透き通るような優しい音、金属片の奏でる純粋な音がいくつも重なり合い、一つの曲となって部屋中に響く。
オルゴール付きの目覚まし時計。
昭和の初めに作られたという年代物の時計に、布団から這い出てきた腕が伸びる。
裏側にある停止ボタンを押すと、時計を持ち上げ、カーテンの隙間から覗く朝の光にかざし時刻を見る。
朝の6時。起床時間。
スギナは目覚まし時計をそっと畳の上に置くと、胸の上に覆いかぶさる風待の腕を押しのけ、布団から起き上がる。
布団の外に散らばっている自分の下着を身に着けると、薄暗い部屋の中で大きく伸びをする。
軽く身体をほぐした後、遮光カーテンを開けると、部屋の中は爽やかな外の明かりに包まれる。
今日の空は晴れ。はるか上空に薄く淡い朝雲が漂っているが、やがて消えるだろう。
春が深くなるにつれ、日に日に濃くなっていく空の青。
そしてその空より濃い、伊勢湾の海の青が目の前に広がる。
初めてこの部屋に来たときは夜中だったのでわからなかったが、この下宿は、海に面した高台に建てられていた。
赴任翌日の朝、なにげなくカーテンを開けた瞬間に目に飛び込んできた鮮やかな青の色彩。その驚きと感動の記憶は今でも色褪せていない。
その日から一か月、スギナは毎朝、起床してすぐ外の風景を眺めるのが日課になっていた。
青い空と青い海。その境目に、対岸の山々が霞んで見える。
陽光を細かく砕き輝く海面には、細い筋のような白波が幾重に表れ、海風の行く末を伝える。今朝は風が強いらしい。
スギナが掃き出し窓を大きく開けると、潮風を多分に含んだ空気が、波の音とともに部屋に入る。
5月前半の汐風はかすかながらも未だ冬の名残がある。
下着姿のスギナの肢体に、海を渡ってきたばかりの冷たい風が吹きつける。
むき出しの手足、顔や腹にまとわりつく寒気が、寝起きの肌を撫でる。
部屋の温度が変わったのを感じたのか、スギナの背後で、風待が布団の奥に潜り込む気配がする。
布団の中からかすかに寝息が聞こえる。どうやら風待はまだ起きないようだ。
スギナは風待の惰眠を邪魔しないよう、そっとタンスから運動着を出し、身に着ける。
ここで風待先輩と暮らしはじめて一か月。二人で暮らすには狭い八帖間で毎日を過ごしていれば、人間関係の機微に疎いスギナでも、同居人のことはだんだんわかってくるし、ダメな面も見えてくる。
毎朝スギナが最初に見る風待先輩のダメなところ、それは朝が苦手なところだ。
規律正しい生活が重視されるリコリス、それもセカンドリコリスにもかかわらず、目覚まし時計の音で起きたことは一度もない。
起こそうとすれば逆ギレし、布団に包まって出てこない。
それでもしばらくすればイヤイヤ起きてくるので、最近は放っておくことにしている。
初日は清楚で凛々しく見えた風待先輩。その最初に感じたイメージは今でも変わらない。
しかし、一緒に暮らすとそれ以外の点もいろいろ見えてくるものだ。
風待先輩のダメなところは、ほかにもいくつか挙げることができる。
メイクの時間が長い。トイレの時間も長い。たあいもない嘘をよくつく。目を離すとすぐ酒を飲む。あえぎ声が大きい。
まあスギナもダメなところはダース単位であるはずなので、ある程度までは黙認している。
お互いダメなところを分かり合うことが、共同生活の第一歩なんだとスギナは最近思うことにしている。
運動着に着替え、顔を洗い歯を磨いたところで、布団の中から風待が顔を出す。
「スギナぁ…窓開けすぎ。寒ぃ」
「今日は晴れていい天気ですよ先輩。時間ですから早く服を着てくださいね」
まだ心が半分寝ているのか、セカンドリコリスとは思えないぼんやりした動きで下着を身に着ける風待。
去年夏ごろから先月までの半年間、風待先輩はひとりで暮らしていたという。
