潮の香りがする。
諸咲観光ビルのすぐ先は、海だ、諸咲港だ。
風が強い。
台風前の重い風が、多量の潮香を含んだ風が、サードリコリスの制服を纏った私の身体に吹きつける。
荒れた風が騒ぐ中、皆の視線を背中に感じながら、私はビルの正面玄関に向かう。DAの命令でではなく、自分の意志で、私は向かう。
歩きながら、左ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を見ずに、片手で操作、本部連絡官宛に電話をかける。操作といっても、ディスプレイにはタッチしない。スマホ側面のボリュームアップキーを3回、続けてダウンキーを3回素早く押すと、DA本部につながる仕組みになっているのだ。
制服のポケットの上からでも通話モードにできるように、そして両腕が使えない状況下でも靴先で操作できるように備え付けられたこの機能。私たちリコリスは、作戦中にDA本部にスマホで架電しなくてはならないときは、このサイドキーを使う方法を多用している。一応、画面の連絡先一覧からでも電話は可能なのだが、任務時に画面タップで連絡をするリコリスはいない。たとえ数秒とはいえ、目線をスマホに落とすなどという無防備な行為は、任務中にしてはいけないし、したくはないのだ。
連絡担当官が電話先に出るまでの間に、スマホをストームフラップ裏の隠しポケットに入れる。
私が以前、フナムシを隠していたこの裏ポケット、実はフナムシを隠すために作られたものではない。意外なように聞こえるかもしれないが、このポケットはフナムシ保管用ではなく、通話モードのスマホを入れるために作られているのだ。
イヤな相手の顔に投げつけるため、候補生当時から様々な害虫を忍ばせて来たこの裏ポケット。本来の用途を教えられた時の驚きは、今でも覚えている。どうりでだれもここに虫を入れていないんだと、納得した記憶がある。
このポケットの裏地からは、一本の細いコンボケーブルが、右肩エポレットを留めているボタンまで伸びている。そしてボタンの中には、結晶振動子製の一体型集拡音モジュールが内蔵されている。このPZTボタンによって、ストームフラップ内に入れたスマホが、まるで右耳近くにあるかのように通話ができるのだ。
とはいえ、現場での評判はあまりよろしくない。通話中はある程度大きな声を出さなければいけないため、情報が漏れるなどの危険があることや、会話する人の声より、外部の騒音やポケット内の布擦れの音を優先的に拾ってしまうという欠陥があるため、作戦中や戦闘中には使いにくいのだ。このリギングはあくまでもヘッドセット型通信機が手元に無い時の非常用、今回のような突発任務の時に仕方なく用いる装備なのだ。
隠しポケットの中で鳴っている呼び出し音が、きちんとエポレットの
入り口から、若い男の怒鳴り声が聞こえてくる。観光ビルに乱入してきたヤクザの一人だろう。以前から頻繁にこのビルに訪れていたクレーマーは、若いヤクザだったと聞いている。おそらくそいつだろう。
玄関入口のガラス扉が震えそうなほどの大声。かなりの興奮状態のようだ。
怒声に交じり、固いものが叩かれる音、何かが大量に落ちる音が聞こえる。諸咲観光ビル1階は、お土産コーナー。おそらく男は、棒か何かで土産棚を叩き壊しているのだろう。
ヤクザたちがビルに乗り込んでから、すでに30分が経過している。お土産コーナーの陳列棚や商品は、かなり壊されているのだろう。
壊されているのがモノだけなら、まだいい。問題は、人的被害だ。中の人たち、ヤクザの対応に当たっていた、売り場の従業員さんたちは、無事だろうか。
まだDA本部との連絡はつかない。私はビルの壁に後頭部をつけ、内部の状況を探ろうとする。
頭部に伝わる振動で周囲を立体的に探ることができる特殊な聴音術、芳野大岑山客僧長床衆ヶ御一芸、観捫泰。
