「……グリント、最高の舞台だな。散々撮られた映画やCMのライトよりも、こっちの方がお似合いだ」
沙藤は愛馬の首筋を軽く叩き、低く笑った。
周囲の馬たちの熱烈な視線も、騎手たちの刺すような殺気も、この白い馬にとっては極上のスパイスでしかないことを彼は知っている。
ゲート入り直前、ホワイトグリントは鼻面を小さく震わせ、何かを待ちわびるようにうっとりと目を細めた。
《全米のアイドルか、天馬か、不屈か、それとも鉄の意志か! 今、世紀末の決戦が幕を開ける!》
ドォンッ! という炸裂音とともに、ゲートが弾けた。
その瞬間、ホワイトグリントを襲ったのは、ドバイの熱風をも凌駕する物理的な暴力だった。
バチバチバチバチッ!!
「……っ! やっぱり本場は違うな!」
沙藤が顔を顰める。一昨年と同じく、アメリカの粘土質のダートはもはや砂ではない。それは、先行する怪物たちの蹄によって発射される、硬い泥の礫──散弾だ。
ホワイトグリントの白く美しい顔面に、泥が、礫が、容赦なく叩きつけられる。視界は一瞬で茶色に染まり、呼吸をするたびに土の味が肺を焼く。
しかし、ホワイトグリントの脚は止まらない。それどころか、砂を被り、泥に塗れるほどに、その馬体からはかつてないほどの活気が溢れ出していく。
気持ちいいから。
「よし! (グリント! もっと深く、辛くて苦しい、泥の奥まで連れてってやるからな)」
狙い通りの展開にサディストは思わず笑みを漏らし、ホワイトグリントはごしゅじんへの信頼と愛をより深くより強く更新した。
沙藤が追うたびに、ホワイトグリントの足取りはより力強く、より鋭く、アメリカの深い大地を抉り取っていく。
《ティズナウ! ジャイアンツコーズウェイ! 競り合う!》
(乗り方に覚えがある。今年のプリークネスステークスとメットマイルとBCダートマイルを制した素晴らしい腕の日本騎手ナオ*1から学んだな。腕を上げやがった)
ティズナウ鞍上マッキャランは思わず顔を顰めた。
一昨年、フリーハウスと共に戦った時よりも馬も騎手も成長している。
向こう正面。レースはティズナウとジャイアンツコーズウェイの、凄まじい先行争いで展開していた。
ホワイトグリントはその直後、絶好の3番手。
一昨年の頃の馬と騎手では有り得ない位置。
右からはフサイチペガサスの巨体が圧をかけ、前方からは泥の弾丸が降り注ぐ。まさに地獄の特等席。
普通ならそんな状況に落とし込んだ事に嘲るが、ホワイトグリントがそれを糧にして加速し始めた事でマッキャランは理解した。
そこが騎手が導いた白馬のベストポジションだ、と。
(馬も騎手も、か──良い相棒に巡り会えたな。白いの、若いの。マトモにやれば苦しいな)
腹を括った。勝ち筋があるロングスパートですり潰す。
《最終コーナー! ティズナウ伸びる! 伸びていく! 勝負に出た》
第4コーナーを回り、チャーチルダウンズの直線が口を開けた。
ティズナウが「不屈」の名の通り、後続を突き放しにかかる。
《ジャイアンツコーズウェイ! 負けじと進む! アイルランドの闘士がやってきた!》
先頭を行くのは、アメリカとアイルランドの誇る二頭の怪物。
内、逃げ粘る「不屈の闘士」ティズナウ。外、それをねじ伏せにかかる「アイアンホース」ジャイアンツコーズウェイ。
二頭が火花を散らすその背後、泥の壁の向こう側に、沙藤は一瞬の隙間を見た。
針の穴を通すような、しかし、そこへ飛び込めば左右から巨大な馬体にプレスされ、前からは最も激しい泥の散弾を浴びることになる、地獄への入り口。
「……グリント。最高の特等席が空いてるぞ」
沙藤の口元がサディスティックに歪んだ。
サディストは迷わず、マゾヒストの首をその狭い隙間へと向ける
《ティズナウ粘る! ジャイアンツコーズウェイ並びかける! BCクラシックらしい素晴らしい競り合いだ!》
実況が絶叫する中、二頭の怪物の間に、全身を黒い泥でコーティングされても際立つ白がねじ込まれた。
《ホワイトグリントだ! 大歓声が響き渡る! 待っていた! 全米が君を待っていた》
競り合う二頭。
その中央、針の穴を通すような狭い隙間に、沙藤はホワイトグリントを捻じ込んだ。
左右から寄せる怪物の馬体。剥き出しの闘志が火花を散らす。2頭の脚に弾ける泥がホワイトグリントの全身を叩く。
一番辛くて苦しいポジション。
ホワイトグリントの約束の地。
サディストオブサディストをごしゅじんに持てた喜びに、ドマゾは歓喜に震えながら透明となりその脚を速めた。
「よぉしっ!」
サディズムに満ちた咆哮をしながらの沙藤の渾身の鞭が飛ぶ。
その瞬間、ホワイトグリントの白い馬体が、泥を突き破るように一段上のギアへと跳ね上がった。
圧迫され、肺は焼けるように熱く、脚はバラバラに砕けそうになり、全身に泥を叩き付けられながら鞭で激痛を叩き込まれる過酷な状況。
だからこそ、透明になったホワイトグリントの瞳は爛々と輝き、その首は一完歩ごとに前へと鋭く突き出される。
きっっっっっっっっもちいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!
