黄金世代の白雪姫   作:サリエリキキ

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デビュー①

 1997年9月7日阪神競馬場

 

「あれ?」

 

 一人の男が競馬場に踏み込みほぼ埋まっているスタンドを見渡し軽く眉を上げた。

 

「人が来てるな」

 

 最近急激に少なくなってきていた人が来ていた。

 今日のメインレースはGⅢ、メインレースの時間に5万人もくれば多いと断言すべきだ。なのに、まだ、昼食前の時間で来場者数カウントは7万人を超えていた。

 信じられない数だ。そして、自分の後続からまだまだ人は続いている。このままだと昼食後の新馬戦のパドックの始まる時間には阪神競馬場収容能力の8万人を超えるかもしれない。

 馬会は喜びの悲鳴を上げているだろう。

 

「やっぱり、凄いなあ」

 

 改めてその存在感に瞠目する。

 これだけの客が来てくれたのはメインレースのためにではない。

 そのメインレースを押しのけてスポーツ新聞の1面に書かれた存在。ラジオやTVからですら流された存在のためだ。

 横を通り過ぎていく、カップルの声が聞こえてくる。

 

「本当に白馬が来るの? オグリキャップとホーリックスの白馬の子が」

「ああ、来るよ。新聞にも書いてあるだろう。ほら?」

「ふ~ん、でもさ、写真も取材も出来てないじゃない。本当に白馬なら1枚くらい写真撮るのに撮ってない……ひょっとして不細工?」

「いや、どうも、取材を断っていたらしい。集中させるためとか何だかんだ理由は書いていたけど、オグリキャップの瀬戸内厩舎だからな」

「あ~、マスコミにオグリキャップが酷い事されたもんね。そりゃあ、嫌がるか。うん、なら、オグリキャップの白毛ちゃんに会えるの楽しみにしておこ」

「楽しみだよなあ……なあ」

「ん?」

「今日は来てくれてありがとうな。競馬辞めたのに」

「せっかくだからさ。最後はオグリキャップの子供を見て区切り付けたかったんだ。それが白毛なんてたまらないでしょ。最後の競馬としてはかんっぺき」

「ああ、そうだな」

「少しでも上の順位になってくれればいいね」

「ああ、応援しような」

 

 彼らも自分と同じか。

 男はそう独り言ちた。

 今日、ここに来たのは競馬に区切りをつけるためだった。

 オグリキャップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー、ミホノブルボン、そしてナリタブライアン。

 彼らの時に有った熱はすでに消えていた。競馬に飽きたのではない、中山で押し潰されるようにしながら見たオグリキャップのラストラン時に有った熱が自分からは消えてしまっただけだ。

 これからは競馬そのものを辞めるか、競馬場に足を運ぶことなくTV越しで見るだけにしよう。

 そう決めて、ここに来た人は自分を含めて沢山居るのだろう。

 

「白馬の子か」

 

 日本競馬で白馬の馬が勝利したことは無い。

 今日、出るオグリキャップの子も勝てはしないだろう。

 皆がそう思っているのを示すように、10番人気の倍率73倍という低評価が全てを物語っている。

 ただ、オグリキャップの子供の白馬。それだけで人を集められるのは、凄い事だ。

 牝馬だと新聞には書いてあった。なら、最近人が減りつつある競馬界に酷使されることなく無事に繁殖に行って欲しい。

 あのオグリキャップの白馬の子だ。未勝利でも珍しい毛色の事もあってきっと大切にしてもらえるだろう。

 考え事をしながらゆっくりとパドック向かうと時間になっていた。

 そろそろオグリキャップの子を含めた新馬が出てくるはずだ。

 

「あ、出てきた」

「白馬ちゃんまだかな」

「7番だからまだまだだよ」

 

 ざわめくパドック懐かしい空気だ。

 競馬を辞めると決めたのに、高揚してくる。

 

「うん。あ、そろそ──え」

 

 白い毛が見えるとともに、ざわめきが消え人々は目を見張った。

 

 

 

 

 

『阪神競馬、第7レースは、芝1400メートルで行われる、サラ系3歳新馬戦。出走馬は13頭。来年のクラシックの夢舞台を目指した、若駒による戦いが始まります。昨日まで降っていた雨の影響で馬場コンディションは重馬場。これがどう若駒たちに影響するのか。

