変わる運命
幸福なものであれ、不幸なものであれ、善悪や喜怒哀楽も問わずに人には忘れられない記憶というものがある。
──今でもあの日の光景を覚えている
それはひとりの少年の記憶に焼きついている忘れられない過去の一幕だった……。
その日も少年には、いつもと変わらない日常の始まり──そのはずだった。
優れた眼と身体能力を有していること以外は、極東出身の冒険者の父親と知識神の神官の母親を持つ、極々普通な黒髪碧眼の十歳ほどの冒険者に憧れる少年は、今日も変わり映えのない日を送るはずだった。
父親は冒険者として〝死の迷宮〟と呼ばれる場所へ出稼ぎに出ており、仕送りこそあるがしばらく帰って来ていない。
逆にいえば仕送りがあるからこそ父は無事とも言えるが。
母親は、少年がいまより幼いときに病で亡くしている。
知識神の信徒だが奇跡を授かっていなかったらしい母だが、知識神の信徒らしく知識に関しては書き溜めて遺してくれていて読み書きを村にある小さな寺院で教わった少年には、それらを読み耽ることも楽しみのひとつだった。
そうして、子供ながらに一人暮らしをしている少年だが寂しくはなかった。
父に教わった一子相伝の東方の剣術を練習したり、母の遺したメモから様々な知識を学んだり、同い年の少年の姉に色々なことを教わったり、ふたつ下の妹にように可愛い子と遊んだり、子供ながらに村へ決して少なくない貢献をしている狩りに行ったり、村長の娘であり日頃面倒を見てくれる村でも評判な美少女三姉妹と料理を食べて一緒に寝たりして過ごす。
そんな平凡などこにでも居るありふれた少年は、いつかは冒険者になって物語や詩に出るような活躍をしてみたいと夢見ながら剣術を始め色々と学び、されども今はまだ変わり映えのない退屈でありふれた毎日。
子供特有の不満はあったが、それでも幸せだと思える日々。
誓ってなくなってしまえなどと思ったことはなかった。
だが、それでもこれは、そんな少年へ神々が与えた罰なのだろうか?
あるいは〝偶然〟と〝宿命〟の骰子の悪戯なのだろうか?
目の前に広がる赤。
赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
血のような夕焼けが、本物の赤い鮮血が、すべてを呑み込むような炎が、十年という人生のすべてを過ごした少年の故郷を染め上げている。
幼馴染みの女の子が伯父の牧場の手伝いで村を出立した日の朝、少年が日課である剣術の修業を終えて近くの森へ薬草の採取と狩りをしに行き、帰ってきてみればありふれた日常は、あり得なかった非日常に変わっていた。
焦燥に駆られた少年は、慌てて走り出した。
向かうのは、自分以外は誰もいない己の家ではなく、毎日お世話になっている三姉妹が居る村長の家だ。
少年が辿り着いた村で一番立派な家であるそこは、無数の小さな影に囲まれていた。
その正体は、見たことないが話に聞いたことはある。
緑の肌に黄色の濁った瞳が特徴的な、子供の少年と変わらないそれは、この四方世界に数多居る怪物の中でも最弱の──ゴブリン。
ゴブリン──それは数ばかりが取り柄の、最も弱いとされる怪物だ。
背丈は子供並。
膂力も、知力も同様。
しいて言えば、夜目が利くという辺りが特徴か。
それ以外は人を脅かし、村を襲い、女を攫い、とまあ怪物らしい行動を取ることに変わりない。
だが、その特徴により女──三姉妹に引き寄せられて家に集まってきた数は、唯一の取り柄の面目躍如とばかりに十匹は超えていた。
──耳鳴りがする。
「──お姉ちゃんっ!?」
平和だった今朝とあまりに違った非現実的な状況に目眩を覚えた少年だったが、家内から聞こえた三姉妹の──三女のものだ──の悲痛な叫びにハッとなり、現実逃避している暇はないとまずは三姉妹たちを救うことを考える。
いま手にしているのは、腰に吊った一本の片刃短剣、背負った弓、数本の矢、いくつかの薬、小石の入った袋、採取してきた薬草、狩ってきた獣の肉だった。
(……これだけあればなんとか!)