海から吹き付ける潮風がビルの壁を叩く音、逃げ遅れた上階のお客さんたちの足音などが響いて、一階の振動を読み取れないのだ。
聴音術による屋内確認ができないのは、これがはじめての事だ。候補生時代に、DA敷地内の演習場に建てられたキリングハウスで学んだ内部聴音訓練が役に立たないことに、わずかだが私の心に冷たい恐れが走る。冬の夜、ほんの少しだけ開いた窓から漏れてくる冷気にも似た、わずかな怖気。
思えば、演習場の建物内に配置されていた人数は少数だった。さらに言えば、今は地理条件も気象条件も演習時とは異なるのだ。これらの要因が重なったため、観捫泰が使えない、それだけの事だ。
そう、それだけの事。私は自分に、そう言い聞かせる。突入前に、少しでも不安を残さないよう、自分を納得させる。
私が立てた作戦は、簡単だ。一階で暴れているヤクザたちの前に、私が立ちふさがる。奴らが難癖をつけてきたら、リコリスに認められている自衛行動を使い適当に痛めつけ、ビルから追い出す。作戦という程でもない、不安になるほどでもない、私たち本部卒リコリスにとっては簡単な作業、単なる
もしヤクザたちが、上階で暴れていたら大変だった。その時は
耳元で小さく鳴る、DA本部への呼び出し音。まだつながらない、突入前に架電してよかったなと思いながら、入口横の壁に背中を付け、応答を待つ。
地方のリコリスが、直接DA本部に電話連絡する機会というのは、滅多にない。任務に関する連絡は、メールでのやり取りがほとんど、たまにある緊急連絡も、たいていは上位の大支部からかかってくる。急病などの、生活に関する電話相談も、基本は事務室を有する上位の大支部、例えば私たち諸咲支部ならば、名古屋支部が対応してくれる。名古屋支部本館にある事務部、DAより派遣された大人たちが働くこの部署は、名古屋支部の運営だけでなく、私たち中部圏リコリス全体の管理運営も担当しているのだ。
だから、たいていの田舎リコリスは、本部に電話連絡することはまずない。自分たちの直上にある大支部を飛び越えて、DA本部に口頭で連絡するような緊急要件は、まず発生しないからだ。あるとすれば、突発的に発生した重大事件に遭遇したときの緊急連絡か、小さな事件に巻き込まれた時の自衛申請。しかし、このどちらも、起こる確率は少ない。DAの犯罪監視システムは、突発事件すら事前に予測した上で事前に対処してしまうし、一般的なリコリスは、自衛権を使わざるを得ない揉め事には、最初から首を突っ込まないからだ。
そう頻繁にはないであろう、地方支部リコリスからの緊急電話。だから、電話を受けとる職員の数も少ないのだろう。DA本部に相応しい、飾り気のない無機的な呼び出し音を聞きながら、私はそのようなことを意識の片隅で考えていた。
突入前の、重苦しい空気。粘着質な時間の中で、ただ乾いた音で鳴り続ける呼び出し音に、いいかげん腹が立ってきたところで、DA本部職員の声が聞こえた。単調な呼び出し音の後に相応しい、はいこちら本部、という単純な一言。
「こちら中部管区諸咲、23TMZ002筑詩スギナ。23TMZ002筑詩スギナです」
『ヒイィ!』
最初に話すのは所属番号と氏名。連絡先によく聴こえるように、電話先にいる女性事務員に繰り返し氏名を告げる。
本部教育課程で習った通話方法、これで問題はないはずだ。なのになぜ、返事がひいなのだろうか。
もしかしたら、これが近頃の礼儀作法なのかもしれないなと思いながら、私は話を続ける。
私は今、諸咲観光ビルにいます。ビル内に入ったところ、売り場店員に暴行を加えている暴力団風の人物3名に接触しました。現在彼らは出入り口付近に居座っているため、争わずビルから退去することが難しい状況です。もし彼らに絡まれ因縁をつけられた場合に備え、事前に自衛行動の許可をいただきたく……あのー、もしもし、聞いていますか?
