「予約席が2カ月前に埋まったとはいえ、ダフ屋がまさかあんなにいるとはな。ダフ屋の数は人気の証というが、まさかあんなに、それもあんな若いお嬢さんが」
「そうね。綺麗な娘だったわね」
「……なにが言いたいんだよ」
「別に、今、お義母さんが面倒見てくれてるユキの前であんなデレっと顔したらお父さんが黙ってないってことよ」
「……そうか」
デルマーはパシフィッククラシックでホワイトグリントの勝利に盛り上がった夜、出会ってまだ1日も経っていないアメリカ女性を孕ませた男は沈黙を選んだ。
嫁と口論しても勝てねえ、という万国共通の真理に従ったのもある。
それ以上に「責任取らねえと言ったら撃つ」という、カウボーイハット被った父親の真摯な眼差しと12番のショットガンには引け目しかないからだ。
未だに義父の前で、大半の事柄にハイ以外の返答を無くす威力がある。
特に12番のレミントンは。
おかしい。
大学生の時にオグリキャップの有馬記念に魂が灼けて、競馬に嵌ってオグリキャップの子供が活躍しないと競馬に飽きて、最後の競馬にしようとホワイトグリントに出会い再度灼けて……
順調にギャンカスの道を歩んでいた筈の自分が、30前で子持ち。しかも、国際結婚。そして、義父の牧場を継ぐために、アメリカの農大に入りながら修行中。
こんな人生想像さえできなかった。
競馬の神はなにを見てるんだろうか。
「ユキもこれたらよかったわねえ」
変だ。
高校時代に牧場の一人娘だからと虐められて人間不信になり、プロムにさえ出ず馬や牛との日々に明け暮れているうちに20代半ばを超え。
このまま、人生過ごすんだろうなあ。と考えている時に、ネイティブダンサーの孫オグリキャップの熊退治に脳灼けしてその娘の白馬がパシフィッククラシックを走ると聞いて競馬場を見に行ったら、何か困ってる日本人とあってずるずる。
結婚して娘を産んで義父と義母と仲良くなってずるずるずるずる。
今はたまに日本に来ながら旦那と一緒に牛とほんの少しの馬を育てている。
こんな人生を私が?
「「ま、幸せだから良いか」」
ホワイトグリントにより幸福になった。そんな珍しくない一組の夫婦が。
後年、キャサリンというアメリカ史上最強女王を育てることになる少しだけ変わったエピソードのある一組の夫婦が。
入場券を通して有馬記念開催日の朝の中山競馬場に入り──
『第一レースは! ダイワアルプスだぁ!!!』
うおおっ! あてたぁ!
タッケ! 信じてたぁ!
くそがぁ! 一番人気で勝ちやがってぇ!
穴党をなんだと思ってんだタッケぇ!
裏切ったんだ。また裏切ったんだなタッケ!
10番人気を3着。良い良いよぉワイドは正義だ!
ホワイトグリントボーナスへの積金を得たぜぇ。
よっ──(一瞬笑顔になると直ぐに真顔になり辺りを見渡し、そそくさと換金に向かう)
お父さん、当てた! 当てた!
しっ! 静かに!
えー!
ぬいぐるみ買ってやるから、な。お母さんに聞こえ──
そう、当てたの。良かったわ。さ、最上階のレストランに行きましょうか。高いから縁遠かった日々とおさらばよ
あと一回、もう一回、これで博打辞めるから! 最後の最後だから!
あんたが競馬を辞められるわけ無いじゃない…………はい。
──改装しても変わらない、有馬記念の日の中山競馬場を目にした。
「ああ、有馬記念だなぁ。この熱狂、ブームの有馬記念だ」
「………………そう、アメリカの競馬場も、こうなって欲しいわね」
感慨深げに笑顔になる旦那と、(日本競馬の熱狂って凄すぎない。これが国営ギャンブル)戦慄する嫁。
「世紀末なんだし有馬記念を年最後に」そんな理由で有馬記念が今年最後のレースになった日本競馬開催最終日にそれぞれの思いを抱く二人。
そんな二人を飲み込んだ中山競馬場は熱気に溢れ、10Rのレースを迎える瞬間に最高潮となった。
『平成三強産駒初の牡馬クラシック馬は最内枠となりました!
今日は調子は良いのか悪いのか!