《信じられない! ホワイトグリントだ! 泥にまみれ、顔を真っ黒に染めながら、満面の笑顔の銀幕の女王が怪物二頭を飲み込もうとしている!》
直線、残り200メートル。
ティズナウが粘る。ジャイアンツコーズウェイが差し返す。
それを上回る脚でホワイトグリントがその間を抜けんとする。
(そうだったのか……!?)
ティズナウの鞍上、マッキャランは、自身の左側から伝わってくる異様なプレッシャーに戦慄して驚愕した。
隣にいるのは、可憐な銀幕のスターではない。泥と苦痛を糧にして、白く輝く高貴なまでに美しい馬だ。
その強さの秘密がようやく理解出来た。
(繁殖期でもないのに、苦痛が好きな牝馬だったのかよ。話してもお姫様イメージで塗りつぶされるだろうから言わんが……とんだジョークだ。
ならば、ほぼ勝ち目が消えた今でもやりようがある!)
《ホワイトグリント! 脚色良い! 完全に割り込んだっ! ティズナウ離れた! 弾かれたか》
マッキャランは即座にティズナウの手綱をわずかに引き、進路を立て直した。あえてホワイトグリントを挟み込む圧を抜き、加速の燃料となる『苦痛』を奪い取ろうとした。
それは、日本の名手たちが一生かかっても到達できない、欧米300年の競馬文化がもたらした経験の蓄積による最適解であった*2
(渡さんよステイツ一のトロフィーは。
改革され、賞金の5%が税金無しで丸ごと貰えるようになったBCクラシック1着の騎手取り分35万ドルは。*3
改革以来アメフトやバスケのように大歓声が轟くようになったステイツの競馬の、一番の大レースの大歓声は!
最強馬こそが世界一の賞金と大歓声を手にするのだからな!)
的確な戦術で、ホワイトグリントのマゾヒスティック・パワーを封じにかかるマッキャラン。
──だが、遅すぎた。
ビシリッ! ビシリッ!
レースの時のごしゅじんこそ至高にして究極であり最高だよおおおおおおおお!!!???
他者の干渉など、もはや不要。一度「最高の悦楽」を味わったホワイトグリントのマゾヒスティックパワーは、もう切れない。
沙藤徹三の鞭がある限り、自ら限界の先へと達し続ける──。
(鞍上の鞭か。今までどれだけ打ったんだ。俺より鞭だけは巧いっ!)
ホワイトグリントは更に加速していく。至高の鞭打ちによる苦痛を糧にして。
(駄目か。もう完全にノらせちまった。気づくのが遅すぎた……!
もう一戦先、この伸びの理由を知った状態で対峙できていれば……白いのの燃料を断って、完封して勝てたものをっ!)
《二頭より速い! 銀幕の女王が、泥まみれになりながら怪物二頭を飲み込もうとしている!》
残り100メートル。
肺は焼けるように熱く、脚の筋肉は悲鳴を上げ、視界は泥で閉ざされているはずの極限状況。
そのうえでサディスティックな鞍上の鞭が飛ぶ。
普通の馬ならばレースを放り出す状況。
だからこそホワイトグリントは、鞭が響き渡る度に加速していく。
泥に塗れても分かる満面の笑顔で。
苦悶ではなく、爛々と輝く美しい眼差しで。
《追いついた! 三頭が並ぶ! 並ぶっ!!!》
スタンドの20万人を超える観衆が総立ちとなり、悲鳴のような歓声が渦巻く。
《並んだ! ティズナウ! ジャイアンツコーズウェイ! そしてホワイトグリント! 並んで!!
抜かした! ゴール板! ──僅かに! ホワイトグリント!!!》
チャーチルダウンズの全観衆が固唾を呑んで電光掲示板を見つめる中、一番上に表示された数字は──「9」。
「……勝った。勝ったぞぉ!」
北野オーナーが、絶叫しながら瀬戸内調教師と抱き合う。
オグリキャップのアメリカ遠征断念に涙して10年。
それ故に、凱旋門賞よりもアメリカG1を高く評価する男たちは、愛馬がアメリカの頂点に立った事に歓喜で涙した。
ティズナウをクビ差、ジャイアンツコーズウェイをさらにクビ差抑え、その後続を4馬身引き離し、東洋から来た白雪姫が、アメリカの頂点に立った。
《ホワイトグリントだ! ホワイトグリントが差し切った! ドバイワールドカップを制した白馬がアメリカの頂点に立った! 世界の頂点に立った!