私が来るまで、先輩はどうやって朝起きていたのだろうか。
ようやく風待が脱け出た布団をベランダに干しながら、スギナはそんな疑問を持った。
聞いても多分きちんと答えてくれないだろうな、と考えながら畳を掃き、座卓を出し座布団を置く。
スギナが部屋の片づけを終えるころには、風待も洗面と歯磨きを済ませ、運動着に着替え終わっていた。
6時30分。部屋を出る。
ちょうどそのころ、スギナたちからみて一番奥の部屋からも、二人の少年が顔を出す。
お互い離れた角部屋。階段も左右にあるため、近づくことはない。
部屋の鍵を閉めながら、お互いに隠し目でそっと注視していたが、視線が合うと、どちらともなく軽く会釈をする。
頭をほんの数センチ下げるだけの、ほんとうに軽い会釈。
ご近所付き合いの礼儀はそれで終わり、あとはどちらも相手を無視して別々の階段を下りる。
階段下で軽くストレッチをした後、ランニングに移る。
少年二人も、正反対の方向に走り去る。昔から、お互い別のコースを走るのが暗黙の了解になっているらしい。
朝食前のランニング。
DA本部が毎週初めに送信してくる一週間の予定表。その毎日の出だしには決まって朝のトレーニングが書かれている。
おそらく、同じ階に住む少年2人にも、同様の予定表が送られており、彼らもそれに従って生活しているのだろう。
それにしても、ランニング開始の時間まで一緒ということは、もしかしたら彼らは自分たちと近い組織の人間かもしれない。
そんなことを考えながら、スギナは風待の後ろについてランニングを始める。
片道3キロのランニングコース。ルートは数種類あるが、この時期は海岸線に沿う道を走ることが多い。
生き物のように蠢き、その質量を岸壁に打ち付け悶える潮のうねりを片側に見ながら、時折通り過ぎる車両に気を付け一定のペースで走り続ける二人。
折り返し地点を過ぎるころ、スギナの息があがり始める。
ペースが落ち、前を走る風待との距離が、少しずつ離れ始める。
知らないうちに顎が上がり、太腿の筋肉が悲鳴をあげ始める。
前を見ると、風待は走り始めた時と同じ速度で、呼吸も乱さず走り続けている。
これが、ほんの30分前までは布団の中から出ることもできなかった人物とは到底思えない軽快なフォーム。
体力だけは少し自信のあったスギナだったが、それでも風待には遠く及ばないことは、この一か月で嫌というほど思い知らされていた。
サードリコリスとセカンドリコリス。
体力、筋力、瞬発力、戦闘力、そのすべてに天地の差があるという事実。
だんだん遠くなっていく風待の姿。スギナにはその距離が、二人の実力の差に見えてしかたなかった。
しかし、今日はなんとか風待の姿を見失う前に走り終えることができた。
息が整うまで待ってもらった後、下宿の階段下で再びストレッチをして部屋に戻る。
運動着を脱ぎ、制服に着替えた二人は、それぞれ朝食と洗濯の準備に取り掛かる。
本来なら、食事と洗濯は当番制で行うのだが、この一か月間は、スギナはすっと食事当番を続けている。
スギナが少しでも早く調理に慣れ、モブリコ寿司の料理人になれるようにするためだ。
もっとも、朝食はそれほど凝った料理は作らない。
今日の朝ご飯の献立は、酢飯のおにぎりと玉子焼き、そして千切り大根が入ったお味噌汁。
酢飯のおにぎりは、昨日モブリコ寿司でつくった酢飯を、握り飯にして持ち帰ったものだ。
この一か月間、スギナと風待は任務の空いている時間を利用し、少しでも早く2人体制でモブリコ寿司が運営できるよう、料理の練習をしていた。
店を借りている本物の寿司屋が一時的に店を閉める昼過ぎから夕方前、この空き時間に調理場を借り、二人で日々特訓を繰り返している。
現在、モブリコ寿司は長期休業中だ。
一般の企業と同じく、DAもこの時期は年度初めで忙しい。そんな中、空気を読まずに観光目的で出張するリコリスはまずいない。