『ヒイイイィ!』
リコリスは巡回中に遭遇した揉め事に自発的に介入してはいけないが、自分がその騒動に巻き込まれてしまった場合は自衛が許される。しかし、今回は自分からビルに突入して暴れる予定だ。だからこれから私がすることは、本当は自衛でも正当防衛でも何でもない。
そのため、上手にDA本部に報告しなくてはならない、上手にウソをつかなくてはならない。だから私は、突入前のこのタイミング、まだ心が昂らず、思考が落ち着いている今のうちにDAに連絡したのだ。
周りが静かなこの状況で、気持ちが静かなこの心境で、私は静かにDA本部の連絡担当官に状況を話す。しかし、何かおかしい。私が静かに話しているのに、電話先がすごく騒がしいのだ。
電話の向こう側で、多数の人が集まっている気配がする。相変わらずヒイとしか言わない連絡担当官の周囲で、多くの人の声がする。
幾人幾多の会話を解きほぐし聞き分ける訓練を受けた私の耳だが、エポレットボタン内の可逆性トランスデューサーから聞こえてくる声はひとつの粘塊となり、個別に聴き取ることができない。このスピーカー安物だなと、安物サードリコリスの私は思う。
明け方に騒ぐ鳥たちの声にも似た、周囲の大人たちの声。声の高さからすると、全員女性のようだ。皆が立ちあがって、私の電話を受け取ってくれた担当官のそばに群がっているようだ。話の内容自体は聞き取れないが、あの諸咲リコリスが……とか、あの霰弾の……とか、単語の断片だけは拾うことができる。
どうやら彼女たちは、私を恐れているようだ。何故かわからないが、私を怖がっているようだ。
思い当たる節はない。怖がられるようなことなど、していないはずだ。しているとすれば、せいぜいグロ画像を送りつけたり、それをネタに脅して一泊旅行権を手に入れたくらいだ。
あのー、落ちついて話を聞いてください、と丁寧に話す現場の私。ヒイとしか言わない担当官と、騒がしくなる本部内。どちらが大人なのか、どちらが事件現場なのか、分からなくなってくる。
壁の向こう側では、今でもヤクザが暴れている。いわれのない暴力にさらされている、無辜の市民がいる。一秒でも早く突入しなければならないのに、一秒でも早く電話を終えたいのに、遅々として進まないこの展開。延々と入り口前の壁に貼りついていなければならないこの状況に、焦りの気持ちが湧いてくる。
とりあえず電話先の担当官をなだめようと、産卵するスナガニの声真似をしてみたが、泣かれてしまった。どうやら威嚇されたと勘違いされたようだ。失敗だ、完全に逆効果だ。
もうあきらめよう、一度電話を切って、ビルの中のヤクザどもを追い払ってから、またかけ直そう。そう思いスマホのサイドキーを押そうとする寸前、電話先のざわめきが消え去った。
お前たち何をしている、私が代る。若いが、厳しそうな女性の声。どうやら連絡担当係のリーダーらしい。助かった。
『副司令です。私が話を聞きます』
副司令? 電話担当の部署にしては大袈裟な肩書だけど、副ってことは電話番のサブリーダーなのかな? それなら組織内での階級は低そうだ。ならばそれほど緊張せずに話せそうだ。
「こちら中部管区諸咲、23TMZ002筑詩スギナです。私は今、諸咲フェリー乗り場横に新設された、諸咲観光ビルにいます……」
先ほど説明した内容を、最初から繰り返す。一度話したことなので、よどみなく話せる。
気持ちは焦るが、ここでまた泣かれては元も子もない。私は優しく、たまに産卵中のスナガニの声真似をしながら、努めて明るく説明する。
「……というわけで、自衛のための行動の許可をいただきたく思います。人の目が多いので、できるだけ静かに、殺さずに追い払いたいと思うのですが、よろしいでしょうか」