少年は、決断した。
できるかできないかはわからない。
だが、やってみなければわからない。
成功も失敗もやるかやらないかの先にあるものだから。
まず少年は、母の遺した知識から学んだ狩りの際に、危うくなったときのために調合していた薬の入った小瓶をゴブリンの群れに放り込んだ。
「GOBORR!?」
小瓶は一匹のゴブリンの頭に命中して割れ、なかに入っていた薬液が撒き散らされる。
その痛みと薬の刺激臭にのたうち回るゴブリンを、周りのゴブリンたちが指差しながら嘲笑う。
彼らに仲間意識などなく、自分がそうなるとは夢にも思っていないのだ。
だから、気づいたときには自分たちもそうなっていた。
薬液が気化し周囲に散布され、周りを取り囲んでいたゴブリンたちも顔──正確には目を手で押さえてのたうち回り始める。
扱いに注意が必要な薬草をすり潰し、水に溶かしただけのものだが獣だけでなくゴブリンにも有効なようだ。
その光景を確認したときには、少年は物陰から飛び出していた。
背中に吊っていた弓を手に取り、矢を番えて弓弦を引き絞り、狙いを定めて放つ。
標的は、薬液の範囲外にいるゴブリンたちだ。
彼らは、周りの同胞たちの惨状を笑ってばかりで少年にはまだ気づいていなかった。
「GOBORR!?」
頭や目に矢が突き刺さって汚い断末魔の声を上げ、絶命したゴブリンが倒れ伏す。
このときになってようやくゴブリンたちは、少年の存在に気がついたが既に遅かった。
さらに走りながら残っていた数本の矢を射掛け、その本数だけゴブリンを殺した少年は、家のなかに踏み込んだ。
見慣れた家内は荒らされ、急な事態に驚愕する無事なゴブリンが数体いたが、それより少年の意識が向いたのは三姉妹たちだ。
長く美しい金髪をポニーテールにした女性──長女が倒れている。
額に怪我をしていることからゴブリンに蹴倒されたのだろうとわかる。
だが幸いなことにいまのところ彼女にそれ以外、目立った外傷はない。
そんな姉を桃髪のショートヘアの次女、青みがかった黒髪ロングヘアの三女が目に涙を浮かべて寄り添い合いながら震えて見ていた。
聡明な長女の、快活な次女の、心優しい三女のそんな日頃からかけ離れた様子に、温かな日常を踏み躙って嘲笑うゴブリンたちに、少年は、全身の血が沸騰したような感覚を覚えた。
三姉妹が、ゴブリンたちが、突入してきた闖入者に驚愕するなか、少年はその困惑が覚めるよりも速く駆け出して肉薄していく。
長女が使ったものだろうか、転がっていた鍬を拾って振り上げて振り下ろしゴブリンの頭を割り砕く。
女性でも殺せる程度の耐久しかないゴブリンは、鍛えているとはいえまだまだ未成熟な少年の腕力でも充分に殺せた。
続いて勢いよく鍬を振り抜いてゴブリンの横っ面を打ち砕き、その遠心力を利用して最後の一匹のゴブリンも同じ目に遭わせて殺した。
「大丈夫か、姉さんたち!?」
ゴブリンの顔にめり込んだ鍬を手放し、少年は三姉妹に焦燥と心配に満ちた声をかけた。
「え、ええ、大丈夫よ」
怪我をした額を手で押さえながら身を起こした長女が震える声で応じた。
本当に間一髪だったようだが、だからこそゴブリンへの恐怖に身を震わせている。
「「お姉ちゃんっ!」」
そんな長女に次女と三女が、声と体を涙と恐怖に震えさせながら抱きついた。
長女はそれを優しく温かく抱きしめて「大丈夫。大丈夫よ」と声をかけている。
「……姉さんたち、悪いんだけど急いでここを離れよう」
三姉妹の様子を見守っていた少年は、声音に焦燥を滲ませてそう言う。
そろそろ薬によってのたうち回っていたゴブリンたちが立ち直るだろうし、何よりゴブリンはここに居るだけではない。
見てきたわけではないが、おそらく村中にゴブリンたちが居る。
安心するにはまだ早い。
「ええ、そうね。ほら、あなたたちも。私はもう大丈夫だから、ね?」
聡明な長女もそれを理解しており、表情を強張らせながらも妹たちに優しく声をかける。
次女と三女も頷いて涙を拭い、体を離す。
それから、扱いかたは知らないがないよりはいいだろうと三姉妹は、少年が殺したゴブリンたちが持っていた武器を手にする。
いちおう、そのなかでも扱いやすく、いざというときは距離を取れるように槍や鍬などの長物を選んだ。
最後に三姉妹は、緊急時に持ち出せるように貴重品を詰めた鞄を手にして準備を終えた。