観光地を有する各支部でも、この時期は接待用施設のほとんどが休業している。
数か月の店休期間を利用して、異動してきた新人に、観光に必要な知識や料理の技術を学ばせるのだ。
ここ諸咲支部でも、7月のモブリコ寿司再開店を目指して、新人スギナを一人前の料理人にすべく、風待店長の指導が続いている。
昨日までは、主に料理道具の使い方と御飯の炊き方、酢飯の作り方など基礎的な技術を繰り返し練習していた。
おかげで、寿司の基本である酢飯の味は、客に出しても恥ずかしくないくらいの出来栄えにはなった。
しかしその代償として、ここしばらくは、下宿での食事は毎食酢飯のおにぎりばかりになってしまった。
冷蔵庫に入れた酢飯のおにぎりは、固くポロポロとこぼれ、味もあまりよくない。一度お茶漬けにしてみたが、風待には不評だった。
せめて常温に戻してから食そうと、酢飯のおにぎりを冷蔵庫からお皿に取り出してから、スギナは味噌汁の準備にとりかかる。
今日のみそ汁の具は、寿司屋でもらってきたアオサの切れ端と、昨日包丁の練習で使った大根の千切り。
味噌はこの地域の定番である赤味噌を使う。
何故かはわからないが、各支部での食事は、必ずその地方で使われている調味料を使用することになっている。
そのような命令が出されたこと自体ないのだが、なぜか各地方支部では、それが当たり前のように思われている。
スギナも風待も、そして日本各地のリコリスたち全員が、特に理由もないままこの風潮に従っている。
たまり醤油に赤味噌。
味が濃いなと思いつつ、いつの間にかスギナもこの味に慣れていた。
大根と海藻に火が通ると、一度火を止める。適量の赤味噌を入れ、丁寧に溶かし蓋をする。
味噌汁を作り終えると、次にスギナは寿司屋から借りてきた銅製の玉子焼鍋を取り出す。
取手の付いた四角い玉子焼鍋に油を塗り、火にかける。
背後で風待が回す洗濯機の音に交じり、多めに塗られた油が踊る音が聞こえだす。
玉子4個を溶きほぐし、めんつゆと醤油、みりん、砂糖を混ぜ合わせた卵液を三分の一ほど玉子焼鍋に流し込む。
薄屋根を叩く夕立のような高い音を立てて、卵液が熱で暴れる。
卵液の底面が固まりだし、上面が半熟程度に熱が入った状態で、鍋の取手を持ち、傾ける。
菜箸を使い、向こう側から手前に向けて上手に三つ折りに巻いていく。
油を含ませたキッチンペーパーで鍋の空いたスペースに油を引き直すと、巻いた玉子焼きを向こう側に寄せる。手前側にも油を引き、空いた隙間に再び卵液を流し込む。
卵液がまた半熟になったのを確認して、菜箸で向こう側を持ち上げ、三つ折りに畳む。
更にもう一度、卵液を足して畳むと、厚みのある大きな玉子焼きが出来上がった。
玉子焼鍋の木蓋を側面に押し付け形を整えると、蓋の上に上げて粗熱を取る。
さわれるくらいの温度になったら俎板の上に上げて、包丁で切違切りの形に切る。
角が二本立ったような飾り切り。
全体のバランス、特に左右の角が均等に切ることができているか確認する。
今日もまあ合格点だ。スギナは一人うなずく。
玉子を切りそろえるという行為一つとっても、包丁仕事の練習も兼ねているので、二人で食べるだけの朝食とはいえど、最後まで気は抜けない。
特にこの切違切りは、寿司の脇飾りや酒のつまみにもなる切り方なので、最近は毎朝練習している。
二つの皿に玉子焼きを乗せると、昨日練習で使った大根の残りを擦り下ろし、横に沿える。
そして別の小皿に、寿司屋からもらったガリを盛り付ける。
この一か月、漬物は毎回ガリだ。いつ飽きるかわからないが、今のところ大丈夫だ。
最後に急須に茶葉を入れ、マグカップを二つ用意する。
朝食の準備がすべて終わると、居間の座卓に料理を運ぶ。