 期待と不安に満ちた若駒のパドックをご紹介いたします。解説は元JRA所属の田柳氏、そして実況は私深山が務めさせていただきます。田柳さんよろしくお願いします』

【はい、よろしくおねがいします】

『早速ですが、田柳さんの注目の馬を教えてください』

【はい、そうですね。バンブーアトラスの子ラヴラヴラヴが】

 

 解説と実況による馬紹介が始まる中、馬たちがそろそろパドックに顔を出す時間となっていった。

 

『オグリキャップの子ホワイトグリントはいかかでしょう。私、恥ずかしながら白馬だと聞いて胸を躍らせています。白馬なんて見るのは初めてなので』

【私もそうなんですよ】

『元騎手の田柳さんがですか?』

【はい、写真で見たことはあるのですが、白馬は珍しすぎてこの眼で見ることが出来ませんでした】

『そんなに珍しいんですか?』

【4頭。それが今まで日本競馬に居た白馬の数です】

『4頭しか居ないのですか?』

【はい、ハクタイユーとカミノホワイトとミサワパールそしてミサワボタンしか居ません。そして4頭全てが勝つどころか掲示板にも乗りませんでした。お客さんも知っている方ばかりなのでしょう。人気が物語っています】

『そうですか。少し残念です。やはり、あのオグリキャップの子ですし』

【そうですね。私もです。でも、新馬戦でこれだけのお客さんが来てくれたのが驚きです】

『本当に、そうですね。私、これだけのお客さんが新馬戦に来られているのを初めてみました。9万人を越えて10万人に迫っているとのことです。阪神競馬場の最大来客者数を更新したのではないでしょうか』

【オグリキャップの種牡馬成績はシンジケートが解散したほど悪くとも、その子の白馬を観たいとこれだけの方が来てくれる】

 

 やっぱりオグリキャップは凄いですね。と解説の独り言ちるような声が響くとともに馬たちが姿を現した。

 順序良く馬の紹介を進めていく中、7番目、ホワイトグリントの順が来た。

 

『次に見えますのは7番ホワイトグリント号で──っ!?』

 

 息を呑む声と共に実況の言葉が止まった。こういう時にフォローするのも解説の仕事だが、今はそれが出来ない。

 同じく息を呑んで一言だけ漏らし絶句してしまった。

 

【綺麗、だ】

 

 

 

 

 

 実況も解説もそしてパドックの見学者全員が沈黙した中、一頭の白馬が進む。

 全身を綺麗にブラッシングされ、丁寧に鬣を織り込まれ、しっかりと馬具を付けられた白馬が進む。

 日本競馬史上5頭目の白毛のサラブレッドが進む。

 

「わぁ」

 

 唯一発せられた感嘆を噛み殺した吐息は誰の物か。それすら定かではない。

 300年もの間にわたって人々が思う存分金と手間と知恵と欲望を費やして造り上げた種。それがサラブレッドだ。

 そんな種であるサラブレッドは人の手の作り出した最高の芸術品とも呼ばれている。

 だが、サラブレッドを見て人は芸術品と思うことは無い。

 当たり前だ。生き物を見て真っ先に芸術だと人間は思うことは無い。

 いや、無かった。

 今日、この日までは

 

「……………………」

 

 本物の美しいモノを見ると人は無言になる。

 パドックは感嘆の溜息と熱視線だけが、その芸術に集まっていた。

 

 北海道にて最初に降った雪の最も純粋なものだけが、そのまま毛となったかのようなどこまでも白くて綺麗な毛色。

 見事なまでに均整がとれた身体は、人間にさえ色気が感じられる。

 悠々と歩くたびにその鍛え上げられた肉体をうねらせる様は、見る者を引き込んで止まない。

 真っ直ぐ顔を立てて歩くのは、その気性の良さを物語る一人引き。

 臆病な種である馬であるはずなのに、声一つ起きない異様な空気を漂わせる周りの熱視線や溜息に怯え竦んで暴れ回りそうになる他の若駒と違い、微動だにせず歩く様には辺りを払うほどの気品があった。