少年は粗雑だが扱いかたを知っている剣と矢を奪った。
剣よりは湾刀が得意だがゴブリン相手に贅沢なことは言ってられないし、あっても体格や筋力が釣り合わない。
むしろ子供には、体躯が同じくらいのゴブリンの使うような武器が丁度よかった。
そして、緊張した面持ちで顔を見合わせて頷き合い、入口はのたうち回っていたゴブリンたちが立ち直りそうだったため、少年と三姉妹は家の裏口から外に出た。
そして、飛び込んできた光景は地獄絵図そのものだった。
村のそこかしこにゴブリンどもが蠢き、殺戮と掠奪を行っている。
馴染みのある人が、家が、故郷が、ゴブリンたちの手によって犯されて侵されていく惨劇。
「ぅ、ぁ……」
「ぃ、ぃゃ……」
「っ! い、行きましょう!」
次女と三女が涙と恐怖に竦み上がるなか、長女も同じ想いを感じながら大切な妹たちのために自分を叱咤し毅然と言ってふたりを促す。
幸い次女も三女も大切な姉妹が傍に居るからか、半狂乱になっておかしな真似をすることなく頷き、お互いを守るために行動に移した。
「それで、どうするのかしら!?」
長女が少年に訊ねる。
この場の最年長が最年少に訊くのはどうかと思ったが、自分たちの窮地を救ってくれた少年なら頼ることができた。
次女と三女にも異論はなく、黙って涙に潤んだ瞳で見守っている。
三姉妹にとって可愛い弟のように思っていた少年は、いまや誰よりも頼りになる男になっていた。
「……村を出て街道に出ようと思う」
物陰から様子を窺っていた少年は、そう応えた。
それはつまり同郷の者たちを、故郷を見捨てるということだ。
少年は、英雄ではない。
勇者ではない。
この状況でできることなど、最弱の怪物相手に逃げることだけだった。
しかし、三姉妹に異論も落胆もなかった。
薄々わかっていたのだ。自分たちの故郷は、もうないのだと。
もちろん、親しい者たちや故郷を見捨てることに逡巡や罪悪感はある。
確かに助けに行こうなどと言うのは簡単だ。
だが、目の前の悍ましい光景を見て、どうしてそう言えよう。
少なくともゴブリンの恐怖を知った三姉妹には、とてもではないが言えるはずがなかった。
「……ええ、私も賛成よ。私たちが助かるには、それしかない」
だから長女は、あえて口に出して賛成した。
少年ひとりにこの判断を、罪を背負わせないために。
「うん……そう、だよね。あたしもそうするべきだと思う」
「わ、わたしもそれがいいと思う」
それに次女と三女も続いた。
みんなで決めたことだからと、大切な人が重荷を背負わないように。
「……ありがとう」
少年は、三姉妹の優しさにそう返すと薬品の入った瓶を手に前を向き言う。
「……あまり周りは見ないで、前だけを見て走ろう」
自分に言い聞かせるかのようなその言葉に、三姉妹も緊張した面持ちで頷いた。
それを背後の気配で察した少年は、村の出口までの道を見据えて飛び出す。
三姉妹もそれに続いた。
赤と緑の双月の月明かりの下、夜陰に紛れて物陰から物陰へと進む少年と三姉妹だが、どうしたって凄惨な光景と悲痛な声、人の焼ける匂いが目と耳と鼻に入り、親しい者や馴染みの風景の変わり果てた様子に吐き気や嫌悪を呼び起こされ、精神が磨耗し目と耳を塞いで足を止めたくなるが傍に居る大切な者の存在が辛うじて前へと進ませた。
幸いにも人の焼ける匂いに紛れて三姉妹の若い女の匂いには、気づかれることはなかった。
そうして人生で一番長く感じた時間が経ち、ようやく村の外に通じる出入り口が見えてきた。
ここからは身を隠すところはない。
「「「「…………」」」」
生い茂った雑草に身を隠して一度立ち止まり、少年と三姉妹は緊張した面持ちで顔を見合わせて頷くと深呼吸を挟み、一気に飛び出した。
こうなっては匂いなど関係なく、目敏くも見咎めた若い女の姿に釣られたゴブリンたちが我先にと群がろうと遮二無二に走るが、それは少年が許さない。
少年は、手にしていた薬品瓶をゴブリンたちへ投げつける。
割れ出た中身が気化して刺激臭にのたうち回るゴブリンたちを見る暇も惜しいと、少年は足を動かす。
三姉妹も湧き上がる恐怖を互いの存在で抑え込み、そのあとに続く。
いつもはそんなことないはずなのに、やけに村の出口までの道が長く感じられ、呼吸が乱れる。