風待もちょうど洗濯を終えたようだ。小さな座卓に、二人向かい合って正座する。
「いただきます」
「いただきます」
両手を合わせ、感謝の言葉を唱える。
DA本部ですごしていたころは、食前食後の合掌などしたことがなかったスギナだったが、ここに来てからは毎日必ず手を合わせている。
習慣が変わったのは、慌ただしかった本部の食堂と違い、畳部屋でゆっくりと食事ができるようになったからだろうか、とスギナは考える。
もしくは、自分の目の前で食事をしている風待の礼儀正しい作法に感化されたのかもしれない。
正座した背筋をピンと伸ばし、箸を美しく使い、静かに朝食を食べる風待の姿は、スギナにとって礼儀作法の教範のように見えた。
所作の一つ一つが折り目正しく、それでいて気負いがなく美しい。スギナが箸を止め、思わず見惚れることもしばしばあった。
もっとも、夕食の時はこの美しい所作でビールのプルタブを開けようとするのが難点なのだが。
しかし、さすがに朝から酒は飲まない。風待は今朝も静かに、スギナの作った料理を口に運ぶ。
いつまでも風待の姿を見ていては食事にならない。早朝のランニングで減ったカロリーを補充するべく、スギナもおにぎりに手を伸ばす。
常温に戻そうと早めに冷蔵庫から取り出したのだが、酢飯で握ったおにぎりはまだ冷たく、米粒も固かった。
せめて電子レンジがほしいなとスギナは思うのだが、アンペアブレーカーがすぐ落ちる危険があるため、購入する予定はないそうだ。
朝晩はまだ肌寒いこの季節に、冷えたご飯は心が少し萎える。
ただ、幸いなことに酢飯の練習は昨日が最後だった。
今日からは魚のさばき方を練習する予定だ。明日からはこの酢飯から離れ、温かいご飯を炊くことができるはずだ。
冷たい酢飯を、赤味噌の温かい味噌汁で流し込む。
味噌汁の具に使った長い千切り大根が、火を通したことにより柔らかくなりすぎ、食感が悪い。
…これはちょっと失敗だったなと、スギナは同じく味噌汁を飲んでいる風待をちらりと見る。
風待の表情は変わっていない。どうやらぎりぎり及第点のようだ。
少し安心したスギナは、気を取り直して箸を伸ばし、飾り切りされた玉子焼きを摘まむ。
まだ温かい玉子焼きを口に入れると、玉子の濃い食感と味が舌に広がる。
よく噛み締めると、折り重ねて焼いた何層もの焼き目が、心地よい弾力を与えながら口中で砕ける。
この玉子焼きも毎朝練習していたおかげで、最近はある程度の自信はついてきた。
すり身や山芋を入れて焼くのは未経験だが、この分ならすぐに上手にできるようになるだろう。
おにぎりと一緒に、玉子焼きをもう一切れ食べながら、スギナは今日の予定を思い出す。
今のところDAから送られてきた日程表に変更はない。今日は近所のコースを朝と夕方の二回巡回するだけだ。
巡回の合間の自由時間に、モブリコ寿司で料理の練習。
間借りしている寿司屋のランチタイムが終わり、夕方の部が始まるまでの閉店のあいだ、食材を持ち込み、調理場を使わせてもらうのだ。
練習に使う食材は、自分たちの食費としてDAに報告している。
その分、日常の食費が減るので、練習に使った後の食材は、必ず持ち帰り朝夕の料理に使われる。
そのため、酢飯のおにぎりだの千切り大根の味噌汁だの、少し難のある食事を二人は強いられ続けている。
去年も後輩の練習期間中はこんな感じだったわよ、と風待は言うが、未熟な自分に付き合させている現状にスギナはいつも恐縮している。
せめて少しでも早く料理技術を修め、モブリコ寿司だけでなく、普段の食事も上手になって、風待先輩に美味しい料理を食べさせたいというのが、スギナの現在の目標になっていた。
波の音が微かに響く畳部屋に、箸が食器に当たる音が重なる。
会話こそ少ないが、スギナはこの静かな朝食の時間が好きだった。