐ろしいほどの食欲を誇っているからだが、父のオグリキャップも娘のホワイトグリントも、そして当のウォリックも生涯おかしいことだと認識しなかった。
ホワイトグリントの血を引く子供たちも、みんな揃って大食漢だったからである。
母は小食なんだな。と父オグリキャップと同じ誤った認識をずっと抱いた。
彼女たちにとっての普通は、世間の異常であることを、この家族は母を除いては気付かなかった。
まあ、そんなことは家族仲の良さには関係ない。
ひんっ(とーちゃ! かーちゃ! ねーちゃんと遊んでくるねえ)
ひんっ(行ってきます)
ひんっ(おお、気を付けていっといで)
おかゆを咀嚼しながら尻尾を振ることで応える母。
許可を貰って備えつけたカメラで撮影した動画をそのままハリウッド映画に取り込むほどの、絵になる草原の中の家族像があった。
馬の生態からしておかしすぎるのだが、ガンガン放映されたせいで「これが馬の普通なんだ」と誤った認識を持たせ続ける家族像だった。
まあ、北野牧場は平和である。
同時刻、阪神競馬場。
『満を持して! グラスワンダーが伸びる! マーク戦術だ! 的羽のマーク戦術が冴えわたる!』
完璧だ。
『追いつか! いやあ!』
鞍上の俺は、完璧にグラスとマークしていた。
『さらに! 伸びる!』
ゴール板ギリギリで交わせるようにマークしていた。例えどんな相手でも交わせる。
『追いつかれても伸びる!』
メジロマックイーンやミホノブルボンやサニーブライアンやセイウンスカイやホワイトグリントをマークした時以上の完璧な手応え──なのに
『伸びている! 追いつかれたのに! マークされたのに!』
なのに──
『マークを力づくで振り払い! グラスワンダーより脚色よく伸びる! 差を広げる!』
──お前は、何なんだ??
『ゴールイン! オペラオーだ! テイエムオペラオーだ!』
騎手生活最後に、こんな怪物が
『ち、力で、ただ力づくで、マーク戦術を! 打ち破りました! 残り100で! 追いつかれたと思いました! 抜かされたと思いました!』
競馬の神はサディストすぎる
『そこで! 伸びました! 負けまいと伸びました! そして差を広げました! こんな馬がいて良いんでしょうか!』
願わくば
『つ、強い! 強い強い強い! 強い、ただ強い! 七冠馬の芸術的なマーク戦術を純粋な強さで打ち破りました!
テイエムオペラオー! 春戦線完全制覇!』
調教師になってからお前のような馬を育てたいな
緩めた手綱越しに、グラスの首筋を優しく叩く。
いつもなら、敗北を拒むように激しく波打っているはずの熱が、今はもう、空っぽの抜け殻のように静かだった。
ああ、そうか。
魂の最後の一滴まで、直線の攻防で使い切ったのだ――自分と同じく。
もう、誰かをマークしなくていい。もう、誰かを追い抜かなくていい。
「お疲れさん。グラス」
負けてなお、お前は最高の相棒だったよ。
「俺も、お前も、次へ行かないとな──ああ、悔しいなぁ」
2着グラスワンダーに1馬身差、3着ラスカルスズカに9馬身差。それは接戦という言葉さえ制した、次元の違う暴力的な強さだった。
あまりの強さにどよめく場内で偵察に来ていたホワイトグリント陣営は、満面の笑顔のテイエムオペラオー陣営に賞賛の言葉を送ったあと蒼白な硬い顔を見合わせ確信していた。
「……正面からぶつかれば、シロ(ホワイトグリント)でも叩き潰される」
昨年の有馬記念で直接ぶつかり、春の阪神大賞典と天皇賞を観戦して確信した屈辱である。
その屈辱が正しかったと再確信した。
この宝塚記念。
ホワイトグリントと互角のグラスワンダーが、ドバイデューティーフリーを圧勝で制したグラスワンダーが完璧に走って1馬身差の完敗。
「芸術的なマークすら力で粉砕されましたな。先生」
何度ピークになったテイエムオペラオーのレースを見返しても、答えは一つだった。この宝塚で、更に深く、魂に刻まれた答えだった。
今のテイエムオペラオーには、隙という概念が存在しない。
ドバイミレニアムを差し切ったあの神速の末脚をもってしても、この覇王は抜かせまいとさらに伸び、泥臭く、それでいて圧倒的に勝利を掴み取る。
──今、そうしてのけたように
「その通りです。オーナー……今のあいつは、絶対ですわ。絶対に勝つ馬ですわ。なので、手は一つしかありません」
ホワイトグリント陣営は、その屈辱を喉の奥で飲み込み、勝利のシミュレーションをこの時点で作り上げていた。
スピード、スタミナ、勝負根性。すべてにおいてオペラオーは完成している。そのため、残された唯一の弱点は、そのあまりに過酷なローテーションのみ。と、
テイエムオペラオーは、今年から始まった秋古馬三冠を狙う。三冠馬の能力を持ちながら三冠馬にしてやれなかった愛馬の為にも三冠を得るために。
つまりは、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の古馬三冠すべてを狙いにくる。