次々と四方八方から現れては、群がろうとするゴブリンたちを少年は時に薬品瓶を投げ、時に矢を射掛け、時に粗雑な剣で斬って逃げ道を切り開いていく。
死んだかどうかは、確認していない。
いま大事なのは、四人で無事に逃げ切ること。
そのために一秒でも長くゴブリンたちを足止めできればいいのだ。
あと少しで村の出入口に辿り着くかに思われた、そのときだった。
ヒュンッという風切り音が少年の耳についた。
それを聞き取ったのは、〝宿命〟か、〝偶然〟か。
聞き慣れたその音を耳が捉えたときには、少年は体を捻って回避運動に入る。
直前まで少年の体があった空間を一条の矢が横切っていく。
見れば弓を手にしたゴブリンが拙いながらに狙撃してきたのだ。
少年は、自分も弓矢を扱うことで運良く風切り音を聞き取り、ゴブリンの力や技術が幼い子供程度でしかないこともあって子供ながらに鍛えているゆえに躱せた。
「……っ!」
お返しとばかりに粗雑な矢を弓に番え、射返す。
少年の放った矢は、見事ゴブリンの眼窩に突き刺さって絶命させた。
「……姉さんたち、急ごう!」
「っ……ええっ!」
「う、うんっ!」
「はぁ、はぁ……うんっ!」
少年の言葉に三姉妹は息を切らしながら頷き、四人は一心不乱に前を見て走る。
ゴブリンの粗末な矢の射程から出た四人は、幸いにも我慢を知らずに我先にと欲望に走るゴブリンたちが略奪中に見張りなどという殊勝な真似をしないということもあって、無事に村の出入り口から故郷だった場所を出ることができた。
村の外は、暗く木々が生い茂っていて野生の獣や魔物の心配があったが最早引き返すという道はない。
どうせゴブリンに襲われるくらいならと、四人は恐怖を押し殺し、あるいは恐怖に背中を押されるようにして前へ前へと足を動かした。
燃え盛る炎に、響き渡るゴブリンたちの嘲笑や村人たちの悲鳴に、追い立てられるように走って走って、走って走って……どうにか逃げ出した四人は、遂に街道に出た。
「はぁ、はぁ、っ……な、なんとか逃げ切れた……?」
「はぁ、はぁ……こ、ここから街に向かうんだよねっ」
次女、三女が背後を気にして怯えながらもそう言って希望を見出して活力にする。
もうゴブリンたちは、追ってきていないがまだ追いかけてきているのではないか、止まっていてはいまにも捕まるのではないかという強迫観念が彼女たちを突き動かしていた。
次女や三女同様、村の女性の口に出すのも憚れる凄惨な凌辱を思い出してぶるりと身を震わせ、長女は言う。
「え、ええ、そうね……はぁ、このまま街に向かって、街に着いたら……神殿に頼ってみるしかないわ」
貴重品などは持ち出せたが、着の身着のまま宛もコネもない四人には、秩序の神のお膝元に頼るしかなかった。
幸い孤児や村を焼け出された者など珍しくないので保護を受け、身の振りかたを考える時間くらいは得られるだろう。
「そう、だね……行こう、姉さんたち」
少年の言葉に三姉妹は頷き、四人は身を寄せ合いながら出立した。
どれだけ歩いたのか。数分かもしれないし、数十分かもしれないし、もしかしたら数時間か数日かもしれない。
そんなふうに時間感覚が麻痺するくらいにまだゴブリンが追ってきてるかもしれない、いまこの瞬間にも追いつかれるかもしれないといった不安や恐怖、焦燥に駆られながら四人は、それでも身を寄せ合って前に進んだ。
お互いの存在とぬくもりが安らぎになり、疲れても一歩でも多く前に進む。
幸いにも〝偶然〟か〝宿命〟が味方したのか、四人は街道を行く途中で乗り合い馬車に拾ってもらい、故郷より離れた〝水の街〟へと難を逃れることができた。
あとに残されたのは、ひとつの村が滅ぼされたという事実のみ。
すべては報告書の数字としてのみ記録され、国王が村々の名を知ることは終ぞなかったという。
そしておそらくは、神々さえも──……。
END
これを書いたのは、どうしてもイヤーワン時代の三姉妹を死なせるのは惜しいと思い、生存させたいのがきっかけでした。
ちなみにpixiv様のほうでは、この続きはまだないです。こちらで連載しようと思い、今回投稿させていただきました。
パーティメンバーは、皆さんから募集しようかなと思います。その際は、活動報告にてご協力をよろしくお願いします。
それでは、これにてお引っ越し作業はひとまず終わりです。また次回、どこかの作品でお会いしましょう!