1枠1番! 皐月賞馬は! テヤンデイ! 辛秀明!』
イナリワンの息子。
平成三強の牡馬クラシック馬に歓声が響き渡る。
(良いな。今日は。ようやく大人になってきた)
気性が悪いというより、負けん気が強すぎて騎手の手綱を無視する傾向があるから大敗が何度もある愛馬にようやく安堵する辛騎手。
「良いですな。ようやくレースに慣れてきました」
「良いですか」
「ええ、ありがとうございます。こちらの進言を聞き入れてくださったお陰ですわ。
負けても良いからレース慣れしたいなんて失礼なことを言ったのに」
「自分が信じたプロは信じる。経営者の基本です。信じて良かった。あの子は強くなった」
馬主席でオーナーと隣り合わせの田柳の台詞を聞けば誰もが感動しただろう。
調教師になって世間慣れした。と。
「ただ、申し上げた通りに勝ち目は薄いです。テヤンデイの本番は来年の夏以降でしょう。
最良の走りで3着が限界ですね、やっぱり」
「やはり、テイエムオペラオーとホワイトグリントが?」
「はい、強すぎます。どうにも出来ませんわ。やはり、回避した方が良かったのでは?」
お前わかってんの! レース直前の返し馬だよ! 広言するならともかく、オーナーにだけ聞こえる声でなに言ってんの! オーナーを萎えさせること言うんじゃないよ! 客商売だぞ!
そんなホースマンの叫びが聞こえたように感じるほど、田柳は田柳だった。
「平成三強贔屓があったとはいえ、メイショウドトウに次ぐ人気投票4位ですからね。ファンの期待に応えさせたかった。あと」
「あと?」
「せっかくなので、イナリワンの息子をオグリキャップの娘と走らせたかったんですよ。先生の見立てでは、あと少しなんでしょう彼女」
「ええ、生で見て確信しました。あと3戦、いえ2戦が限度です。早くなることはあっても遅くなることはありません
競走馬ではなく、母親になりつつあります。
ドバイもそうですが、BCクラシック。そして、ジャパンカップダートあれらのレースには透明な強さがありました。
マックスビューティたちで覚えがありますわ」
「なるほど、では、今のホワイトグリントの強さは」
「ええ、競走馬から母親へと身も心もなりつつある牝馬の最後の輝き、燃え尽きるロウソク最後の一燃えです。
どう見ても、フェブラリーステークスまででしょう。来年の春には繁殖ですね。まだ若い沙藤はともかく、瀬戸内先生は見誤らんでしょう」
その見立ては、第三次競馬ブームの中心にいる白き女王の終わりを意味していた。
うそだああああああ!
知ればJRAが慟哭する現実を、マックスビューティたちレース中に透き通って透明になった牝馬たちの経験を持つ田柳は見極めていた。
「北野オーナーは愛馬第一。先生の助言に頷いて速やかに引退させるでしょう」
「ええ、愛馬第一のオーナーさんですからね」
あなたと同じくと言うのは田柳には照れくさかった。
「……しかし、唐突ですね」
「競走馬のピークの終わりは何時も唐突ですからなあ。特に牝馬は」
「ほう、そうなのですか」
「ホワイトグリントのように急に母親になるのが『普通』……いや、アイツは、生まれ故郷で弟と過ごしたからか? いや、歳を考えれば……『普通』ですな」
「それはそれは――牝馬というのは調教師としては大変でしょうな」
「牝馬が牡馬に劣る点の一つですからね。何処も頭痛めてますよ。最近は薬で発情期を誤魔化そうとしてますが、やりたくありませんね」
「ほう、なぜ?」
「そんなことしたら、良い子を産めなくなる可能性があるらしいのですよ。重賞牝馬が重賞馬を産めないというのは、誰よりも馬が辛い。
周りの人間の目が冷たくなるのに根っこが繊細な馬は耐えられんのです。
競走馬は競走馬を終えたあとの方が長く生きるのに……
だから、ウチではやりたくありません」
オーナーは深く笑った
「やはり、よかった」
「ええ、私も、言っていて気付きましたわ。マイルが苦手なテヤンデイが彼女と戦えるのはここだけだと。前言撤回させてください。このレースに出てよかったですわ。平成三強の子が有馬記念で戦う。お客さんも喜ぶロマンです」
「いえ、それもありますが」
「はい?」
「あなたが、テヤンデイの、私の愛馬の調教師であってくれてよかった。と」
「………………そんなことを言っても、預託料はおまけしませんよ」
ははは
笑いあうふたり。
かつての天才騎手は立派な調教師になっていた。
『低人気だがこの馬は中山での重賞勝ちがある!
名手を背に一発を狙います!
2枠4番マチカネキンノホシ、丘部』
「この面子じゃ辛いなテイク・イット・イージーだよキンちゃん」
出ないはずだろあんた!