 曇り空の中僅かに刺す光に照らされることで白く美しい毛が一際煌めいている様は、もう言葉にならない。パドックに居る者達は今日曇りであることにただ感謝した。雨天は勿論、晴天ならばこの煌めきは損なわれていた。この煌めきは僅かに光が差す曇り空の下でしか許されない奇跡だった。

 

 後に、競馬本場の地で、ある高名な英国人が「私は、あの日、サラブレッドを、人の手の作り出した最高の芸術を初めて眼にすることが出来たわ。あの牝馬こそが人が300年も追い求めていたサラブレッドなのよ」と涙しながら絶賛の限りを尽くした。

 

 ホワイトグリントとは、そういう存在だった。

 

 

 

 

【ふ、深山さん】

『…………』

【あ、あの。深山さん】

『あ……え』

【深山さん】

『は、はいっ、あ……も、申し訳ありません。私っ、私、実況を忘れていました。な、7番ホワイトグリント。し、白毛です。白馬です。馬体重は477kg。父は、お、おぐ。オグリキャップ号。倍率は73倍。いえ、変動して今は』

 

 なんて素晴らしい馬だ。未だに声を震わせてしまう実況の横で、解説者は一度マイクを切り呟く。

 マイクを切ることが出来るのは数秒だけだろう。でもギリギリまで許されたかった。一頭の馬だけを見ていたかった。

 一人のホースマンとして、早々見ることが出来ないレベルの競走馬。

 端的にモノが違うと断言できるほどの馬を目に焼き付ける。

 

 

 

 

「買おう」

 

 発売締切まで時間がない。

 男は駆け出した。

 同じく何人もの人が駆け出す。

 あまりの馬体に惚れ込んだ馬券師も。

 白毛の美しさに魅了された者達も。

 オグリキャップの子に惹かれた者達も。

 考えることはただ一つ。

 馬券を買おう。

 ギャンブルのための馬券ともう一つ応援馬券を。

 あの子の名前が刻まれた応援馬券を。

 1万と100円。

 1万円の方は単勝に、7番ホワイトグリントが印字された馬券。

 100円の方は当たっても換金しない持ち帰る。あの有馬記念でのオグリキャップの馬券と同じく持ち帰る。そのための応援馬券だ。7番ホワイトグリントの名が刻まれている。

 男の癖で、馬券を買う時には声が出る。儲けさせてね。せめて赤字にはしないで。勝てよ。そんな、言葉はこの日出てこなかった。

 ホワイトグリントの父オグリキャップと母ホーリックス。あの伝説のジャパンカップで実況が絶叫した言葉があの白馬には相応しい。

 

「頑張れ、ホワイトグリント」

 

 あの美しさだけではない。あの馬体。何よりも周りの馬全てが怯え竦んでいても全く動じない精神力。

 あの馬は間違いなく本物だ。

 そうだ。あの精神力は間違いなく父親と母親譲りのもの。

 皆が待ち望んだオグリキャップの物語を継ぐ子だ。

 

 

 

 

 

 馬主席にて、家族と一緒に来た馬主の北野は自分の愛馬ホワイトグリントが注目を集めるだろうと、牧場を見るために北海道でTV鑑賞している場長から言われていたため、ある程度の事は受け入れることが出来るつもりだった。

 知人との挨拶は和やかだった。

 初対面の人ともちゃんとあいさつを終えた。

 ホワイトグリントが出てきた時に馬主席が感嘆に飲まれた時は鼻高々だった。

 

 そう、全ては過去形だ。

 

「あの白毛、気品……素晴らしいが何より素晴らしいのは精神力だ。パドックなんて人が集まる場所に初めて放り出されれば苦しささえ覚えてもっと怯えるんだ。なのに……一人引きだと。引いている人間への信頼? いや、信頼しているのは間違いないが、それだけだ縋っていない。縋っていたらゴールデンバードのように、厩務員から離れなくなる。あの威風堂々っぷりは違う。心が精神が強いんだ。欲しい。精神は産まれついてだけの物だ。それだけであの馬が欲しい。……おお、あの歩様。産まれついての体幹が素晴らしいんだ。なんて資質だ。これだけでオグリキャップの娘というハンデがあっても買い手が……なんだあのバネ。柔らかすぎる。同じくらい鍛えていてもミホノブルボンにはあの柔らかさは無かったぞ。どうなってるんだ。坂路じゃあんな肉は付かない。無理だ……プール? プールか。プールと坂路や他の調教を混ぜ合わせれば理論的には……いや、どう考えてもそこまでしごき上げられないだろ。痛くて苦しすぎて馬が嫌がって止めてしまう。だが、今、現実に。今、ここに、俺の目の前に。あんな馬が。産まれついての強靭な精神と類稀な肉体に見事な育成を咀嚼した理想のサラブレッドが」