前哨戦も走るため、王道を歩む覇王は、年末には必ず疲労の極致に達する。
「秋、怪我を治して海外1戦と、今年から始まるジャパンカップダートに走るという宣言はファンにもJRAにも好評です。ジャパンカップダートが始まってよかった。ジャパンカップで、余力のあるテイエムオペラオーにぶつからなくて済みます」
「ドバイワールドカップの覇者が始まったばかりのダートG1を走る。JRAは泣いて喜んでましたわ。何度も感謝を伝えに直接来るくらいに」
「──ならば、刺せますな」
「ええ、疲労しきったテイエムオペラオーを万全の状態で刺せるでしょう」
それは、ドバイミレニアムを破ってドバイワールドカップを制し、日本史上最高にして、世界現役馬最高のレーディング138を付けられた最強女王が取るべき戦術ではなかった。
自分は元気一杯で疲労困憊な相手を刺す。弱者の勝利のシミュレーション。
だが──それ以外に覇王を玉座から引きずり下ろす方法はなかった。
その頃、また北海道。
ねーちゃー、あっちー
あっちはだめだよー、牧場の人じゃない人間さんがいるからねー
やー、いくー
なら、いこうかー、私から離れないでねー
はーいー、あ、くさーおいしー
わあ、もう食べれるようになったんだ牧草美味しいよね
うんー、モグモグ
好奇心の塊である弟に引きずられるように、ホワイトグリントは一般開放された放牧地の柵へと近づいていく。
そこには、競馬場よりも奇跡の凱旋を果たした白雪姫を一目見ようとするファンと、そして目を血走らせた競馬関係者たちが集まっていた。
「姉弟仲いいねぇ」「馬って姉弟でこんなに仲良くなるんだ」「カーくん(ウォリック幼名)がもう少しで来てくれたのにぃ」「お姉ちゃんと牧草モグモグする方が好きなんだから仕方ないでしょ」「うー、あー」「馬だねーミーちゃんと同じ3ヶ月だって大きいねえ」
一般客がその仲睦まじい光景に癒やされている一方、宝塚記念に出走馬が居ないから見に来た柵の隅に陣取った調教師や馬主たちは、冷や汗を流しながら絶句していた。
「なあ、見たか今の方向転換。三ヶ月の馬ができるバランスじゃないぞ」「分かってる。あのまま育てばとんでもないことになるぞ」「それよりも牧草あんなに食って、どんな内臓をしてるんだ」「あの幼駒凄いぞ。預託して貰えないかな」「女王陛下の馬だから無理だろ」「女王陛下の預託馬じゃなきゃ、今すぐ白紙の小切手切ってるわよ」
彼らが見ていたのは、可愛らしい子馬ではなかった。数年後、世界の競馬を根底から支配する魔王の雛形だった。
ホワイトグリントは至福の中にいた
そのなか、ふと、気付いた。
痛くて苦しいのは気持ちいい。
でも、それを知らない子はどうなるんだろう。
そう、認識させるのは痛くて苦しくしなければならない。
そして、それを私が教えられるのって
ひん(ねーちゃん、どした)
ぴょいぴょいと、周りを跳ねる可愛い可愛い弟が第一候補なわけで
ひん? (………………………………え?)
痛めつけて苦しめるの、この、弟、を
想像してみた。
可愛い弟が、息を切らし、心臓が爆発しそうになり、鞭に打たれながら絶望の淵を走る姿。その先に待つ、苦痛の極限の悦びを味わう姿を。
ひん(ねーちゃん、ねーちゃん)
無邪気に鼻を押し付けてくる弟の、あまりの可愛らしさ。という現実が想像を塗り替える。
『与えるマゾヒスト』ポイッ
ひん(………………無理。絶対無理)
ホワイトグリントは『与えるマゾヒスト』の看板を、心のゴミ箱へとシュートした。
ひんっ! (この子の痛みや苦しみは、私が代わりに全部受ける! この子の喜びは、力いっぱい走るのと、お腹いっぱいのお乳と牧草だけでいいのっ!)
かくて、世紀の美貌馬による「マゾヒズム布教」という野望は闇に葬られた。
目出度い事である。
しかし、そうなると問題が一つあるとホワイトグリントは思った。
(……最近、レースがないなぁ。物足りないなぁ)
弟は可愛い。たまに来てくれるごしゅじんのサディスティックな責めも気持ちいい。
けれど、あのドバイで味わった世界が透き通る感覚が、魂を疼かせてやまない。
ひん(ねーちゃん! つぎ、あっち、いこ!)
ひーん♡(はーい、あっちいこうねえ♡)
ホワイトグリントは、自分の背中にあるはずの鞍とごしゅじんの重みを思い出しながら、今日もまた、北海道の空に、ブラコンの幸せに満ちた嘶きを響かせるのだった。
宝塚記念の口取り式。テイエムオペラオー鞍上の和多騎手が掲げた指は、春の完全制覇を証明していた。
その華やかな式に、ホワイトグリントの姿はない。
勝者としても敗者としても。
それで、いい。
それでこそだ
「待っていろ。テイエムオペラオー」
北野オーナーは、額装された「ドバイで殿下から渡された白紙の小切手」*1を握りしめた。
覇王を白雪姫は、泥臭いタフネスで引きずり落とす。
冬、年末の、世紀末最後の日本競馬のレース、有馬記念で王座から引きずり落とす。
覇王の歌を聞きながらホワイトグリント陣営は勝利のシミュレーションを再確認した。