そんな目で見てくるまだまだ若い連中を驚かしたことで満足した丘部は、マチカネキンノホシに賞金を咥え込ませることだけに集中した。
流石である。
「テイエムオペラオーは、非の打ち所のない馬です。あの馬の強さをわからない人は競馬で勝つことを諦めたほうがいいのではないでしょうか。私はあの馬のファンですよ、一緒に走らせたくはないけれどね(笑)」
「ホワイトグリントは百年に一頭の牝馬。私の所に預託されていないという以外に非はありません。なんで、関東の馬主さんなのに牧場に行かなかったんでしょうかね。四年前の私はただ愚かでした(笑)」
そう広言する藤澤調教師と併せて勝ちを投げ捨てながらも最善を尽くしていた。
本当に流石である。
『さあ! 白い毛を輝かせて、昨年の覇者がやってきました!
人気は2番だが敗れるなどありえない!
3枠6番ホワイトグリント』
一際大きな中山競馬場のスタンドを揺らす地鳴りのような歓声が響くなか。
馬場入りする愛馬を、馬主席の北野オーナーは瀬戸口調教師と一緒に祈るような心地で凝視していた。
「やっぱり、お前はあいつの娘やな……いい歩きや。親父(オグリ)の時より、ずっと綺麗な良い動きや」
10年前、この場所で苦しみ抜いた身体で引退の二文字を背負いながら「芦毛の怪物」と呼ばれた父が起こした奇跡。
あの時、父の背中を押し、絶望の淵からターフへと送り出したのは、他ならぬ瀬戸内調教師だった。
そして今、その娘が、白き馬体を躍動させて目の前にいる。
身体は父と違う。光り輝く絶好調だ。1年の死闘で疲労しきったテイエムオペラオーに絶好調なまま戦う。
その戦略は完全に成功した。
未だ騎手には言っていない「引退」の2文字を背負って。
「本当に、もう無理なのですか、シロは」
ジャパンカップダート後に明かされた事実を未だ受け入れられない北野オーナーは呟いた
「はい、ホワイトグリントにフケ(発情)がきました。身体つきも筋肉が柔らかな肉になりつつあります。そして、トレーニングを今までよりも優しい(※他の馬から見たら馬体を壊すようなハード)ものでないと受け付けなくなりました
グリントは母親になりつつあります。
あと二、三ヶ月で完全な母親の心身になるでしょう
それまでが最後の一燃えです」
自分に言い聞かせるべく、瀬戸内は低く呟いた。
かつて泥を跳ね飛ばし、限界を超えて走り続けたオグリキャップ。その激闘のすべてを隣で支えてきた彼だからこそ、今のホワイトグリントが放つ透明さの意味が痛いほどわかる。
最後の一燃え。
それは、競走馬としての生命エネルギーが、次なる命を育むための母性へと変換される直前の、奇跡的な閃光だ。
強いが、それに頼るわけにはいかない。
だって、あいつには、ホワイトグリントにはオグリキャップの血をつなげる大仕事が待っているのだから。
自分に出来るのは、あと僅かな競走馬の日々を十全に故障させずに過ごさせるだけ。
そう自分に言い聞かせる。
「……つらいですな先生」
「? オーナー?」
沈鬱で何かを理解した顔のオーナーと目が合った
「オーナーブリーダーは愛馬の血を継がせるのが一番。活躍した愛馬の子や孫がどんな走りをするのかに胸を躍らせる日々は楽しい。そんな彼ら彼女らが重賞を勝ってくれれば、夢心地になる。
そんな風に皆さんに教えていただき、そう思うようにしてました」
しかし、と北野オーナーは言葉を切った。
「いざとなると──もっと走って欲しい。それだけなんです。それしか考えられません
孫まで産まれるような五十路を超え、天から与えられた使命を悟る年齢になっても──私は子供だ」
「わたしもですよ。わたしもですわオーナー」
十三冠馬。
オグリキャップの娘。
あと何度かしかレース出来ない白馬。
後世において、競走馬としてよりも繁殖牝馬としての評価が高くなる牝馬。
そんな愛馬を見る二人の目は、我が娘の門出を見守る親のような温かさに満ちていた。
なお、当然ながら、自分たちの情感を整理するので精一杯なため、「翌年2月のフェブラリーステークスをホワイトグリントのラストランにする予定」と未だにJRAに伝えていない二人だった。
レース中に透き通って透明になる≒レースがどうでもよくなってきている≒母親になりつつある
競馬雑誌で読んだ一節が気に入ったので取り入れました。
次回遅くなります