ただ刮目して叫ぼう。競馬の神のそんな言葉が聞こえたと多くの人が言った。
『一周目のゴール板! スタンド正面! あまりの大歓声! 実況が叫ばなければなりません! マッチレースです!』
実況の絶叫の通りの大歓声が巻き起こる。
どこまでも熱く、どこまでも夢中に、ホワイトグリントとテイエムオペラオー以外の馬券を買った人さえ叫ぶ。
『1度目のゴール板! テイエムオペラオー前へ! いや! ホワイトグリント抜かし返す! これがぁ! これこそが! マッチレースだあああ!』
直線でホワイトグリントが抜かされ、もう一度テイエムオペラオーを抜かし返す。
そんな決戦を見た大観衆はただ叫んだ。
ホワイトグリントの名を。
テイエムオペラオーの名を。
勝てーオペ! 負けるなーシロー!
誰よりもそのオーナーと調教師が、馬主席の窓へ貼り付いて絶叫し、後にその姿を写真に収められ、「誰よりも熱い応援者」と題名がつけられたほどだった。
『後続は10馬身以上離れている!』
どんなレースになるのだろう? 戦前からみんなが楽しみにしていたその答えはマッチレース。
そんなレースを見た人々はただ刮目して叫んだ。
心の熱をただ声に乗せて叫んだ。
『コーナー前で! テイエムオペラオー抜かしたあ! 内に切り込む! 少しでも距離を短く回るつもりだぁ! まさに! 人馬一体!
後続はどうか! くるのか!』
(やられたっ)
道中、はるか前方で繰り広げられる死闘を目の当たりにして、後続の馬に乗る騎手たちは全員、内心でそう叫んでいた。
ここまで他馬を完全に放り出した、自分たちだけの世界でのレースを、この大舞台で2頭がやってのけるとは。
控えて脚をためる。
勝負所まで馬の息を入れさせ、最後の直線で爆発させる。
それは近代競馬における絶対の「普通」だった。
ペースを読み、ラップを計算し、洗練され尽くした戦術における「普通」だった。
科学的なトレーニングが導入され、飼葉さえも配分やカロリーを厳密に計算したものになり、競走馬を極限のアスリートへと昇華させつつある、この20世紀末の近代競馬の「普通」だった。
彼らは皆、その「普通」という名の正解に忠実に従ったのだ。そうしなければ、2500メートルという長丁場を勝ち抜くことなど不可能だからだ。
ゆえに──。
『コーナー終わりで! ホワイトグリントが差し返す!
いや! テイエムオペラオーがまた差し返した!』
常識という鎖を引きちぎり、アスリートではなく野生の獣のように闘志を剥き出しにして先頭を争う彼らには、もう何をどうしても届かない。
「普通」を完璧に守った者たちは、「
自分たちの愛馬は年間一万頭生まれる日本馬のベスト10に入る優駿。上澄みの中の上澄み。輝く星。されど──
『向こう正面でホワイトグリントが再び先頭! テイエムオペラオーがすぐさま並び直す! 一歩も引かない!』
ホワイトグリントとテイエムオペラオーという史上最強クラスの極星には、「絶対」に届かない。
「……ふぅ」
あの頃──23年前の、あの伝説の有馬記念で乗鞍がなく、ただ「神話」を見つめることしかできなかった大ベテランの丘部は、道中で深く、熱い吐息を吐いた。
(また、見せつけられるのか。あの時と同じ、いや……それ以上のものを)
誰よりも近代競馬のセオリーを知り尽くした名手だからこそ、今目の前で起きている事象の異常さと、その領域には絶対に踏み込めない自分たちの現在地を、誰よりも残酷に痛感させられていた。
(ルドルフ、君がいてくれたら……君とさえ乗っていたなら)
「しろおおおお! かてえええええ!」
「まけるなあ! おぺええええ!」
普段は冷暖房完備の特等席で、優雅にレースを見下ろすはずの馬主席。だが今のそこには、社会的地位も、築き上げた名誉も、莫大な富の余裕すらも完全にかなぐり捨てた四人の男がいた。
ホワイトグリントのオーナーと、テイエムオペラオーのオーナーである。
彼らは身を乗り出し、窓を叩き続け、服をくしゃくしゃにし、ネクタイを振り乱し、顔を真っ赤にして、子供のように喉を枯らして絶叫していた。
社会的地位? 金持ち? そんなものは今この瞬間、何の意味も持たない。
己の夢を託した愛馬が、歴史の頂点で死力を尽くして激突しているのだ。
それを前にして、どうして澄ましていられようか。
ただただ、勝ってくれと願う。
熱狂以外を全て捨てて、彼らはただ己の愛馬の名を叫び続ける。
その横で同じことしている調教師と一緒に。
そして、その馬主席での姿を笑う者は、この中山競馬場には誰一人としていなかった。
なぜなら、地鳴りのような大歓声を上げる20万人の観衆全員が、彼らと全く同じように正気を失い、狂乱の渦の中にいたからだ。
抜かし抜かされをやり続けるレース。
『2000m通過タイムは……なんと日本レコードタイ! あと500m残っているとは思えない殺人的なタイムだああああ! 間違いなく有馬記念のレコードタイムを更新する!