初めて! 牝馬が! 牝馬が初めてBCクラシックを制した! それも! 20世紀末のBCクラシックを制した!
最強女王ホワイトグリント!
一万頭に一頭も産まれない白馬がかくも偉大なアメリカンドリームを掴んだ!》
誰もが認める偉業。
レース後のレーディングは──140。
アレッジドとシャーガーに並ぶここ10年で最高の数値、牝馬史上世界一の値だった。
総獲得賞金額も日本円で25億円を超え、今まで1位だったシガーの倍額となった。
ホワイトグリントは名実ともに世界一の馬になったのだ。
未だパート2国から紛れもなく世界一の馬が現れたことに、誰もが驚愕した。
だが、陣営が驚愕したのはその勝利だけではなかった。
検量室に引き揚げてきたグリントの姿を見て、瀬戸内調教師は言葉を失った。
泥を洗い流された後の彼女は、激戦を終えた直後だというのに、内側から溢れ出すような活気に満ち、その筋肉はドバイの時よりもさらに柔軟かつ強靭に研ぎ澄まされていた。
「……テツ、グリントの状態は」
「……先生。……笑ってますよ。何時も通りに何時も以上に」
沙藤が下馬し、手綱を引く。その手には、まだグリントが発する異常なまでの熱量が伝わってきていた。
「完全に活性化してます。アメリカの重い砂と怪物たちとの死闘が……グリントにとって、最高の活性化剤になったようです」
通常、BCクラシックをこれだけの接戦で勝ち抜いた馬は疲れ果てる。
しかし、ホワイトグリントにとって、アメリカのレースはただの「極上の刺激」でしかなかった。
「疲れがないどころか、今すぐもう一走できるくらいの顔をしてます。……覇王を刺すための『余力』じゃなく、覇王を正面から粉砕する『底力』を得ました」
「そうか」
「ええ」
ホワイトグリント陣営は誰もが不敵に笑った。
……ホワイトグリントの好調っぷりに夢中になり、I'll be backの返しを忘れたせいで、ウィンターウィークの時に酷い目にあう未来を知らない沙藤も含めて。
翌年、ホワイトグリントは映画『HORSE』での演技*4と、このBCクラシックでの歴史的勝利が評価され、本当にオスカーの主演女優賞を受賞することになる。
その5年後に『THE GREATEST MARE IN THE WORLD.CHAMPION ON THE TRACK, STAR ON THE SCREEN, AND BELOVED FAMILY(世界一の牝馬。競走馬としても女優としても家族の一員としても)』アメリカ殿堂馬*5として選ばれた時にブロンズ製のプレートに刻まれるほどの名誉だった。
しかし、そんな名誉よりも今の彼女を支配しているのは、またも透明になった快楽だけだった。
日本へ帰る機内、ホワイトグリントは満足げに鼻を鳴らし、透明な快楽と久しぶりに会えて乗って貰えたケインくんたちを思い返していた。
一方、日本では。
『オペラオーだ! テイエムオペラオーだ! 春秋天皇賞制覇! 年間此処まで負けなしの制覇!』
その走りに、もはや接戦という概念は介在しなかった。半馬身後ろで必死に追い縋るナリタトップロードたちに対して、余裕綽々の同速で走りながら、最後に一馬身だけ出て勝つ。
同期のクラシック馬を含めた優駿たちを、完璧かつ容赦なく子供のようにあしらってのけた。
王道を突き進むその姿は、観衆に感嘆と興奮を、他陣営に絶望を味あわせる。
完璧な走り、完璧な意志、そして完璧な勝利。世紀末の日本競馬界において、テイエムオペラオーとは「絶対」そのものだった。いかなる策を弄そうと、彼が先頭でゴールを切るという理は覆せない。
誰もがテイエムオペラオーの覇道を止める馬が今の日本に居ないことを悟り、その絶対的な静寂を打ち破れる惟一の存在の存在を思い返していた。
年間不敗のまま王座に君臨し続ける「覇王」と、年間不敗で最強女王となり帰還する「白雪姫」。
二つの極光が、師走の中山、有馬記念という名の祭壇で再度激突する日をファンは楽しみにしていた。
その前に、欧州から帰って来たメイショウドトウVSテイエムオペラオーのレースがジャパンカップで起きるのだから、楽しみで仕方なかった。
なお、重賞馬を抱えた他陣営は「やってられるか! 適当な重賞出るぞ!」と逃げようとしたのだが。
「今年は有馬記念が最後のレースなんです。世紀末最後の日本競馬のレースは有馬記念。そんな記念すべきレースで面子が薄いなど有ってはなりません。──出てくださいね」そんなJRAのお願いに、春の粛清の記憶も生々しい他陣営は泣く泣く重賞馬を出すことにした。
──ウチはスプリンターだから香港いくわ。とか、ウチは2500無理だから東京大賞典行くわ。とか言って逃げた極一部を除いて。
かくて、面子が揃う2カ月後の世紀末最後の一戦を前に、日本中が熱病に冒されたような期待と沈黙に包まれていた。