 

 来て真っ先に、挨拶した知人の内の一人。

 医療関係の業務提携をしている社大グループのトップ三兄弟のうちの一人。

 ホワイトグリントが出てくるまでは、まさに理想的なホストとして馬関係の人脈に乏しい自分に調教師を含めて沢山の人を紹介してくれた紳士。

 自分の所の馬が出るとは言っても、知人の立場なら出るのはメインレースだけで良い。業務提携先である自分のために、多忙な所を態々早めに競馬場に来てくれた思いやりの紳士。

 

 

 その紳士は、ホワイトグリントが出てくると同時に死んだ。

 

 

 目を見開き固まると、そのまま窓に向けて早歩きで突進していった。

 今現在は、馬主席の窓に身を乗り出そうとして慌てた秘書に腰を掴まれていることをものともせず窓に顔を貼り付けてしまった馬産家となっていた。

 紳士の顔を投げ捨て、一人の馬産家の地金をさらけ出した姿に皆ドン引きしていた。

 ──知人のほかにも生産者全員と何人かの馬主が同じことしているのが、競馬界の濃さを物語っているが。

 

「降りて確かめるか」

 

 文字通りホワイトグリントを舐めまわすように目に焼き付けた後、ぽつりとつぶやきそのままエレベーターの方に歩いていこうとした。

 あの馬を知りたいという色しかない目で歩いていく一人の馬産家に周りは直ぐに道を開けていく。

 待ってください。あなた自分の立場わかってるんですか。悲鳴を上げて止める秘書。

 すったもんだの末に秘書が勝利して安堵の空気に染まる馬主席。

 お恥ずかしい所を、いえいえ馬のお仕事をしていらっしゃるなら当然ですよ。と皆さっきの事を忘れて紳士淑女へと戻る。

 

 そして、北野にとってはここからが本番だった。

 

「北野さん、少しお話があるのでお時間をよろしいでしょうか?」

「売りませんよ」

 

 一人の経営者として北野は即答する。

 知人が紳士の顔と口調に戻ったからこそドロッドロの内面が分かる。少しでも言葉を濁せばコイツは俺たちのグリントを持って行く。拒絶一手しかない。

 だが、知人も海千山千の経営者の一人。

 

「お話というのは、繁殖牝馬についてなのですが」

「ホワイトグリントはオーナーブリーダーである私の所で良い繁殖牝馬になってくれると確信しています」

 

 未だにアメリカから買えた8歳牝馬1頭しか繁殖牝馬がいないこちらの足元を見てくるが、内心で思いっきり中指を立てながら応える。

 こちらのけんもほろろな態度に、全く笑顔を曇らせないまま種牡馬だのなんだの言葉を連ねて売らせようとする知人。だが同じく笑顔の北野は譲らない。譲ってたまるか。グリントを可愛がっている家族が怒ることを除いても売るわけがない。当然だ。グリントは俺たちのだ。

 

「残念ですが仕方ありませんな……では、折角ですので北野さんの最初の馬の走りを一緒に見せていただいても」

「勿論です。では一緒に窓際に」

「ええ、窓際に」

 

 そのまま、知人と一緒に窓際に歩いていく。

 

「北野さん」

「はい」

 

 この場所でこの声量ならば周りには聞こえない。北野と知人はそれを確認した。

 

 

 

 

 

 

 

「どおおおおおおしてあんな馬が居ると言ってくれなかったんですかああああああ!?」

 

 知人の怨嗟と嫉妬に満ちた小声の悲鳴がとてもとても気持ち良かった。




 田柳さんは前倒しで調教師してます。
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