マッチレースで有馬記念のレコードタイムは更新される!!!』
そのレースは遂に最後のコーナーを経過し、そのタイムにより、更なる熱狂に包まれる。
『そしてえええ! テイエムオペラオーが内に切り込んで勝負を仕掛ける! いやあ、ホワイトグリントが外から被せて内へ! 再び先頭を奪う!』
絶叫しっぱなしの実況の声が掠れてきたほどの熱狂が冬の中山競馬場を熱くさせる。
『さあ、澄みきった世紀末の空気を焦がしながら、2頭が最後の直線に入ります! 内ホワイトグリント! 外テイエムオペラオー!』
エルコンドルパサー
フリーハウス
サニーブライアン
セイウンスカイ
グラスワンダー
スペシャルウィーク
ドバイミレニアム
ティズナウ
みな優駿だった。
みな手強かった。
みな怪物だった。
そんな数々の怪物と渡り合ってきた。
ホワイトグリントと一緒に渡り合い勝ってきた。
『テイエム! テイエム! 差し返す! 差し返すはテイエム!』
だからこそ分かる。
『白だ! 白もまた前に出る! 直線入り口でオペラオーを再度逆襲! 最後まで決着はつかない!
最後まで! マッチレースだあああ!!!』
テイエムオペラオーはその怪物たちとさえ、一線を画している。
(日本馬とか海外馬とかそういう問題じゃないっ)
その栗毛の馬体にはホワイトグリントほどの艶はない。
その栗毛の馬体にはホワイトグリントには無い疲労が刻まれている。
だが、その脚はホワイトグリントを凌いでいた。
(モノが違うっ! これがテイエムオペラオー)
マッチレースしてよくわかった。
わかってしまった。
あの怪物たちより、一段階上にいる存在。
(最強だ。クソっ認めてやるっ。お前は強い。強すぎるっ)
その言葉が沙藤徹三の中で鳴り響くと同時に
『最強馬だ』
実況が万感の思いを込めてつぶやいた。
最強馬を所有するという夢を抱いたオーナーブリーダーがいる。
最強馬を育てると目標とした調教師がいる
最強馬を世話すると誓った厩務員がいる。
最強馬に乗ると願った騎手がいる。
日本競馬の数多のホースマンが、そう思った存在。
──最強馬
その意味がストンとホースマンの心に落ちた。
展開も近代競馬のスタンスも粉砕してただただ己の力だけで勝ちに行く。
どんな相手でも絶対に勝ちつづけた。
そんな2頭の、年間不敗の2頭の、日本馬で初めて海外G1で勝利し現役最高のリーディングを付けられた1頭と、グランドスラムを後一歩に見据えた1頭の決戦。
レコードタイムで誰よりも速く先頭を奪い合いながら走り抜ける決戦。
その決戦に勝った馬。
(((それが最強馬でなくてなんなんだ)))
『今まで数多の馬がそう呼ばれながらも! 万人がただ一頭を表しませんでした!
ですが! 今日この日! 世紀末の日に! この直線で決まる!
このマッチレースで決まる!
──最強が決まる!』
実況の絶叫が響く。
『このマッチレースを制した馬が最強だぁ!
誰もが認める最強馬だ!』
その実況が聞こえていなくても、沙藤徹三は理解していた。
今、ホワイトグリントと死闘を繰り広げている存在は、そういう馬なのだと。
『さあ! 残り200! どうなるっ! ああっ!』
ああっ!?
戸惑いが最も含まれたどよめきが競馬場を支配する。
極限の野生的な激突をしていた二頭に対し、近代競馬の洗練された騎乗による満を持した追込みを行ったメイショウドトウの姿に。
先頭の2頭にテレビも競馬場の視界も集中するなか、最良のコースを見極めた鞍上に導かれ十分に脚を溜めた優駿の姿に。
テヤンデイとエアシャカールを振り切って勝負の台に乗った姿に。
先頭に注目しすぎていたために誰もが突然現れた乱入者と認識した姿に。
『武士の情けだ! メイショウドトウ! どうか二頭での決着を!』
私情全開にして「空気読め!」という満場一致の意思を実況が叫ぶ。
──ああ、やっぱり
『おおっ! メイショウドトウの姿を見たのか! ホワイトグリント! テイエムオペラオー! もう一伸び! いや! いやぁっ!』
──アイツと、テイエムオペラオーと同世代なことは、本来なら世代トップになれるメイショウドトウに一生ついてくるじゃないか
『いや! テイエムオペラオーが更に突き放したあああ!』
──永遠のナンバーツーとして
最高の騎乗をしても届かない。
マッチレースなんて無茶苦茶をして疲弊しきっているのに届かない。
「とんでもないやつと同世代になっちゃったな」
メイショウドトウを渾身で追いながら、もう一伸びしたホワイトグリントとその上を行くテイエムオペラオーのあまりの強さに叫ぶ観客の大歓声を聞いて、大里は苦く笑った
『残り100! テイエムオペラオー先頭だぁ!』
(クソっ!)