本当は生きたまま全身バラバラにして、パーツごとに説明文を付けて店内に飾ってあげたいのですけど、そうすると後のお掃除が大変ですからねと、軽いジョークを交えて、明るく話す私。お互い下っ端同士の、気楽な会話に添えられる楽しい冗談。ここは笑うところのはずだが、話し相手の副司令は、なぜか無言だ。というか、なんか引いているっぽい。
冗談は通じなかったようだが、話すべきことはすべて話した。さて、許可は下りるだろうか。
しばらくの間、無言が続く。
副司令は、何かモニターで情報を見ているようだ。何度もうなずく声が聞こえてくるので、イヤホン越しに誰かからの報告を聞いているらしい。
また待たされるのか。一刻でも早くビルに殴り込みたい私は、茹でられる旬のワタリガニの声真似を以て返答を急かす。なぜ茹でられるワタリガニなのかは、私にもわからない。犯罪現場を目前にして、何もできない苛立ちに、頭が茹で上がるほどの怒りが湧き始めているからかもしれない。
『いいでしょう。ちょうど今、本部でも当ビル内での騒動を確認しました。筑詩スギナ、今回の件について、ターゲット3名のビル外への排除を認めます。ただし、自衛のためではありません。今件は、重大事件阻止のための任務として行動するように』
なぜか怯えの色を見せながらも、毅然とした声で命令を下す副司令。任務という言葉に、焦りのため熱を帯び始めた思考が、正気に戻る。冷たい心で、冷めた目で命令を受ける、リコリスの思考になる。
『集約された情報によると、あなたの近くにいるターゲットの内、最低一人は拳銃を所持しているようです。今回の任務は、ビル内にいる三名の武装解除、そして所属する組織の確認です。公衆の面前での加害は最低限にとどめ、乗って来た車両で帰る程度の余力までは奪わないように―』
なんでDAは、そこまで知っているのだ。今から退治する相手が、拳銃を持っていることは、私と諸咲役場職員しか知らないはずだ。
DAの底知れなさに、少しだけ背中に冷気が走ったが、すぐにタネを理解する。ああ、本部の人たち、もともと通話盗聴で、この状況を知っていたのだな、と。
本部にあるすごいコンピューターは、国民すべての通信通話を監視することが可能だという。おそらくDA本部は、諸咲観光ビル上階の町役場出張所で働いていた女性職員がかけた電話内容から、この騒動が大事件になりかねないと判断していたのだろう。下階で聞こえた怒鳴り声を聞きつけ、1階まで降りて状況を確認しに行ったという役場出張所の女性職員。彼女はヤクザの一人が、懐に拳銃のようなものを忍ばせていたと、諸咲役場に電話で報告していたのだ。
それと前後する役場と商工会との電話、観光ビル上階に取り残された観光客たちが外にかけた電話、駐在所の警察官が伴田警察署にかけた電話。これらの内容を総合すれば、今諸咲の港で起こっている状況など、DAにとっては現場にいる私以上によくわかっていたのだろう。
DA本部の大型モニターには、すでに諸咲地区にアラートマークがついていたのだろう。リコリスを派遣する必要があるかどうか、本部のコンピューターが判断している間に、私からの連絡が入ったのだろう。ちょうど良すぎる、渡りに船すぎる。偶然すぎてなんか怖い。そのようなタイミングでの連絡だったのだろう。
私の思考をよそに、副司令からの説明は続く。
ターゲットが武器を捨て逃走したら任務は終了、市民の目に過度に触れることが無いよう、捨てられた銃器を回収後すぐに撤収すること。撤収する前に、情報隠蔽レベル確認用に、周辺の被害状況を何点か画像撮影し報告書に添付すること、そのような話が続く。そのよどみない説明、余裕のある話し方に、私はビル内の騒動が、すでに本部には筒抜けだったと確信する。やはり恐ろしい組織だなと、改めて確信する。
『説明は以上です。さて、任務前ですが筑詩スギナ。あなたに二つ質問があります』
副司令を名乗る女性の、冷たい声。私の身体はその威圧感に、すこしだけ強張った。