ホワイトグリントに何度もサディスティックな鞭を振るいホワイトグリントはそれに応えてくれている。
ドマゾは完璧に走っている。
(それでも──か)
疲労困憊に対して元気溌剌。
そうなるように、事前から積み重ねて積み重ねた。
なのに、テイエムオペラオーには及ばない。
(いやっ! まだだっ!)
『ホワイトグリントもう一伸び! 鞍上の愛の一打! もう一伸びしたぁ!
神秘の末脚発動! 届くのかぁ!』
レースの時のごしゅじんこそ至高にして究極であり最高だよおおおおおおおお!!!???
競馬場が。いや日本が。否、世界が揺れた。
白馬の一伸び。
ありとあらゆる競馬場で勝利を掴んだ奇跡。
その発動に揺れる。
しろぉぉぉ!!!???
騎手が。
牧場長が。
牧場スタッフが。
調教師が。
調教助手が。
厩務員が。
オーナーとその家族が。
誰よりも大きく叫ぶ奇跡。
──そんな奇跡を力で破るからこそ、その馬は最強馬と呼ばれる。
『お! おっ! おっ! おあっ! お…………オペラオー! オペラオーだぁぁっ!
最後にもう一伸びしたホワイトグリントを更に振り切り! 一馬身つけたあああ! 完勝したあぁぁっ!』
中山競馬場が物理的に揺れる大歓声が響き渡った。
『勝った! 勝ったぞ! テイエムオペラオー! デッドヒートを制したぁ!
王道全てを走り一年勝ち続けたぁ!
初の年間不敗だ! 初の秋古馬三冠だ! 初のグランドスラムだぁ!
頂点で鳴り響くは覇王の歌!』
号泣する和多が疲労困憊で立ち止まったテイエムオペラオーの首を抱きしめて震える
『黄金世代を! 最強世代を打ち破ったぁ!
昨年の有馬記念で打ち破れなかったホワイトグリントをも! マッチレースで打ち破ったぁ!
最強世代を打ち破り最強馬となったぞ! テイエムオペラオー!
タイムは──えー! 信じられません! タイムは2分と26秒8!
2分26秒8のレコード! 圧倒的なレコード! マッチレースタイム!
恐れ入った! いやあ強い強い! 本当に強い! 最強馬だぁ!』
ゴール板をテイエムオペラオーが先頭に通った瞬間に咆哮して抱きあった竹曽野オーナーと岩本調教師が、抱きあったまま降馬場へ向かうエレベーターに乗る。
『陣営は! テイエムオペラオー陣営は! 来年は海外へ挑戦すると宣言しています!
ドバイか! キングジョージか! はたまた凱旋門か! それともブリーダーズカップか!
覇王が! 日本最強馬が! 海外でどんな走りをするのか!
今から楽しみでなりません!』
それら全てを制するとは流石に想像だにしていない人々は、ただ絶叫する。ただ讃える。
有馬記念勝者を。
翌年、海を越えた地で「ホワイトグリントたち黄金世代を破った馬」として、当地の全ての陣営を敵に回し、囲まれ、妨害されるも、常に正々堂々鞍上と共に正面から戦い勝ち続けた覇王を。
そんな注目が集まる勝者から離れた敗者、ホワイトグリントとその鞍上は息を整えていた。
「そうか……」
負けた時に何時も相手を一度睨むホワイトグリントが、テイエムオペラオーを睨まない意味を噛み締めながら。
「そうか…………」
あまりの感情に押し潰されそうになりながら、沙藤は愛馬の首筋を優しく撫でる。
荒い白い息を吐きながら、競走馬から母馬の顔になりつつある。毎日乗って薄々、否、今まで見ないようにしていた愛馬の在り方を、遂に受け止めて優しく撫でる。
「ありがとう。ホワイトグリント」
よくやった。頑張ったな。そんな言葉が脳裏には浮かんだ。だが、言葉に出来たのはそれだけだった。
それ以外に何一つ自分には、沙藤徹三には無かった。
「本当に──」
今のような時を迎えたら、みっともなく現役続行を強請ると思っていた。
今のような時を迎えたら、まだ走れるとホワイトグリントに乗って走らせる愚行をすると思っていた。
だが、今、もう直ぐに引退しなければならないことが明らかになった時にあるのは一つだけだった。
「──ありがとう」
感謝だけだった。
次回最終回です